第112回 「五月病」「気分転換」

 久しぶり。

 一年ぶりに再会した鵠島くげしまは、初夏を思わせる日差しを避けるように枝垂れ柳の下に立っていた。ひさし代わりの手の下で細めた目は、寝起きの猫を思わせた。

「来たぞ」

 うん、歩こうか。鵠島は木陰からするりと抜け出して右に並んだ。

 外周約5キロメートルの鶉沼うずらぬま。それを囲む遊歩道は、走り込みや犬の散歩で来た人々がちらほら見られる。

 鵠島の指先が、控えめに手の甲に触れてくる。この瞬間はいつになっても慣れない。奇異の目で見る他人ひとがあるかもしれない。催促に応えて仕方なく、なるべく目立たないように手を取る。薄い手のひら。鵠島は握っているとは言えないほどの弱々しさで、指先だけで握り返す。

 変わりはないかい。

 鵠島はいつも、初めにそう訊く。変化の多い四月を越えてご機嫌いかが、ということらしい。今日は五月六日、振替休日で、連休の最終日である。

「相変わらずだ」

 そう、と、満足そうに鵠島は微笑を浮かべた。

 鵠島の歩みはゆったりとしていて、歩幅も小さい。それに満天星どうだんつつじ北見草きたみそう鬼蓮おにばすなんかを目にするたびに足を止める。ことさら草花に詳しいわけではないし愛でる趣味も持ち合わせていなかったが、瑞々しい春の息吹に触れるのは悪くなかった。

 沼の水面は、緩やかな風に撫でられ菱形を連ねた紋様を描いている。岸辺には、くたくたになった木の枝や枯れ葉が敷き詰められ、ときおり水の揺らぎに合わせてとぷんと鳴った。

 ほら、彼処あすこを見てごらん。

 鵠島が囁くように指をさす。水草の生い茂るところに白いものが見える。

白鷺しらさぎ、か」

 其処そこじゃないよ、もっと奥。

 言われたとおり、より遠くへ目を向ける。ざわざわと波打つ水面。そこには確かに、輪郭ある何かが見えた。目を凝らして焦点を合わせ、ぎょっとした。思わず握った手に力が入る。

 驚かせてごめん。三月の終わりに、此処ここへやって来ただよ。と鵠島は言う。

 沼の深さがどれほどかは知らない。女の子と言われたそれは、胸まで浸かっていて、こちらを向いているように見えた。鵠島が手を振った。この沼には、入水する者が度々あると聞く。

「おい、やめろよ」

 どうして、ただの女の子じゃないか。

「祟られでもしたら、」

 鵠島は、ゆらりとこちらに顔を向けた。少し寂しげな顔を。

 君はいつも、祟られるなんて思っているのかい。

「それは、」

 鵠島は背伸びして、より大きく手を振った。遊歩道の向かいから軽快に走って来る男がいるのに、気にする留める様子は微塵も無かった。沼では緩慢な動きで水面から片腕を引き揚げ、ゆらゆらと振っている。男は鵠島にも沼にも一瞥もくれず脇を通り過ぎていった。その背中が遠くなるのを見送ってから、ささやかに手を挙げてみる。長い髪を顔に垂れていて表情は伺えなかった。鵠島が嬉しそうに肩を寄せてくる。

 無言のやり取りを終えた彼女は、底の見えない世界へ溶けるように沈んでいった。

 長い時間をかけて、出発地点の近くまで戻ってきた。枝垂れ柳の数歩前で鵠島は足を止めた。

 明日から仕事なの。

「ああ、月初めでいきなりやることが多くて憂鬱だよ」

 もう五月病にかかっていそうじゃないか。

「大丈夫さ、今日はいい気分転換になった」

 楽しかったよ。また来年も来てくれるかい。

「たぶんな」

 右の頬に、鵠島が顔を寄せた。かすかに唇が触れる。すぐに感触を忘れてしまいそうなほどおぼろげな口づけだった。

 斜陽を受け長く伸びた枝垂れ柳の影に、鵠島は滑り込む。

 じゃあね。

 ざあっと、不意の強風が起こった。よしの群れがざわめき、水面は粟立ち、翠髪みどりがみを振り乱すようにして枝垂れ柳の枝葉が、鵠島を覆い隠した。風が止み、枝垂れ柳は落ち着きを取り戻したが、そこに鵠島の姿はもう無かった。

 沼のおもては濁った水銀のように見えた。とぷん、と、またどこかで音がした。

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#創作BL版深夜の60分一本勝負 まとめ 王子 @affe

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