第64回 「夜露」「あやめ」
一晩泊めてください あやめ
仕事を終えてアパートに帰ってくると、折りたたまれた一筆箋が玄関扉の隙間に挟まれていた。近所の目があるからやめてくれと言っても、その日の宿が定まらないと、こうして書き置きを残していく。
あやめというのは彼の本名で、女みたいと馬鹿にされたこともあるけど僕はわりと気に入っているよ、というのが本人の弁だ。
夕飯を食卓に並べたところで戸を叩く音がした。扉を押し開けると、まだ開けきっていない隙間からあやめはするりと室内に潜り込む。
「覗き窓、ちゃんと見た?」
「見てない」
「無用心だよ、僕じゃなかったらどうするのさ」
「呼び鈴を使わない客なんてお前しかいないよ」
あやめは定位置である簡易ベッドに腰掛け、俺は夕飯をいただくことにする。南瓜の煮物に箸を伸ばしたところで、あやめの視線に気付いた。物欲しそうに前のめりになっている。
「まさか夕飯済ませてないのか」
「食べたよ。コンビニのおにぎり二つ」
「そういうことは先に言えよ」
つまんだ南瓜をあやめの口に運んでやる。
「ちゃんと食え。細すぎるぞ」
中学生になりたての男子みたいな体付きである。甘ったれた口利きと、変声期前のような高めの声も相まって、成人男性とは思えない幼さだ。
「細い方が受けがいいんだよ」
あやめは決まった家を持たないが泊まる場所はいくつもある。その若い体を対価に、一宿一飯と金銭を得ている。顧客は老若男女問わない。
「そっちこそ、その体付きなら男が放っておかないでしょ」
あやめの軽口を無視して、山盛りの白米と長葱の味噌汁を食卓に並べる。
「いいの?」
「なにをいまさら」
いただきます、節のない指を律儀に揃えて手を合わせる。先に食べ始めた俺よりも早く茶碗を空にして箸を置いた。
「ここのご飯が一番おいしい」
「そいつはどうも」
確かによく味の染みた南瓜だ。我ながらよくできている。ゆっくり味わっていると、あやめが落ち着きなく両手の指先をもじもじと絡ませているのが目に付いた。
「手洗いの場所なら知ってるだろ、許可も要らない」
そうじゃなくて。あやめは不貞腐れたように小声で反論する。
「今日はちゃんと
またか、と思う。
「いつもどおり皿洗いでいい」
「そんなわけにいかないよ、僕の気が済まないじゃないか。どうして何も求めないの」
深い溜め息が漏れる。
あやめと出会ったのは冬の気配が忍び寄る頃。日中はやけに暖かく、夜は急激に冷え込んだ日だった。取り込み忘れたベランダの洗濯物は既に夜露に濡れていた。アパートの周辺は街灯も少なく、階段を照らす蛍光灯があるばかりだった。その細い光が、あやめの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。軒先でうずくまっている人影を見て、慌てて玄関を飛び出した。気候にそぐわない白い長袖のTシャツと薄手のチノパン姿だった。
元来、かわいそうなものを放っておけない性分だった。子供の時には捨て猫を拾って家に連れて帰り、親に窘められ、泣きながら元の場所に戻すのを繰り返していた。結局、一度も動物を飼うことは無かった。
小刻みに震えるあやめを促してシャワーを浴びさせ、全くサイズの合わない着替えを与え、炊いた米は冷凍してしまっていたから、牛乳を沸かして飲ませた。小さな舌先でおそるおそる舐める姿が脳裏に焼き付いている。
あやめは真剣な眼差しで俺の答えを待っていた。
「野良猫に餌と寝床をやるくらいで、いちいち見返りなんか求めないだろ」
不器用な自分にしては上々の返しではないかと思ったが、あやめは不満げな目をした。
「ネコは自分でしょ」
「茶化すな、馬鹿」
弱り切った捨て猫のような面影は無く、こうして生意気な口を叩くようにもなった。
翌朝、あやめの姿はなく、食卓に一筆箋が残されていた。
ごちそうさまでした。また来てもいいですか。
そんな質問を書き置きでする奴があるか。答えを得るためには来るしかないじゃないか。
アヤメの学名「アイリス」は、ギリシャ神話の女神イリスに由来する。神々の伝令役を果たしたという。アヤメはそこから「良い便り」や「メッセージ」の花言葉を持つ。
抽斗に一筆箋をしまう。次々と放り込まれる書き置きが積もっていく。
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