復讐の裏に

泉 清寂(イズミ セイジャク))

第1話





復讐の裏に


泉 清寂

(一)

寝返りを打った布施明生は眠りにつこうとして枕に顔をうずめた。しかし、心の中の拭い切れぬ強烈な出来事が嵐のように不安の影を巻き起こした。努力したが、眠れない。

明かりをつけ、時計を見ると午前二時だった。ベッドから抜け出してカーテンを開けて窓から外を見た。


絶望的なものが満ち潮のように押しよせてきて、布施の目の前の景色を歪ませた。吹く風の感触、激しく降る雨音、闇に浮かぶ窓の光など以前とは違ったものに感じた。

布施はロス・アンゼルスにいて自分以外頼る人がいなかった。飢えたワ二がいる沼の中央に放たれたように、危険な状態にさらされていた。一刻も早く日本に帰らねばならない。とてつもない巨大なものと戦っていて命を狙われているのだ。

昨日のことを思い出していた。


ウォークグリーンアパートメントから、車で十分のところにあるエッグ中古自動車販売店にいた。前日にも同店に訪問し、布施の日産の車を八千ドルで買い取る確約を取っていた。当然、車と交換に八千ドルをもらえると確信していた。

ところが、店主は、

「この車は買えない」といきなり切り出してきた。

「えっ! 」一驚を喫した。

「今、在庫がいっぱいだ」と言うのである。

「そんなバカな! 昨日、買ってやると約束したばかりじゃない」と強く訴えたが、暖簾に腕押しに終わった。強く動揺して顔面蒼白となった。


車が売れて、八千ドルが入ることを想定して帰国の準備を終えていたのである。銀行口座を解約して預金をすべて日本に送金してしまっていた。手元に五ドルしかないのだ! 本日中にこの車を売らなければ日本に帰れない。

彼の背後には卑劣な巨大な組織が動き、彼の命を狙っているのだ。いつまでもぐずぐずしていられない。


近くの他の 中古自動車販売店を探して販売交渉についた。店主との話中に、突然、電話のベルがなった。彼は受話器を握り、チラチラと布施に目配せしながら話を聞いている。聞くのが主で、彼自身はあまり話さないので、何を話しているのかはよくわからない。初めは調子がよかったのに、その電話の後、断られたのだ!

次の店に行っても同じことが起こった。その次の店も同じだった。

ここで悟った。悪の組織が手を回し、布施の車を買わせないように画策しているのだ。布施を日本に帰国させず、ゆっくり始末しようとしているのは明々白々だ。


こうなったら、切り札である車を購入した大手自動車会社の子会社のキーン 中古自動車販売店に行くしかないと思った。

事務所に行くと、白人の所長と黒人の店員が無愛想な表情を浮かべて出迎えた。嫌な予感がした。車を買ったときと百八十度違う態度だったからだ。


ロスに着いた早々、レンタカーで車を買いに行ったときのことを思い出す。あらかじめロスの本屋で、車の機種、年式、流通価格など詳しく書かれている本を購入していたのである。買いたいと眺めていた日産の車は九千ドルと表示されていた。 ところが実際の店頭価格は一万ドルなのだ。店員を呼んだ。

満面に笑みを浮かべて黒人の店員が近寄ってきた。

「この本に九千ドルと書いてある。九千ドルにならない? 」

販売員は本を取り上げてまじまじと見つめ、あんぐりとした表情で、

「こんな本、どこで買ったの? 」と尋ねた。

「UCLA の近くの本屋で」

彼は信じられないという表情を浮かべて所長のところへ戻った。


まもなく所長が黒人の店員と一緒に現れ、困惑の表情を浮かべ、

「九千五百ドルだったらどうだ? 」と切り出した。

「OK、試乗させてもらいたい」

早速、黒人の店員と一緒に車に乗った。すっかり彼と仲良くなり、いろんなことを話した。

「ロスに、何しに? 」

「UCLAの大学院で、Ⅿ&Aや財務分析を勉強しようと思って」

「すごいね」しきりに感心していた。

一日で友達同士のような関係になった。


それがどうだ。今では敵意を感じさせる表情さえ浮かべているではないか。布施が来ることを予め分かっているようでもあった。

布施は苦悩の表情を浮かべて所長に懇願した。

「日本に帰らなければならい。ここで買った車をどうしても買い戻してほしい」

「それはできない。うちは本社が下取りした車を販売するだけの会社だ。購入はしない」と冷たく言った。

「あなたは、私の現在、置かれている状況を知っているはずだ。それでも買えないと言うのですか? 」

「そうだ。いくら頼まれても無理だ」

布施は絶望感に打ち砕かれた。

ガソリンは底を突こうとしていた。もうこれ以上無理だと踏んだ。がっくり肩を落としてアパートに戻り、塀の片隅にある駐車場に停めた。


この難関を打開するには自分自身の力では無理だと結論づけた。普段、布施は神の存在など考えたことはなかった。ここまで追い詰められれば、神に頼るしかない。ここはアメリカだ。イエス・キリストにすがるしかないと思った。


翌朝の日曜日、近くの教会に行った。中には二百人ほどの信者がいた。

苦難の五年間を思い出すと自然と涙が溢れ、後ろの座席で必死に祈った。

「イエス様。私がお金や物を盗む人間ではないことはご存じの通りでしょう。どうか助けて下さい」

最後の五ドルを献金してアパートに戻った。


いいアイデアが浮かんだ。

このアパートの住民に車を買って貰うのはどうだ。車のリア―ウインドーに張り紙を張った。

「この車を五千ドルで売ります。相談可。下記の携帯に電話するか、電話番号を書いてください。こちらからお電話いたします」

午後六時ごろ、車の張り紙に電話番号が書かれていないか、調べるのが日課になっていた。


数日後、見回りに行くと、布施の車の後ろにぴったりと、全長十メートル以上あるトレーラーが停められていた。彼の車は完全にブラインドになって、通行人の目が届かない状況だった。

誰かが引っ越しのため、大型トレーラーが停められているのだろうと思い、布施は気にせず、自分の車に近づいて行った。

その時、布施の後頭部に強い一撃を受け、意識を失った。

(二)

布施はかすかに意識を取り戻した。鉄棒を持った白人と日本人らしい男が目に入った。激しい殴打が始まった。何かが足にめり込んだ。ぼきんと骨の折れる音が聞こえた。そこで再び彼は意識を失った。

布施は激痛でかすかに目が覚めた。誰かが彼の横顔に針で刺していた。無意識のうちに、それを避けようと手で払いのけた。目を開けると大きなハゲタカが飛び立った。ぞっと背筋が凍りついた。

手を伸ばしてみると、熱い砂が指先に触れた。辺り一面が砂漠で、奇岩やカラフルな岩壁が見えた。


一体、ここはどこだと考えたが見当もつかない。人里離れた大きな砂漠に、裸のまま投げ捨てられたのは間違いない。まだ、朝早かったが、日差しがぐんぐん強くなるのは分かっていた。

体中が痛みで悲鳴を上げていた。布施はそっと体をよじり、何とかひざまずくことが出来た。体を動かすたび、激痛が走った。

周囲に食べ物や水がないかと思ったが、そんなものはなかった。

奴らは布施が死ぬのを計算してここに捨てたのだ。この場所ならだれにも見つからず、殺すことが出来る。見つけられるのはハイエナやハゲタカなど死骸掃除屋だけだ。


布施は自分に暗示をかけた。

「俺は、必ず、生き延びる! 大膳の野郎、必ず、復讐してやる」

体中から湧き上がる憎しみが彼に起きる力を与えた。彼は立ち上がろうとしたが、すぐさま悲鳴を上げて倒れ込んだ。左の足が折れていて、妙な角度で曲がっていた。歩行は不可能だが、地面を這うことは出来た。

その時、頭上にハゲタカどもが集まってきて叫びながら輪を描いていた。

「動かなければやられる」と自分に言い聞かせた。彼は必死の思いで這いずりだした。まっすぐ進もうとしても、なかなか思うように進めない。折れた足が槍で刺されるように痛む。

 

熱い砂にこすられ、体中の皮膚がむけだしていた。血も滲んできた。高熱で頭もいたかった。

「くそったれ! 」と大きな声を出して無我夢中で二時間ほど這いずりまわった。やがて意識がもうろうとなってきた。彼の体の中にはもはや抵抗する力は無くなった。そして動かなくなった。

いよいよハゲタカの出番となった。

(三)

話は二日前にさかのぼる。

深夜、イーサン・スミスが運転するダッジチャレンジャーは人里離れた道を走っていた。車の姿はほとんどなく、辺りは暗闇に包まれていた。

同乗している妻のエマとはフロリダにあるレストランで知り合った。イーサンはレストランのシェフで、エマがウエイトレスとして採用された。二人が目を合わせた途端互いに惹かれあった。


エマの容姿は目を見張るような美しさをたたえていた。少し小柄でセクシーだった。瞳は深く青くて心を奪われそうだ。髪は金色に輝いていた。肌は白くて滑らかだった。


イーサンはすらりとした長身だった。彼の顔はまるで彫刻のようにシャープで、肌は健康的な褐色だった。彼の目は鋭い灰色で、見つめられるだけで、圧倒されるに違いないと自覚していた。

二人が一目見ただけで恋に落ちたのは必然だと互いに思った。憧れのサンフランシスコでレストランを開業する夢に向かって、二人は一生懸命働いた。開業資金の目途がつき、サンフランシスコへの途中だった。


 「いけない。ガス欠をしそうだ」イーサンが燃料計を見て嘆いた。

 「えっ! もうすぐロスでしょう。それまでもたないの?」

 「とても無理だ。給油所を探さねば」

 エマは心配げに眉間に皺を寄せた。

 やがて、暗い街灯がついているセルフ給油所がぽつんと現れた。

 車を止め、イーサンは外に降り立った。ガソリンを入れ終わって車に戻ろうとした。


その時、スタンドの裏から二メートルを超える男たちで、拳銃を持った二人組の強盗が飛び出してきた。

イーサンは驚いて身動き出来ないでいた。

エマは車の中から悲鳴を上げた。


「おとなしく車の後部座席に座れ。抵抗すると殺す。いいな」黒人の男が脅した。

 ヒスパニック系の男に、夫婦は後ろ手に手錠をはめられ、後部座席に座らされた。  

素早く、その男は運転席に座った。

黒人は助手席に座り、後ろを振り向き、夫婦に拳銃を向けた。

イーサンは背筋に恐ろしい戦慄が走った。

エマは怯えて声も出せなかった。


車は二キロほど進み、左折して細い通路に入った。しばらくすると、おんぼろ小屋のそばに車を止め、夫婦は小屋の中に入れられた。

黒人は拳銃を持ちドアを塞ぐように立っていた。

夫婦は身体検査され、銀行のカードやスマホなど全てのものを奪われた。

「カードの暗証番号を言え」黒人は顔をしゃくりあげ、鋭い眼光を浮かべて言った。

イーサンは顔を歪ませ、目を瞑って無言を貫いた。二人が汗水たらして貯めた二十万ドルを預金していた。


黒人はエマの頭に銃を突き付け、

「言わないと、女から殺す。いいのか」と脅迫した。

エマは恐怖で目が飛び出しそうに大きく開けた。

イーサンは観念して暗証番号を口に出した。

ヒスパニック系の男はにやりと笑い、

「じゃ、ひとっ走り、行ってくる」と言って出て行った。


二時間後、男は戻り、

「万全だ。全部、引き出した」と得たりや応と声を弾ませて言った。

「いくらだ?」黒人は目を真ん丸にして尋ねた。

「二十万ドルだ」

「随分、俺たちのために、貯めてくれたな」黒人は意に適った表情を浮かべて言った。

夫婦は悔しさが心の底から湧き、深い無力感に包まれた。

二人の強盗は夫婦の手錠を外し、小屋から出てダッジチャレンジャーに乗って姿を消した。

二人は、内臓がつぶれるほど、怒り、絶望感でしばらくの間、立ち上がれないでいた。


「これからどうする?」エマが消え入りそうな声で尋ねた。

「ヒッチハイクするしかないな」と言って、イーサンが立ち上がり、ドアのノブを開けようとした。ドアに鍵がかかっていた。

「くそ! 」と大声を出し、思いっきりドアを蹴り上げた。

おんぼろのドアは吹っ飛んだ。

二人はがっくりと肩を落として広い道路まで重い足を進めた。そこで車が来るのを待った。


やがて、最新型のベンツが止まった。窓ガラスが下り、いかつい顔立ちの白人の男が顔を出し、

「どうしたの?」と容姿とは裏腹に、言葉は優しさに溢れていた。

「強盗に全財産を奪われました」イーサンが悲しげな表情を浮かべて言った。

「気の毒に。後ろの席に乗って」

二人は礼を言って後部座席に座った。


「いくら、やられたの?」

「二十万ドルと愛車とスマホです。警察に連絡したいのですが」

「連絡しても金は戻らんよ。そうだ、大きな仕事がある。手伝って貰えば、二十万ドルを払うよ」

「えっ! 二十万ドル? ヤバイ仕事ではありませんか?」イーサンとエマは顔を見合わせ、息を呑んで言った。

「多少ね。でも簡単にけりが付く」

「どんな仕事ですか?」イーサンが身を乗り出して言った。

「ホテル代もないのだろう。今夜はうちに泊まって、ゆっくり話そう」

彼の口調は優しいが、彼の切り傷の跡がある顔や茶色の目は冷たくて底知れぬ何かを感じさせる。

夫婦は迫りくる大きな危険を予感した。でも、他に選択肢はなかった。

(四)

ビバリーヒルズにあるガルシアの家は高い塀で囲まれていた。二人の警備員に大きな扉を開けてもらい、敷地に入り、三人は庭に降り立った。

白い壁の豪華な建物がライトアップされていた。手入れの行き届いた奇麗な芝が一面に広がり、いたるところにヤシの木が植えられている。プールやテニスコートがあり、そこは遊び心も忘れないセレブの楽園だった。

二人は応接間に案内された。

部屋にはバラ模様の革で覆った一対のソファーを置き、それに調和する肘掛け椅子で暖炉をかこっていた。全体にアンティークな趣味で、ゆったりとした雰囲気が漂っていた。

二人は緊張しながらソファーに座った。

ガルシアは高級なウイスキーとグラスを三つ持ってきてテーブルを挟んで座った。


彼はグラスにウイスキーを注ぎながら、

「大変な目に合ったな。酒でも飲んで楽にしてくれ」と二人の心の中を読んでいるようだ。

イーサンは一気に飲み干して、ハーと息を吐いた。

ガルシアはイーサンの空のカップにウイスキーを注いだ。

エマは酒が好きだが口をつけなかった。飲めば後戻りできないのではないかと思っているようだ。


「どんな仕事でしょうか? 」イーサンが身を乗り出して聞いた。

「ゴキブリを一匹殺して欲しい?」

「ゴキブリで、二十万ドルですか? 」意外だと驚いたような目つきになった。

「ゴキブリみたいな男だよ。人の金を盗む日本人だ」

「みんなから嫌われているんですか?」

「その通り。アパートの事務員も警備員にまでだ」

「アパートの人たちはすぐにでも出て行ってもらいたいわけですか」

「そうだ。これは仕事をするうえで、非常に都合がいい」


日本人が大型トレーラーを運転し、この家にやってくるらしい。トレーラーをゴキブリのアパートの敷地内に入る許可を、アパートの警備員から承諾を得ていた。

「大型トレーラーを何に使うのですか?」イーサンが不審そうに尋ねた。

目的の男の車に横付けすれば人目につかない。彼が車に近づいてきたら鉄棒で失神させる。車ごとトレーラーに入れてデスバレー国立公園の砂漠地帯まで運ぶ。

「そこで殺せば、後はハイエナやハゲタカが掃除して誰の骨だか分からなくなる」

「なるほど、考えましたね」イーサンは目を輝かせて言った。


感情の激流がエマの頭の中で渦巻いているようだ。目の前の二人の顔色を何度も見比べていた。

乗る気でいるイーサンにエマが心配になったのだろう。二人の会話に口を挟んだ。

「すいません。大事な話ですので、二人だけで相談させていただけませんでしょうか」丁寧に申し出た。

「いいだろう」とガルシアが言って、家政婦を呼び出した。

五十歳ぐらいの疲れ切った表情の女性が現れた。

ガルシアは二人を二階の客間に案内するように言いつけた。


客間に入った二人はソファーに座って顔を突き合わせた。

「駄目。殺人なんか。私たちまだ若いのよ。開店資金なんかすぐ稼げるわ」

イーサンは三十五歳。エマは三十二歳だった。エマは曲がったことが大嫌いだった。殺人と聞いただけで身の毛がよだつタイプだった。しかし心の芯は強かった。いったん決めればやり抜く性格だ。

イーサンは危険を冒してでも一発勝負するタイプと自覚していた。それで散々失敗してきた。エマの忠告はいつも正しく、彼女には頭が上がらなかった。


「相手はゴキブリ野郎の日本人だ。十年間、働いた努力をドブに捨てろと?」

「相手がどんな人でも殺すのはダメ。殺人を犯すような人は嫌いだわ」

「分かったよ。でもこのまま、ガルシアさんは俺たちを解放してくれるかな」

「聞いてみてよ」

「分かった」イーサンはぶつくさ言いながら折れ、一階の応接間に戻った。


「ガルシアさん、私はいい提案だと思いますが、なかったことにしていただけませんか」

「それは出来ない。奥さんが反対しているのか?」

「そうなんです」

「では、奥さんが賛成すれば、やって貰えるかな?」

「はい」

「奥さんを説得してくる。酒でも飲んでいてくれ」と言ってガルシアは客間に向かった。

(五)

ガルシアはノックして部屋に入るなり、

「殺人計画の詳細を聞いて、生きてここから出られると思っているのか」

警報ベルを押せば、銃を持った五・六人の手下が駆けつけてくる、と急に荒っぽい口調になって脅した。

エマは震えあがりながらも引き下がらなかった。

「手下の人がそんなにいるのなら、彼を巻き込まないで自分たちでできるのではありませんか?」

「こちらに事情がなければ、頼まない。警察に睨まれている。今、手出しが出来ないんだ」

もし、手下が犯行に及び、失敗して警察に捕まったら、警察は徹底的にこの組織を潰しにかかる。そんな危険をガルシアは犯さないのだ。


「いつ、我々を解放していただけるのですか?」

男が死んだら、日本人運転手から電話が来ることになっている。

「その時、二人を解放する」

「本当に開放していただけるのでしょうね」

「当たり前だ。殺人犯を家にかくまっておくわけにはいかないからな」

エマは不本意だが、しぶしぶ承諾した。


ガルシアは応接間に戻り、エマが犯行を承諾したとイーサンに伝えた。

「二十万ドルはいつ貰えますか?」

「ゴキブリが死んだと認めれば、日本人ドライバーが払ってくれる」

「日本人ドライバーは何者ですか? ただのドライバーではありませんね」

「日本の興信所の男だ。山上と言う」


「誰がゴキブリ殺害を指示しているのですか?」

「そんなことは知らない」と言ってスマホを取り出し、山上に電話を入れた。

「ガルシアだ。こちらの準備は整った。いつ実行する?」

「良かった。明日の午後五時、そちらに伺います」

(六)

翌日の午後四時、イーサンとエマはガルシアがいる応接間に足を踏み入れた。

必ず、ゴキブリを殺すこと。もし犯行がバレ警察に捕まった場合、ガルシアの名前を絶対に出さないことを強調した。この場合、山上から直接殺人を依頼されたことにするよう伝えられた。

「もし、警察に俺の名前を出したら、彼女を殺すからな」


「彼女と一緒に行ったら駄目ですか?」

「駄目だ。彼女は大事な人質だ」

「だったら、彼女との連絡用に、スマホを買いたいのですが」

「スマホならここに、いくらでもある」と言ってガルシアはデスクの引き出しから一つのスマホを取り出してイーサンに渡した。

「私も貰えませんか?」エマが言った。

「あんたにはここを出るときに渡す。警察に連絡されてはまずいからな」

イーサンは貰ったスマホの番号を紙に書き、エマに渡した。


外の道路に、大型トレーラーが来ることになっていた。門の近くで待っているように言われたので、イーサンは警備人に扉を開けてもらい、近くの道路で待っていた。

午後五時、山上が運転する大型トレーラーが到着し、イーサンは助手席に乗り込んだ。

(六)

ガルシアは仕事がひと段落し、ほっとした解放感に浸り、酒を飲んでいた。

彼がエマの部屋のドアをノックし、

「夕食だよ。下りておいで」と言っても頑なに返事しないし、部屋のドアに鍵をかけたまま、下りてくる様子もない。

酒の量が増すにつれ、自分に逆らうエマに憎しみがむらむらと心の中に渦巻いてきた。同時に色気たっぷりのエマの裸姿を勝手に頭に思い浮かべていた。四十五歳になったガルシアは一年前に離婚し、金儲けの裏仕事が忙しくてまともな女性とセックスしていなかった。

自分でもコントロールできない性の疼きをおぼえた。


ガルシアは家政婦を呼び、耳打ちした。

彼女は台所から今夜のメニューのシチューを器に入れ、エマのドアから一メーターほど離して廊下に置いて言った。

「美味しいシチューをここにおいて置きます」


やがて、ドアが少し開き、エマは手を伸ばしたが届かず、ドアを開けて身を乗り出してきた。

その時、ガルシアは彼女を抱きかかえた。

「キャー」とエマは大声を上げた。

彼は構わず、後ろ足で蹴ってドアを閉めた。彼女をベッドまで運び、ベッドに押し倒してその上に乗った。


彼女は力の限り抵抗した。

そのためかえって、ガルシアの欲情の火に油を注ぐことになった。もがき暴れる彼女の腕や足を押さえつけた。やがて、ポケットからナイフを取り出して彼女の顔に押し当て、

「おとなしくしろ。醜い顔になってもいいのか」と凄んだ。

彼女は抵抗しても無駄だと悟ったようだ。


「服を全部脱げ」

彼女は観念し、言われる通りにした。悔しさで顔を歪ませてベッドに仰向けになった。

ガルシアは服を脱ぎ捨て野獣のように襲い掛かった。

彼女は現実を理解していたが、感情は追いついていないようだ。

事が終わったガルシアは、服を着ながら彼女に視線を向けた。

彼女は腸を煮えくり返らせながら、ベッドに仰向けになったまま動く気力もないようだ。うつろな目から大粒の涙を溢れさせていた。


彼はドアを閉め応接間に戻り、また酒を飲みだした。やがてソファーに座ったまま、眠りに入った。

ガルシアはスマホのベルで目を覚ました。窓から朝日がさしていた。

「山上です。布施はオダブツです」冷たい口調で言った。

「そうか。ご苦労さん。イーサンに二十万ドルを渡して解放しろ」

「了解」と言って電話を切った。

ガルシアはエマの部屋の前で、

「お前の旦那は見事に仕事を成し遂げた。お前を解放する」と言って応接間に戻った。

(七)

エマは悔しさと無力感を浮かべて応接室まで足を運び、

「スマホを貰えませんか? 」と力なく言った。

「好きなものを持って行け」と言ってガルシアはデスクの引き出しを開けた。

エマは引き出しの中を見て顔がさっと蒼ざめた。スマホのピンクのカバ―に、ESのイニシャルが入っていたものがあったからだ。

「私のスマホだ。どうしてここに?」と心の中でつぶやいた。


強盗の二人はガルシアの手下だ。あの強盗は殺人の実行人を見つけるため、計画的に行われたものだ。二人がヒッチハイクしていた所に、ガルシアの車が現れたのは偶然ではない。待ち伏せしていたのだ。

「必ず、復讐してやる! 」エマは自分の心に強く言い聞かせた。

自分のスマホを取り、くるりと背を向けると逃げるように家を出た。

(八)

昨夜六時ごろ、ウオークグリーンアパートメントの駐車場で、布施が自分の車を覗いている隙に、イーサンは鉄棒で布施の後頭部を強打した。意識を失った彼を日産のトランクルームに入れた。誰にも見つからないよう、夜中の一時まで布施の車の中で待機していた。


運転手の山上史郎がトレーラーの扉を開け、辺りを見渡して人影がないのを確かめてOKサインをイーサンに示した。

イーサンは日産の車を運転してトレーラーに入れ、トレーラーの助手席に乗り込んだ。


ロスから車で五時間ほどのデスバレー国立公園へ出発した。

CA百九十号線沿いにある西側入り口近くにトレーラーを停めた。二人は日産に乗り換え、公園の中に入って行った。

辺りは荒涼とした砂漠が広がり、人は訪れないだろうと思われる砂漠の真っただ中に車を停めた。

二人は布施をトランクルームから引っ張り出した。着ている服を全て剥ぎ取り、裸にして砂の上に放り投げた。


「念のために、足の骨を折れ」山上が命令して車の中に乗り込んだ。

イーサンは言われた通り、鉄棒で布施の足を滅多打ちにした。布施の心臓に耳を当て鼓動があるか確かめて日産のドアを開け、

「足の骨を折りました。間違いなく、死んでいます」と言った。

「ご苦労さん。人が現れるとは考えられないが、万が一に備え、トレーラーの所に戻ろう」


公園の出口まで行った二人は日産の車から降り、トレーラーに乗り込んだ。

「ここで二時間ほど待とう」山上が腕時計を見ながら言った。

「どうしてそんなに? 」イーサンは顔に焦りの色を滲ませて尋ねた。

「まだ、朝の七時過ぎだ。今、電話を入れると、ガルシアさんに怒られる」

早く助けに行かないと手遅れになる。殺人犯になれば、エマにこっぴどく叱られるだろう。イーサンは顔をしかめ、イライラを募らせて待った。


二時間後、山上はガルシアに電話を入れ、目的達成を伝えた。二人はトレーラーから降り、山上はトレーラーの後ろの扉を開けて中に入って行った。大きなボストンバッグを持って降りてきた。

「中に、二十万ドルが入っている。それと、日産の車を処分してくれ」と言ってバッグと日産の車のキーを差し出した。

「了解」

イーサンは目を輝かせた。バッグの中に現金が入っているのを確かめて、そそくさと日産の車に乗り込んだ。車の窓を下ろし、山上がトレーラーに乗り込む横顔をスマホに収めた。トレーラーが姿を消すのを見届けてから、デスバレー国立公園に入り、現場に急行した。


現場は修羅場となっていた。砂の上にうつ向けに裸で倒れている男に、ハゲタカが群がってくちばしでついばんでいた。

イーサンは鉄棒を振り回し、ハゲタカどもを蹴散らした。

体中に無残な傷があり、そこから血が帯のように流れて砂の上まで続いている。

男を仰向けにした。イーサンは思わず顔をそらした。

砂漠の真夏の熱で顔も身体も火傷を負い、皮膚はただれて赤く剝けていた。血の気のない歪んだ顔。半ば開いた口。色を失った唇。一点だけを見つめる目。

イーサンは思い直し、ポケットからスマホを取り出して三枚の写真を撮った。トランクルームから、男から剝取った衣類をとりだした。後部座席の上に敷き、その上に男を載せて下着をかけた。


その時、エマから電話があった。

「イーサン、殺人を犯したの? 」

「分からない。手遅れかもしれない」

「と言う事は、まだ確実に死んだわけではないのね」

「そうだと思うけど、分からない。今、車に乗せた所だ」

「UCLAの玄関で待っているわ。ピックアップして」

「了解」

なぜこんな状態になったかは問題にせず、秘密裏に傷の手当してくれるところを見つけようとイーサンが提案した。

「そんな医師、見つかるかしら」

「二十万ドルの現金がある。医師でも、現金を見れば、手当してくれるさ」

「そうね」

(九)

布施は意識を取り戻すと、薄汚い部屋のベッドに寝かされていた。記憶がどっと蘇ってきた。砂漠でのこと。足の骨が折れて動けなくなり、ハゲタカに囲まれたことなど。

そこに自分を殺そうとしたイーサンが部屋に入って近寄って来た。

布施は、はっとして身震いした。

「また殺しに来たのか?」と叫んだ。

「見当違いもはなはだしい」

「じゃ、何しに?」

「あんたの様子を見に来た」

「ここはどこなんだ?」

「サンフランシスコにある病院の一室だよ」

「そんな! 俺はどうやってここに辿り着いた? 」

「俺が連れてきた」


布施はしばらく黙ったまま、イーサンの目を覗き込んでいた。やがて口を開いた。

「どうして俺を助けた?」

妻から殺人行為を避けるように言われた。妻に嫌われたくないことを強調した。

「でも、ガルシアから二十万ドルを奪い返したくてやった」

「ガルシア?」

「あんたを殺すよう命令した男だ。俺たちは完全に、奴に嵌められた」


イーサンは今までの経緯を話し出した。

「ひどい話だ」

そこに、エマが満面に笑みを浮かべて近寄り、

「意識を取り戻したのね」と温かい言葉を投げかけた。

「あなたのおかげで助かった。俺、布施明生と言います。お礼したい」

「私、エマ・スミス。ぜひ協力して」

「なんなりと」

「ガルシアに復讐したいの。酷いことをやられたわ」彼女が言い終わらないうちに、

「それは彼から聞きました」と言った。

「イーサン・スミスだ」まだ彼は名乗っていないことに気づいたようだ。


ガルシアはとんでもない野郎だと思った。日本の興信所の人間に殺人を依頼されたのだろう。布施も復讐しなければいけない男がいることを伝えた。

「一緒に協力し合って復讐しましょう」

「そうね。でも、殺人行為は駄目よ」エマが釘を刺した。

「大丈夫。俺も殺人行為は嫌いです。他の方法で徹底的に打ちのめしてやります」

「そうしましょう。どうして殺される羽目になったの?」

布施は殺人に至るまでの経緯を苦々しく語った。


「ひどい人生を送ってきたのね。よくここまで我慢して来たわ」

「このアメリカで戦っても勝ち目がないよ」布施が言った。

「どうして?」

アメリカでは一度で何十人もの人々を殺せる銃が簡単に手に入れられる。

「日本にはそんな銃を持ち込めない。銃でなく頭で勝負するんだ」

「ガルシアは日本に行くかしら」

「必ず、行くように仕向ける」


「これ、役に立たない?」イーサンは得意げに言って、スマホの写真を布施に見せた。

「すごい! これがあれば、莫大な金を手に入れられる」

完璧な、死人の写真だった。傷や火傷だらけの裸体。顔は青ざめ、目は一点を見つめて見開いている。口を大きく開けてまるで叫んでいるかのように恐ろしい。苦しみや恐怖を味わっている様子がくっきりと映っていた。

布施は言葉に出来ないほどの興奮が激しく波立つのを感じた。


「五十万ドルぐらい稼げそうか?」イーサンが抜け目ないような顔で言った。

「そんなもんじゃない」

「本当かよ。どうやって?」イーサンは驚いたように目を見張った。

「まだ考えがまとまっていない」

布施の傷が治るには二か月ぐらいかかるだろう。たっぷり計画を練る時間がある。


「まだ写真があるぞ」

布施の車を運んだトレーラーで、この日本人運転手と一緒に砂漠に行き、事に及んだと言った。

布施は写真を見て、驚きの色を浮かべて言った。

「日本の興信所の人間に違いない。よくこんな写真を撮ろうと思ったな」

「俺が警察に捕まった時の保険として撮った」

イーサンの意思で犯行に及んだわけではない。こいつらに命令され、仕方なしにやったと言えば、刑は軽くなると思ったようだ。


「素晴らしい。この写真があると、かなり有利に運べる」

「本当? それだけ稼げるなら。レストラン開業資金を使ってもいいね、ダーリン」

「勿論よ。復讐と投資が出来るのよ。一石二鳥だわ」笑みを浮かべて言った。

「俺の傷の手当てに、ずいぶん金がかかっただろう。すまないな」

「何を言っている」

イーサンが負わせた傷だ。彼が払うのが当たり前だ。その傷のお陰で二十万ドルを稼げた。この計画に全てを使う。たとえ失敗してもとイーサンは強調した。


布施は命拾いしたのだからこんな大きな幸運はないと思った。単に命が助かっただけではない。いったん諦めていた復讐の大きな足掛かりを得たのだ。

「これは教会に最後の五ドルを献金したお陰かな」つぶやくように言った。

「布施はクリスチャンなの?」エマが目を輝かせて尋ねた。

「こないだ始めて教会に行った。困った時の神頼みだよ」

「布施の命が助かったのは奇跡的だ。間違いなく、イエスが助けたんだよ」イーサンが強調した。

「俺もそうだと考えている」


大膳から取れるだけ金を奪ってやる。布施の取り分の半分を貧しい人に寄付すると誓った。これは単なる復讐じゃない。助け合い運動なのだ。

「それはいいわ。私も敬虔なクリスチャンよ。傷が治るまで聖書を勉強して」

この事で、イーサンやエマに絶大な信用を得ることが出来た。

(十)

話は五年ほど前にさかのぼる。

布施は公認会計士次試験に合格し、外資系のC&C会計事務所に入所した。

異色の存在だった。大きな会社の営業職で五年ほど経験し、人の十倍ほどの成績を上げて社長賞も貰った。

でもサラリーマンが嫌になり、実力で稼げる会計士になろうと決意を決め、試験を受けた。


監査事務所に勤める人々はみな、会計一筋の人ばかりだ。バランスシート型の人びとだ。

左と右が一円でも違うとまずいと思っている人々だ。正しくお金が使われているか、チェックする立場の人々だ。

営業マンは損益計算書型だ。費用を出していても、それ以上の売上を積み増し、大きな利益を出すことが重要だ。

経理課と営業は、ここが決定的に違う。


最初の三年間は見習い期間で、給料は異常に低かった。法律で決まっているので、非常に安く抑えられていた。

布施は人間関係理論に長けていた。

若い二人のアメリカ公認会計士とすぐに友達になり、二人を自宅近くのテニスコートに招待した。

布施はコーチと組み、二人を徹底的に叩きのめした。その晩、英語を勉強し、次の日に使う文章を暗記した。


翌日、布施は事務所で二人と会い、

「あんたら二人は、俺の敵じゃないな」とからかった。

「何を言っている。コーチが全部のポイントを奪ったんだ。実力は俺たちの方が上だよ」と反発してきた。

布施は笑い声を上げた。

すると、二人も大声で笑いだした。

大きな部屋にいた人々が、皆、驚いた表情を浮かべて振り返り、三人に目線を合わせた。


あいつ、英語で外国人を笑わせている。英語がペラペラに違いない。すごい男だなと思ったのだろう。そこにいた人々に誤解を与えた。

英語がペラペラで会計士だったら、将来、高額な報酬が約束されていたからだ。そのような会計士はほんの一握りだけだ。


週二回、補修所に行って講習を受けなければいけない。同期の六人がいつも一緒に行っていた。

ある日、六人が酒を交わした。

「月給がこんなに低いのじゃ、結婚などは出来ないな」同期の一人がぼやいた。

布施は親父の会社から給料をもらっているから、大丈夫だった。トヨタのカローラも合格祝いに買ってもらった。

「誰か結婚相手はいないかな」 布施が得意げに言った。

「僕の姉が独身だよ。書道の師範の免状を持っている」

一番若いイケメンの同期が言った。

イケメンから類推して、彼女も美人だろう。書道の師範の免状を持っているぐらいだから、しっかりした女性に違いない。

「ぜひ紹介してよ」

「いいよ」


布施は酒も入り、有頂天になっていた。

布施は接待費をバンバン使って異常な成績を上げた。

とんでもないことを言ってしまった。

「売り上げを人の何倍も上げると、多少の無理がきく。友達と飲んだものも経費で落とすことが出来るんだ」

これが命取りになった。


同期の中の何人かが布施に、嫉妬の炎を強烈に燃やしていることなど、知る由もなかったのだ。

布施は百七十八センチの瘦身で、彫が深く、引き締まった顔つきで、多少、威厳すら帯びていることを自覚していた。いつも穏やかな表情を浮かべるようにしていた。

布施の心の中には強烈な反骨精神があった。これが命取りになる可能性があることは自分も意識していた。

自分に悪意を持つ人間に対しては無視する。戦いを挑む人間に対しては徹底的に戦う。それが大きな災いになることがあった。

英国製のスーツで決めていた。布施には営業で鍛えたトークがあった。会を盛り上げる力があった。いつも人気者だった。


ある日、外資系の会社の現金監査があった。

布施より五歳も年下の上司、いかつい顔をした同期、布施の三人が現金や証券などを数える現金監査をしていた。

「こいつ、前の会社の営業で悪い事ばかりしてきました。先輩、注意した方がいいですよ」と同期が上司に告げたのである。

完全な足の引っ張りである。

「何を言っている。悪い事はやっていない! 」と布施は必死に反発した。

だが無駄だった。

上司はちらちらと、布施の行動を監視するようになった。

布施に緊張が走り、動作がぎこちなくなった。

その結果、上司は大膳健吾パートナーに、

「怪しい」と報告したのである。


これが事務所に広がった。

他の同期の三人が、

「怪しいやつ」と完全に布施の足を引っ張りだしたのだ。

三・四人が結束すると、強力なものになる。

重要なのは「一円も無くなったわけではない」のだ。

しかし、興信所の尾行が始まった。

布施の周りは大きな音を立てて崩れ落ちて行った。布施の心に、海底に吸い込まれるような絶望感が広がった。


布施の行く先々で、

「あいつが他人の金を盗むか、協力してくれませんか? 」と興信所の人間が皆に告げるのだ。たとえ現金が無くならなくても、彼が金を盗む人間だと勘違いするものだ。会計士にとって致命的だった。

友達は離れ、数多くの結婚話もすべて反故になった。


三年間研修所に通わなければ公認会計士になれないが、失意のどん底に陥り、一年で事務所を退所した。これで事務所とは関係が無くなり、尾行は終わると思った。それどころか、どんどんエスカレートしていった。


C&C会計事務所の大膳健吾パートナーから誓約書を取ってある。

「興信所などを使い尾行するようなことは、一切しておりません。もし行った場合、一億円を支払います」という内容のものだ。


 C&C 会計事務所を退所してから一年後、なおも尾行が続いていた。

尾行を中止してもらうために、大膳パートナーの部屋に入り、

「大膳さん、興信所などを使い尾行するのを、止めていただけませんか? 」と心から哀願した。

「尾行などしていない」と大膳はきっぱり言い放った。

「じゃ、この誓約書に、署名捺印をできますか?」

上記の内容と日付を書いた誓約書を突きつけた。

大膳は少し考えた末、まったく顔色も変えずに、

「いいよ」と言って、誓約書に署名捺印した。


布施はこの誓約書があるために、五年間にわたり、興信所による尾行が続けられていると考えた。一刻も早く自由の身になりたかった。

C&C会計事務所の大膳パートナーに電話を入れた。

「大膳さん。一億円を支払いますという誓約書を無効としますから、尾行を止めてもらえませんか? 何なら、噓発見器にかけたらどうです」

「ありがとう」と一言を言って電話を切った。

尾行していなければ「ありがとう」などとは言わないだろう。無効などにしなくとも構わないと言うに違いない。やはり大膳は誓約書の存在を気にしていたのは間違いない。


これで尾行は中止になり、自由の身になることができると、喜びの色を隠せないでいた。

翌朝、期待で胸を膨らませながら外に出た。電車に乗って様子を見ることにした。五年も尾行されると、尾行されているかどうか分かるようになっていた。駅に向かう数人がズボンの後ろのポケットに財布を入れて布施の前を歩いていたりする。混雑する電車の中で、布施の手の届くところに、ポケットから財布を覗かせている人間が毎日いたりするのだ。こんなことは通常有り得ないことだ。自宅の裏口に自電車が置かれ、その買い物かごに財布が置かれていることもしょっちゅうあるのだ。


以前と変わらず、重くいやな雰囲気に包まれていて明らかに尾行されているのを重く感じた。

三日間、尾行が終わるのを待ち続けた。事態が一向に改善する兆しはなかった。失望で目の前が真っ暗になった。


狭き門の公認会計士試験に合格し、C&C会計事務所の面接を受けた時のことを思い出した。三人の面接官がいた。

大膳パートナーが布施の顔を見たとたん、履歴書を見る前に、いやな表情を浮かべた。大膳は鬼瓦のような顔立ちをしていた。

布施が入所するのを反対していたネックは三十一歳という年齢かと思ったが、直感で違うと思った。


大膳は自分の顔立ちに劣等感を持っているに違いないと、ピーンと来た。布施は実際の年齢より五・六才ぐらい、若く見られるのが常だったからだ。

その時から嫌な印象を、お互いに持っていた。

しかし、他の二人の面接官は快く歓迎してくれて、入所することができた。


大膳は今までの人生で、負けたことがない男だ。尾行を止めれば負けたことになる。頑固一徹、継続は力なりを常に実践していた。


尾行には盗聴器がつきものだ。

自宅の居間で、毎晩、布施は酒を飲み、

「俺は事務所を辞めた人間だ。なぜ、莫大な金を使って何の関係ない人間を尾行している。そんなに金が余っているのなら、見習いの給料を上げたらどうだ」とか、

「毎年、二億円ぐらいの金を興信所に払っている。その金は大膳が事務所の金を横領して賄っているのだ。業務とは全く関係がない、自分の欲望を果たすために使かっている」また、

「会社の大金を横領する人間が一円も盗んでいない人間を調べている。頭がおかしいのではないか」などと言って徹底的に大膳に楯突き、憂さを晴らしていた。


一億円を支払うと言う誓約書を解除し、噓発見器にかけてほしいと訴えたにもかかわらず、一向に尾行を止めようとしない。

絶望と同時に怒りがこみ上げてきた。酒をぐいぐい口に運んだ。そして許容範囲を大幅に超えていた。酒でフラストレーションを解消させるどころか逆に増大していった。

そして一気に爆発し、自暴自棄になっていった。

室内に仕掛けてある盗聴器を通して大膳にたてついた。

一億円を放棄するといっているのだ。なぜ、嘘発見器にかけ、徹底的に調べない。そのほうが手っ取り早く、正確に、盗む人間かどうか判るはずだ。費用も安く済む。なぜ出来ないのだ。

正しい人間だという結果になると確信しているからだろう。

なぜこんなくだらないことを五年間も続ける。なんになる。馬鹿じゃないのか! 

布施は自分が話していることを完全にコントロールできない状態になっていた。


さらにエスカレートし、言ってはいけないことを口走ってしまった。

「お前は第一印象から嫌なやつだと感じていた。面接を受けたとき、お前は自分の顔にコンプレックスを持っていると直感した。そうだろう! 」

言ってしまってから、まずいなと思った。取り返しのつかぬ罵声を浴びせてしまった。


大膳は相当、頭にきているはずだ。こうして命を狙われる羽目になった。

ストーカーは病気なのだ。自分では止められない。

しかも、興信所の人間が、

「先生の強い意志は素晴らしい。継続は力ですね」と煽り立てるため、なおさらのことだ。


五年間も尾行するなど有り得ないことだ。もし尾行されていると他の人に言うと被害妄想で、頭がおかしいのではないかと言われる。警察も相手にしてくれない。

                (十一)

今坂麻衣は、ある出会い系サイトに投稿した。

「長期に付き合ってもらえる人を募集。月、四回ほど会える人。二十四歳。学生時代、レースクイーンの経験あり。ボディーに自信あり。Dカップ。一番、金額の多い人に決めます」


応募が殺到した。その中で布施の金額が一番、大きかった。

麻衣は布施にメールを送った。

「あなたに決めました。明日、会社が休みですので、昼の一時に、会えますか?」

「明日、一時ですね。大丈夫ですよ。すごく楽しみにしています」

お互いの服装などの特徴を言い、会う場所を決めた。


翌日、会うと、お互い意気投合した。セックス相性も抜群だった。

特にセックス後の布施の話は、興味深い内容だった。麻衣は会える日が待ち遠しくなったほどだ。

麻衣は目鼻立ちが整っていた。スタイルも申し分がない。

赤く厚い唇、全身から強烈な色気を周りに発散している。二十四歳のまさに女盛りを自覚していた。


そんなある日、布施は重大なことを打ち明けた。

長年、布施は興信所の人間に尾行されていて、命を狙われている。もしかしたら、麻衣にも近づいてくるかもしれない。

「気を付けて」

「命を狙われているの?」

麻衣にとっては寝耳に水の話だった。

その時は、あまり抵抗しないほうがいい。相手は暴力団と一緒だから。

「何をされるか、分からないからね」

「嘘! どうしてそんなことになったの?」

布施は今までの経緯を話した。


「どうして私に、興信所の人が近づいてこないのかしら?」

「尾行をまく方法があるんだ」

「どんな?」

電車のドアが閉まる寸前に素早く飛び降りるのだそうだ。それがうまくいっていた。

                (十二)

こうして布施と麻衣との良好な関係が一年近く続いた。

ある日、ラブホテルの浴槽から出た布施が、真っ裸でベッドに座っていた。退屈を持て余していた。

ふと、目線を内側のドアに向けた。

少しドアが空いているではないか。おかしいと思ってドアを開けると、部屋の玄関ドアの鍵がかかっていなかった。


ドアの鍵を閉めるのは麻衣の仕事だった。

「ドアの鍵が開いていたぞ」浴槽にいる彼女に叫んだ。

「忘れたかもしれない」

布施はやることだけはやって家に帰った。酒を飲みながら、この出来事に脳漿を絞っていた。

いつも、彼女は神経質にドアの鍵にこだわっていた。

その彼女がドアの鍵を閉めるのを忘れたばかりではない。内側のドアまでが少し空いていたのだ。

彼女の性格からして、有り得ないと結論を下した。


そして夜の六時ごろ、別れのメールを送った。

「一年ほど付き合っていただき、ありがとう。すごく楽しかった。お互いハッピーなうちに別れよう」

夜、遅くにメールがやっと届いた。

「もう一度、チャンスをください」という内容だった。

「何のチャンスだ? 殺すチャンスか」

あいつの顔を見ると、虫唾が走るだろう。命拾いした。もうセックスも出来なくなった。

                (十三)

布施殺害に失敗した麻衣と興信所の鬼頭雄一郎はラブホテルいた。

ラブホテルで布施殺害に成功すれば、麻衣は一千万円を貰える約束だった。

失敗したので五百万円になった。

殺害に失敗し、不満を抱いた鬼頭は麻衣をラブホテルに誘ったのだ。鬼頭は腕力と女性を満足させることが取り柄で生きてきた。ジゴロを自認していた。

「なぜ、失敗した?」ぶしつけに切り出した。

「入り口のドアの鍵だけを開けておけばよかったのよ」

鬼頭は何のことか分からず聞き返した。

「えっ?」

内側にもドアがあった。殺し屋が入りやすくするため、そのドアを少し開けておいたのだ。

「失敗したわ」

「それで、布施が玄関ドアの鍵が開いているのに気付いたわけか」

「布施はついていると言うか、鋭いと言うか。完璧だったのに」麻衣が悔しそうに言った。


「クソったれ! 」鬼頭はむかっ腹をたてて服を脱ぎだした。

それにつられて、麻衣も真っ裸になり、タオルを巻きつけ風呂に入った。

その後、鬼頭の激しいテクニックに麻衣はメロメロになった。それ以来、彼女は鬼頭に夢中になって離れられない関係になった。

               (十四)

 ある夜、布施は床に入り、

「これからどうしよう」と自分の胸に問いかけた。尾行が続く限り、公認会計士になるのは無理だ。家に閉じこもったままでは時間の無駄だ。

一計がよぎった。

英語を徹底的に勉強してアメリカの大学院に入学し、M&Aや財務分析を学べば将来があると読んだ。そして布施は実行に移した。一年で日常の英会話は十分にこなすことが出来るようになった。TOEFL九十点を取れた。UCLAの大学院に入るには推薦状が二・三通必要など、日本から申し込むのはハードルが高いことを知った。とりあえず、UCLAのサマーセッションで単位を取って大学院に移ることにした。


七月一日。布施は第二の人生を夢見て、ロス・アンゼルスへの飛行機で飛び立った。窓際に座っていた布施は、ロス国際空港が到着近くなり、目を凝らして外の様子を見つめていた。夕日が雲を鮮やかに赤く染め、ゆっくりと地平線に沈もうとしているではないか。

「そんな馬鹿な!」


旅行代理店の説明によれば、ロス国際空港到着予定は午前九時と聞かされていた。実際に到着したのは午後九時だった。旅行代理店の従業員は時差の計算を間違っていたのだ。旅行代理店といっても、新宿の場末の薄汚れた小さなビルにある三流の会社だ。スポーツ新聞の小さな広告で見つけた会社だった。

税関手続きを済ませ、空港の外に出たときは夜の九時半を過ぎ、もちろん真っ暗闇だ。あちこちの蛍光灯が威力を発揮していた。


両手に大型のスーツケースを持ち、肩には大きなバックを下げている。これらの中にはトラベラーズチェックをはじめ二年間過ごすための全財産が入っているのだ。追いはぎにでもあったら一大事だ。あたりを見渡しても、タクシーは一台も見つからない。日本の空港の待ちタクシーが数珠繋ぎになっているのとは大違いだ。どうすればいいのか分からず、呆然と立ち尽くしていた。


ロス・アンゼルスの地に立ったその初日から、トラブルに遭遇し、この旅行を暗示していた。悪い予感がする。

気を取り直して、バスを待つ四十代の金髪の女性に声をかけた。

彼女はビクッと驚いた表情で振り返った。彼女もまた夜のロスの危険を感じているのだろう。

「タクシーをどこで拾えばいいのでしょう?」

「今の時間帯は無理ね。どこまで行くのですか?」

「ダウンタウンのヒルトンホテルです」

「それだったらバスがあります」といって切符の売り場を教えてくれた。ロスでの夜のバスは危険だから乗ったらだめだと旅行誌に書かれてあった。でもほかに選択肢がない。腹をくくってバスに乗り込んだ。


犯罪に巻き込まれ、身ぐるみ剥がされるのではないかと、びくびくしていた。手に汗を握り緊張しっぱなしだった。ホテルに着くまで非常に長く感じた。

着いたときには疲労困憊していた。後で知ったことだが、空港とホテルを結ぶエアポートバスは旅行者専用なので安全なのだ。みんな利用しているから、あまりタクシーを利用しないのだ。


 翌朝、ホテルの前の道路にある自動販売機から新聞を買い、自室に戻った。新聞を開くと、ウオークグリーンアパートメントの広告が目に入った。ミッドウイルシャーのウエストモアランド通りに面するアパートだ。

早速、レンタカーで訪ねていった。事務所はアパート敷地内の高台にあった。中年の赤毛の事務員が応対してくれた。

事務所からは高い塀で囲まれたアパート内が一望できた。うっそうと生い茂った木々の間に三階建てのアパートが数え切れないほど林立している。目の前に二つの大きなプール。四面のテニスコート。バスケットボールが一面。


「なんと素晴らし眺めだ! 」と思わずつぶやいた。

一目で気に入り契約を済ませた。部屋は三階にあり、ⅠDKで家具つきだ。部屋は広く眺めもいい。

その足でダウンタウンにあるリトル東京に買出しに出かけた。炊飯器と中華なべを買うと、おまけに最高級のカルフォニア米二十キロをもらった。なべや食器など一通りの家事道具をそろえた。

日本酒とゆでた蟹を購入し、その夜はロスでの数少ない喜びの宴を上げることができた。


このアパートに移って二日目。アパートの部屋に戻ると、大変なことが起こっていた。炊飯器の蓋が少し開いていたのだ。安かったせいか蓋をよく閉めないと少し開いたままになってしまうのだ。この状態だとご飯が乾燥してしまうので、いつも十分な注意をしていた。

間違いなく誰かが部屋に侵入し、炊飯器の蓋を開けたのだ。泥棒か? 恐れていた興信所の人間の仕業か? 


アパートのすぐそばにあるスーパーに行き、たっぷり買い物してきた。ある目的があったからだ。興信所の人間なら、買い物した後は塵籠をあさるのがマニュアルに載っているはずだ。机の上に百ドル札とカメラを置き、塵籠と床とに線を引いて眠りに就いた。


翌日、車を買いに行った。

アパートに帰ると、恐れていたことが起こり、全身に戦慄が走った。塵籠が五十センチも移動していたのだ。しかも、机の上の百ドル札とカメラはそのままだ。物取りでないことは火を見るよりも明らかだ。興信所の仕業だ。


「まさかロスまでついてくるとは! 」絶句した。

全身の血が冷えわたって、動悸が高まった。これからどう対処すべきか途方に暮れていた。

翌日。気を紛らわすため、買ったばかりの日産の車で、ビバリーヒルズの高級住宅街やサンタモニカ海岸までドライブを楽しんだ。


アパートに帰ると、さらに驚いたことが起こった。鍵をはめてドアを開けようとしたがどうしても開かないのだ。はじめ部屋を間違えたのかと思ったが、そうではなかった。下の鍵に錠がかかっていたのだ。ドアには二つの鍵があり、上の鍵は通常の鍵で、ドアの外から錠を掛けることができる。しかし下の鍵は、ドアの内側のポッチを押し当て、さらにひねり、そのままドアを閉めると錠がかかることになっていた。


布施は下の錠のかけ方を知らず、いつも上の鍵しか持ち歩いていなかったのだ。管理人事務所に赴き、契約に携わった中年女性に食って掛かった。上の鍵しかないことを示し、

「この鍵でドアが開かないのです」と冷ややかに言った。

「えっ! もうひとつの鍵はどうしたの?」

「ひとつしか持ち歩いていないのです。なのに、ドアには二つの錠がかかっている。どうしてなのですか?」皮肉、たっぷり込めた。


彼女は思わず絶句した。そして、受話器をとり、何かを話していた。

拳銃を提げた頑丈な二人の警備員が駆けつけてきた。

三人で布施の部屋まで行き、合鍵でドアを開けた。

下の鍵を閉めるには、部屋に入らなければ、外からは閉められない。誰かがこの部屋に入ったことは間違いない。

「合鍵を誰かに渡したんだ」

「渡してはない」

「じゃ、どうやって入ったんだ? 」

「分からない。とりあえず事務所まで来てもらいたい」と言って警備員の狭い事務所まで連れて行かれた。


布施はデスクのいすに座らされ、拳銃を持った二人は入れ口を塞ぐように立ちはだかっている。

「部屋には何回も入られた形跡がある。合鍵がないと考えられないよ」

「合鍵は渡していない」拳銃に手を添えながら言った。暴れれば撃つぞと警告を出しているようだった。

これ以上話しても埒が明かないと布施は読んだ。

「二つの鍵を交換してもらいたい」

「ひとつの鍵で十分だ。それに金がかかるよ」この言葉で、興信所の人間に合鍵を渡していることを裏付けている。二つの鍵を交換しても意味が無いよと言うのと同意語だ。どうせまた合鍵を渡すのだからと。 普通なら二つの鍵を交換しますと警備員自ら言ってくるのが当然の理だ。


「無償で交換するのが当たり前だろう」

「交換の場合は本人が払うことになっている」

「冗談じゃない。そんな契約、どこにある」

「アメリカではそうなんだ」

呆れて物が言えなくなった。下手に文句を言えば、何をされるか分からない。諦めた。


布施は部屋に戻り、酒を飲みながら、これからどうすべきか思考を巡らせていた。

授業料は払い込んだが、UCLAサマーセッションは諦めるしかないのは当然だ。第二の人生も終わりだ。ロスにいる限り必ず、殺されるだろう。どうやって日本に帰るかだ。

買ったばかりの車だが売らなければならない。母親から二百万円を借りて来たのだ。アパートの警備員と興信所の人間と繋がっている。でも、このアパート内では殺すことは出来ないだろうと、布施は高をくくっていたのだ。それがとんでもない事になったのだ。

                 (十五)

大膳健吾、堂本社長、山上史郎専務の三人は、新宿にある高級割烹料理店の個室でテーブルを囲んでいた。

アメリカで行った山上の作戦の成功を祝って、大いに盛り上がっていた。

「山上君。ご苦労さん。良くやってくれた」大膳がビールのコップをささげて言った。

「ありがとうございます。アメリカの探偵社に出向した甲斐がありました」


山上は若い頃、二年間、ウイルソン探偵事務所に出向してアメリカの興信所の手法を学んできた経験があった。だから、日常生活に必要な英会話力を身に着けていた。

「喉に刺さっていた骨が取れたようだ」殺人を依頼人した大膳が顔一面に満悦の笑みを浮かべて言った。

「大膳先生の笑顔を見たのは初めてです」仲介役の山上専務が笑みを浮かべて言った。

「そりゃ、そうだ」

今まで、さんざん布施にやられてきた。失敗ばかりを繰り返してきたから、大膳は笑う暇がなかったのだ。


「今回は山上専務のお陰で、何とか面目を保てることが出来ました」

探偵事務所の堂本社長が満足げの表情を浮かべた。

「山上君。本当にご苦労さん。ずいぶん長い付き合いだったな。やっと終わらせることが出来た」大膳はほっとした表情を浮かべた。

「ありがとうございます」

念願だった、布施殺害がようやく実現できて、山上の顔に安堵の喜びが浮かんだ。これも大膳がいつも口にする、継続の力のお陰に違いない。

「バレないだろうな」大膳が念を押した。

人里離れた砂漠に、裸にして殺した。ハイエナやハゲタカが骨だけにしてくれる。

「誰の骨だか分かりません」

山上専務が胸を張り、隠しようもない得意顔を見せた。

「そうか。うまく考えたな。本当に殺したんだな」しつこく言った。

「間違いありません。この目で確かめました」


「そうか。礼金だけど、二か月ほど待ってくれないか」

大膳は今月だけでも八千万円を横領していた。ウイルソン探偵事務所に七万ドル。イーサンに二十万ドル。ガルシアに前金の七万ドル。山上に三千万円を支払ってある。九月に決算が有り、その後、会計監査がある。さらに一億円を支払えば、横領がバレルだろう。

「大丈夫ですよね?」山上は堂本社長に視線を向けて尋ねた。

「勿論。大金ですから、先生でも大変でしょう」

礼金の一億円の内訳は、ガルシアへの三十万ドル、堂本探偵事務所への五千万円だった。


大膳健吾は自分に絶対の自信を持っており、人生で一度も大きな失敗したことのない人間だ。強烈な負けず嫌いだった。唯一、布施への長期にわたる身元調査で、煮え湯を飲まされてきた。

                 (十六)

山上史郎は布施明生調査の責任者であると同時に、大膳健吾との直接の連絡係でもあった。

五十五歳だが、ボクシングをやり、がっちりした身体をしている。悪者にふさわしい顔立ちで、眼光が鋭いのが印象的だ。

取引相手の要望に、どんなことでもNOを言わない男だった。殺人まで平気で請け負うのだ。

だから、取引相手からの信頼は絶大だった。


高校時代の山上は、一匹狼だった。喧嘩に強くなるためにボクシングをやり始めた。運動神経が抜群で、すぐに上達した。

ある日、セクシーな同級生の篠原順子から、

「三人の不良に絡まれているの。しつこいのよ。なんとかならないかしら? 」と相談を受けた。


「三人だから三回だな」

「何が三回? 」目を白黒させた。

「三回、やらせてもらえれば、やってやるよ」ぶっきらぼうに言った。

彼女は納得した表情を浮かべ、

「三回だけよ」と念を押した。

「ああ」

「それであの三人と、おさらば出来れば御の字よ」と承諾した。

山上は不良の三人を校庭に呼び出し、徹底的に痛みつけた。


そのそばで篠原はじっと様子を伺っていた。

「今後、彼女にちょっかい出すな。いいな」と捨て台詞を残した。

彼女は喧嘩の迫力にくぎ付けになっていた。

「山上君は抜群に強いのね」

「まあな」得意げな表情を浮かべた。

「興奮してきたわ。ねえ、教室でやりましょう」

「教室で?」

「今日は安全日なの」

「当直の先生に見つかったら、退学だぞ」山上はビビッた。

「スリルがあっていいじゃない」

山上はいやいや承諾した。


教室で、二人は素っ裸になってやった。

二回目は海水浴場だった。人目を気にせず、岩陰でやった。

三回目は帰りの電車の中だった。

「スカートの中に手を入れてみて」

山上が辺りを見渡しながら手を入れると、ノーパンだった。

「ここでやりましょう」

ここで、篠原が変態だと気付いた。

さすがに山上は出来なかった。

「出来ないの? 出来ないのなら、これで終わりよ」

さげすんだ表情を浮かべた。


この苦い経験で、堂本社長と組んで「仕返し代行」の会社を立ち上げるヒントになった。何がうまくいくか分からないものだ。

山上は「仕返しの方法」を学ぶため、アメリカのウイルソン探偵事務所に出向した。そこで、アーサーCEOと親しくなった。

アーサーCEOと山上とは、考え方がよく似ていたので、ウマがあった。目的のためには手段を択ばぬタイプだ。アーサーからガルシアを紹介されたのだ。

                (十七)

まだ残暑が厳しい九月三十日。布施明生は成田空港の出口でスミス夫妻を出迎えていた。

出口の向こうから、二人はリックサックを背負い、大きな旅行鞄を押して姿を見せた。二人の姿は周りの人たちの中で異色を放っていた。光を含んだパッとした空気のようなものが、周囲の中に流れ出るようだ。

エマの金髪はライトを浴びて光り輝いていた。夏にふさわしく、エマの腕や足を露出したワンピース姿は森の中にこんこんと湧き出る泉のような印象を与える。

イーサンの紺色のTシャツ、灰色の半ズボン姿は、そこから延びる長い足を際立たせていた。

男から見ても、かっこいいと思った。


「ハイ! 」布施が右手を上げて叫んだ。

スミス夫婦は気づき、イーサンと布施は満面の笑みを浮かべ、力強くハイタッチした。


「用意は出来ているか?」イーサンが第一声を放った。

「バッチリだ」

「わくわくするわ」エマが目を輝かせて言った。

「どこのホテルに泊まるんだ?」

「まだ決めていない。その前にアジトを見たい」

「そうだな。これからの生活の拠点になるから」

三人は黒塗りのクラウンに乗ってアジトに向かった。


アジトの倉庫は松戸市側の矢切の渡し付近だった。老朽化している大きく、天井の高い平屋建ての倉庫だった。

倉庫の周りは自然豊かで空き地が広がっている。辺りには建物があまり見当たらない。雑草が生い茂っていたが、車は何台も駐車できる状態だ。

すぐ裏が江戸川だった。

大きな木のドアが、左右に開くようになっていた。

中には、四十坪の部屋とトイレと、六畳ほどの部屋が二つあった。一つの部屋にダブルベッドを用意しておいた。


小さな台所もあった。水道、ガスも使える状態だった。簡単な料理も作れる。スミス夫婦にとって非常に都合がよかった。

イーサンは見た途端、

「ここは想像していた通りのアジトだ。料理も出来る。俺の腕の見せ所になる」と納得した。

「少し狭いけど、短期間の住まいだったら大丈夫よ。シャワールームがあると完璧なんだけど」エマが言った。

「日本には銭湯があるから大丈夫ですよ」

「銭湯?」

「大浴場ですよ。温泉もあります」

「この近くに温泉があるの?」驚いた様子だ。

「二十四時間利用できる温泉も銭湯も近くにありますよ」

「それはいいですね。温泉に入りたいわ」


 三人は倉庫にこだわりを持っていた。

 三か月という短期間だが、非常に重要な時間だ。三人のアイデアを引き出す時間だから、集中できる環境を作る必要がある。

それだけではなかった。酒を飲んだりするリラックス出来る場所でなければならないのだ。

布施は死んだことになっているので、ホテルに泊まるのは一向にかまわない。ただ、ホテルは寝るだけになりそうだ。一日のほとんどが、この倉庫で生活することになる。


スミス夫婦にとってこれから先、ホテル住まいは危険と隣り合わせになる可能性がある。犯人だと推測される恐れがあるので、ここは我慢するしかない。

イーサンは元々シェフだから三食の料理はお手の物だ。ビールも冷やさなければならない。食材やビールを入れるには大型の冷蔵庫が必要になる。

 酒に酔った場合、布施は仮眠する必要がある。そのためには、横になれる大きなソファーが必要だった。これら全てを布施が中古店で用意した。


倉庫は何の飾りもない殺風景な大きな空間だった。

エマは大きな棚を作ろうと思いついた。

「棚、いいですか?」

「倉庫ですから、棚があってもいいと思います」

布施はインターネット契約し、机と椅子とノートパソコンを持ち込んでいだ。電源が遠いため、十メーターほどのケーブルを買っていた。

ソファー、テーブル、大型冷蔵庫を買い揃え、倉庫の奥の方に設置していた。


翌日、布施が運転する黒のクラウンで三人は買い出しに出かけた。

イーサンは料理の道具を取り揃えた。

エマは電動ドライバーを買い求めた。倉庫の壁にL字の大きな棚受け金具を、慣れた手つきで二つ付けた。

その上に、横三十センチ、縦百八十センチの木の板を置いた。

その上に鉢に植えた色々の花を飾った。

すると当たりの雰囲気が、ぱっと華やいだ。


「エマは何でもやるんだね。棚まで作るとは、たいしたものだ」布施がほめたたえた。

「アメリカは物価が高いので、DIY精神が強いのよ」

「食事も作れるし、隠れ家にもってこいだ。布施はいい所を見つけたもんだ」イーサンは頷きながら言った。

「お酒も飲めるし、ここは最高だ」布施も自らを絶賛した。

倉庫には、楽に車二台が入るので、ここが仕事場であり、生活の場になった。快適な場所になった。

間もなく、スミス夫婦はホテルから移り住んできた。

                 (十八)

復讐計画の準備は整った。布施、イーサン、エマは倉庫のソファーに座り、具体的な作戦を練っていた。

大膳健吾を攻めるにあたって、手始めに、山上を捕まえる必要があった。色々な情報を得なければいけないからだ。しかし、山上がどこの興信所の人間なのかも分からないのだ。

「見つける手立てはないのか? 」イーサンが心配そうに尋ねた。

「あることはあるが確実ではない」


北千住にある布施の一軒家を見渡せる二階建てのアパートがある。その二〇一号室は一日中、黒いカーテンが掛けられていた。夜の時間帯に、かすかに明かりが漏れていた。北千住駅に行くにはその前を通らねばならない。

興信所の人間がその部屋から布施を見張っていたに違いない。でも、顔を見たこともなかった。外に出てくる様子もなかったのだ。布施はその住民が興信所の人間かどうか、確信はなかった。


「当たってみるしかないわね?」

「どうやったら分かる? 」イーサンがエマに視線を向けて言った。

「エマの言う通りだ。当たって砕けろだ」


翌早朝、アパートの201号室の出入り口を見渡せる道路わきに車を停め、三人はじっと様子を伺っていた。布施は伊達の黒縁眼鏡をかけ、マスクをし、野球帽をかぶって変装していた。

やがて、アパートのドアが開き、三十歳ぐらいのいかにも悪者らしい顔の男が姿を見せた。階段を下りてアパ―トの裏にある駐車場へ向かった。頭を丸坊主にし、眉毛を細くそり上げていた。縞模様の半そでのTシャツ。茶色のズボン姿だ。その男が布施の見張り役の仕事が終わり、新しい仕事に取り掛かっていることを願った。

男は白色のNボックスに乗り込むとすぐに発車させた。

布施が運転する車は後を追った。

男の車は綾瀬駅近くまで行くと、近くの駐車場に入れた。男は駅に向かって歩を進めていった。


「エマ、気づかれないように、尾行して。何かあったら、メールか電話を入れて」

「了解」と言って彼女は車から降りた。

十分後、エマは狐につままれたような表情を浮かべて戻ってきて言った。

「改札口近くで、身を隠すようにして誰かを待っているようよ」

布施は三十分ほど待って、イーサンに言った。

「今度はイーサンだ。気づかれないように様子を見てすぐ戻って」

「OK」

五分後、イーサンが戻ってきて言った。

「相変わらず、誰かを待っているようだ」


「そう。誰かと待ち合わせかな」と布施が考え深かそうに言って二十分ほど待った。

「じゃ、今度は俺が行く」と言って布施は改札口に向かった。改札から少し離れた所から、物陰に隠れ、顔だけを出して様子を伺っていた。


男は駅周辺の地図を見ていた。もう一時間ほど経っている。待ち合わせなら、時計を見ながらいらいらするはずだ。そんな様子は微塵も見せない。

やがて、列車が到着して乗客がどっと出てきた。

男は改札口に視線を移すと、スマホを取り出して何やら話しながら出口に向かった。出口から車を置いてある駐車場とは反対方向に歩を進めた。

布施は男を追った。

人と待ち合わせではない。仲間と連絡を取り合い、明らかに、誰かを尾行している。


「やった! 」彼の推論が的中し、胸が躍った。

これで十分だった。余り深追いして正体がバレたら元も子もない。車に戻って二人に言った。

「興信所の人間だ。間違いない」と胸を張って言った。

イーサンとエマは顔を見合わせ、にんまりと笑みを浮かべた。


三人は時間を潰して夜になるのを待った。そして、興信所の男の駐車場近くに戻った。201号室の窓には明かりが漏れていなかった。

そこで三人は車の中で、男が戻るのをじっと待っていた。

夜の十二時を過ぎたところで、布施とイーサンが車から降り、物陰に身を潜め、様子を伺っていた。駐車場には明かりがなく、辺りは暗闇に包まれていた。


やがて、ライトを照らし、Nボックスは駐車場に入って行った。

布施とイーサンは駐車場の中に入るタイミングを計っていた。布施は鉄棒を手にし、イーサンはガムテープと手錠を持っていた。

男は車から降り、車のドアの鍵をかけようとしていた。

布施はそっと近づき、辺りに人気がないのを確かめ、持っていた鉄棒で後ろから男の後頭部を手加減して殴りつけた。

男は膝から崩れるように倒れた。


 イーサンが駆けつけ、素早く男の口にガムテープを巻き、後ろ手に手錠をかけた。そのまま、二人で男を車まで運び、クラウンのトランクの中に押し込んだ。

車はアジトに向かった。

                (十九)

アジトの倉庫に、車ごと入れた。

布施とイーサンは男を車から降ろし、口と足にまいてあるガムテープを外した。

布施は男のポケットからスマホとスタンガンを取り出した。スタンガンを床に向け、パチバチと発射させ、

「これは使える! 」とにやりと笑みを浮かべて言った。

布施は男を六畳の窓のない部屋に入れ、

「お前の名前は? 」と尋ねた。

「今井だ。あんた、生きていたのか! てっきり死んだものと」驚異の目を見張った。

布施はイーサンのスマホの写真を今井に見せ、

「俺を殺したと、この男から聞いたんだろう? 」と尋ねた。

「そうだ。山上専務からだ」

布施は今井のスマホを開き、山上の電話番号を探した。

「山上史郎か?」

「そうだ」


「山上はどんな立ち位置だ?」

「我々の情報のまとめ役で、依頼人と直接取引している責任者だ」

「そうか。今朝、綾瀬駅で誰かを待って尾行していたな。どんな仕事だ?」

サラリーマンの妻が二十五歳の男と不倫していた。不倫を止めさせ、その男に徹底的に痛めつけるよう依頼された。早朝、鬼頭と一緒に、その男の会社を突き止めた。会社を出るのを待ち伏せして車に乗せた。人気のない山林まで連れ込み、殴る蹴るの暴行を加え、二度と不倫しないように脅したようだ。


「得意な案件だよ」今井が何気なく言った。

「かなりヤバイ仕事だな。それで、いくら貰えるんだ」

「一人、五十万円だ」

「銀行振り込みか?」

「給料は銀行振り込みだが、ヤバイ仕事は山上専務から直接貰う」

布施は得たりや応と言う表情を浮かべて言った。

「その金をいつ貰える?」

「それは分からない」


布施は紙とボールペンを用意し、今井が言う台詞を書きだした。スマホの音を大きくし、皆が聞こえるようにした。

今井のポケットにあったスタンガンを今井の額に向けた。

「おい。こんなに近づけるな」今井は恐慌の色を見せた。

電波を飛ばせば、今井は死ぬ。これはただのスタンガンではない。強力で、日本では売っていないもののようだ。

「日本で売っていないものを、どうやって手に入れた?」

「山上さんから貰った。探偵事務所の人間はみんな持っている」

「そうか。お前がこの紙に書いてある通りに喋れば、電波は飛ばさない。もし変なことを言ったら、躊躇なく飛ばすぞ」

「分かった」と言って今井は紙に書かれている内容に目を通した。


布施は山上に電話を入れ、スマホを床に置いた。

「俺です。今、鬼頭さんと一緒に、任務を終わらせたところです」

「そうか。ご苦労さん」弾んだ声だ。

「金はいつ貰えますか?」

「明日の夕方以降なら、いつでもいい」

「じゃ、明日の夜十一時にお願いします」

上野公園の桜の名所から不忍池へ行く階段の下で、待ち合わせすることにした。

「分かった」


今井は男に暴行を加えた際、足首を痛めた。今井はいけないと告げた。一週間ほど休暇を貰いたい。代わりに信頼が出来る女を行かせると言った。

「三十五歳位の金髪に染めたハーフです」

「ハーフ? そんなのと付き合っているのか?」

「まあ。すごい美人ですよ」

「なかなかやるな。何か目印はない?」

「山と言ってください。川と答えます」

「了解」

電話を切り、今井の両足にガムテープを巻き、部屋の鍵を閉めた。


翌日の夜の十時半。

エマは道路に止めてあった車から降り、階段の下で待っていた。

道路は今の時間になると、ほとんど人影や車を見ることはない。辺りは薄暗く、街灯がほんのり彼女を照らしていた。

布施とイーサンは車の後部座席で身を伏せていた。


まもなく、山上史郎の車が到着して車から出てきた。エマに近づき、

「山」と言った。

「川」とエマが答えた。

山上が近づき、封筒に入った金をエマに渡そうとした。

エマがスタンガンを山上に向けて電流を流した。

山上はその場に崩れ落ちそうになった。

エマが支えた。

布施とイーサンも駆け寄った。失神している山上を、イーサンと一緒になって、車の所まで引きずっていった。


山上を後部座席にうつぶせに寝かせ、後ろ手に手錠をかけた。さらに足や口にガムテープを巻いた。彼のポケットから車のキー、スマホ、スタンガンを取り出した。

布施とイーサンは山上を車のトランクの中に入れ、座席に戻った。


「うまくいったわ。このスタンガン、すごい威力ね」エマは息を呑んで言った。

「本当にすごいのか心配だったんだ」イーサンはほっと胸をなでおろした。

「これからが本番ね。楽しみだわ」

エマは嬉しそうに顔を輝かせ、息を弾ませた。


布施は山上のレクサスのキーをイーサンに渡し、

「二人は山上のレクサスをこれから使用し、足の代わりにして」と言った。

「それはいい」と言って二人はレクサスに乗り込んだ。

三人はアジトの倉庫に向かった。

                  (二十)

クラウンとレクサスを倉庫に入れた。

布施とイーサンは車のトランクから山上を引きずり出した。口を塞いでいたガムテープをはがすと、ソファーに座らせた。

やがて、山上は気を取り戻し、布施の顔を見るや、

「はっ!」と目が飛び出さんばかりに開き、大きく息を呑んだ。

「顔にやけどの跡は残ったが、命だけは助かった」

「どうやって? 」山上はまだ意識が朦朧としているようだ。布施が生きていることを全く信じられないようだ。

 「イーサン、説明してやったら」


 イーサンが近寄り、

 「久し振りだな。俺が助けた」と彼の失態をあざ笑った。

 「クソったれ! 二十万ドルも貰い、裏切りやがって。布施が死んだと言ったのは嘘だったのか? 」悔しそうに言った。

 「山上。てめい、自分の立場を分かっていないようだな。俺が受けたようにしてやろうか?」布施がスタンガンの電流を地面に飛ばしながら凄んだ。

 「すまない。勘弁してくれ」山上は完全に我に返り、泣き言を言いだした。

 このスタンガンの威力を山上は身をもって知っているのだろう。FBIの護身用として開発されたものらしい。


「だったら、俺の言う通りにするか?」

「勿論だ。何でも言う事を聞く」山上は藁をも掴むようで必死だった。

「ロスで俺を殺すことでいくら貰った?」

「俺は三千万円だ」

ガルシアが前金として七万ドル。未払金が三十万ドルあった。アメリカの探偵事務所に七万ドル支払われた。堂本探偵事務所に五千万円の未払金があることを山上はすらすら述べた。


 「お前が貰った三千万円はどこにある?」

 「競馬ですべてを使った」山上の顔に緊張の色が浮かんだ。

 「お前の顔は嘘だと言っている。嘘かどうかすぐわかる。ただじゃ済まんぞ」山上の額にスタンガンを突き付けて言った。

 「嘘じゃない」唇が震えていた。


 銀行のカードは妻の八重子が保管しているようだ。妻に電話を入れ、三千万円はどうなったか聞くように山上に強要した。

「すまない。銀行に預金してある」完全に観念し、諦めた表情を浮かべた。

布施は紙とボールペンを用意し、山上がしゃべる台詞を書いた。妻の携帯番号を聞き出して電話を入れ、スマホの音を大きくした。

「俺だ。緊急の出張になった」

これから名古屋に一週間ほど滞在する。明日の昼の一時ごろ、山三証券の岡田が銀行のキャッシュカードを取りに行く。カードを渡すよう要望した。

「カードを渡すの? 相手の銀行口座に振り込んだ方がいいんじゃない」不審な口調だ。

「証券会社が利用する銀行の口座番号など分からないだろう。三千万円ぴったりだからおんなじだ」


「三千万円をどうしようと言うの? 」心配げに尋ねた。

「株式投資だよ。岡田さんに一任預かりだ」

「分かったわ。あなたが一週間も留守にするなら、友達と旅行に行っていい?」

布施が大きくうなずいた。

「いいよ。何処に行くんだ?」

「京都、奈良よ」

「分かった」と聞いて、布施は電話を切った。


布施は銀行の暗証番号を山上から聞き出した。

山上は顔を歪ませ、悔しがった。

布施、イーサン、エマがほくそ笑んでそれぞれハイタッチした。

「大膳はよくそんな多額もの金を横領できるな。どうしてだ?」

「息子とその嫁のお陰だ」


大膳健吾はC&C会計事務所の副理事である。六十四歳で、事務所でかなりの権力を持っている。息子は大膳にとってかけがいのない誇りだった。

息子の健太郎が三十歳の若さでAI会社のグロリーを立ち上げ、グロース市場に上場している。しかも、顧客である大手のクラウド会社の佐々木社長と知り合いになり、その令嬢の真央と結婚した。佐々木社長には仕事仲間がたくさんいた。それをきっかけに、会計監査の仕事を、大膳に紹介していた。

大膳は息子のお陰で、多くのクライアントを掌握していた。これは大きな強みだった。

「親子関係の絆を断ち切る必要があるな」布施がつぶやいた。


翌日の午後一時、布施はイーサンが運転するレクサスから降り、江東区にある七階建てのマンションまで行った。山上の戸口のインターホンを押した。布施は黒縁の眼鏡をかけマスクをしていた。

「はい」

「山三証券の岡田です。山上史郎さんの銀行のキャッシュカードを受け取りに来ました」

ドアが開き、浮かない顔した五十歳ぐらいの女性が現れ、

「三千万円を何に投資するのですか? 」と言ってカードを渡してくれた。

「アメリカの代表的な会社が集まっているS&P500に投資します。必ず利益が出ます」

「本当に? 」正気のない魂が抜けたような表情を浮かべた。

「私に任せてください。資金を二倍にしてみせます」

さも乗る気がないと言う思いが、ありありと彼女の顔と態度に現れていた。


布施はレクサスに戻ると、カードをイーサンとエマに自慢げに見せつけた。

二人の目は嬉しくてたまらないようにキラキラ光っていた。

「第一歩ね。お金を移してどこかで乾杯しましょう」

「この近くに温泉がある。その後で乾杯しよう。美味いよ、ビールが」

「温泉の後のビールか。最高だ」イーサンは思わず生唾を飲み込んだ。

三人は近くのATMで、少しずつ現金を引き出し、布施の銀行口座に振り込んだ。山上史郎の名前が残らないようにした。


最近、有明にオープンした「天空の湯」という温泉施設に向かった。温泉に入った後、施設内にあるレスとランの前で、エマと待ち合わせることにした。布施とイーサンは岩盤浴することにした。岩盤浴着を羽織り、岩盤浴用のタオルを貰って中に入った。二人はリクライニングチェアに寝ころび、思いっきり汗を流した。その後、露天風呂に入った。露天風呂には壁があるので景色を楽しむことは出来ない。天井が開いており、陽がこぼれ、開放的で心の底から癒された。

「大都市の真ん中に、こんな素敵な温泉があるなんて、最高だよ」イーサンは心に喜悦を禁じ得ないようだ。

「日本は地震の被害を受けるが、反面、こんな喜びがあるんだ」布施は湧き上がる喜びに身を任せた。


三人は温泉を楽しみ、レストランで席についていた。イタリア料理を注文し、ビールで乾杯した。

「美味しい! 」三人は口を揃えて叫んだ。

「ねえ、ガルシアをどうやって日本に呼び寄せるの? 」すかさず、エマが切り出した。一番知りたいに違いない。

「今夜、山上にやらせる」

布施は作戦を二人に伝えた。

                 (二十一)

布施、イーサン、エマはアジトの倉庫に戻った。

布施は机の椅子に座り、パソコンを開いた。電子版日経新聞やネット証券会社のニュースに目を通した。最近のテーマは何と言っても生成AI関連銘柄だ。アメリカで半導体のGPUチップを独占的に販売している会社の値動きがすごい。それに関して日本のルーザーテック株の値動きもすごかった。微細化に欠かせない半導体検査装置で、世界で独占的に販売している。この株式にすることにした。紙とボールペンを用意し、山上がしゃべる台詞を書き上げた。


「日本とロスの時差は何時間? 」時計を見ながらイーサンに尋ねた。

「夏時間だから十六時間。今、夜中の十二時半だから、ロスは朝の八時半だよ」

「ちょうどいいね。山上を連れてこよう」

二人は山上を六畳間から連れ出し、ソファーに座らせた。布施は山上にメモを渡し、読んで暗記するように伝えた。

タイミングを計り、布施は山上のスマホにあるガルシアの電話番号を押し、音を大きくしてテーブルの上に置いた。

「余計なことを言ったら、電波を容赦なく流すぞ」山上の額にスタンガンを向けて脅した。


山上は覚悟を決めて話し出した。

「ガルシアさん、先日はお世話になりました。山上です」

「おう。久しぶり。俺の三十万ドルはいつ貰えるんだ?」

「すいません、遅くなりまして。一週間後くらいにはお渡しできると思います。お詫びに凄い情報をお渡しします」

「なんだ?」

「ガルシアさんは証券口座を持っています?」

「株取引をやっているので、あるよ」

「日本株を取り扱っています?」

「日本の代表的な株なら大丈夫だ」

「日本を代表するルーザーテック株が三日後に大暴落します」

「おい、なぜそんなことを断言できる?」不審そうに言った。

「あの殺人を依頼したのは大手監査法人の副理事です。その人がその会社の監査をしています。こんな確実な情報はないでしょう」

「本当か! ビッグチャンスだな。具体的に教えてくれ」


三日後に、発行株式の十%相当の公募売り出しを行う。新しい工場を建てるためだ。さらにその一週間後に、第二四半期の決算を報告する。営業利益がコンセンサスより、二十%下だ。大きな取引が第三四半期にずれ込むためだ。

「これで暴落しないはずがないでしょう」

「よし! こんなチャンスはない。信用売りで大勝負するぞ。ありがとう」

「私も勝負します! グットラック」と言ったところで、布施はスマホのスイッチを切った。


首をうなだれている山上をよそに、布施、イーサン、エマはこみ上げる喜びを爆発させた。

「エマ、明日、大舞台が待っているよ」

「任せて。最高の演技をするわ」

                (二十二)

翌朝、布施は山上を六畳間から連れ出した。ソファーに座らせると、大膳に対する台詞を書いたメモを差し出した。やがて、大膳に電話を入れた。

「山上です。昨夜、ガルシアさんから電話がありました」

「例の三十万ドルか? 」

「そうです。いつ貰えるかと」

「今日の午後までには用意しておく。事務所に来てくれ」


山上は用事があってどうしても行けない。ガルシア夫人が日本に来ていると伝えた。

「奥さんに渡すよう、ガルシアさんから言われました」

「どうして奥さんなんだ。ガルシアさんは? 」不審そうに尋ねた。

ガルシアはもうすぐ日本にやってくるらしい。二人で日本を観光したいそうだ。日本円で貰いたいと言っていた。


「日本円で? なぜ?」

「今、一ドル百五十円で、凄い円安でしょう」

観光費用も安く上がり、外国のブランド物も安く買えるのだ。

「なるほど。奥さんの名前は?」

「キャサリン・ガルシアです」

「四千五百万円か。午後一時に、事務所に来るよう、伝えてくれ」

「分かりました」

布施はスマホの電源を切った。


午後一時、エマはC&C会計事務所の受付にいた。

「私、キャサリン・ガルシアです。大膳さんにお会いしたいのですが」と受付の女性に言った。受付の女性が大膳にガルシア夫人が来ていると伝えた。

「どうぞ」と言って大膳の個室に案内された。

エマが個室に入ると、大膳は立ち上がって出迎えた。彼の表情には疑念の色があった。

エマがソファーに座るや、

「なぜ一人で日本に来たの? 」と大膳はぶしつけに切り出した。

エマは思わず大きく息を呑んだ。このような質問は予想できていなかった。


「主人は明日来ます。その前に準備しようと思って」こう言って時間稼ぎした。

「何の準備?」

鋭い視線でエマの顔を覗き込んでいる。彼は英会話力も立派だった。さすが外資系の監査事務所の人間だと思った。

エマの頭の中のコンピューターがグルグルと激しく回っていた。

「日本の観光旅行です。主人はロレックスの高級時計、私はエルメスのバッグを持って旅行したいわ」

「観光に来たのですか?」

「主な目的は違いますが、臨時収入があったのと円安で、この際、旅行でもと考えました」


「そうですか。パスポートを見せていただけませんか?」ズバリと言った。

「ホテルに置いてきました」

この質問には驚いた。体が震えて、言葉に詰まった

「あなたが本当にガルシアさんの奥さんである証拠がないと困ります」

「証拠ならあります。主人の左腕の手首から肩にかけてタトゥーを入れています。山上さんに聞いてください」

「分かりました。電話で聞いてみます」と言って山上に電話を入れた。

「今、電話に出られません。ピーと言う音が鳴りましたら、お名前と要件をお願いいたします」

大膳は顔をしかめて電話を切った。


エマは開き直った。

「私たちは大膳さんのために、気を利かせたつもりです」

「気分を害されましたら申し訳ありません。気を利かしたと申しますと?」

ガルシアの服装は派手でラフだ。そのうえタトゥーを見せつけようとする。背広とネクタイ姿ばかりの雰囲気になじまないと思う。

「それで、私がお金を取りに来ました」

「それはどうも」大膳は不安な表情を浮かべ、思考を巡らせていた。


彼女はホテルに戻ってパスポートを持ってこようと思ったが、止めることにした。明日、ガルシアに来てもらう。大膳に冷たくされたと伝える。

「暴れるかもしれません」と言ってエマは立ち上がり、踵を返してドアノブに手を掛けた。

「ちょっと待ってください」大膳は動揺しながら大声を上げた。

エマはゆっくり振り返り、

「なにか? 」肩をすぼめた。

「失礼しました。奥様の言う通りです」と言って大膳は机の下から大きなバッグを取り出し、エマに渡した。


エマは冷静にバッグを開き、

「受取書にサインしましょうか? 」と言ってバッグを閉じた。

「結構です。ご主人によろしく」と複雑な表情を浮かべて言った。

エマは悠ゆうとした足取りで、ビルの近くの道路わきに停めたクラウンの後部座席に入った。

布施は運転する車を発進させた。


「やった! 私の演技を見せたかったわ」エマは思わず喜びを爆発させた。

 「簡単には行かなかったの? 」助手席にいたイーサンが後ろを向いて言った。

 「冗談じゃない。初めからガルシアの妻ではないと疑ってきたわ」

「本当? なんと言われた? 」

「パスポートを見せろとか、妻であることの証拠を見せろとか。大変だったわ」

「証拠を見せろと言うのは当然だよ」

監査人は証拠に基づいて意見を述べる癖がある。布施は前を見ながら冷静に分析した。


「四千五百万は受け取ったんだろう。どうやって乗り切ったの? 」イーサンは呆れた表情を浮かべて言った。

「勿論、お金は受け取ったわ」

それほど冷たくあしらうのなら、派手な服装でタトゥーを見せながらガルシアが怒鳴り込んでくると言ったら、考えを翻したことを伝えた。

「さすが」イーサンは納得した表情を浮かべて頷いた。

三人は満足げに決意を新たにし、倉庫に向かった。


布施は倉庫にある机の椅子に座り、パソコンを開いてネットで検索していた。

イーサンが背後からパソコンを覗き込み、

「何を検索しているの? 」と尋ねた。

「特別の人を探しているんだ」

「特別の人? どんな人」

布施は大膳に復讐するためには欠かせない特別の人を説明した。

「そんな人を探してどうするの? 」エマが割り込んできた。

「それはこれから分かるよ」布施はとぼけた表情で言った。

「どんなメリットがあるの?」

「見つけるのに時間がかかるけど、ドデカイ仕事に必要なんだ」

「七千五百万円も獲得したのよ。まだ儲けるつもり? 」エマは半ば呆れた表情を浮かべた。

「その金は資本金だよ。それで何百倍にする」

彼女は感情を抑えきれず、

「すごい計画ね。エキサイテングだわ」と驚いたように目を見張った。

「その手始めに、明日から、ルーザーテックの株投資を行う」

「ガルシアがその株式を信用売りするやつね」

「七千五百万円を反対売買する。信用買いだ」


イーサンは日本で大金が必要になると見込んで、米国のユニオンバンクに口座を開き、ユニオンバンク日本支店で、十七万ドルを引き出せるように手配していた。

イーサンも二千五百万円を出すと申し出た。区切りのいい一億円になるからだ。 これだと信用取引に三億円を使えることになる。

「いいだろうエマ?」

「勿論よ。ガルシアを日本に呼び込む秘策ですも」エマはしたり顔で言った。


布施はツイッターで必死に、特別の人探しに集中していた。

その時、フェイスブックからクソ忙しい中に一通のメッセージを受け取った。渋野絵里と言う女性の友達申請が送られているという情報だった。気が乗らなかったが、フェイスブックに移動し、彼女の名前をクリックした。写真には猫の写真が載せられていた。ブスだから顔は出せないのだろう。まあいいやと思い、友達になった。

すると、メッセンジャーでメールが届いた。


布施のフェイスブックのホームページには、外資系の監査事務所に勤務。大輪の花が咲こうとしていた時、一夜にして地獄に突き落とされたと書かれてある。

「友達になっていただき、ありがとうございます。なぜ、一夜にして地獄に落とされたんですか。すごく興味があるわ」

「簡単には説明できません」

「そうですか。残念。何処の監査事務所に勤めておられたのですか? 」

「C&C会計事務所です」

この言葉を打ち込むや、彼女がすごい興奮状態になったことが伝わってきた。


「えっ? そうなんですか! 大事なお話があります」

彼女のスマホのメールアドレスにメールを送ってもらうように頼まれた。さらに、このフェイスブック上のやり取りを削除して貰うように依頼された。

布施は不審に思ったが、メッセンジャーに書かれていた彼女のメールアドレスにメールを送り、フェイスブック上のやり取りを削除した。


「大事なことって何ですか?」と彼女のメールアドレスに打ち込んだ。

「私の友人の父親が同じ会計事務所に勤めていましたが、自殺しました」

「自殺? どうして?」

「布施さんは一年ほどその事務所に勤め、辞めましたよね」

「ええ」

布施は事務所を辞めてから三年後、身の回りに起こったとんでもない出来事を、C&C会計事務所の幹部に手紙を送り届けたのである。


「友達の父がそれを読んだのです。これ以上、メールでは書くことは出来ません。お会い出来ませんか?」

布施は納得した。絵里の言っていることに間違いがなかったからだ。

               (二十三)

午後一時。待合の定番である渋谷のハチ公前にした。絶対に間違いが起こらないためだ。

フェイスブックでは、布施は自分の顔写真を載せていた。

絵里は子猫の写真を載せていたので、彼女に見つけてもらうしかない。

絵里がさっそうと現れた。まばゆいばかりの美しさだった。二十代になったばかりとおぼしき彼女は、スタイルも抜群だった。ショートカットの髪形で、口紅もつけていないし、指輪のような装飾具もつけていない。

切れ長のきれいな目をしている。端正な顔立ちに、強い意志を感じる。

彼女を一目見た瞬間、布施は思わず大きく息を呑んだ。


二人は挨拶を交わし、渋谷駅の近くのカラオケボックスに入った。

防音だし、食事も飲み物もとれると簡単に考えていた。

「も、もっと気の利いたところにご案内出来ないでごめんなさい」彼がどもるなどめったにないことだった。

「堅苦しいとこより、気楽なとこが好きです」

どうやら気さくな女性と見受けられた。

「何にします? あまり美味しそうなものはないようですが」メニューを彼女に渡して言った。

「カレーライスは一番好きな食べ物です」なぜか、布施をリラックスさせようとしている雰囲気が伝わってくる。


彼女は単なる美女ではなく、頭が良くて、ユーモアのセンスがある女性だった。

カレーとコーヒを頼んだ。


「どうして、フェイスブックの私のホームページを見たの?」

「私は子猫を飼っているの」

フェイスブックの猫好きクラブに、子猫の動画を投稿するのが彼女の楽しみのようだ。

「フェイスブックの猫好きクラブに入っていたの?」

「布施さんと同じクラブに入っていたのよ」


布施はそのクラブに、「野良猫と少女の奇跡」を投稿していたのだ。気になって布施のホームページを覗いてみたくなったに違いない。

「なるほど。そういうことか」

「そうしたら驚いたわ」

彼女の友人の父親と同じ外資系会計事務所に勤めていた事と、一夜にして地獄に落とされた、の文章が目に飛び込んできたのだろう。

「子猫が俺たちの運命的な出会いを後押してくれたわけだ」

「そう言うことになるわね。ヒーちゃん様様だわ」



「友達の名前は?」

「佐久間優香。唯一無二の親友です」

父親はアメリカ本部のC&C会計事務所の幹部だった。布施が退所後に、日本に来たのだ。日本のトップになった。

優香は絵里の隣のマンションに引っ越してきた。母親と一緒に引っ越しの挨拶があった。それ以来、何でも話せる親友になった。苦悩の全てを打ち明けてくれた。

「彼女は、今、どうしているの?」

「母親と一緒に逃げるように姿を消したわ」


「何があったの?」

絵里は待っていましたとばかりに説明を始めた。

「彼女と母親が大膳と興信所の人間に脅迫され、辱めを受けたの」

布施は耳目を驚かす表情を浮かべ、

「私の手紙で? 重大な事をしたことになるね」と言った。

「どうかな」彼女は言葉を濁した。


「友達のお父さんはどうして自殺したの?」

「布施さんの手紙を読み、大膳の経理を精査したの。五億円の使途不明金が見つかったのよ」

「五億円ぐらいの使途不明金があるのは当然だね」


「大膳を追求したわ」

父親が追い詰めると、興信所の人間から電話があった。食べ物にエイズ菌を入れた。激しい下痢しただろうと告げられた。大善にかかわらないほうがいいぞと、脅迫されたようだ。

激しい下痢した父親は、エイズにかかったと信じ込んだ。

「発狂し、首つり自殺したのよ」絵里に悲嘆の表情が浮かんだ。

「エイズ攻撃か。本当に汚いな」


父親は坊ちゃん育ちだったに違いない。今まで、そのような逆境にさらされることは無かったのだろう。

「育ちがよすぎたのではない? 」

「そうかも知れない。布施さんはエイズ攻撃されなかった?」

あの手紙を送って以来、大膳の逆鱗に触れ、猛烈なエイズ攻撃にさらされた。布施もエイズにかけられていたと確信していた。

「エイズになっても、十五年ほどは生きられると思っていたよ」

「布施さんは神経が図太いのね」

「五年間も、最悪の逆境にいたからね。慣れだよ」

「布施さんはエイズなの? 」言いづらいことをはっきり言った。

最初、絶対に布施はエイズだと思っていた。エイズ菌の入った食べ物を食べても、エイズにはならないのだ。

「この世に絶対はないよ」

胃酸は強力で、エイズ菌を全滅させることを後で知った。

「えっ! 本当? じゃ、彼女の父親は自殺する意味はなかったわけ?」絵里は悔しさをにじませた。


「そうだけど。父親を殺したのは、大膳と興信所の人間に間違いがないよ。憎たらしい奴らだ」

「そうよね。何としても、彼女は復讐したいと思っているはずよ」

「実は、今、二人の外国人と一緒に、復讐を実行しているんだ」

「本当? 私も加えて」絵里が身を乗りだして言った。

「えっ! まだ若いし、か弱い女性には危険すぎる。絶対にダメだよ」

「絶対はないと言わなかった?」


絵里は、か弱い女じゃない。空手、マラソン、水泳などで体を鍛えている。きっと役に立つと言い張る。

絵里は隠しようもない得意顔を浮かべた。

「まいった。絵里さんには勝てないな。なぜ、そんなことまでして体を鍛える必要があったの?」

「優香のお母さんの口癖なの」

いつか役立つと優香に言っていた。絵里も一緒に付き合ったってわけだ。


「役立てればいいね。でもなぜ、復讐劇に加わりたいの?」

「親友に変わって大膳に復讐したいの。彼女は余りにも可哀そうなの」

大膳によって、親友の人生は根底から叩きのめされた。長い間、辛酸を舐めさせられてきた。地獄に落とされたのだ。憎くたらしくて堪らないのは布施と同様のようだ。

                (二十四)

絵里は親友の悲惨な過去を話し出した。

親友の父が自殺して一か月後、C&C会計事務所のものだと名乗る二人組の男が現れた。

母親の百合が長い髪をかき上げた。大きな瞳を広げてドアを少し開け、隙間から様子を伺った。

人相の悪い怪しげな二人だった。


ドアを閉めようとする瞬間、二人は強引に入り込んできた。

人を人とも思わないような嫌らしい表情を浮かべ、背の高い男が五億円の請求書を差し出した。

「なんですかこれ?」母親は燃え上がるような怒りを覚えた。

彼女は清楚な感じの小柄な女性だった。四十一歳だったが、まだまだ女性としての魅力はたっぷりと備えていた。


帳簿を精査したところ、五億円の使途不明金が現れた。母親の夫が使い込んだと判明したと主張した。

「それで旦那は自殺した」

「嘘です! 使い込んだのは大膳さんです。主人がそれを追求したら、エイズにかけられたので自殺したのです」

彼女は制止できないほどの怒りに駆られていた。

「あまり変なことを言わないほうがいいですよ。あんたもあんたの娘さんもエイズになります」

母親はエイズと聞いて、全身の血が冷えわたり、動機が高まった。

「C&C会計事務所の結論です。ここに詳しく書かれてあります」


二人は靴を脱ぎ、上がってきた。

長身で細身の男が、泣き出した優香を抱えて口を抑え、ポケットから小さな薬瓶を取り出した。

「この瓶にたっぷりのエイズ菌が入っている。請求書に承諾のハンコを押せ。押さないと、この子にエイズ菌を飲ませる」

長身の男は薄笑いを浮かべた。


母親の背中に想像を絶する戦慄が走った。

震える手で印鑑を取り出し、請求書に判を押した。

下品で傲慢な面構えの、もう一人の太った男が、

「よし。預金通帳とこのマンションの権利書、実印カードを出すんだ」とドスを利かせた声で言った。

彼女は挙措を失っていた。悪党どもの言われるままにした。暗証番号も知らせた。抵抗は出来なかった。


預金が二千万円ちょっとあった。マンションが八千万円ぐらいの価値があった。足しても、まだまだ足らなかった。

このマンションに、今まで通りに住んでいてもいい。その代り、二人ともソープランド嬢として働いてもらうと告げられた。

「二人とも裸になれ。味見してやる」

「この子だけは許して」母親は必死に訴えた。

「だめだ」

母親の脳裏に絶望と言う文字がよぎった。そして覚悟を決めた。

優香はリビングルームで、恐怖で震え、泣き続けながら長身の男に犯された。

もう一人が寝室で母親に性的暴行を加えた。

優香と母親は生まれて初めての屈辱で、涙がしきりにあふれ出てきた。

二人の男が立ち去った。


母親と優香はすべてを捨て僅かばかりの金を持ち、夜逃げした。

柏駅から徒歩十五分の所にある安アパートを見つけ、何とか偽名で契約することが出来た。


優香を家に残し、母親は駅前の食堂でアルバイトを始めた。生活するのがやっとだった。苦しい生活が続いた。

母親は現実から逃れるため、毎晩、酒を飲むようになり、量も増えていった。酒が唯一の避難策だった。


優香は高校を中退した。偽名を使っていたからだ。家に閉じこもるようになった。絵里に電話を入れ、苦しみを打ち明けるのが唯一の楽しみだった。

母親は自分のためには酒以外、一切金を使わず、優香のためだけに使った。

母親は体の具合が悪くなったが、病院には行けなかった。


優香が二十歳になった時、母親はアパートで倒れた。その後、入退院を繰り返すようになった。アルコール性の肝硬変だった。そのうち、綾香は苦しみを打ち明けるのも苦痛になったようだ。電話も途絶えた。

              (二十五)

「親友の話はこれで終わりよ」

「親友もひどい目にあったね」

「大膳のために親友を失ったのよ。復讐に値しない? 」

「まあ、いいだろう」

二人のアメリカ人がいるアジトに行くことにした。二人はクラウンに乗り込んで、一時間ほどで倉庫に着いた。倉庫のドアを開けてもらい、車ごと倉庫に入った。

イーサン、エマに絵里を紹介した。大膳に殺された父親の娘と親友だったことを伝えた。

「友人のために復讐したいそうだ。仲間に入れてもいいかな」

「勿論だ」イーサンが言った。

エマも笑顔で頷いた。


スマホのグーグル翻訳アプリで日本語をしゃべると英語に翻訳される。英語で話しかけると日本語に翻訳される。絵里はこのアプリを使ってイーサンとエマと会話した。

三人はすぐに気心の知れた友人同士になった。


絵里は倉庫内を眺め回し、棚に鉢植えの花が飾られているのに興味を示した。

「花がすごくきれい。この棚は誰が作ったのですか? 」たどたどしい英語で言った。

エマは机の引き出しから電動ドライバーを取り出し、

「これで私が作ったの」とゼスチャー付きで分かりやすくゆっくり言った。

「いいわ。わたしもDIYが好きです」

「そう。このドライバーを使っていいわよ」


「さて、株式市場はどうなっているかな」と布施が言いながら机の椅子に座り、パソコンを開いた。ルーザーテック株は二%ほど下落していた。いつもより信用売りが膨らんでいた。ガルシアたちが相当、売り込んでいるようだ。ツイッターものぞいた。特別の人が二人いた。二人とも女性だったので無視することにした。


「絵里さん、車の運転は出来るの?」布施が彼女に視線を向けて尋ねた。

「ペーパードライバーだけど、免許証は取りました」

「車は持っていないよね。ここは不便なところだから車が必要だな」

布施は少し思考を巡らせて、

「イーサン、これから車を使う?」と尋ねた。

「今日は温泉にはいかないし、食材も買いに行かないから、使わないよ」

その返事を受け、布施はレクサスを指差し、

「家に帰るのに、この車を使ってもいいよ」と絵理に言った。


「こんな高級車? 事故を起こしたらどうしよう」

「人身事故はまずいけど、車を壁なんかにこするぐらいは大丈夫だよ」

「本当? どうして?」

「悪徳興信所の人間の車だから心配いらないよ」

「その人はどこにいるの? 」笑みを浮かべて言った。

「その六畳間に、手錠をかけて閉じ込めている。二人いる」

絵里は事態が相当進展しているのを知り、驚いている様子だ。


絵里は車に近寄り、

「用事がなければ、私は帰りますが---」と全員に聞こえるように言った。

「待って。夕食を食べていって。ダーリンの料理はおいしいわ。これから新人歓迎パーティーよ」エマが得意げに言った。

イーサンが次々と料理を運んで、テーブルに並べていった。メインディッシュは牛肉のロール煮込み。コーンスープ。野菜サラダ。

四人は席に着き、シャンペンで乾杯した。


絵里は料理に口をつけて布施に言った。

「柔らかくてすごく美味しい! なにを牛肉で巻いているのですか? 」とイーサンに聞いてくれないかと依頼した。

「これは私の十八番。玉ねぎ、マッシュルーム、パセリのみじん切りだよ」そして付け加えた。

「日本の牛肉は柔らく、すごく美味しい。うちの店ではこれを使おうか? 」エマに向かって言った。

「そうね」と言い、笑みを浮かべて頷いた。


パーティーは盛り上がった。布施は絵里に今までの経緯、作戦の途中経過、これからの計画を詳しく伝えた。

彼女にとっては衝撃的だったに違いない。高く空の上へ引き上げられるような興奮の色を浮かべて聞き入っていた。

              (二十五)

翌日、全員が倉庫に揃っていた。

絵里が自分のパソコンを持ち込んでいた。

布施と絵里はそれぞれツイッターを開き、特別の人を探した。条件にあった人は見つからなかった。

布施はパソコンで証券会社を立ち上げ、ルーザーテック株がどうなっているか調べた。今日も三%値下がりしていた。


「イーサン、そろそろルーザーテック株に信用買いを入れるよ」


信用買いの余力は三億円あった。少しずつ信用買いを入れた。

翌日、限度いっぱいの信用買いを入れた。同時にルーザーテックの株価はマイナスからプラスに浮上してきた。マイナスからプラスになったルーザーテックの値動きに、他の人たちはつられて買いを入れたのだ。終値が五パーセント高まで跳ね上がった。三日目に、ルーザーテックの株が暴落するとガルシアに言った。今夜の十時半からニューヨーク株式市場が始まる。


「今夜、必ず、ガルシアから電話があるよ」

「ざまを見ろってんだ。楽しみだな」イーサンが薄笑いを浮かべて言った。

案の定、夜の十二時ごろ、ガルシアから怒りの電話が山上のスマホに入った。

「どうなっているんだ。暴落どころか、どんどん値上がりしていくぞ」

「本当ですね。どうなっているんでしょう。公募増資の件は一週間後の決算発表の時じゃありませんか」山上は布施があらかじめ書き残した通りに言った。

「決算発表まで待つか」と言って電話を切った。

ガルシアがかなり落胆している様子が伝わってくる。


「ガルシアが苦しむのはこれからだよ」布施がエマに目配せして言った。

「わくわくするわ」エマが目をキラキラと輝かせた。

その後の一週間で、ルーザーテックの株価は七%上昇した。決算発表が行われた。勿論、発行株式の十%の公募増資などなく、逆に、収益と通期利益を二十%上方修正した。これを受け、ルーザーテックの株価は十%値上がりした。そこで、布施はルーザーテックの株を全て売り戻した。利益は六千万円近くになった。


「やった! こんなにうまくいくとは思わなかった」布施は勝ち誇ったように言った。

イーサンとエマはお互い顔を見合わせ、溢れる喜びを押し隠すことが出来ないでいた。

その時、山上の電話にガルシアから電話が入った。

「クソったれ! 出鱈目を言いやがって。ただじゃ済まんぞ」ガルシアは怒り心頭に発していた。

「本当ですね。私も大損しました。日本に来て大膳さんに抗議したらどうですか? 」なだめるように言った。

「当たり前だ。三千万ドルの未払金もあるしな」

大膳が勤める会社の住所を伝えた。

「いつ、日本に来られますか?」

「二日以内に行く」と怒りを振り上げて電話を切った。


「さあ、これからが見どころだ」イーサンが興奮気味に言った。

「今までのもやもやがスーと消えたわ」エマが同調した。

この結果、布施、イーサン、エマが獲得した合計は一億三千五百万円になった。

絵里は喜び騒いでいる三人を横目で見ていた。自分とは関係のないことのようだった。

その様子に気づいた布施が、

「絵里さんが加入したので、いったん獲得金を分配しよう」と提案した。

イーサンとエマは頷いた。


イーサンが出資した二千五百万円を差し引くと一億一千万円になる。絵里にはとりあえず二百万円を渡すことにした。

「私は何も貢献していないから、いただくわけにはいきません」と言い張った。

絵里はWEBでデザインの仕事をしていたが、今は休止していた。


「仕事にあまり熱が入っていないじゃない。当面の生活費だよ」

「そうよ。貰っておきなさい」エマが援軍を送った。

絵里は他の三人に頭を深々と下げ、

「ありがとうございます」と感謝の念を示した。

「残りを三等分にしよう」と布施が申し出た。

「この計画がうまくいっているのは布施のアイデアだ。我々二人の合計は布施と同額でいい。どうだ、エマ?」

「同感」きっぱりと言った。

「何か、悪いな」と言って布施は受け入れた。


翌日、四人は新宿にある布施の取引銀行に足を運び、口座から現金二百万円を引き出し、絵里に渡した。イーサンの口座に七千三百万円を振り込んだ。残りの三千百万円は証券会社から株式売却金として振り込まれた時点で、イーサンに支払うことにした。

                  (二十六)

ガルシアはむかっ腹を立て、C&C会計事務所の受付にいた。真っ赤なシャツの袖をたくし上げ、これ見よがしにタトゥーをちらつかせていた。

受付の女性は面喰いながら対応に追われていた。

やがて、大膳の個室に案内された。途中の大部屋にいる人々は目を凝らし、物々しい表情を浮かべていた。


ガルシアは部屋に入るなり、

「俺を舐めているのか? 」とぶしつけに切り出した。

「何を言っているのか分からないが、どうぞ」ソファーに座るよう促した。

「分からないだと。ふざけるな。偽の情報を流しやがって」

大膳は何のことか分からず目を丸くして聞き返した。

「偽の情報?」

「山上にルーザーテックの株式が暴落すると言わなかったのか? お前が監査しているのだろう?」強い口調で言った。


大膳はこの質問には驚いた様子だ。顔をしかめた。

山上にそんなことは言っていない。ルーザーテックの監査などしていないと伝えた。

「本当かよ」

「全く、お門違いだ」大膳はさぞかし頭にきているのだろう。顔を歪ませて言った。

ガルシアは出鼻を挫かれる思いで大膳を見つめた。

「何だと。じゃ、山上が俺をだましたのか? 俺をだます理由がないだろう」

「私には分かりかねます」大膳は呆れを通り越してなんだかキレ気味になった。


「クッソ! どうなっているんだ。とりあえず、未払金の三十万ドルを貰おうか」

「十日前、奥さんに渡したじゃないか」大膳はピシャリと言った。

「何だと。俺は独身だぞ。パスポートを見なかったのか?」ガルシアは怒りを爆発させた。

大門の背筋に寒気が走った。パスポートも見ず、大金を渡したことに悔やんでいるようだ。

「奥さんが金を取りに行くと山上が言ったので、信用した」大膳は臍をかんだ。

「また山上か。クソたれ!」

誰か分からない女にパスポートも見ないで金を渡したのは大膳の責任だ。とりあえず五千万円払え。株の損失の五千万円は山上の会社から貰うことにするとガルシアは強い口調で言った。


大膳は眉をひそめて考えを巡らせていた。やがて冷笑を浮かべ、結論を下した。

「今日の午後八時までに金を用意する。何処のホテルに泊まっている? 」

「高輪のクイーンホテルだ」

「そのホテルの池にある鯉の餌やり場所に、金を持って行く」

「午後八時だな」

堂本探偵事務所の住所を紙に書いてもらった。ガルシアはC&C会計事務所を出ると、タクシーを拾い、その紙を運転手に渡した。


三十分ほどで、探偵事務所に着いた。事務所に入って行ったが、誰も英語を話せる人間はいなかった。ガルシアは改めて出直すと伝えてホテルに戻った。

                  (二十七)

大膳はガルシアの無礼極まる態度に、堪忍袋の緒が切れていた。探偵事務所の堂本社長に電話を入れた。

「山上はどうしている? 」

一週間の休暇届を出したきり、行方不明になっている。家にも戻っていないそうだ。

「何かありましたか? 」社長が不審そうに尋ねた。

「厄介なことになった」

大膳は今日の出来事を伝えた。


「ガルシアと言う男はうちの会社にも来ました。誰も英語を喋れないので諦めて帰りました」

「布施殺害のお宅への謝礼の五千万円はガルシアに渡す」強い口調で言った。

「えっ! どうしてですか?」

「お宅の山上がガルシアの分け前を奪ったからだ」完全な上から目線だ。

「山上が? 信じられませんな」本音を漏らした。

そればかりではない。山上が偽の情報をガルシアに伝えた。それで、五千万円ほど彼は株で損した。その金を要求するために堂本探偵事務所に行ったのだと説明した。

「払えるか?」

「とても無理です」


今日の午後八時に、高輪クイーンホテルの庭にある鯉の餌やり場で、探偵事務所への五千万円を届ける。ガルシアに渡しても構わない。さらに、ガルシアに五千万円を支払っても一向にかまわない。

「これ以上、私は何も言わない。おたくの自由だ」

「分かりました。ありがとうございます」


午後八時、ホテルの緑に囲まれた日本庭園の池の近くで、大膳はバッグを傍に置いて待っていた。昼間には鯉の餌やりが楽しめるが、今は人影が見当たらない。

やがて、ガルシアが姿を見せた。

大膳はバッグを渡し、

「五千万円があるかどうか確かめてください」と言って足早に姿を消した。


ガルシアはバッグを開け、中を覗いていた。

背後の物陰から大きな男が忍び寄り、スタンガンを発射した。

ガルシアは膝から崩れ落ちた。

男はガルシアを引きづって池の中にうつぶせに入れた。バッグを取り、何食わぬ顔して、その場から姿を消した。

                 (二十八)

翌日のニュースで、センセイショナルな報道がなされた。

「アメリカの実業家のジョン・ガルシア氏が何者かに、高輪クイーンホテルで殺害された。ホテルの係人が庭の池に浮かんでいるのを発見」

これを見た布施は一驚を喫してエマに電話を入れた。

「ガルシアが昨夜、都内の一流ホテルで殺された。大きく報道されている」

「えっ! 誰に? 」彼女の胸が鋭いもので貫かれるような衝撃が伝わってくる。

「分からないけど、大膳以外考えられないよ」


エマは大膳に顔を覚えられている。日本にいれば、金髪の外国人は目立つのを彼女はしきりに気にしていた。

「警察が乗り出してきたら、ヤバイわ」

「そうだね。イーサンと相談したら」心配そうに言った。

布施は電話を切り、三十分ほど待った。

イーサンから電話が入った。

「話は聞いた。エマは怯えている。すぐにアメリカに帰る。証券会社から、まだ入金はない?」

「明日には入るそうだ」

「明日、三千百万円を入金したら、その足でアメリカに帰る」

「そのほうがいい」


翌日の朝十時、新宿の布施の取引銀行で待ち合わせた。証券会社から入金があった。

イーサンとエマは自分の銀行口座に三千百万円を振り込むと、布施のクラウンに乗り込んだ。二人とも帰国の準備は整っていた。

成田空港に急いだ。


「ガルシアに完璧な復讐できたわ。これは布施の作戦が見事に嵌ったせいよ」

「結果OKだよ」布施が謙遜して言った。

「最後まで一緒にやれないで、申し訳ない」イーサンは最後までやれないで残念そうな表情を浮かべた。


大膳に復讐するには特別の人を見つけることが前提だ。それにはまだ、二・三か月が必要だ。そんな長い間、二人が日本にいるのはとても耐えがたいだろう。

「あとは俺たち二人がじっくり進めるよ」

「なにか助けが必要になったら、遠慮なく言ってくれ。飛んでくるから」イーサンが力強い言葉を発した。

「私たちはガルシアに復讐したいだけで、大膳は関係ないわ」

「そうなんだ。逆にガルシアを殺してもらって、お礼しなきゃいけないよ」イーサンは心の底から笑いだした。

成田空港の搭乗口で、布施とイーサン、エマとがっちりと握手した。笑みを浮かべて別れた。

                  (二十九)

ガルシアが殺害された翌朝の九時、堂本探偵事務所にいた鬼頭は書類を片付けていた。

二人の刑事が手帳を見せながら事務所に入ってきた。

鬼頭は胸の中が燃えているような動揺が走った。あまりにも早い警察の対応だったからだ。

四十五歳ほどの刑事が受付の女性に言った。

「捜査一課のものです。昨日、ガルシアさんと言う外国人の方が来られませんでした? 」

受付の女性は唖然として言葉を詰まらせた。

「ニュースで盛んに報じられているクイーンホテルで殺された外国人です」


鬼頭は受付まで歩み寄り、

「その人だったら、訪ねてきましたよ」と答えた。

「どのような用事で来られました? 」

「英語でまくしたてるので、話す内容は全く分かりませんでした」

「そうですか」刑事は首をひねった。

鬼頭は何か重要な事があるのではないかと勘繰った。


「どうして、ガルシアさんがここに来たことが分かったのですか?」鬼頭が一番知りたかったことだ。不思議でならなかった。

ガルシアのポケットの中に、ここの住所と事務所名が書かれたメモがあったようだ。日本人が書いたメモだ。

「重要な目的で来たに違いありません」

「そうですか」警察の捜査の力を見せつけられ、鬼頭の身体に衝撃が走った。


刑事は帰ったが、鬼頭は食事が出来ないほど、一日、不安で心が乱れていた。

鬼頭はセックスフレンドの今坂麻衣に電話を入れた。

「やりたくなった?」

「心配事があるんだ」

「珍しいわね。どうしたの?」

「電話では話せない。明後日の日曜日、気晴らしにドライブでもしない?」

「あんなぼろい軽自動車でドライブ? とてもその気になれないわ」


「日曜日に、新車のアルファードが届くことになっている」

「新車のアルファード? 競馬で借金を作り、首が回らなかったんじゃない」

「それで、無理してしまった」

「ヤバイ仕事を引き受けたんだ。それで心配事が起きたと言うわけね」

「おまえには勝てないよ。で、日曜日どうなんだ?」

「いいわ。心配事を解消させてあげるわ」


三十五歳の鬼頭は百八十センチの長身を有効に使ってきた。空手や柔道で鍛え上げた体が自慢だった。

眉毛が太く、厳しい目つきで凄みのある横顔。相手を威嚇するような顔立ちが大いに役立った。金のためならどんな汚い事も平気でやってきた。


高校三年生の時、鬼頭は不良グループの五人に、河川敷に呼び出された。喧嘩に勝つ自信はあった。

自分が空手有段者だから、空手で相手に攻撃すれば、犯罪になることは十分に承知していた。

手加減など全く考えず、どうすればもっとも相手にダメージを与えられるか考えて臨んだ。


相手の一人が殴り掛かってきた。

さっと左手で払い、強烈な正拳を相手の眉間にぶち込んだ。

相手はぶっ飛び、意識を失った。


それと同時に、もう一人が殴り掛かってきた。

鬼頭はひらりとかわし、股間を強烈に蹴り上げた。

「ぎゃ!」と大声を上げ、地面でのたうち回っていた。

それを見た残りの三人は、仲間を見捨てて逃げて行った。

鬼頭は救急車を呼んだ。二人とも重傷だった。

これで高校を退学になった。

                   (二十九)

日曜日、今坂麻衣の心は躍っていた。今まで、鬼頭から性の奴隷扱いされてきた。彼は大きな罪を犯したのは間違いない。鬼頭の弱みを握れば、一躍、女王になれる。鬼頭の車が来るのを心待ちにしていた。

二度、クラクションの音がした。アパートの窓から覗くと黒色のアルファードが目に入った。彼女は急いで外に飛び出して車の中に入った。


「新車はいいわね」とりあえず車をほめることにした。車より鬼頭のやったことが気になっていた。

「新しいだけじゃない。エンジンがすごいぞ」と言って車を走らせた。顔には自慢たっぷりの表情を浮かべている。


「どこに行くの? ラブホ?」

「何を言っている。長距離ドライブだ。日光にでも行くか」

「何をイラついているの。殺人でも犯したの?」ズバリと言い切った。

「まあ、そんなところだ」急に不安の色を見せた。

「誰を?」

「今、話題になっている高輪クイーンホテルでの外国人殺人事件だ」

「えっ! あんたがやったの?」

「ああ。殺人はプロに任せるんだが、借金取り立てが厳しくて」

「で、いくら貰ったの?」

「二千万円だ」

「なぜ殺さなければいけなかったの?」

緊急にガルシアを殺さなければいけない。山上専務がいないので、社長から殺し屋に連絡を取って貰いたいと依頼された。鬼頭は自分がやると返事した。

「殺し屋にいちいち理由を言わないんだ。俺にも何の説明もない」


普通、計画殺人は発覚を恐れ、人気がない所で殺害し、山の中や海に捨てるものだ。それが今回は都心の一流ホテルで犯行がなされ、その池の中に捨てるという前代未聞の殺人事件だ。しかも、被害者はアメリカの実業家だ。インバウンドが盛り上がっている観光業には痛手であると同時に世間の関心が集まった。


「犯行は大胆だけれど、やった本人がビビっているのはどういうわけ?」

犯行翌日の朝には刑事が会社に現れ、怪しいと睨らまれた。

「ビビって当然だろう」

「どうしてそんなに早く?」

「そこなんだ」

鬼頭はその理由を説明した。


「アリバイを作る必要があるわ。犯行はいつ?」

「十月二十日の午後八時ごろだ」

麻衣はスマホを取り出し、中の写真を調べだした。

「あった! これで大丈夫よ」自信たっぷりに言った。

鬼頭は車を停め、スマホを覗き込んだ。蒸し餃子や春巻きなど七種類の小さな料理の写真があった。

「こんな料理がアリバイになるのか?」細い目を丸くして言った。

「良く見なさいよ。日付と時間が入っているでしょう」ドヤ顔で言った。

十月二十日十九時三十分の文字が入っていた。

「この時間に食事していたと言う事か?」

「その通り。お客さんと食事していたの」


「なるほど。どうやって写真に日付や時間を入れられるんだ?」

スマホのカメラアプリの設定で日付や時間を表示するオプションを有効にすればいい。

「そんなことより、これから横浜中華街に行きましょう」

「了解」鬼頭の表情にいつもの明るさが戻ってきた。


横浜中華街に着いたのは午後六時を過ぎていた。日曜日のこの時間は歩行者天国になっていた。近くのコインパーキングに車を停め、中華街に歩を進めた。辺りは観光客などでごった返していた。万珍閣という店に足を踏み入れた。丸いテーブルの椅子に座ると、五十歳くらいの女性が笑みを浮かべて注文を取りに来た。

「何にします」

「このお店は点心が美味しいのよね」麻衣はスマホを見ながら言った。

「良くご存じですね」


「この二人で、よくこの店に来るのよ。覚えていない? 」顔を上げて言った。

「お客さんはたくさん来られますので」

「十月二十日もこの二人で来てこの写真を撮ったの。この写真をSNSに投稿し、この店は美味しいと宣伝したのよ」麻衣はスマホの写真を見せ、恩着せがましく言った。


「本当だ。写真に日付と時間が入っているわ。ありがとうございます」

「この二人で、毎日来ますので、顔を覚えてね」鬼頭を指差して言った。

「ぜひお越しください。覚えるようにします。注文は点心でよろしいですか? 」

「それに生ビールを二つお願いします」

「ありがとうございます」と言って姿を消した。


「お前、天才だな」鬼頭は呆れた表情を浮かべた。

「七日ぐらい毎日来ましょう。どう? 少しは気が楽になったでしょう」麻衣は鬼の首でも取ったかの表情を浮かべた。

「それは言えているな」

「ご褒美に、今夜は徹底的にサービスしてね」甘えるように言った。


早坂麻衣はセクシーなのに、自分のボディーよりも、頭の回転が良いことを認めてほしかった。実際、かなりのやり手だと自認していた。普通の人が気付かないことをやるのだ。


麻衣が高校を卒業する頃、父親ががんで死亡した。

葬儀が終わった時、母親が打ち明けた。彼女は五十歳になろうとしていたが、まだまだ若かった。昔は男を泣かせていたに違いない。その面影がまだ残っていた。

「今はこんなみすぼらしい所に甘んじているわね。最近のお父さんからは想像が出来ないけど、昔はすごかったのよ」

「えっ! お父さんがすごかったなど、驚きね」

「本当よ」


父親は電気製品の部品メーカーに勤めていた。あまりに仕事が忙しいので、ソニーなどのメーカーはきっと大きな利益を出していると踏んだ。


「どうやってお金を作ったの?」

「一生懸命働き、節約してコツコツ貯めたわ」

その金をソニーなどの株式に投資したのだ。時期もよく、バブルのころだった。大金を稼いだのである。

「どれぐらい、稼いだの?」

「一億円はくだらないわね」

「えっ! 今、どうしてこんなに、貧乏なの?」

「騙されたの。土地神話を信じたのよ」

株より不動産投資のほうが良いと、うまい投資話の詐欺に引っかかってしまったのだ。

「土地神話?」


バブルまでは土地は値下がりすることはなかった。一億円で大きな山林を買った。バブルがはじけて、二束三文になってしまったのだ。


「そうだったの。お父さんは一言も話したことがなかったわね」

あまりの馬鹿さ加減で言えなかったようだ。

「毎晩、悔やんでいたわ」

そのストレスで、がんになったにちがいない。

「私にはそんな姿をこれぽっちも見せなかったわ」親指と人差し指を少し離して言った。


「でも、お父さんはあなたの大学への進学資金の二百万円は、絶対に手を付けなかったのよ」

「えっ! 二百万円も残してくれたの」

「そうよ」

「知らなかった。大学はとても無理だと諦めていたわ」

「諦めることはないわ」

「そうなんだ。どうしよう」

彼女は受験勉強など全くしていなかった。今からだと、一流大学はとても無理だった。あと二か月しかないのだ。


「大学に行くべきかしら」

父親は高卒だった。それがコンプレックスだった。彼女だけには、同じ轍を踏んでもらいたくなかったようだ。

「是非、行くべきよ」


父親とは喧嘩ばかりしていた。

「失ってみて初めて、お父さんの本当の有難さが分かるものね」

「それは本当よ」

お金も同じ。失って初めて、お金の有難さを知ることになる。お金だけが頼りだと念を押した。

「そうね。二百万円を有効に使わせてもらうわ」

金持ちの時は、皆、ちやほやしてくれた。金が無くなると、とたん皆は離れて行ったようだ。

「世の中、金次第よ。これを忘れないでね」

「分かった。お金は噓をつかない」

こうして、麻衣はお金第一主義者になった。

                  (三十)

絵里は母親が入院している個室にいた。

母親の髪には白いものが目立つようになり、骨と皮だけの腕、やつれた顔、全てに深い悲しみをたたえていた。動く眼だけが生きていることを証明していた。母親を見るたびに衰えていくのを感じた。可哀そうで胸が痛んだ。

絵里は笑みを作って母親を励ますように言った。

「まんまと布施をだまして近づけたわ。大膳や布施に復讐できるのは時間の問題よ」

「そう、良かった。私があの世に逝くのも時間の問題よ。早くしてね」消え入りそうな声で言った。


母親と絵理にとって、大膳と布施は同じ穴のムジナと捉えてきた。二人に復讐するのは悲願であり、そのために生きてきたと言っても過言ではなかった。

「着々と進んでいる」

大膳への復讐は今年中には決着を付ける。布施は少し遅くなるかもしれないと伝えた。

「布施への復讐もお願いよ。人のお金を盗むような人はくたばればいいわ」

「そうね。それまで生きていてね」

「何としてもそれまで、生きるわ。お父さんをがっかりさせない。冥途の土産を持って逝くわ」少し強い口調に変わった。

「お母さん、もう少し待ってね。必ず、やるわ」絵里は強調するため同じことを繰り返した。


イーサンとエマがいなくなり、新たな局面に入った。今後、絵里が前面に立っていかなければいけないと自覚した。とりあえず、最大の敵の大膳を徹底的にたたく事に集中する必要がある。そのためには、布施とは親しげな関係を装う必要がある。大膳への復讐を成し遂げた後に、布施をどう料理するか考えればいい。計画を頭でまとめ、決意を新たにした。


病院を後にし、絵里はレクサスに乗ってマンションに帰った。今後は倉庫にいる時間が長くなる。子猫のヒーちゃんを倉庫に移すことにした。キャットフードやトイレなどを車に積み、倉庫に向かった。

倉庫には布施の姿があった。

絵里はヒーちゃんを車から降ろした。

「この子が我々のキューピットか。かわいいね」布施が目を細めて言った。

「私の大事な家族よ。心が癒されるわ。この子がいないと駄目よ」

               (三十一)

大膳健吾のスマホに、何者か分からない人間からメールが届いた。

「七月二十一日、ロスのアパートの駐車場で、布施明生さんを車ごと大型トレーラーに入れた。デスバレー国立公園の砂漠地帯まで運び、布施さんを裸にして砂漠に捨て殺害した。このことを警察に届けるつもりだ。

でも、五十億円を三日以内に支払えば、警察には届けない。

また連絡する。添付の布施さんの死体写真を参照。正義の味方」


 大膳はぞっと背筋が凍りつき、頭の芯だけが発火したみたいに熱くなった。怒りが嵐のように襲ってきた。

写真を開くと、目をそらしたくなるほどおぞましい布施の死体写真があった。

犯行状況を詳しく書かれている。しかも布施の死体写真がある。誰がこの写真を撮ることが出来たのか。布施と大膳の関係を知っている人物だ。偶然、砂漠で布施の死体を見つけた人物ではない。どうなっているのだと、大膳は頭の中がしびれて目の前の現実を受け入れられないでいた。


すぐに探偵事務所の堂本社長に電話を入れた。

「とんでもないことが起こった! 」

「どうしました? 」

「何者かが、五十億円の身代金を要求してきた。クソッタレメ!」


              (三十二)

この一報は堂本社長の心胆を寒からしめた。

「先生。申し訳ありませんが、こちらに来ていただけませんか? 」

大膳はタクシーを飛ばし、探偵事務所にやってきた。

個室に案内した。

堂本社長が苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべ、大膳を迎え入れた。非常に大事な局面であることを自覚した。

ここは踏ん張りどころだと、堂本は自分に言い聞かせた。

堂本は垂れ気味の目じりで、非常に抜け目のない人間に見られる。目的のためには手段を選ばないタイプだと自覚していた。

その手段で二十年かけ、大手の興信所の一角にまでに押し上げた。六十三歳だったが、まだこれから先も、働かなければいけないのだ。


堂本社長は大膳の心を読んで行動してきた。布施のように、人の金や物を盗むやつは殺してもいいのではないかと、煽るのが常だった。

堂本社長は積極的に大膳に持ち掛け、布施への尾行を長引かせて大膳から大金を引き出してきたのだ。

相手の心を読むことに長け、どうすれば売上げを上げることが出来るか、いつも考えて行動してきた。

大膳はどんなことにも負けず、自分の信念をやり遂げる人間だ。すごく精神力が強く、すばらしい人だ。継続は力だと常に大膳を持ち上げてきた。

心の中ではお世辞に乗る単純な男と思っていたが、そんなことは表情に、みじんも表さなかった。

それが破綻したのだ。


大膳はスマホを堂本に見せた。

堂本社長の背筋に衝撃が走った。

「これはヤバイですね。誰がこの写真を撮ることが出来たのでしょう? 」腸がえぐられるような苦しさを浮かべて言った。

「俺も同じことを考えていた。おたくの山上しか考えられない」

「山上とは長年一緒に仕事してきました。裏切るような人間ではないのですが」自信なげに言った。

「ガルシアの金も山上が奪ったに違いない。大金に目がくらんだんだ」


「山上しか考えられませんか? 」

「山上一人ではないだろうが、山上が主犯と考えれば、筋が通る」

さらに、大膳は続けた。

「俺は五十億円など、絶対に払わない。いや、払えない。これはあなた方のミスだ。なんとか対処してもらいたい」

傲慢な態度をとる大膳に、堂本社長は冠を曲げていたが、自分を抑えていた。喧嘩している場合ではないのだ。

ここは正念場だ。何としても、大膳に金を払って貰わなければいけない。

「そう言われましても。全力を挙げて、調査いたします。しかし、三日以内に、誰の仕業か結論を出すのは無理かと」


大膳は腕を組み考え

を巡らせていた。

「これは明らかにおかしい」

大膳と布施の関係。布施殺害の詳しい内容。これを知っている裏切り者が堂本探偵事務所にいる可能性があると思っているようだ。

「確かにおかしいですね」

「このことを知っているのは、どれぐらいいるのだ」

「たくさんいます」

事務所では公然たる事実だった。正直に言えば、犯人を特定するのは非常に難しい状態だった。


大膳は五十億円を払わなければどうなるかと案じていた。

犯人は相当な危険を犯している。ただでは済まないはずだ。金が手に入らないとすれば、自棄を起こすだろう。

「警察に訴えるでしょうね」

「かもしれんな。しかし相手の言うようには出来ん」

「我々も相当な被害を受けますが、先生への被害は比べられないほど大きいのではありませんか」

「五十億円などあるわけないじゃないか」

大膳は怒りを込め、口をへの字に曲げた。

「高利貸しですが、貸してくれる人を知っております」

「高利貸しだと? とんでもない」


「自慢の息子さんに融資を受けたらどうです?」

「まあ、一応聞いてみるが」

現金を引き渡す時が犯人を捕まえる大きなチャンスである。いったん、金を振り込み、その時に賭けるしかないと助言した。

「あんたの会社のガバランスが悪いから、こんなことになった」

「そう言われましても」

「あんたの会社名義で高利貸しから、五十億円を借りたらどうだ。少しずつ資金援助はする」

大膳は高圧的な態度に出た。


堂本社長はあまり気にせず、さらりと受け止めた。

「それは不可能です」

高利貸しは馬鹿ではない。堂本の会社みたいな利益を出せない会社に、五十億円などを貸すはずがないからだ。

大膳は向かっ腹を立てていた。ふと、スマホに目を向けた。

脅迫状を送り付けてきたメールの相手に、メールを送ってはどうか。返事が来るのかどうかやってみることにした。


「五十億円など、払わないぞ」と書いて送った。

「そう。構わない。警察に通報するだけだ」と返事が返ってきた。

大膳に動揺が走った。

「ちょっと待った。もうちょっと考えさせてくれ」とすぐに返事を送った。

「まあ、いいか。今日は十二月十日。十二月十三日まで、耳をそろえて用意しろ。十三日の日に、連絡する」と言う事だった。


「相手は何者だ! 一人でこんなことが出来るのなら、化け物だ。誰か共犯者がいるはずだ」

「でしょうね」

「今夜、息子と会って資金援助を依頼してみる」

「それがいいです」堂本は大膳がその気になってほっとした。

アポを取るため息子に電話を入れた。

「私だ。今夜、飯でも食わないか?」

「冗談じゃない。殺人鬼には会いたくない」

大膳は余命宣告を受けたようなショックが走ったようだ。

「お前の所にもメールが届いたのか?」

相手は息子のメールアドレスは知らないはずだ。本社の住所あてに手紙が届いた。写真も同封されていた。

「親父、本当に殺したのか?」

「殺していない」

「じゃ、五十億円なんか払う必要はないわけだ。何しに電話を入れた」

「ただ、飯でも食おうと思っただけだ」

「それだけだったら、忙しいから行けないな」

「そうか」大膳は電話を切ろうとした。


「いい迷惑だぜ」

嫁の親にも同じ手紙が届いている。もう、大膳とは縁を切るそうだ。

「申し訳ない」いつもの大膳とは大きく異なっていた。

「もう、会う事もないだろう。一切、連絡してくるな」強い口調だ。

衝撃が大膳の心を襲っているのだろう。目を閉じて電話を切った。大膳はやけくそになっているようだった。このような弱弱しい大膳を初めて見た。

「高利貸しから五十億円を借りるしかないな」消え入りそうな声でつぶやいた。

「先生、そういうことだと思います」


ふと大膳は気を取り直し、何時もの調子に戻った。

こうなれば、早く高利貸しに連絡し、金を用意するよう要求された。


「いいか。あんたの会社に連帯保証人になって貰うぞ」

大膳は堂本を威嚇するような態度を見せた。それに加えて、犯人に対して、痛棒を食らわす強い意思表示を見せた。

 堂本は連帯保証人になるのは仕方がないと思った。とりあえず、大膳が金を払うことになりホッとした。

                 (三十三)

 早急に、堂本社長は鬼頭省吾に電話を入れ、会社に来るように指示した。

やがて鬼頭は姿を見せた。

大膳の犯行がバレ、何者かに五十億円を要求されたと、堂本社長が切り出した。

「 五十億円? 布施殺害がバレたんですか? 」

「脅迫状と布施の死に顔の写真が送られてきた」

「誰が送ってきたのですか?」

「たぶん、山上の犯行だろう」

「まさか! 専務が裏切るなんて」

「私も違うと思うが、山上しか考えられない」


布施の死に顔の写真を撮れて、布施と大膳の関係を知っているものは他に考えられない。さらに続けた。

ガルシアの金を奪ったのも山上だろう。それでガルシアが五千万円を要求してきた。それでガルシアを殺害することになった。

大膳が警察に捕まれば、鬼頭のガルシア殺人もバレルことを伝えた。


「まいったな。それで俺を呼んだのですか?」

「そうだ。この件は君が主体となって犯人を捕まえてくれ」

「それはいいですが、大膳さんは払えるのですか?」

「高利貸しから借りる手はずは出来た」

鬼頭はほっと胸をなでおろした。


翌日の夜、堂本社長は営業社員全員(約百人)に、緊急招集した。

大膳だけでなく、会社に、社員全員にとっても命運がかかっているのだ。緊急事態なのである。

取り立ての厳しい高利貸しから大膳健吾が五十億円を借り、会社が連帯保証人になった。

短い期間で犯人を見つけないと、全員が破滅する。


金を振り込んだ時が勝負だ。

どこの銀行かわからないが、たぶん銀行振り込みだろう。

一人、五十人のアルバイトを見つけてもらう。アルバイトの一人に、一日、一万円を支払う。

各支店やATMで、多額の現金を引き出したり、送金したりする人間を見つけることだ。

見つけた者には一億円の報酬を支払う。

手段を択ばなくともいい。

五十億円の振り込みは二日後の十三日だ。肝を据えてやってもらいたい。それを見逃すと、チャンスは無くなると演説をぶった。

会場は騒然となった。

                 (三十四)

十三日午後一時。大膳のスマホに犯人の女性から電話が届いた。

犯人が若い女性であり、冷静な対応に大膳の頭の中は嵐のように混乱していた。

「五十億円の用意が出来た? 」

「出来た」無愛想に答えた。

「これから、あなたの取引銀行に行ってください。銀行に着くまで、何分ほどがかかりますか?」

「近いから、三十分ほどで行ける」

三十分後に、メールで、振り込み銀行名や宛名等を知らせる。

「五十億円を振り込んでください」

「くそ! 今に見ていろ」と心の中で叫んだ。

大膳は憤怒で身を震わせていた。殺意が心の中にふつふつと湧いてくるのを覚えた。


大膳は鬼頭と一緒に、四菱銀行大手町支店に足を運んだ。この銀行の山岡支店長とは知り合いの仲だ。無理がきくのだ。

銀行に着く頃、犯人の女性からメールが届いた。

「四菱銀行北千住支店。普通。56422310 八重樫純一さんに五十億円を振り込んでください」

「やっと黒幕が出てきたぞ」


大膳はスマホを鬼頭に見せた。

鬼頭は急いでこの情報を、堂本社長に知らせた。

大膳は銀行に入らず、時間稼ぎをした。

一時間後、銀行に入り、送金用紙に記入し、

「大膳と言いますが、山岡支店長さんにお会いしたいのですが」と大膳が受付の女性に告げると、個室に案内された。

「大膳さん。久振りです。どうされました?」

山岡支店長に快く迎い入れられた。


白髪の山岡はもうすぐ定年の六十五歳近くになる。何事もなく定年を迎えたいはずだ。少し、可哀そうだが背に腹を変えられない。

大膳は送金用紙を見せ、

「金額が大きいだけに、この人の住所を知りたいのですが。同姓同名ということがありますので」と依頼した。

「五十億円ですか? 確かに大きいですね」

個人情報なので、本来教えられないが、大膳の要望なので仕方がないと言うような表情を浮かべた。


「八重樫さんとはどのようなご関係ですか?」

支店長は疑心暗鬼の表情を浮かべた。

「仕事関係です」さらりとかわした。

支店長は複雑な表情を浮かべ、個室から出て行った。やがて、八重樫の住所を書いた紙を持ってきた。

「ああ、確かに八重樫さんの住所だ。この金額を振り込んでいただけませんでしょうか」

「承知いたしました」


大膳は銀行を後にし、入り口近くで待っていた鬼頭に、

「ここを当ってくれ」と言ってその紙を渡した。

                (三十八)

鬼頭は堂本社長に電話を入れ、アルファードで現場に急行した。

目的地は北千住駅から徒歩十五分の所にあった。

老朽化したみすぼらしい木造二階建てのアパートだ。一階、二階それぞれに四つのドアがあった。

鬼頭は車から降り、八重樫の一0一号のドアにノックした。

音沙汰なしだ。

ドアノブを回してみた。鍵がかかっていた。仕方なしに車に戻り、様子を伺っていた。


十二月の半ばになると、日が短くなる。四時半ごろには、辺りは夜の帳に包まれてきて、アパートの輪郭が定かでなくなってきた。

八重樫の隣の窓に、明かりが灯った。

五時ごろ、一0ニ号のドアが開き、びっこを引いた七十歳ぐらいの老女が、買い物袋をぶら下げて出てきた。

鬼頭は車から降り、

「すいません」と声をかけた。

老女は振り向いた。

「隣に、八重樫純一さんが住んでおられますよね」

「八重樫さんなら、十日前に、引っ越して行きましたよ」

「どこに行かれたか、分かりませんか?」


彼女は怪しげに見つめていた。

八重樫の親戚の人にどんな様子か、見てくるように頼まれた。怪しいものではないことを伝えた。

「どこに行ったものか。八重樫さんは可哀そうな人です」

「どうしたのですか?」


六年ほど前、八重樫が起こした自動車事故の話をした。その事故で夫人を亡くした。息子は脳に障害を受け口がきけなくなった。その八重樫が、がんで余命三か月を宣言された。

「息子さんはどうなるのだろうって、みんなが心配しています」憂いの表情を浮かべて言った。

息子などどうなろうと関係がないが、息子のことも何かの手掛かりになるかもしれないと判断した。


「息子さんは何歳ですか?」

  「九歳。とてもいい子よ」

鬼頭は考えていたイメージとあまりにも違うので戸惑った。

八重樫が本当の犯人なのか、少し疑問に思えた。しかし、銀行振込先だから、間違いがないのであろう。

「八重樫さんは、息子のためなら何でもするような人ですか?」

「やりますね。息子の不幸は自分のせいだと、いつも嘆いていました」

「大きな事件を起こすとか」鬼頭は誘いを入れた。

「とんでもない。事件などは絶対に起こしませんよ。優しくて、気がとても弱い人なのです」


八重樫がますます分からなくなってきた。

「八重樫さんはどんな人ですか? 身長、髪形、年齢などを教えていただけませんでしょうか?」

老女は不審な表情を浮かべ、

「あなた、刑事さん? 事件とか髪型とか言うけど」と尋ねた。

鬼頭は舌を巻いた。

先ほど言ったように、親戚の人に頼まれただけだ。八重樫は引っ越したと言った。

「探さなければいけないので」

「本当なの? 」まだ疑っているようだ。


鬼頭は思考を巡らせていた。このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。切り札を使わないとまずい。

「これから、買い物ですか? 今晩、何を食べるのですか? 寒いから、高級和牛のすき焼きでも食べるのですか?」

「何を言っているの。このアパートは生活保護者専門よ。高級和牛のすき焼きなんて、とても」

鬼頭はポケットから一万円札を取り出し、

「これで、最高級の和牛のすき焼きにしてください」と言って渡した。

「こんなにもらっていいの。刑事さんなら、こんなことをしないわね」

「その通り。刑事ではありません。安心して答えてください」

「わかったわ」

身長百七十五センチのやせ型。短髪。四十歳とすらすらと口から出てきた。


「車を持っています?」

「事故を起こしてから、一切、運転しません」

「若い女性が訪ねてくることはあります?」

「若い女性? 全く関係ありません。これだけは自信を持って言えるわ」

親子ともども、家に引きこもり、パソコンをいつも見ていたようだ。

鬼頭は迷路に迷い込んだように感じた。

犯人の女性とは全く接点がないように思えてならない。

探偵事務所に帰り、堂本社長に報告した。

               (三十五)

大膳に、堂本社長から電話がかかってきた。鬼頭の報告と、犯人が銀行に現れなかったことを知らされた。

「今日が、一番のチャンスだと言っていたな」大膳は怒りを込めて言った。

「普通の場合はそうなのですが」

堂本社長は苛立ちを隠せないでいるようだ。

五千人も導入した。犯人は現れず、五十億円は銀行に入ったままだ。犯人はなぜ動かないのだ。普通、大金が入れば、引き出すか、他の銀行に移すはずだ。


毎日、五千万円を使っている。あと、五日もすれば、会社の金を横領している事が発覚しそうなのだ。

大膳は業を煮やしていた。


「銀行の見張りをいつまで続けますか?」

犯人は生活保護を受け、障害を持つ子供を抱えている。金に困っているはずだ。

「必ず、動き出す。続けてくれ」

「分かりました」

日本全国の電話帳を集め、全ての不動産仲介所に電話することを考え付いた。十日前に、四十歳ぐらいの男と、ものが言えない十歳ぐらいの障害者が引っ越さなかったか聞くのだ。

「お礼に一千万円を出すと言えば、協力するだろう」と読んだ。

「いいアイデアですね。それなら、必ず、見つかりますよ」

堂本社長はもう一度やる気を出したようだ。社員全員に電話をかけさせるように伝えた。

                 (三十六)

話は十二日前に戻る。

布施と絵里はそれぞれのパソコンで、ツイッターを毎日熱心に、覗いていた。特別な人を見つけるためだ。

「世の中は、なぜ、こんなに理不尽なのか。死にたい」とつぶやき仲間を募るのだ。いろいろな悩みを抱えている人々と連絡とった。

条件を二つに絞った。『死にたいこと』と『金が必要なこと』の両方の条件を満たす人だ。多くの悩める人と交流した。


その中に、八重樫純一という人を見つけた。

布施は八重樫と連絡を取り合った。

「私はストーカーされ、非常に悩んでいます。八重樫さんは何で悩んでおられるのですか?」

「私はがんで、余命三か月と告知されています。私はいいのですが、私が死ねば、息子が困ります。それで悩んでいます」

 八重樫の交通事故のことを知らされた。

「交通事故ですか。お気の毒ですね」


「金もないし、そんな子供を引き取ってくれる人はおりません」

「それは大変ですね。もし、お金があれば、しゃべれない息子さんを引き取ってくれる人はいますか?」

「どうでしょうか。大金を払わないと無理ですね」投げやりの口調だ。

「三千万円ではどうです?」

「えっ! そんな大金を? それだと見つかると思います」

八重樫はかなりやばいことをしなければいけないと思い込んでいるようだ。殺人などは出来ないとのことだった。

「違いますよ。痛みませんか?」

八重樫は余命三か月だ。かなり痛みを感じているはずだ。


「激痛を感じる毎日です。病院に入り、麻薬を投与して貰いたいと思っています」

「残念ながら、病院以外で死んでもらいたいと言う条件です」気の毒そうに言った。


「私が死ねば、そんな大金を貰えるのですか。私は喜んで死にます」

八重樫が小躍りして喜びを隠しきれない感情が伝わってくる。

金が必要で、死んでもいいという人に巡り合えた。布施は話がいい方向に進んでいるように感じた。

「一度、お会いしませんか?」布施は理想の人を見つけ、心が躍った。

「是非、お会いしたいです」

明日の出会いの服装を、お互い知らせあった。

布施は週刊誌を丸めて持っていると伝えた。

 渋谷のハチ公前で待ち合わせすることにした。


 布施は弾んだ気持ちを覚えながら絵里に電話を入れた。

 「金が物を言う人に巡り合ったよ。金を大胆に使えば、本当に死んでくれる人が現れたんだ」

「よかった。その人と会ったの?」

「明日、会う。結果をまた電話で伝える」

「最後はお金ね。布施さんはだいぶ稼いだようなので、大丈夫よね」

布施は今ある金を全て投げうってでも、この作戦をやり遂げる決意があった。


翌日、八重樫純一が現れた。上下、紺のスーツはよれよれだった。踵がすり減った靴を履いていた。

どう見ても、金に困っている様子が見え見えだった。

苦労が続いたせいだろう。顔に答えが出ている。目の下に濃い隈が浮いている。実際の年齢より、少なくても一〇歳は老けて見えるに違いない。

布施と同じような身長で、体格も似ていた。短髪も同じだ。年齢は四十歳だ。布施と大して違いがない。条件はそろっていた。


 布施と八重樫の二人は、いつものカラオケボックスに入った。

 八重樫は写真入りの個人ナンバーカードを見せた。

 布施は免許証を見せた。

 お互いの携帯番号をつなぎ、生年月日や住所などを手帳に記入した。

布施が詳しい計画を話した。

布施に、喜びが電流のように全身を通り抜けた。

八重樫にも、強い歓喜の感情が怒涛のように内部に打ち付けているようだ。


「これから十日ほど、待っていただけませんでしょうか? その間に、息子の引き取り先を探します」

「十日で見つかりますか? これが決まりませんと先に進めません」

「三千万円がありましたら、大丈夫だと思います」

「そうですか」


「大変図々しいお願いがあります」八重樫は頭を搔きながら言った。

「どうぞ、遠慮なくおっしゃってください」

「申し訳ありませんが、百万円ほどいただけませんでしょうか?」

遠慮ぎみに言った。

一週間、息子とのお別れ旅行に行きたいとの希望があった。今まで金がなく、息子と一緒に旅行に行ったことがないからだ。

布施は金の使い道を心得ていた。ここはケチるところではない。

「二百万円を差し上げます。思い切り、贅沢してください」

「ありがとうございます。二百万円もいただけるのですか」

八重樫は喜色満面の表情を浮かべた。


「引き取り先が見つかったら、電話をください」

「分かりました」

八重樫はこの世から自分を消す必要がある。業者を呼んで、すべての荷物を処分し、アパートを出るように伝えた。

「三千万円は引き取り相手が見つかり次第、渡します」

「分かりました。いつ死ねばいいですか?」

「いつでもいいですよ」

十二月七日までに、出来るだけ、息子の引き取り相手を見つける決意を見せた。

「見つかり次第すぐに実行に移します」

「急がなくても大丈夫ですよ」

苦痛から逃れるため一日でも早く死にたいようだ。

「大金と引き換えに死んだほうが、安心でしょう」

「そう言っていただくと嬉しいです」


布施は八重樫と別れ、絵里に電話を入れた。

「今、八重樫さんに会って来た。条件はパーフェクトだよ」

「そう、良かったわ」

ネット上には、どんな人間がいるか分からない。信用できる人か、絵里は心配している。

布施は大丈夫だと思った。


「どんな条件を与えたの?」

「三千万円だよ」

「三千万円を受け取って、ドロンされないでしょうね」

三か月の命。障害のある子供。これら全部が嘘かもしれないと心配のようだ。

「その可能性は十分にあるね」

金を受け取った日に死んでくれると約束したことを伝えた。

八重樫は息子とお別れ旅行に行く。その費用として今夜、二百万円をアパートに届ける約束したのだ。

「大丈夫だよ」

「そう。三千万円はいつ渡すの?」

子供を引き取ってくれる相手が見つかった時だ。

「その三千万円の使い道を確かめる」

「そこまで確かめる方法を考えているの。それだったら、大丈夫ね」

「抜かりはないよ」

一番重要なことは、八重樫の息子を、養子にしてくれる人が見つかるかどうかだ。

                (三十七)

八重樫純一と息子の剛志は、北海道旭川市にある旭山動物園にいた。気温は氷点下五度と、厳しい寒さだ。

目の前の巨大プールで、ホッキョクグマがダイナミックに飛び込んだ。水中で泳ぐ姿も見られるのだ。

剛志は初めて見る光景に、興奮した表情を浮かべた。

八重樫自身も息をのんだまま唖然となった。


多くのペンギンたちが列をなし、雪道を行進する光景に、剛志は思わず、喜びに堪えない笑みを浮かべた。

剛志が興奮し、酔うような強い歓喜の表情を浮かべるのは初めてのような気がした。それを見ている八重樫自身も喜びに包まれた。

八重樫は体の激しい痛みを押し、ここまで来たかいがあったと思った。


これは序の口だ。

剛志が経験したことのないことを、一週間かけて行うのだ。

飛行機、新幹線、太平洋、船旅、渓流下り、高級ホテル宿泊、グルメ旅などたくさんあるのだ。

八重樫は次々と実行に移した。

これと同時に、息子の養子縁組先をスマホで検索していた。

SNSで、

「息子(九歳)の養子縁組先を募集。父親である八重樫純一はがんで余命三か月を宣告されました」と投稿した。

息子と一緒に撮った写真、メールアドレス、電話番号も添えた。


SNSに投稿して五日目、良い返事が届いた。市川市に住む遠藤和也から電話がかかってきた。市川市で梨農園を経営していた。

「小規模農園ですので、贅沢は出来ませんが、よろしいですか?」

「贅沢など、とんでもありません。引き取っていただくだけで感謝です」

「どんなお子さんですか?」

交通事故で、息子は脳に損傷を受け、しゃべれないことを説明し、

「その代わり、三千万円を差しあげます」と追加した。

「えっ! そんな大金を? お金持ちですね」

「とんでもありません」

ある人からもらった金だ。詳しいことは言えない。悪いことではない。八重樫の三か月の命を売ったことを伝えた。

「あまり内容を聞かないほうがいいようですね。三千万円も頂ければ、本望です」


この前の台風で、遠藤の梨園はだいぶ被害を受けた。困っていたようだった。遠藤自身も大変助かるのだ。

「すると、息子を養子縁組にしていただけるのですか? 」

「勿論です。我々夫婦にはどうしても子供ができません」

「ありがとうございます。本当に助かります」

八重樫は電話しながら目に涙を浮かべ、深くお辞儀した。


剛志は一週間を堪能した。感動と笑顔の連続だった。

八重樫は心の底に愉悦を感じていた。

最後に、取手市にある妻の墓にお参りに行った。

手を合わせ、

「佳恵、もうすぐあなたの所に行きます。幸運にも、剛志を引き取ってくれる親切な人が見つかりました。少しだけど償いが出来た。詳しくは後で説明します」と声を出さずに祈った。


八重樫と剛志は、待たせておいたタクシーに乗った。取手駅でタクシーを降り、布施に電話を入れた。

今、旅行から帰り、取手駅にいることを伝えた。

「息子の引き取り手も見つかりました」

「それはよかった」


「これから市川市に住んでいる引き取り手の人の所に行こうと思っています」

「三千万円をもって、取手駅まで行きます。一緒に、息子さんを引きとる方の所に行きましょう」

「そうしていただければ、助かります」


一時間後、布施のクラウンが取手駅に着いた。

八重樫と息子は後部座席に乗った。

梨園は市川市の中心部から、かなり奥まった所にあった。大きく、古い平屋建ての家だった。

三人は車から降り、八重樫は重いドアを開けた。

八重樫、息子、布施と続いた。


布施は大きなバッグを下げて玄関近くに立っていた。

「八重樫です。よろしくお願いいたします。これが息子の剛志です。あちらの人が友人の布施さんです」後ろにいる布施を指差した。

布施は軽く頭を下げた。

満悦の表情を隠せないでいる四十歳ほどの遠藤夫妻が立ち上がり、

「この方ですね。よろしくね」と息子に言って頭を下げた。

夫婦とも、人がよさそうな表情をしている。


奥さんが剛志に靴を脱いで土間から上がるように勧めた。

剛志は戸惑いの表情を浮かべていた。

そこに奥から可愛い二匹の子猫が現れた。

それにつられて、剛志は笑顔を浮かべて靴を脱ぎ、土間から上がった。猫のほうに近づいて行った。

「猫が好きのようですね」夫人が笑みを浮かべて言った。

「気が付きませんでした。そうでしたら、猫を飼ってあげたのに。なにせ、口がきけませんので」


八重樫は布施から大きなバッグを受け取った。バッグから大きな紙包みを取り出して言った。

「三千万円があります」

「大事に使います」夫が嬉々とした笑みを浮かべて言った。

布施は頭を下げて玄関から出て車に乗り込んだ。


「本当に助かりました。息子をよろしくお願いいたします。今、急いでおりますので。では失礼いたします」

八重樫は急いで外に飛び出し、クラウンの助手席に乗り込んだ。

後ろから、剛志が靴を履かずに、

「あああ! 」と大きな声で叫びながら追いかけてきた。

布施は車を急発進させた。


八重樫は振り返った。

剛志は泣きながら、なおも追いかけてきた。車との距離は離れていった。地面に座り込み、泣きながら右手で地面をたたいていた。

そこに遠藤夫妻が近寄り、慰めていた。

八重樫のほほに涙が伝ってきた。

布施はその涙を見て、八重樫に一点の嘘もないのを確信しているようだった。


十分間ほど、布施は無言で車を運転していた。やがて、

「あの夫妻はいい人のようですね」と切り出した。

「本当にいい人です。助かりました」

八重樫には吹きこぼれる悲しみと喜びが複雑に絡み合っていた。

「これから銀座で、八重樫さんのお別れパーティーを開きます。好きなものはありますか?」

「ありがとうございます。なんでも大丈夫です」

「最後の食事です。遠慮しないでください」

「そうですか。腹いっぱいカニ料理を食べたいです。今まで食べたことがありません」

「分かりました。私に任せてください。相棒の若い女性も呼びます。今夜はぱっとやりましょう」

(三十八)

午後四時半、銀座にある高級割烹店に、八重樫、布施、絵里が顔をそろえていた。テーブルにはふぐ刺しとカニ鍋が準備されていた。

「八重樫さんはお酒を飲めます? 」布施が心配そうに尋ねた。

八重樫は酒が大好きだったが、今は飲んでいなかった。息子のため、一日でも長生きしたいため、止めていたのだ。

「あと少し、生きればいいですので、今夜はごちそうになります」

生ビールを三つ注文した。

生ビールが届き、三人は乾杯した。


絵里が鍋奉行を務めた。鍋から小皿に盛り付けて配った。

八重樫はフグとカニ料理に舌鼓を打ち、酒が進んだ。

「あと少ししかない、今のお気持ちはどうですか? 」絵里がこんな質問して大丈夫なのか心配げに尋ねた。

「今は肩の荷が下り、さっぱりとしています。今まで、生きていること自体が非常に辛い感じでした」

「そうですの? この世に未練はないのですか?」

「ありません」

病気の痛みだけではない。息子の将来。息子が言葉をしゃべれなくしてしまった自責の念。すべてが大きな苦であったようだ。

「絶望の毎日でした」

「それは大変な毎日でしたわね」


「そこに布施さんが現れた。救い主です」

「八重樫さんがそのように言っていただくと、我々は救われます」

二人のために死んでもらうわけだから、布施には負い目があった。

「布施さんの言う通りだわ。我々だけがいい思いをするようです。感謝してもしきれないわ」

「それはないでしょう。布施さん、遠藤夫妻、私、私の息子、すべてが幸せになるのです。素晴らしいマッチングでしたね」

「その通りですね」布施は頷いた。


八重樫は本当に辛い人生を歩んできたと痛感した。

「この布施さんも地獄を味わってきたわ。その復讐なの」絵里が沈痛な表情を浮かべて言った。

「復讐のためですか」八重樫は眉間に深い皺を刻んだ。


食事を終え、三人は布施が運転するクラウンに乗り込んだ。行先は横須賀港だった。今夜の二十三時四十五分発の東京九州フェリーに乗船することだ。港に着いたのは二十二時三十分だった。一万五千トンの最新鋭のフェリーが港に横付けされていた。


クラウンは絵里が運転して帰っていった。

八重樫は偽の住所と偽名を乗船名簿に記入し、布施と一緒に乗船した。その途端に豪華な船旅気分を満喫できた。フェリーのエントランスは三層吹き抜けで、シースルーのエレベーターがあった。


布施はデラックスクラスの部屋にした。室内は二人用で、高級感のあるシックなデザインを基調とした洋室だった。バス・トイレに加え、専用テラスも完備していた。

「最後を飾るのにふさわしい所ですね」八重樫は満足そうに言った。

布施は車を運転しなければいけなかったので、料理店ではあまり酒を飲めなかった。

「レストランで、飲み直しましょう」

「いいですね。酒を飲めば、体の痛みも和らぎます」

三時間後、八重樫が船から飛び込むのを、布施は見届けた。

(三十九)

昼間から、鬼頭のアパートで、麻衣と鬼頭は、激しいセックスをしていた。鬼頭の巧みなテクニックがいかんなく発揮していた。

麻衣は完全にイカされていて、息も絶え絶えだった。

「ああ。よかった! 」麻衣はこれしか言えなかった。

バスタオルで豊満な体を包んだ。


最近、鬼頭は仕事がうまくいかず、まいっているようだ。

「セックスでしかストレスを発散が出来なくなってしまったよ」

ネガティブな話ばかりで、まったく覇気がなくなってしまった。


「どうしたと言うのよ? 」麻衣は苛立ちを込めて言った。

「謎だらけで参った。すっきりしたいよ」

「どんな謎? 」興味ありげに言った。


以前、麻衣はラブホテルで布施殺害をはかったが失敗に終わった。

「布施殺害に成功したのはいいのだけど、犯行がバレ、五十億円を要求された」

「五十億円? 誰が要求しているの? 」思わず息を呑んだ。

「いろんな人間が関わっているけど、主犯はロスで布施を殺害した山上専務だ」

「あの布施を殺したの? 間違いない?」

「間違いない。砂漠で死んでいる写真を送り付けてきた」

「ねえ、詳しい内容を教えて? 」麻衣は獲物を狙っている豹のような表情を浮かべた。


ガルシアとの関係。山上専務や同僚の今井が行方不明になっていること。外国人女性がガルシアの夫人に成りすまし、ガルシアの金を奪ったこと。それがガルシア殺害に結び付いたこと。五十億円を直接電話で要求してきたのは若い女性であること。五十億円の振込先は八重樫であることなどを話した。

鬼頭は犯人の行動を理解できないようだ。五十億円も要求し、一円も引き出さないのは何故だと疑問に思っているようだ。


「主犯の八重樫も得体の知れない男だよ」

「どんな人なの?」

隣の人の話をした。

「若い女性とは全く縁のない人間なんだよ」

「だいぶイメージとは違うわね」

鬼頭の話にポジティブな話はなかった。失敗ばかりで、愚痴だらけだった。全国の不動産仲介所に問い合わせしたが駄目だったようだ。

「どうなっているのだ」


麻衣は腕組みしながら脳漿を絞っていた。やがて結論を下した。

「山上専務の居場所を探せれば、糸口をつかめるわ」

「そうだけど、行方不明なんだ」

「結婚しているの?」

「ああ」

「これから、奥さんの所に行きましょう」と言いながらさっさと服を着た。


鬼頭が運転する車が山上専務の家に着いたのは、午後四時を少し過ぎていた。インターホンを鳴らすと、不審な表情を浮かべて夫人が姿を見せた。

「堂本探偵事務所のものです。専務はいらっしゃいませんか?」鬼頭が尋ねた。

「どこに行ったんだか、連絡も全くありません」不安の色を満面に浮かべていた。

「最後に連絡があった時、何か言っていませんでした? 」麻衣が尋ねた。

「一週間ほど出張だと言っていましたね」首をかしげながら言った。

「それだけですか?」


「そうそう。山三証券の岡田さんに、三千万円の預金がある銀行カードを渡すように言われました」

「三千万円を何に使うのですか? 」麻衣は驚いた表情を浮かべて言った。

「米国株に投資すると言っていました」


麻衣はスマホを取り出して山三証券に電話を入れた。

「米国株部門の岡田さん、いらっしゃいませんか?」

「岡田と言う人はいませんね。どうしました? 」

「いえ。すいません」と言って麻衣は電話を切った。

「岡田さんと言う人はいないそうです。銀行の預金残高を確認しました?」

「えっ! 通帳で確認しましたが〇円でした」夫人は深く息を呑んで言った。


「岡田さんはどんな人でした?」

短髪、黒縁眼鏡、マスク姿。年齢は三十五・六歳ぐらい。

「身長は主人と同じぐらいでした。株に詳しいようでした。特にアメリカ株に」

「専務さんの身長は?」

「百七十八センチです」

「専務さんが何か大きな物を買う予定はありませんでした?」

「全くありません」

「どうして三千万円が必要だったのでしょう」麻衣は首をひねりながらその場を去った。


アルファードの助手席に座りながら、麻衣は思考を巡らせていた。やがてひらめいた。

黒縁眼鏡以外、布施にそっくりだ。セックスが終わった後、アメリカ株の魅力を盛んに言っていたのを思い出した。

「もしかしたら生きているのでは?」

「まさか。死んだ写真があるんだ。有り得ないよ」

(四十) 

十二月二十四日。

布施と絵里は倉庫のソファーに座っていた。

「今日は、今回のプロジェクトのけじめをつける。最高のクリスマスイブにしようじゃないか」

「何をするの?」

大膳健吾を、完璧に破滅させる。奴が務めるC&C会計事務所の理事長に手紙を出す。

「これで一巻の終わりだ」

「どんな手紙を書くの?」

二人は立ち上がり、布施は机の椅子に座り、パソコンを開いた。ワードを立ち上げ、手紙を書いた。


「C&C会計事務所 理事長様。

突然ですが、貴社は大変な立場に置かれています。

十二月十三日。

大膳健吾副理事が、高利貸しから五十億円を借り入れました。

布施明生さんを殺害し、脅迫されているからです。

殺害のため、殺し屋などに二億円を払いました。  

大膳は貴社の金を横領し、何の勘定科目かわかりませんが、費用として計上されているはずです。


会社の業務目的とは全く関係がなく、個人の欲望(殺人などに)のために使われているのです。これは会社の費用には認められません。脱税や粉飾決算にもなります。

貴社の輝かしい名誉を傷つけます。早めに精査すべきと思われます。会社の金を何十億円も横領している人間が、一円も盗んでいない人間を、盗むかどうか調査するのはあまりにも馬鹿げております」


「いいわね。これで、大膳も終わりだわ。徹底的に飲みましょう。今夜は最高のクリスマスイブだわ」

絵里は随喜の心に満ちた表情を浮かべた。

「どこか有名店で飲もうか?」

「この倉庫で飲みたいわ」

飲酒運転の心配もないし、ここが一番、リラックスして飲めるからだ。打ってつけの場所だった。


「よし。準備しよう」

今夜のお祭りに必要な物、シャンペン、ケーキ、酒のおつまみを買い出しに行くことにした。

郵便局で手紙を投函した。


シャンペンは冷蔵庫に入れ、冷えるのを待った。とりあえず、冷えているビールで乾杯した。

小さなケーキを半分程、食べた。残りを別室に監禁している今井と山上に与え、部屋に鍵をかけた。

このようにうまく事が運ぶとは思わなかった。念願の復讐ができ、二人は愉悦を覚えていた。

「親友もその母親も喜んでいると思うわ」

「私も同じだよ。長かった負を終わらすことが出来たよ」


今まで、大膳にやられっぱなしだった。悔しい思いで、あの世に行くものだと思っていた。その負が無くなったのだ。

「私も友達に恩返しが出来たわ」

「絵里さんの一通のメールが奇跡を呼んだよ」

「子猫のヒーちゃんのお陰もあるわ」


二人は満ち足りたイブを満喫し、会話が弾んだ。

「布施さんは一度も結婚していないの? 」

「生涯、独身だよ」

布施の表情に哀愁が漂っているのを覚えた。

「今まで結婚したいと思った女性はいなかったの?」

「いないはずがないじゃない」

布施には憧れた女性が何人かいた。いずれもタイミングが合わなかった。結婚に憧れていたが。


高校二年生の時、同級生で街一番の他の高校の女性に憧れていた。中学が同じだったが、口をきいたことがなかった。

同じ高校の女性から、その女性の写真と手紙を受け取った。

「付き合ってください」という内容だった。

布施は迷った。

そのころ、進学相談があり、進学係の先生から、

「君の第一志望はどこだ?」と質問を受けた。

「慶応です」きっぱりと言った。

「第二志望は?」「ありません」

「君ね。自分の成績を考えて、大学を決めなければだめだ」

その時の布施の成績では、絶対、だめだった。あと一年しかないのだと先生に言われたばかりだったからだ。


そんな時、同じクラスの男に呼び出された。不良ではなく、普通の生徒だった。誰もいない教室に連れ込まれた。

教室に入るなり、強烈なパンチを浴びせられた。

「お前、生意気なんだ。いい加減にしろよ。ほかの生徒には黙っていてやる。ありがたいと思え」と捨て台詞を残し、教室から出て行った。

一人になった布施は、あまりの悔しさで、涙がとめどもなく溢れ出てきた。なにがありがたいのだ。


布施はこの時、

「よし! 必ず、現役で慶応に入学してみせる! まだ、一年もあるじゃないか」と強烈に自分の潜在意識に訴えかけた。

そして、憧れの女性に断りを入れた。

その女性は大学を卒業後、間もなくほかの男性と結婚した。


大学の友達に、すごい金持ちの息子がいた。

自宅にテニスコートがあるのだ。昼間はテニスし、夜は彼の父親の高価なウイスキーを飲む間柄だった。

その友達が結婚した。その相手は上品で頭がよく、絶世の美人だった。テニスもうまく、よく相手した。

その女性に憧れた。


五年前、その友達は脳溢血で倒れ、帰らぬ人になった。

彼女は、布施の求婚を待ち望んでいた。

布施も結婚したかった。しかし諦めるしかなかった。

もし結婚すれば、彼女は興信所の絶好のターゲットになるからだ。友達にも迷惑かけた。絶対、彼女に迷惑かけたくなかったからだ。

 彼女は待ちきれず、他の男性と再婚した。


「これも大膳のせいね」

「その通り」

これで結婚が出来なかったことに対しても、復讐が出来た。

(四十一)

十二月二十八日。

大膳健吾は正月休暇に入るため、書類を整理していた。

大田原理事長から電話があり、理事長室に来るよう、言われた。

理事長の声が荒々しく、大膳は嫌な予感がした。

ノックしてドアを開けると、理事長はじめ幹部四人が眼光を光らせていた。燃え上がるような怒りの表情を浮かべていた。

理事長はじめ五人で徹夜して、大膳の経理を精査した。十億円ほど、十二月だけで、調査費を計上しているのが判明したようだった。


「これは何の調査ですか?」

大田原理事長が憤怒の形相を浮かべていた。五十一歳と若いが、頭脳明晰だった。太い眉毛と鋭い眼光が印象的だ。

「この法人のGC注記に当たるものです」

大膳の意外な返答に、五人全員が驚きの色を浮かべた。

この監査法人に倒産のリスクがあると言っているわけだからだ。

「確かに言えていますね。あなたが、その原因です」理事長が大膳を指さし、強い口調で言った。


大膳は不意に胸を突かれたような気がした。

大膳は人を殺し、五十億円をゆすられ、高利貸しから借りた。これが明るみになれば、倒産のリスクになる可能性があると判断を下したようだ。

「これは本当ですか?」理事長が厳しく追及した。

会長のあまりにも詳しい内容に、大膳は、これまで見たこともない光景が眼前に展開し、息をのんだまま唖然となった。

犯人が手紙を送りつけたのだろうと悟った。ここは開き直る一手だ。

「私は殺してはいないし、高利貸しから五十億円を借りてもいない。みんな、出鱈目だ!」

「じゃ、十億円の具体的な使い道を教えてください」

「探偵事務所に払った」

「探偵事務所は誰を調査しているのですか?」

大膳は黙り込んでしまった。


アメリカのC&C監査法人の会長とも相談していたようだ。納得がいく回答が出されなければ、大膳を懲戒免職にすることで合意していたに違いない。

「退職金はありません。横領容疑で警察に引き渡しますが、よろしいですか? 」理事長は見透かすように言った。

大膳のこめかみのあたりを思いっきり殴られたように、一瞬、目の前が真っ白になるように感じた。

「警察だけは勘弁していただけませんか」泣きを入れた。


大膳は今まで法人に貢献してきた。かなりの数のクライアントを大膳の息子から紹介されていたからだ。それに、少しでも横領された金を取り戻す方が得策と判断したようだった。

「すぐに、三億円を支払えば横領容疑で警察に報告しません。それでよろしいですか?」「分かった。土地と建物で三億円ぐらいになります。妻が権利書などを保管しています。今から持ってきます」

大膳は憮然たる態度で会長室から出た。


スマホを取り出し、探偵事務所に電話を入れた。

堂本社長が出た。

「犯人が裏切りやがった。五十億円を払ったのに。くそったれ! 監査事務所の会長に犯行の全容を書いた手紙を送った」

大膳の頭の中がしびれて現実を受け入れられないでいた。

「犯人は金目当てではなかったのですか?」

「どうも、俺を破滅させることが目的なのかもしれない。懲戒免職になり、ほとんどの財産を差し押さえられる」

「えっ! 大変なことになりましたね。わが社も破滅ですよ。高利貸しは黙っていませんからね」

堂本社長の口調には、やり場のない苛立ちが全身を駆け巡っているように感じられた。


「高利貸しはどんな人間だ?」

「暴力団と言っても過言ではありません。ものすごい取り立てになります。金を作って、逃げませんか?」

「もう、それしか選択肢はないな」

大膳は会社を飛び出し、家に帰った。四谷駅から徒歩七分の所にある豪華な邸宅に住んでいた。


玄関を開けるなり、妻の紀子に言い渡した。

「俺は終わりだ。この家も土地も監査法人に引き渡さなければいけない」

「えっ!」彼女は絶句した。

「権利書などを持ってきてくれないか。これから監査法人に戻り、それらを渡してけじめをつける」


「何があったの?」

彼女が強いショックを受けたのは明らかだった。唇は開いたまま硬直し、目を盛んにしばたかせていた。

「懲戒免職になった。暴力団に五十億円を借りたのだ。とても返せない。夜逃げするしかない」 

「えっ! 私はどうすればいいの?」

妻は吃驚した。彼女は六十歳だが、若い頃の上品さが残っていた。頭はよく、しっかりした心を持ち合わせていた。今ここにある危機を分析していた。


「五千万円ほどの現金がある。半分を渡す。すぐに離婚しよう。娘の所にでもいて、身を隠せ」

「身を隠して生活しなければいけないのですか?」

「見つかれば、大変なことになる。ぐずぐずしていられないのだ」

「分かった。すぐに離婚届けの用紙を取り寄せるわ」

妻は自分たちに襲い掛かってくる危険を悟った。

暴力団の激しい追及を覚悟し、二人は家を後にした。

(四十二)

今坂麻衣はルンルン気分で、鬼頭省吾のアパートにて、料理を作っていた。今夜の料理はカレーだ。

鬼頭は虫の居所が悪そうだ。頭を抱えて台所のテーブルの椅子に座っていた。

鬼頭は苛立った怒りを込めて言った。

「何がそんなに楽しい。大膳先生は破滅し、俺の会社もつぶれるのは時間の問題だというのに」

「あんなボロ会社、つぶれたっていいじゃない」麻衣はさらりと言った。

「なんだと! どうやって、これからの生活を立てればいいんだ」

憤怒の形相を浮かべた。


麻衣は旨そうなカレーをテーブルに置き、

「私たちに、神風が吹いてきたの。このカレー、美味しいわよ」と言って椅子に座って胸を張った。

「神風? どういうことだ? 」鬼頭は身を乗り出してきた。

「布施明生を殺したと思っているでしょう」

「当たり前だ」

死んだ写真もあるし、専務がはっきり布施の死を確認したのだ。

誰もがそう思っている。それが違うのだ。頬をつねってみたら、まともな風景に変わるかもしれないと、麻衣は笑みを浮かべてからかった。


「布施が生きている証拠はどこにある」

「今のところ証拠はないわ。そのうち必ず見つけるわ」

「じゃ、布施が死んでいる写真を誰が撮った?」

「誰が撮ったか分からないわ。でもこれは大した問題でないの」

発想の転換をしなければいけない。写真を撮ることが出来、布施と大膳の関係を知っているのは山上しかいない。でも、山上だと考えるのは矛盾がある。


「山上専務が犯人ではないと言うのか?」

「私は違うと思う」

山上が犯人なら、ガルシアの四千五百万円を持っているから、夫人から三千万円を奪う必要がないのだ。

「なるほど。じゃ、誰が犯人だ?」

「布施よ!」

「布施は死んだんだ」

「必ず、生きている。生きていなければ、今回の脅迫は不可能よ」


写真を撮ることが出来、布施と大膳の関係を知りうるのがもう一人いる。死にそうな布施を発見した人物だ。

もし、砂漠で死んでいる布施を見つけたとする。死んだ写真は撮ることは出来る。しかし、布施と大膳の関係は分からないから、大膳に五十億円を要求することは出来ない。写真を撮った人が助けたのだ。そうしないと情報を得ることは出来ない。

「だから、必ず、布施は生きているのよ」


「なるほど。山上専務はどうしていると思う」

「たぶん、布施に監禁されているわ」

「お前、天才だな。早く、この事を社長や大膳先生に知らせないと」

「馬鹿なことを言わないで! 先生や社長を救って、どうなるというの。冗談じゃない」

「知らせれば、礼金を貰えるし、出世するよ」

「もっと頭を使いなさいよ」

礼金とか出世なんか、たかが知れている。五十億円を全部、いただくのだと、麻衣は唇を舐めながらうそぶいた。


「えっ! 大きく出たな」目が飛び出さんばかりに大きく開いた。

鬼頭は舌を巻くと同時に、麻衣のしたたかさに肝をつぶしたようだ。

「だてに大学を出ていないわ。三流大学だけど」

麻衣は舌なめずりして得意満面の笑みを浮かべた。


「そうかよ。まあいい」麻衣を認めた。さらに続けて言った。

「お前は布施と一年ほど付き合っていたんだろう。奴の電話番号を知っているだろう。かけてみろよ。間違って出るかもしれんぞ」

「そうね」と言って布施に電話を入れた。

二十秒ほどかけ続けたが、布施は電話口に出なかった。麻衣は苛立ちを覚え、電話を切った。

「絶対に、出し抜いてやる。必ず、見つけて金を奪い、殺してやる」

麻衣の背筋に恐ろしい戦慄が走った。


「そうだよな。何かいい方法はないか?」

「ピッキングすることが出来る?」

「ぎざぎざの鍵なら出来る。どこの家に入る?」

「布施の家よ。家じゅう丹念に探せば、何か手掛かりになるものが、見つかるかもしれないわ」

「なるほど」

考えてみれば、布施を殺しても、大膳が殺したことになる。五十億円もいただければ、一石二鳥だと鬼頭は判断した。

「そういうこと。頭を使わないとだめよ」


布施の家の鍵はシリンダーである事を彼は知っていた。鍵を開けることは出来ないが、家に侵入することは出来る。その詳細を話した。

「餅屋は餅屋ね。これから行きましょう」

(四十三)

外は、夜の帳が下りていて、夜を彩る街灯やネオンが通りの両側をこうこうと照らしていた。そこを鬼頭の車が走り抜けていた。

布施の家に着いたのは、夜の一時を過ぎていた。

外套の光だけが、ほんのり辺りを照らしていた。

大谷石の塀に囲まれた二階建ての家は、夜の闇にほのめいて、輪郭が定かでない。道路には人の気配はなかった。

玄関の電灯は消えていた。

鬼頭と麻衣は門のドアを開け、庭に入った。スゲや松の木が植えられており、道路から姿を見られる心配はない。


問題は音だけだ。

鬼頭はバールで、音をなるべく出さないよう気を付けた。難なく、居間の雨戸をこじ開けられた。

バッグから、カセットガス用ガスバーナーを取り出した。ガラス戸の鍵近くに、焼き入れした。

ガラスに水をかけ、ぽんと叩くと二十センチほどの穴が開いた。その穴に手を入れて鍵を開けてドアを開けた。

「お見事! 」麻衣は思わずつぶやいた。


部屋の電気をつけた。一階の居間には、目的のものはなかった。

二階の寝室に入った。部屋はきれいに整頓がなされていた。机の上のディスクトップパソコンを開いた。

データはすべて消去され、購入時の状態になっていた。

「くそ! これじゃ、家に侵入した意味がないじゃないか」

鬼頭は慙愧に堪えない状態だった。

机の中を探したが、布施が、今、どこにいるかの手掛かりになるものは、一切、見つけることは出来なかった。

「くそったれ」と鬼頭はぼやいた。


麻衣は隣の部屋の押し入れを探していた。

押入れの奥に、段ボールがあった。その中に、古い年賀状が入っていた。十年以上前のものがたくさんあった。

新しい年賀状は無かった。布施はこれを処分するのを忘れたのだ。これは手掛かりになるに違いない。

「全部、持っていこうよ」麻衣は薄笑いを浮かべた。

鬼頭は首を傾げ、

「そんな古いもの、何に使うの? 」とからかった。

「少なくとも、布施が生きているかどうか分かるわ」

「布施はどこにいるかも分かる?」

  「そこまではどうか。一月一日になれば分かるわ」

麻衣は下唇を舐め、得意げの表情を浮かべた。

「本当? 三日後じゃない」


「もしお金を手に入れることが出来たら、結婚してくれる? 」と麻衣が尋ねた。

「勿論だよ。式は二人だけで、海外でやろうじゃないか」

「いいわね」

彼女は金が入ったら、超豪華に式を上げるつもりでいた。新婚旅行は豪華船で世界一周したかった。

「五十億円があれば、何でもできるな」

「ねえ、これからラブホへ行きましょう。たっぷりサービスしてくれないと駄目よ」甘えた声で言った。

「ヨッシャー。分かっている。今夜は寝かせないぞ」幸運が舞い込みそうで、鬼頭に活気がでたようだ。溢れる喜びを押し隠すことが出来ない状態だった。

(四十四)

一月一日。午前九時。

今坂麻衣は東京都世田谷区にある一軒家の門の近くで、郵便配達人が年賀状を配るのを待っていた。

鬼頭省吾は横浜市の一軒家で待っていた。いずれも、布施が年賀状に自筆で文章を書き加えた相手だ。

たぶん親しい関係だろう。

午前十時ごろ、三軒先の家に、郵便配達人が郵便受けに年賀状を入れていた。もうすぐこの家に来る。

麻衣は塀の扉を開け、中に入った。


「ご苦労様」と言って、年賀状を受け取った。

急いで、布施明生からの年賀状がないか、調べた。

「あった! 」それを引き抜き、残りを郵便受けに入れた。

「やっぱり、布施は生きている」と言って頷いた。

「本年から、新しい人生が始まります。今までの疲れを癒し、再スタートを切ります。XXXに決めた」と書かれてあった。


麻衣は鬼頭に電話を入れた。

「どう。布施からの年賀状が届いた?」

「届いた。お前が言うように、布施は生きているな」感心している様子が伝わってくる。

「私の推理に間違いないでしょう」得意満面に言った。

「お前はすごい。こちらも同じ文章が書かれてある。何だ? XXXに決めたって」

「分からない。今までの疲れを癒すのに、なにをするかしら?」

「俺なら、温泉旅行だな」

「布施も温泉が大好きなの。温泉は間違いないわ。問題は、XXXに決めたよね。どう言う事かしら?」

「それが分かればいいんだよな」


麻衣は電話を切り、駅近くのコーヒショップに入った。スマホで東京近辺の温泉をグーグルで検索した。

有名温泉で、三文字のホテルを探した。草津温泉、水上温泉、鬼怒川温泉、熱海温泉、日光温泉、那須温泉、などを探した。

ヒントは見つからなかった。

麻衣は諦めかけていた。最後に伊東温泉を探してみた。スズメホテルが目に飛び込んできた。

ホームページに、「CMソングでおなじみの老舗ホテルです。『伊東に行くならスズメ♪』」と書かれてあった。


麻衣は温泉が好きな母親に電話を入れた。

「麻衣? 久しぶりね。元気?」

「すごく元気よ。お母さんは温泉が好きよね。伊東に行くならスズメというCMソングを聞いたことある?」

「もちろんあるわ。有名よ。私ぐらいの年以上の人なら、ほとんどの人が知っているわ」得意げに言った。

「歌ってみて」

「伊東に行くならスズメ。スズメに決めた♪」

「これだ! ありがとう」と言って電話を切った。


麻衣は舌なめずりして得意満面の笑みを浮べ、スズメホテルに電話を入れた。溢れる喜びを押し隠すことが出来ないでいた。

「そちらに、布施明生さんが宿泊しておりませんか?」

「ちょっとお待ちください。帳簿を見てみますから」三分ほどし、

「そのような方はお泊りいただいておりません」と返事があった。

「では、八重樫純一さんはどうですか?」

「ちょっと待っていただきますか」少し経ち、

「その方でしたら、お泊りいただいております。お知合いですか? 」と尋ねた。

「友人です。一人ですか? 」麻衣は目をキラキラと輝かせていた。

「はい」

「部屋の番号は何番ですか? 」

「新館和室の5025号です」


「ありがとうございました」

今日から一泊二日で、二名の予約を取れるか尋ねた。友達と同じ建物の部屋を求めた。同じ新館和室に空きがあった。

麻衣は有頂天と言えるほどの快感を覚え、鬼頭に電話を入れた。

「布施の居場所が分かったわ。伊東温泉のスズメホテルよ」

「本当か。よく分かったな! お前は天才だよ」鬼頭の驚愕の感情が伝わってくる。

「だてに大学に行っていないわ」

「電車で横浜に来てくれ。早速、行こうじゃないか」


行く前に用意するものがあった。板前かコックの服。お盆。ワイン一本。おつまみを用意するよう鬼頭に伝えた。

「そんなもの、何に使うんだ?」

布施は用心深いから、すぐにドアを開けないだろう。ホテルの従業員に見せかける必要がある。

「そうすれば開けるわ」

「なるほどね。何度も言うけど、お前は本当に頭がいいな」

「それは何回言ってもいいのよ。こちらも、だてに大学を出ていないわ。三流だけど」麻衣は小躍りして言った。

「俺は高校中退だもな」やけ気味に言った。


横浜で、麻衣はアルファードに乗り込んだ。

麻衣は今まで気づかなかったが、この車のフロントがかっこいいと思った。たくましい顔しているからだ。内装もいい。良いことがあると何もかもが素敵に思えた。

「新車の匂いがするわ」

「乗り心地も最高だ」鬼頭は法悦境に浸っているようだ。

そればかりではない。布施を確保するというお土産までが付いている。最高のドライブになるのは間違いない。

「わくわくするわ。最高!」

麻衣は顔一面に満悦の笑みを浮かべた。


乗ったアルファードが、スズメホテルに着いたのは、午後六時を過ぎていた。疲れどころか、爽快だった。

辺りはすでに、夜の暗闇に包まれていた。夜のホテルの窓という窓から、明かりがこぼれていた。

二人はフロントで、宿泊の手続きを取った。

部屋に案内され、食事をとった。

夜の八時ごろ、鬼頭はコックの白い服を着て、お盆にワインとおつまみを載せ、麻衣と一緒に部屋を出た。


鬼頭が布施の部屋のドアをノックした。

ドアチェーンがかかった状態で、少し開いた。

布施の顔が少しのぞいていた。

「正月の特別サービスです」

鬼頭はお盆に載ったワインとおつまみを見せた。

「ありがとう」と言って布施がドアを開けた。

鬼頭は布施の額にスタンガンで電流を飛ばした。

布施は仰天の表情を浮かべ、その場に崩れ落ちた。


鬼頭と麻衣は部屋に入り、すかさずドアを閉めた。

気絶している布施を、二人で引きずって部屋の中央まで移動させた。布施の後ろ手に手錠を掛けた。

「すごいわね。そのスタンガン」

「ただのスタンガンじゃない。FBIの護身用として開発されたものだ」

「さすがね。布施はあとどれぐらいで、目を覚ますの?」

「分からない。ガルシアの時と二回しか使ったことがない」

鬼頭は手錠の鍵と、スタンガンをテーブルの上に置いた。


十分ほどし、布施は意識を取り戻した。

痛みのせいか、顔を歪ませている。話すことも出来ないでいた。動くことすら出来ないようだ。うつろな目をしている。

三十分ほどし、布施は体を動かすことが出来るようになった。

「布施。大きな声を出したら、これをお見舞いするぞ」テーブルの上からスタンガンを取り上げて言った。

「分かった。それをこちらに向けるな」

布施は口をぽかんと開け、恐怖の表情を見せている。


「銀行の通帳やキャッシュカードなどを、どこに隠してある」

言わないともう一度、痛い目に遭わせる。ちょっと間違うと、死ぬこともあると脅した。

鬼頭はスタンガンの電流を流して威嚇した。

布施の心胆を寒からしめたようだ。


「分かった。それは二度とごめんだ。仕方がない。教えるよ。品川区のワンルームマンションにある」

「マンションのどこにある?」

「机のそばに金庫がある。その中だ」

正確な住所とマンションの名前を言うように伝えた。それと、金庫の鍵のある場所を言うように要求した。

布施は住所とマンションの名前を言った。

金庫の鍵は十桁の番号を入力することになっていた。もし五回、間違うと二十四時間、開かなくなる。番号を控えるようにと言った。

布施はすらすらと番号を言った。

「本当だろうな。噓ついたら、ただじゃ済まんぞ」

「そんなこと百も承知だ。間違いない」


鬼頭は麻衣に視線を向け、

「なにかがあったら、このスタンガンを使え。これから、品川まで、通帳などを取りに行ってくる」と言った。

「気を付けて行ってね。ここは私に任せて」

鬼頭はコックの服を脱いで部屋から出て行った。


鬼頭が姿を消すのを見届け、

「俺がここにいるのが、どうして分かった? 」と布施が疑心暗鬼の表情を浮かべて尋ねた。

寒くなると、布施は温泉に行きたいといつも言っていた。温泉に行っているとピーンときたと、麻衣は得意げに言った。

「日本にはたくさんの温泉がある。どうしてここだと?」

「年賀状よ」

疲れを癒し、新しい人生をスタートする。XXXに決めた。と書いてあった。

麻衣は心の中を見透かすような表情を浮かべた。

「年賀状? あんたには送らなかったはずだ」

「あなたの友達の年賀状を見たのよ」

布施の友達の年賀状をどうやって見つけたのか、布施は思案投げ首の体だった。


「そんなことどうでもいいじゃない。私と別れてから、どんな暮らしをして来たの」

「ひどい暮らしだ。地獄を味わっていた」

地獄の内容を詳しく伝えた。

「ひどいわね。よく今まで、生きていられたわね」

「俺も同じ思いだ」


去年の暮れ、大膳が退職処分になった一連のことを、麻衣は話した。そのあおりを食って、探偵事務所も潰れることも聞かせた。

「だろうね」

二十四日付で、C&C会計事務所の理事長に手紙を送ったのだ。

「どんな内容の? 」

布施は手紙の内容を詳しく説明した。

かなり内情をよく知った人の手紙だ。山上から聞いたのだろう。

「山上を監禁しているんでしょう?」

「ああ。よく分かったな」


誰もが山上は主犯だと考えている。麻衣だけだ。布施が生きている。

布施が主犯だと思っていたと、麻衣はどうだと言わんばかりの顔で言った。

「たいしたもんだ。でも、欲張ったものだな。五十億円を奪おうというの。絶対に無理だよ」

布施は鋼のように固いしっかりした口調で言った。

「どういうこと?」

「よく考えれば分かる」

「鬼頭に言ったこと全て、出鱈目ということ?」

「その通り」

「よくもやってくれたわね」

彼女は「ふん」と鼻先に冷笑を浮かべるようなふてぶてしさを浮かべた。


「勿論だ」

本当のことを言うはずはない。どっちみち、殺されるのだ。相棒に迷惑かけたくない。

「耐えられないほどのリンチを受けるわよ」麻衣は傲慢な面構えにして言ってやった。

「舌を噛み切って死んでやる」


通帳やカードは貸金庫に入れてあるようだ。その金庫には二つの鍵がある。一つは布施が、もう一つは相棒が持っている。二つなければ開けられないらしい。

「お気の毒さまだな」布施は冷笑を浮かべた。

麻衣は布施の心の中を読んでいた。

「あのような男と組まないで、俺たちと組まないか? 俺の取り分の半分、十二億五千万円をあげるよ」

「本当?」

「俺、今まで嘘を言ったことある? 必ず、実行するよ」

「さっき、噓をついたわ」

裏切れば、鬼頭や探偵事務所の人間に、徹底的に追われ、復讐されるのは間違いない。


「俺みたいに、別人になって逃げるんだ」

五千万円ぐらいを出せば、個人番号、健康保険証、戸籍を買うことが出来るらしい。

まだ、麻衣は首を傾げて迷っていた。

布施たちはその方法を知っている。十二億円があれば、優雅に暮らせる。

「それともゼロ円で、俺を殺すか?」

今坂麻衣は脳症を絞っていた。布施の言う事も悪くないと思った。そして切り出した。


「今、相棒に電話できる?」

麻衣を仲間に入れてくれるか、尋ねて欲しかった。それに相棒に会えるかも聞いてもらいたかった。変なことしたら、スタンガンで電流を発射すると警告した。

「分かった。手錠を外してくれないか?」


麻衣はテーブルの上にある鍵で、手錠を外した。

布施は絵里に電話を入れた。

お互い、新年の挨拶を交わした。

「今、伊東温泉にいます。これからアジトに帰ります。今坂麻衣さんを知っている?」

「名前すら、聞いたことがないわ。どうして? 」

「麻衣さんが、私たちの仲間になりたいと言っている。私の取り分の半分をあげたいと思うけど、どうだろう? 」

「布施さんの取り分をあげるのは自由だけど、どうしてそんなにあげないといけないの? 」

「命を助けてくれたお礼だよ」


後で詳しく説明する。夜遅く、正月早々、申し訳がないが、アジトに来てくれないかと依頼した。

「命を助けてもらったの? 何かあったのね。いいわ。伊東温泉からだと、五・六時間はかかるよね」


布施は電話を切り、

「これから俺の車で、アジトに行こう」と麻衣に催促した。

絵里は別人になる名人のようだ。

「分かった。別人になって、優雅に逃走するわ」


まもなく、鬼頭省吾から、麻衣に電話が入った。

「布施の野郎、出鱈目を言いやがった。手足の爪を一本ずつ剝がし、傷めつけてやると言ってくれ」口調に怒気が色濃く混じっている。

「嘘! 徹底的にやらなきゃだめね」

「真綿を絞めるようにやってやる」

「大きな声を上げられたら、まずいわね。布施をあなたの所に移したほうがいいんじゃない?」

「そうだな。俺のとこに、とりあえず連れて来い。それからじっくり料理してやる。油断して逃がすなよ」

「大丈夫よ」

布施に運転させる。布施の左手と麻衣の右手にそれぞれ手錠をかける。こうすれば逃げられない。ちょっとでも変なことをすれば、スタンガンが物を言う、と言って鬼頭を安心させた。

                       (四十五)

布施と麻衣が乗った黒色のクラウンが、アジトの倉庫に到着した。布施は絵里に電話を入れた。

「今、着いた。ドアの鍵を開けてくれない」

絵里がドアを開けた。

布施はバックで、車ごと倉庫に入れ、二人は車から降りた。

絵里が倉庫のドアを閉め、鍵を机の中に入れた。

布施は二人を紹介した。

二人は笑顔を浮かべ、挨拶を交わした。


子猫のヒーちゃんが倉庫内を走り回っていた。

麻衣はこれを見て、突然、

「しまった! ミーちゃんを忘れていた」と大声を上げた。

布施と絵里は顔を見合わせ、複雑な表情を浮かべた。

「ミーちゃん? 」布施が怪訝な表情を浮かべた。


「私の大事な猫ちゃん。これから取りに行かなくちゃ」

「冗談はよせよ。家に帰るつもり? 男が待ち伏せているかもしれないよ。何もかも捨てなくちゃ」

「ミーちゃんは私の家族なの。絶対に失いたくないわ」

「家族であることは分かるけど、命がかかっているんだよ」

「待ち伏せはしていないわ。あの人の所に、布施さんを連れて行くと約束したでしょう。彼は自分の家で、待っているわ」


絵里子猫のヒーちゃんも家族同然だ。麻衣の気持ちはよく分かる。

「行かせてあげたら」絵里が助け舟を出した。

「分かった。家まで、車で送るよ」

「近くの駅まででいいわ」


布施は松戸駅まで麻衣を送った。

アジトに戻り、クラウンをバックから倉庫に入れた。

「何があったの? 」

布施は伊東温泉での出来事を、詳細に伝えた。

それで彼女に、十二億五千万円をあげると約束したのだ。

「どうして、布施さんが生きているのがバレタの?」

「友達に年賀状を出したからかな?」自信なげに言った。

彼女は布施が言っている訳を理解できずに聞き返した。

「えっ! どうして、彼女は布施さんの友達が分かったの? それにそもそも、布施さんの居所がどうして分かったの?」

「その辺が、私にもよくわからない」

関係者は布施が死亡したと信じ込んでいるはずだ。居場所が分からないように注意していたのだ。完全に、彼女に出し抜かれた。


「油断ならない相手ね。この先、大丈夫かしら」

「分からない。私が生きて帰るには、他に選択肢がなかった」

「でも、よく生きて帰れたわね」

「いい話もあるよ」

大膳が退職処分になった一連の出来事を話した。

「興信所も連帯責任になっているので、風前の灯火だ」

「やった! これで完全に、友達のリベンジすることが出来たわ」

絵里は有頂天と言えるほどの快感を浮かべて立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出した。

「夢が叶えられたわ。乾杯! 」

「乾杯! 」布施は心の底から大声を上げた。

                         (四十七)

今坂麻衣は鬼頭省吾のアパートのチャイムを鳴らした。

鬼頭が顔を出し、

「布施はどうした? 逃げられたのか」と鬼胎を抱いた。

「大丈夫よ。泳がせているだけ」

麻衣はアパートの中に入り、

「奴らのアジトの様子を見てきたの」と言った。

彼女は得意げの表情を浮かべた。


「奴ら? こんなに夜遅く、女も一緒か?」

「そうなのよ」

今、二人とも、江戸川沿いの倉庫の中にいる。出口は表の大きな木のドアだけだと伝えた。

「袋の中のネズミってわけか。前面から攻撃すればいいのか。簡単じゃない」

部屋の中から、大きな錠前がかかっている。鍵は机の中にある。

「私が中から、隙をついて鍵を開けてみるわ」


「どうしてそんなに、仲良くなれたんだ? 」

布施はどんなリンチを受けても、通帳などの在りかを教えない。

「舌を噛み切って死ぬと言うのよ」

「リンチを続ければ、そのうちに吐くものだが」

たとえ布施が吐いたとしても、貸金庫の鍵は二つあるから駄目だ。布施が一つ。絵里が一つ持っていると告げた。

「開けることは不可能だと言うのよ」

「なるほど、そういうわけか」


「布施たちと組まないかと言うの」

そうすれば、布施の分け前の半分、十二億五千万円をやると言ったのだ。

「奴は太っ腹だな」

「しかも、他人に成りすまし、逃亡する方法があると言うの」目を輝かせて言った。

「いい条件じゃないか。なぜ、布施と組まない?」

「あなたと組めば、二十五億円が入るわ」

「計算が高いな」

「お金だけではないの。一番の理由は布施が嫌いなのよ」

布施は上から目線で麻衣を見る。金を払えば、誰とでも寝ると誤解している。馬鹿な女だと思っているにちがいない。

「見返してやりたいのよ」


「そうだよな。おまえは馬鹿どころか、凄く頭が切れるよ」

「そこなのよ! あんたは私を認めてくれるわ。だから好きなの。布施は認めようとしないの。必ず、後悔させてやるわ」

麻衣は欣喜し、最後は意気込みを示した。

彼女の気持ちを知って、鬼頭は喉に突き上げてくるような嬉しさを覚えているようだ。ますますモチベーションが上がってきた。


「早速、行こうじゃないか。仲間を三人ほど、集める」

麻衣が鍵を開けられない場合を想定し、皆に大きなバールやツルハシを持ってくるように、友達の三人に電話で伝えた。

皆、了承し、鬼頭のアパートに集合した。

四台の車で、目的地に向かった。


                      (四十八)

 「麻衣です。ドアを開けてもらえない? 」と電話があった。

絵里がドアを少し開けると、麻衣が中に入ってきた。

絵里が不審そうな表情を浮かべ、

「猫はどうしたの? 」と尋ねてドアに鍵をかけた。

「どこを探してもいないのよ。窓が少し開いていたの。きっと、そこから外に飛び出したのよ。困ったわ」麻衣は気に病む表情を浮かべた。

「諦めるしかないわね。家に帰って何も持ってこなかったの?」

麻衣は小さなバッグを持っているだけだった。

「私の家にあるのはがらくたばかりよ」

別人になって新しい生活をスタートさせるわけだ。全て新しいものを買い揃えるようだ。


あと三・四日、この近くで生活しなければならない。

「せめて洗面道具ぐらい、持ってくればよかったのに」

「ホテルにあるわよ」

「そうよね。お金が沢山入るから」

絵里はこれからのスケジュールを話し合うことにした。


絵里が机の上に鍵を置き、ソファーにいる布施の隣に座った。

少し遅れて、麻衣は机の上の鍵をそっと握ったのを二人は気づかなかった。何食わぬ顔で、二人の前に座った。

「山上と今井はいつ、釈放するの? 」絵里が尋ねた。

「まだ返すわけにいかないよ」

三人がここを出てから、堂本探偵事務所に手紙を送ることにした。

「二人をここに閉じ込めているの? 」麻衣が尋ねた。

そこの六畳間に閉じ込めている事を伝えた。


麻衣がうなずきながら尋ねた。

「私の別人をどうやって探すの?」

絵里はそれが一番先にやらなければいけないことに気づいた。死にたいと、ツイッターでつぶやけば、仲間が集まってくるのだ。

「その中から選べばいいのよ」

 三人は立ち上がり、机に移動した。絵里が椅子に座り、PCを立ち上げ、ツイッターを開いた。

それを布施と麻衣が背後に立ちながら覗き込んでいた。

やがて、布施が椅子に座り、自分のパソコンで、ツイッター内でつぶやき始めた。


今坂麻衣はじりじりと後退りして振り向いた。錠前を掴み、鍵を差し込もうとしていた。

わずかな不穏な音に、布施と絵里は反応して振り返った。麻衣の行動で、二人とも、身の危険を感じた。

「鍵を開けて何をするんだ!」

布施が叫びながら麻衣に走り寄った。

麻衣は動転して鍵を落とした。すかさずバッグからスタンガンを取り出し、布施に向けた。

その瞬間、絵里が彼女の手を蹴り上げた。

スタンガンは五メーターほど先に、ぶっ飛んだ。


「助けて! 」麻衣は形相を一変させ、大声を上げた。

絵里の正拳が麻衣のみぞおちに食い込んだ。

麻衣は膝から崩れ落ち、気を失った。

「危ない。また、強力な電波攻撃を受けるところだった。さすが空手黒帯。友人の母親が言ったように、いつか役立つ」

「親友の母親の口癖」

絵里はガムテープを、麻衣の手足にぐるぐると巻いていった。

その時、バリバリと木のドアを壊す、ものすごい音がした。


「ヤバイわ!」

何者かがドアを壊し、侵入するつもりだ。それも、一人だけではない。四・五人はいる。早く逃げないといけない。絵里は恐怖に襲われ、神経を尖らせていた。

「どこに逃げればいい。出口は一つだけだ!」布施は急き立てるように感情を高ぶらせているようだ。

「こういう時は冷静にならなければ」絵里は自分に言い聞かせていた。

絵里は辺りを見渡した。倉庫の奥の上のほうに、小さな窓口を見つけた。


「あそこの窓から逃げましょう」

「あの先は川だよ。他に逃げられない」

「泳いで渡るのよ」

「駄目だ。俺は泳げない」

この布施の一言で、絵里の心は弾んだ。これで、念願の布施への復讐が出来る。だが、次の布施の一言で天地がひっくり返るのを覚えた。

「一人で逃げるんだ。俺はここにいて時間稼ぎする。俺の分まで幸せになってくれ」布施は貸金庫の鍵を渡そうとしながら言った。

絵里は時間が止まったように絶句した。布施の言葉は彼女の思考回路を直撃した。その衝撃で頭が揺れる錯覚さえ感じた。


「駄目、一緒に逃げるの」と絵里は半ば呆れながら自分の口から出る言葉を聞いていた。

「俺は足かせになる」

「大丈夫。あの板で渡ればいいわ」鉢植えの花を置いてある大きな棚の板を指差して言った。厚さ五センチ、幅三十センチ、長さ百八十センチほどの板だ。

「分かった」絵里を頼もしげに見ているようだ。


窓は五メーター近い高さだ。布施はどうやって上り、どうやって下に降りるか分からないようだ。

「あの高さでは無理では?」

「大丈夫よ」

まず机を移動させ、その上に、大きな冷蔵庫を積み上げる。その上に登ると窓に手が届くと伝えた。

二人で、机を裏の壁にピッタリと付けた。冷蔵庫の中身を取り払い、机まで移動させた。冷蔵庫を机に横に立てかけ、二人で押し上げよとした。非常に重かった。

「そうれ! 」布施が気合を入れて叫んだ。

死の恐怖が火事場の馬鹿力を生み出し、冷蔵庫を机の上へ横に載せた。それを縦にし、さらに椅子を机の上に載せた。


絵里は電動ドライバーを机の中から取り出し、L字型の棚受け金具を壁から取った。十メーター近くの長さがあるコードをパソコンから外し、その金具に結わいた。

絵里は二本のビスを口に銜え、電動ドライバーと金具を持った。机の上に乗せた椅子に上がり、冷蔵庫のドアを開けた。そこを足場にして大きな冷蔵庫の上によじ登った。


彼女は窓枠に手をかけ、窓ぶちに金具を取り付けた。窓を外して脇に抱えて、コードを掴みながら降りてきた。

ドアを壊す音はさらに激しくなった。ドアに小さな穴がいくつも開いた。時間との勝負になった。

グズグズしてはいられない。

「ヒーちゃん。一人でいてね。あとで必ず、迎えに来るから」

子猫に別れを告げた。


絵里は板を抱え、コードを握ってよじ登って行った。板を窓から外に投げ捨て、床に降りた。

「布施さん、先に上って」

登ったら、コードを窓から外に垂らして、コードを掴みながら下に降りるように言った。

「分かった。サバイバル技術を訓練した甲斐があったね。何時かきっと、役に立つ時が来る」

「親友の母親の口癖」


布施はコードを掴んだ。絵里のよじ登る方法を参考にしながら、窓口まで登り、コードを外に出した。

布施はコードを掴みながら下に降りて行った。

木のドアが破られ、四人の男が倉庫になだれ込んできた。

絵里がガムテープを持ち、コードを掴みながら外に降りていった。

                  (四十九)

辺りは暗闇に包まれていた。川面に月の光が揺れていた。

「布施さん、早く服を全部、脱いで。服を水に濡らしたら。寒さを凌げないわ」

「この板で渡れるかな」服を脱ぎながら言った。

サーフィンのように、この板の上に乗って手で漕ぐのだ。

「これしか助かる道はないわ。早く!」


二人とも素っ裸になった。服をたたみ、頭の上に乗せ、ガムテープでぐるぐる巻きにした。

布施は板にうつぶせになり、手で漕いだ。

絵里は抜き手泳法で、泳ぎだした。

江戸川の流れは穏やかだった。川幅は八十メーターほどあった。

七メーターほど行った所で、布施が後ろを振り返った。


ぼんやりと月に照らされた四人の男が切歯扼腕していた。

水は冷たく、布施は骨身にしみた。身体が寒さで震えながら、漕ぎに漕いだ。慣れてないのと冷たさで、かなりの体力を使った。

絵里より、五十メーターほど流された。

布施は対岸にやっと着いた。寒さで震えが止まらなかった。頭に乗せていた服を取り、下着で体中を拭いた。その下着は捨て服を着た。

辺りは真っ暗に静まり返っていた。月の明かりがかすかに辺りを照らしていた。


やがて、暗闇から絵里が服を着て姿を見せた。

「冷たい水ね。命が助かったのだから、贅沢は言えないけど。体を温めるため、少し走りましょう」

「走る? とてもそんな体力はないよ。でもおかげで、命が助かった。ありがとう。水泳を習っていて、役に立ったね」

「親友の母親の口癖。何時かきっと役に立つ」

二人は漁火のような明かりを目印に、ゆっくり走りだした。


大きな国道に差し掛かった。

布施は息を荒くし、

「これ以上、走れない」と言って座り込んだ。

「じゃ、ここで待っていて。タクシーを拾ってくるわ」

絵里は走り出し繁華街の方に向かった。

やがて、絵里はタクシーを拾って布施のいるところまでやってきた。

布施が車に乗り込み、運転手にビジネスホテルでもラブホテルでも、風呂に入れる所に行くように指示した。

「マラソンで鍛えた甲斐があったね」

「親友の母親の口癖。何時かきっと役に立つ」

二人は心の底から湧き出る歓喜で、笑い声を上げた。

                       (五十)

 今坂麻衣は、二人が江戸川を渡るのを見て、目を尖らせ体を震わせていた。

「くそ! 一巻の終わりか」鬼頭が吐き捨てるように言った。

「簡単に諦めたらだめ!」麻衣は悔しそうに唇を噛みながら言った。

「まだ手があるのか?」

「今は思いつかないけど、必ず、見つけて殺してやる!」

麻衣の思いは切羽詰まった絶望感で、爆発的な殺意に変わったように見える。


鬼頭は友達三人に向かって言った。

「今日は夜遅くまで、ご苦労さん。無駄足を踏ませたな。金の卵を逃した。また、何かあったら、連絡する」

「もしうまくいったら、一億円ずつ、貰えるのだろう。こんな旨い話はない。是非、連絡してくれ。いつでも飛んでくる」

三人はこう言い残し、車のほうへ足を運んだ。


麻衣と鬼頭は倉庫に戻った。

鬼頭は机の引き出しから鍵を取り出し、別室のドアを開けた。

山上専務と今井が後ろ手に手錠をかけられていた。

鬼頭が手錠を外し、

「長い間、ご苦労さんです」と山上に挨拶した。

「やあ、すまない。助かった。だいぶ派手にやっていたな。布施と絵里という女を逃したのか? 」

「すんでのとこで、窓から出て、江戸川を渡り、逃げて行きました」

「惜しかったな」

「悔しいたらありゃしない」

「俺のスマホを取り上げられた。どこかに、ないかな?」

「机の中に、一台があります。あれじゃない」


専務はスマホを見つけ、堂本社長に電話を入れた。

「山上です。迷惑をおかけいたしまして申し訳ありません」

「えっ! どこから電話をかけている?」山上から電話があるのは意外だったようだ。

「今まで監禁されていました」

「そういうことか。犯人に解放されたのか? 」納得した様子だ。

「鬼頭君に助けられました。犯人は布施と絵里と言う女です。布施と外国人にまんまと、出し抜かれました」

「布施だって? 殺したのではないのか? 」堂本社長は不意を突かれた様子だ。

「殺したはずなのに。布施はぴんぴんしています」

「なんてこった!」

もう手遅れだ。大膳は首になり、夜逃げした。

以前の元気な堂本社長とは全く違っていた。言葉に張りはなく、世捨て人のようだった。


「先生には大変な迷惑を掛けましたね」

堂本探偵事務所も終わりだ。今、整理しているところのようだ。

「俺も夜逃げだ」完全に投げやりだった。

「そうですか。申し訳ありませんでした」

山上はボクシングがプロ級の腕前なのだ。

「なぜ女や布施に簡単にやられたんだ?」

「油断していました。私に出来ることはありませんか?」

「俺は社員に示しがつかん」

当社が倒産した理由を、社員に説明して倒産手続きを頼まれた。

「分かりました」


山上は肩をがっくり落として電話を切った。大膳に電話を入れた。

「先生。山上です」

「犯人のお前が何の用事だ?」

「違います」

山上は監禁され、犯人が言う通り、喋らされていたと言い訳した。

「今回は大変ご迷惑をおかけいたしました」

「今更、謝ってもだめだ」

馬鹿どもを信じたのが間違いだった。全てを失った。それどころか、暴力団に追われる身になった。全く情けないもいいところだと口走った。大膳はどうしようもない怒りをぶつけた。

「本当に申し訳がありません。申し訳ないついでに、もう一つお知らせがあります。言わないほうがいいでしょうか?」

「そこまで言って、言わない手はない。言ってみろ」

「怒らないでください。犯人は布施です。生きています」

「なんだと! お前らはどこまで馬鹿なんだ! 」大膳は聞くなり、いきなり電話を切った。堪えがたい怒りの情が伝わってくる。


臍を噛んでいる山上が鬼頭に告げた。

「大膳先生も堂本社長も夜逃げだって」

「そうでしょうね。時間の問題と思っていました」

鬼頭は麻衣に視線を向けた。


麻衣は倉庫にある布施と山上の車の中を探索していた。

「何か見つかった?」

「手掛かりがないか探しているの」

布施の車の車検はあったが、役に立ちそうもない。床の上に転がっていた二台のノートパソコンに手掛かりになりそうな物があるかもしれないと説明した。

麻衣は布施の車のナンバープレート番号、車種、色などを紙に控えた。二人の居場所の手掛かりになるかもしれないと思った。

山上は自分のレクサスに乗り、今井は、鬼頭の車の後部座席に座った。

麻衣はノートパソコンを抱え、助手席に乗り、帰宅の途についた。


                 (五十一)

タクシードライバーはラブホテルを見つけてくれた。

布施と絵里は部屋に入るや、服を脱ぎ捨て浴室に飛び込んだ。湯船に胸まで浸り、しばらく体を温めた。

やっと生きた心地がした。布施の欲望に火が付いた。

二人は湯船から出ると、自然と強く抱き合った。布施は唇が触れ合った瞬間、鳥肌が立つほどの快感が走った。絵里の裸体は見事なプロポーションをしていた。

布施の指が絵里の顔を優しく撫で、それから首へ、胸のふくらみに移っていく。気持ちよさそうにうめく絵里。彼の手はさらに下に下がり、彼女の股間の柔らかな部分に触れた。彼の手がそこで遊ぶと、彼女は呻きながらささやいた。

「早く」

二人は浴槽から出て、ダブルベッドに転がり込んだ。


自分の上に乗る布施の身体のたくましさを感じる絵里。長く短く刻まれる甘美なリズム。絵里はそれに乗って体を動かす。ふたつの官能が絶頂に向かって、急速に駆け上がっていく。

「ああ! いく! 」二人は大声を上げ、同時にいった。

あまりに激しかったので、二人ともしばらくベッドに寝そべったまま動くことが出来ないでいた。

恍惚の中で、絵里がブルッと身震いした。

「すごく良かった」思わず布施の口から洩れた。

「私も。初めていったわ」


今まで、彼女は若い人としかやったことがない。彼らはすぐにいき、彼女をいかすことはなかったのだろう。

布施の相手は出会い系の女性ばかりだった。彼女らは非常に事務的だった。

「今回みたいに、愛を感じてやったのは、何年ぶりだ」

「私も愛を感じてやったのは初めてよ」

まさに感動ものだった。布施には青春はほとんどなかったと言って過言ではない。大膳に奪われたのだ。


布施は、がばっと上半身をもたげ、

「結婚しない?」と真剣な表情を浮かべて言った。

今まで、布施は復讐のことしか考えていなかった。これからは別の人生が待ち受けている。大金を持ち、優雅な生活が出来るのだ。絵里と結婚することが欠かせない条件だった。

「いいわね。でも---」歯切れが悪い。

「でも、何?」

彼女は上の空で聞いているようだった。

布施は続けて言った。

「三十六歳という年齢? 顔にある火傷の跡? 」

「そんなものは全く関係ないわ」

「好きな人がいるの? 」

「いないわ」

「それじゃ、何が障害なんだ? 」絵里が考えていることを推測出来ないのが歯がゆかった。


布施と一緒なら、奇想天外な人生を送ることが出来そうだと言う一方、

「今、まだその時期じゃないの。もう少し待って」と絵里は結婚に前向きではなかった。

「分かった。辛抱強く待つよ」


「ねえ、外国旅行に行かない。今、パスポートを申請しているの」

「いいね。ぱっと、豪華に遊ぼう。どこに行きたい?」

彼女はまだ外国に旅行したことがない。ハワイ、ヨーロッパ、世界一周の豪華船旅、迷うところだ。

「布施さんと一緒なら、どこでもいいわ」

「今や、宇宙旅行も夢ではない。旅行誌やネットで調べよう」

「何か夢が膨らむわね。見知らぬ世界が広がっているわ」

絵里は驚喜に近い表情を浮かべた。

                      (五十二)

午後二時過ぎ、布施と絵里はイタリアレストランにいた。

絵里はピザを食べながら、スマホで世界の秘境を検索していた。

世界旅行の行き先は、よく考えると、日本人があまり行かないところがいいと彼女が言った。現地で日本人に会うのは嫌のようだ。

「いい所がある?」

「オーストラリアに行きたいわ。ホワイトヘブンビーチがすごい! 」

地球上で最も美しい、純白の無人島。背後に迫る原生林の深い緑と、透き通ったエメラルドグリーンの海。純白のビーチ。

この近くのウイットサンデーに浮かぶハート形をしたサンゴ礁がある。

「ハートリーㇷと言うらしいわ」

「ハート形のサンゴ礁か。ムードがあるね」

「一緒に見た二人は幸せになれるのですって」

日帰りクルーズや水上飛行機を利用することが出来る。

「すごいね。是非、行きたいね」


「その夢を叶えるため、私のマンションに帰らないと」

夢に浸っていた布施は、突然、暗い現実に引き戻された。

「マンションに帰る? 大丈夫かな」

倉庫に、絵里の住所が分かる物を残してこなかったか心配だった。

「大丈夫だと思う」

パソコンには個人情報は入っていないはずだと彼女が言うが。

「今坂麻衣は油断ならない相手だよ」

伊東温泉にいる布施を探し出した。未だに、どうやって、辿り着いたのかわからない。


絵里はマンションに帰らないといけないのだ。貸金庫の鍵や健康保険証を置いてあるそうだ。

「貸金庫の鍵を持ってこないと」

「貸金庫の鍵か」布施は頭を抱えた。

世界中を旅するには、ある程度まとまった金が必要だ。どうしても帰らなければいけない。

「大丈夫よ」


布施はテーブルに頬杖ついて考えこんでいた。

「仕方ないね」

万が一、奴らに捕まったら、猫のヒーちゃんを倉庫から引き取らないと、と言うように指示した。

「分かった。命の危険があった場合ね」

                  (五十二)

絵里は布施のことを考えながらマンションに向かった。今まで、母親や自分が不幸なのは布施が大膳の横領を暴いた手紙のせいだと考えていた。これは母親からの受売りだった。布施に復讐するのは絶対だと思い込んでいた。

今回の件で初めて、布施は素敵な人柄であることが分かった。決して他人の金を盗むような人ではない。

大膳の汚い手口と布施への酷い対応を知り、会計事務所の幹部に手紙を出すのは当然だと思うようになった。また、自分のことを心から愛していることも分かった。それはこの言葉が証明した。


「一人で逃げて。俺は時間稼ぎする。俺の分まで幸せになってくれ」と言って貸金庫の鍵まで渡そうとした。この時点で、布施への復讐は心の中から完全に消滅した。だが、彼女には悩ましい葛藤があった。布施を愛していいのかどうかだ。母親を傷つけるのは必至だ。深く考えたが、今の時点で布施を愛するより、母親を愛する方が大事であると結論づけた。


絵里が柏のマンションに着いたのは、午後五時を過ぎていた。

階段を上がり、205号のドアノブを回した。鍵がかかっていた。鍵を開け、中に入って行った。

突然、バリバリと言う音と同時に、頭に強烈な衝撃を受けて失神した。

意識を取り戻すと、後ろ手に手錠をはめられ、床に寝かされていた。猛烈な頭痛が襲い掛かり、体を動かすことも難しかった。


鬼頭と麻衣が薄ら笑いを浮かべ、床に座っていた。

背中を鋭い刃物で撫でられたように悪寒が走った。闇で木立をかすめる風のように、死の恐ろしさが、突然、彼女の心に運ばれてきた。

やがて体を動かすことが出来るようになり、上半身をもたげた。

「大声を出したり、暴れたりしたら、これが物を言う。いいな! 」鬼頭がスタンガンを見せて一喝した。

「分かったわ。大人しくする」

絵里の人生は終わりだと観念した。


「貸金庫の鍵はどこにある?」

「テレビの裏面にテープで止めてあるわ」

麻衣が立ちあがり、テレビの裏側に移動した。

「あったわ。間違いなく、これでしょうね。嘘をついたら、承知しないわよ」

麻衣は強い口調で責め立てた。


「間違いない。大事な鍵でないと、そんな所に隠さないわ」

鬼頭はその鍵を自分の鍵束に収め、ポケットに入れた。

「よし。お前のスマホから布施に電話する」

今、布施がどこにいるかを聞くこと。二時間後に、例の倉庫に来られるかを聞くことを要求された。

絵里は怯えたように首をすくめた。

「大事な話があるから絶対に来るように言うのだ。余計なことを言うなよ」

鬼頭はスタンガンをちらつかせながら脅迫した。スマホの音量を上げ、床に置いて布施に電話を入れた。


「私です。布施さん、今、忙しくない? 」声が少し震えているのを自覚した。

「大丈夫だよ。どうした? 」

「二時間後に、アジトの倉庫に来てくれない? 猫のヒーちゃんを連れて行かないと駄目なの」声に畏怖の口調を浮かべた。

一瞬の間があった。

「分かった。必ず、行く」

今、横浜の友達の所にいるので、二時間ではとても行けない。四時間ほどかかると伝えた。

布施の口調には悲壮感というより、強い責任感のようなものを感じた。

「そう、待っています」


鬼頭は電話を切った。

鬼頭と麻衣は薄笑いを浮かべてハイタッチした。

「よし! OKだ。貸金庫はどこにある?」

「大手町の貸金庫専門店だけど、詳しい住所は覚えていないの。布施さんに聞いたら分かるわ」

「よし。これで、五十億円は俺たちのものだ」

麻衣の推理の凄さに驚いた。信じられなかった。

「だてに---」

麻衣は下唇を舐め、得意げの表情を浮かべた。

「分かっているよ。俺は高校中退。万全の準備をしないと」


鬼頭は友達の権藤正久、三十一歳に電話を入れた。

「絶好のチャンスが巡ってきた」

例の倉庫に、一時間半以内に、集まれ。大きなバールなどの武器を必ず持って来てくれと依頼した。

「待っていたぜ。こう来なくちゃな」

「万全を期すため、三人以上の口の堅い人間と一緒に来てくれ」

「それはすごい。四人だと、四億円を貰えるのか?」

「欲張るな。四人で一億円だ」


助人にいくらやるかは権藤が決めることにした。前回みたいに、逃げられたらまずい。これが最後のチャンスだ。出来るだけ人数を集めたい。多いほど簡単で確実だからと伝えた。

「そうだな。でもあまり人数が多いと、分け前が減る。三・四人ぐらいに当たってみる。集まると思うぜ」

鬼頭は他の友達の二人にも電話を入れた。

最終的に、十人の助人を確保した。


絵里はこの会話を聞き、こめかみの辺りをいきなり殴られたように、一瞬、目の前が真っ白になった。

武器を持った十一人の若くたくましい男たちだ。布施一人で、どうやって立ち向かうのか。とても勝ち目がないと思った。

後ろ手に手錠を掛けられていた絵里に、麻衣が自分のカーデガンを彼女にかけて手錠を隠した。

絵里を両端から挟むようにし、三人は階段を降りた。

絵里はアルファードの後部座席に乗せられた。

その隣に麻衣が座った。絵里が車から逃げないようにするためだろう。念には念を入れている。


「よく、私のマンションの住所が分かったわね。参考までに教えてくれない? 」絵里が尋ねた。

「いいわよ。時間はたっぷりあるから」

麻衣は意気天を衝く表情を浮かべた。

                  (五十三)

紛争があった翌朝、今坂麻衣はノートパソコンを持ち、鬼頭省吾のアパートを訪ねた。

鬼頭が眠そうな顔して、出迎えた。

昨夜の出来事に悲憤慷慨して語りだした。

「完全に出し抜かれたわ。必ず、このリベンジしてやる」

「まったく、頭に来るな! 何かいいアイデアが浮かんだか?」

「やってみるわ」


今坂麻衣はノートパソコンにケーブルをつなぎ、電源を入れた。絵里の住んでいる住所が書かれていないか探した。

メールアドレスはあるが、住所はどこを探してもなかった。

パソコンには個人情報はないのかもしれない。麻衣は必死に、手掛かりを模索していた。パソコンが最後の砦だったからだ。


ディスクトップ上には、難しそうなアイコンが多くのっていた。

鬼頭が画面を覗きながら尋ねた。

「奴の仕事は何をやっているのだ?」

麻衣は一つ一つ、アイコンを開いて言った。

「WEBの制作の仕事をやっていたみたい」

ここには手掛かりはなかった。遊びのほうにあるかもしれない。

「SNSはどうなんだ?」

「フェイスブックをやっているわ」

猫好きのクラブに入っていた。自分の顔写真は載せないで、倉庫にいた子猫を載せていた。写真や動画を投稿していることを期待していた。


麻衣はパソコンに保存してある子猫の動画を探し、一つ一つ、再生してみた。ずいぶん投稿しているようだ。

「子猫の動画みたいなものを見ても、何の役に立たないだろう。時間の無駄だ。急がないと」鬼頭は苛立ちを隠さずに言った。

「無駄かどうかは分からないわ」

どこにヒントがあるかわからない。動画は室内で撮られている。チャンスがあるかもしれない。

「室内で撮られていることに、どんなチャンスだ?」

「少し、黙っていてくれない。イライラするの」


麻衣は神経を集中させ、猫ではなく、動画の背景を見ていた。いくつもの動画を開いた。やがて、

「あった! 」と欣喜の声を上げた。

彼女が得意な時にやるしぐさで、口を開き、舌の先で下唇を舐めた。

「何を見つけた?」

麻衣は動画を最初から再生した。

動画を最後まで見て、鬼頭は思案に暮れていた。

「何があるんだ?」

「一瞬だからよく見ていて」

可愛いい猫を見ていたら駄目だ。バックの窓を見ていないと。眼科医院の看板が写っている。

麻衣は再生した。

「おう! 竹広眼科だ! 」彼の顔一面に満悦の笑みを浮かべて叫んだ。


「一都三県に居るはずよ。そんなに遠くには住んでいないわ」

麻衣は「一都三県、竹広眼科」をグーグル検索した。

柏市に竹広眼科があった。地図も住所も載っていた。その前の家なのだ。

「お前、なんと頭がいいんだ。早速、柏市に行こう」

麻衣は小躍りする気持ちを隠しきれない様子だ。

「だてに---」

「分かったよ。俺は高校中退と言いたいのだろう。まあいい。お前の頭は最高だ。完璧に負けたよ」


二人はアルファードに乗り、住所を車のナビに打ち込んで柏市に向かった。

目的の場所に着き、車を近くの駐車場に入れた。

竹広眼科医院の前に、大きな五階建てのマンションが建っていた。

「大きなマンションだな。どこから動画を撮ったのかな?」鬼頭がマンションを見上げながら尋ねた。

動画の角度から、二階か三階のようだ。郵便受けに、渋野絵里の名前がないか探したが、見つからなかった。玄関に表札もなかった。


マンションの一階の入り口に、管理人の名前等が記入されている金属板が、張り付けられていた。

麻衣はその管理人に電話を入れた。

「私、この建物の近くのものです。分別されていないゴミが、私たちのごみ置き場に、捨てられていました」

「分別されていないゴミ?」

「ゴミの中に、渋野絵里さんの名前のものがありました。渋野絵里さんは、このマンションの住民の方ではありませんか?」

「申し訳ありません。そうです」

「一言、注意したいと思いますので、何号室の方か、教えていただけませんでしょうか? 」

「すいません。205号です」

電話を切り、二人はハイタッチした。


二人は階段を上がり、205室の前に立った。

「この鍵をピッキング出来る? 」

「シリンダーキーでないので、五分もあれば大丈夫だ」

二人は辺りを見回した。人影はなかった。

鬼頭はポケットから道具を取り出し、巧妙に鍵を開けた。

室内に入り、鍵を閉めた。

一DKで、きれいに整頓されていた。

麻衣が机の引き出しを開けると、健康保険証があった。

「保健証がある。必ず、戻ってくるはずだわ」

麻衣は下唇を舐め、得意げの表情を浮かべた。

二人は渋野絵里が帰ってくるのを、じっと待った。

                  (五十四)

猫のヒーちゃんを倉庫から連れて行かねばいけないという一報を受け、布施の全身に稲妻のようなものが走った。

絵里の身に、死の危険が迫っているのは間違いない。前回、絵里に命を助けられた。今回は恩返しする絶好のチャンスだ。

「いいだろう。やってやろうじゃないか!」自分に強く言い聞かせた。


大膳健吾の次は今坂麻衣。負の連鎖が続いていると強く感じた。

相手は凶暴で、武器を持っている四人だ。いや、それで前回、失敗しているので、もっと大勢で待ち受けているに違いない。

自分の命を懸けても、絶対にやらなければならないことだ。

どうすれば、絵里を救えるのか、口を真一文字にして考え込んだ。


今、横浜にいると嘘をついた。実際は上野にいた。行くには四時間かかるとさばを読んだ。油断させるためだ。

二時間以内に、行かないとチャンスは無くなる。


レンタルした白のプリウスでいろいろの場所に立ち寄った。ポリタンク、金属バット、ナイフ、大量の新聞を購入した。

倉庫に行く途中にガソリンスタンドに寄った。

「レギュラー満タン」と言って布施はポリタンクを持って外に出た。

「満タンですね」と言いながら店員が近づいてきた。

「車に満タン。このポリタンクにもガソリンを一杯にして」

「一杯にしてどうするのですか? 」不審そうに尋ねた。

「これから遠出するので」

ポリタンクを車に乗せた。


道路の交通量は少なかったので、スムーズに倉庫の五百メーター手前まで来ることが出来た。

空き地に駐車し、新聞紙を横五センチ幅に切っていった。

時計を見ると、一時間五十分ぐらいで、来たことになる。

車から降り、右手にポリタンク、左手に金属バットと新聞紙片を持った。準備がOKになった。


河川敷に足を踏み入れた時、辺りは恐ろしいほど不気味に静まり返っていた。この先は見渡す限り、暗闇に包まれていた。月の光を頼りに前進した。

暗闇に目が慣れてくると、倉庫の端のほうに、何台かの車の暗い輪郭がじわりと浮かび上がってきた。

まさにこれから、ありとあらゆるものが沸騰し、激しいもめごとが起きる。まさに修羅場というべき、命をかけた戦いが待ち受けているのだ。


倉庫の近くまで来た。そこから三十メーターぐらい離れた広場に、十一台の車が所狭しと駐車していた。奴らの車に違いない。

布施はナイフで、全てのタイヤをパンクさせた。

アルファードの周りに、ガソリンを撒き散らした。

新聞紙片を並べていき、倉庫の近くまで繋げた。その上にガソリンを撒いていった。導火線の代わりにするのだ。

布施は新聞紙片の先に火をつけた。急いで金属バットを持って、倉庫の横に身を隠した。

火は闇を切り裂くように一直線に進み、アルファードに燃え移り、大きな炎を上げた。

まもなく、大きな音をたてアルファードは爆発した。


倉庫の扉が開いた。鬼頭と麻衣をはじめ合計十二人が、武器を持って一斉に外に飛び出して来た。

皆は野良犬のように目の色を変え、怒号と爆発音に動転していた。なにやら、すさまじい空気が野外を震撼させていた。

鬼頭は炎上しているアルファードを見て驚愕の表情を浮かべ、

「くそったれ! なんてことだ! 俺の大事な新車が」と大声を上げ、頭を抱えた。

炎が激しく燃え盛り、とても近寄れない。

そこにいた全ての人間は生き胆を抜かれた表情を浮かべた。


辺りには、ガソリンの猛烈な臭いが重く漂っていた。

「消防に連絡する? 」麻衣は血が逆上した表情を浮かべて尋ねた。

「駄目だ。布施が来たらおしまいだ」鬼頭が吐き捨てるように言った。

「布施がやったのでは?」麻衣はふと疑問を抱いた。

「布施は俺たちがここにいることは知らないはずだ」

「そうよね。でも」複雑な表情を浮かべた。

「横浜にいると言っていたじゃないか。四時間はかかる。まだ、二時間ぐらいしかたっていない。不可能だ」自信ありげに言った。

               (五十五)

倉庫のドアには無残に穴があけられていた。

布施は野良猫のように倉庫の中に忍び込んだ。

机の上に、六畳間の鍵があり、それで鍵を開けた。

絵里が後ろ手に手錠を掛けられ、口と両足にはガムテープが巻かれていた。目を大きく開き、盛んに動かせていた。

布施はガムテープを外した。

「信じられない! よく来ることが出来たわね」

絵里は自分の目を疑っている様子で、立ち上がった。

「手錠の鍵は?」

「手錠の鍵も貸金庫の鍵も、男の鍵束の中。奴のポケットにあるわ」

                     (五十六)

麻衣が鋭い意見を述べた。

「ガソリンを撒いて車を燃やすなんて、かなり憎んでいる人間よ。布施ぐらいしか考えられないわ」

鬼頭は眉間に深い皺を寄せてしばらく考え込んでいた。

やがて、冷静さを取り戻し、形相が一変した。

「そうだな。布施の仕業かもしれない! みんな! 奴はこの近くにいるはずだ。探すんだ!」大声を上げた。

助人の十人は慌てふためき、それどころではなかった。自分の車に燃え移らないか、心配していた。自分の車に乗り、移動させようとしていた。

「ちくしょう! 全部のタイヤがパンクさせられていやがる」


皆、大騒ぎしているのをよそに、鬼頭は辺りの様子に注意を払い、倉庫に戻った。入り口で、顔をのぞかせ、中の様子をうかがった。

すると、右側から、

「こっちよ」と言う声がした。

絵里がからかうような軽い笑みを浮かべて立っていた。

「この野郎! どうやって?」

鬼頭がバールを振り上げ、一歩踏み込んだ。

その瞬間、クラウンの後ろに隠れていた布施が、金属バットで鬼頭の後頭部を強打した。

鬼頭は膝から崩れるように倒れた。

                  (五十七)

布施は床に倒れている鬼頭のポケットに手を突っ込み、鍵の束とスタンガンを取り出した。

クラウンの助手席のドアを開け、

「さあ、早く乗って身を伏せて」と絵理に催促した。

「その前に、ヒーちゃんを探さないと。ヒーちゃん」絵里は大声を上げて倉庫の中を探しまくった。

物陰から、子猫のヒーちゃんが現れた。

布施はすぐに子猫を抱いた。絵里を助手席の前の空間に身を隠すよう指示し、猫を後部座席に入れてドアを閉めた。


ヒーちゃんと言う声を聴いたのだろう。麻衣と一人の男が駆けつけてきた。

男は大きなバールをかざし迫ってきた。

布施は男にスタンガンを向け、電波を流した。

男はその場に崩れ落ちた。

麻衣は大声を上げ、

「布施はここよ!」と皆を呼び寄せた。

麻衣はバールを拾い上げ、布施に襲い掛かろうとした。

布施は麻衣にスタンガンを向けた。

麻衣は鬼の形相を浮かべ、じりじりと後退りした。

「欲張る乞食は貰いが少ないんだ! 」

布施は捨て台詞を残しクラウンに乗り込んだ。


「身を伏せて。行くぞ! 」自らを奮い立たせた。

エンジンをかけて急発進させた。

麻衣が後ろから駆け寄り、

「クソッタレ!」と叫び、バールで車のリアガラスをたたき割った。ガラスは粉々に砕けた。

布施は構わず、アクセルを踏みこんだ。


前方には九人の怒り狂った男たちがバールを持ち、立ちふさがっていた。

布施は限度いっぱいに体を下にずらし、頭を下げた。前を見ないでハンドルを握っただけで、アクセルをいっぱいに踏み込んだ。集団に突進した。


群がってきた男どもは左右に分かれ、バールを一斉に車に投げつけた。一本がフロントガラスを突き破り、布施の頭をかすめた。

バールがフロントガラスに刺さったままになっている。

一本が左のサイドガラスを粉々に突き破り、車内に飛び込んできた。すかさず、もう一本が右から飛び込んできた。他のバールは大きな音を立て、ボディーに当たり、弾き返った。

車はさらにスピードを上げた。


布施は体勢を立て直し、刺さっているバールを除いた。

布施は割れたフロントガラス越しに前方を確認し、

「大丈夫? 怪我はない? 」と彼女に尋ねた。

屈みこんでいた絵里が、座席にあるバールとガラスの粒を取り除いた。

助手席に座りながら、

「私は大丈夫。ヒーちゃんは大丈夫かしら」と言いながら体をひねり、後部座席を覘いた。

ヒーちゃんの頭近くにバールがあり、恐怖で震えていた。

ミラーに視線を向けると、強烈な悔しさを浮かべている乞食どもが写っていた。


「危なかったわ。九死に一生ってこのことね。布施さん、かっこいい! 」絵里は驚きと恍惚に近い歓喜を織り交ぜた表情を浮かべて言った。

「前回は、絵里さんの独り舞台だった。今回はどうしても、絵里さんにいいところを見せたかったんだ」

「だから、私に手錠をかけたままにしているのね。私が活躍するのを防いだの? 」とぼけた表情で言った。

「何を言っているの。手錠の鍵を見つける暇がなかっただけだよ」

                     (五十九)

麻衣と鬼頭、助人九人はなす術がなく、クラウンが消えるのを、ただ地団駄踏んで見つめていた。

麻衣は深い絶望的な気分に襲われ、臍を噛む表情を浮かべた。特に布施が捨て台詞を吐いた言葉、

「欲張る乞食は貰いが少ない」で体の一部をもぎ取られたような痛みを受けた。

「絶対に許せない。まだ手はあるわ。一泡、吹かせてやる」


「どんな手があると言うのだ? 」鬼頭が呆れた表情を浮かべて尋ねた。

「警察に捕まえてもらうのよ」


麻衣はスマホを取り出し、110番通報した。

「こちら110番。どうされました?」

車にガソリンを掛けられ、燃やされた。新車のアルファードだ。

「すぐに来てください」

麻衣の口調には強烈な悔しさが滲んでいた。

場所はスマホから、位置情報で分かったようだ。

「犯人に心当たりがありませんか?」

布施明生。または八重樫純一と偽名を使っている。黒のクラウンに乗っている。

「どうしても捕まえてほしいのですが」

「緊急配備いたします。ナンバープレート番号などが分かりますか? 」

麻衣はナンバー番号などを教えた。


 「ご協力、ありがとうございます」

これだけの情報があれば、必ず、犯人を検挙することが出来る。警察の捜査網の力を見せつけようとしているように感じた。

間もなくサイレンを鳴らし、パトカーが駆けつけた。

でっぷり太った四十歳ぐらいの警官と身の引き締まった三十歳ぐらいの警官が車から降り立った。


パトカーのライトに、異様な光景が浮かび上がった。

焼けただれた哀れな車。十台の車のすべてのタイヤがパンクし、いろんな角度に停められていた。

辺りはガソリンの強烈な臭いが漂っていた。

十人の助人、鬼頭と麻衣が呆然と立ち尽くしていた。

「あなた方、こんなところで、何していたの? 」四十歳ぐらいの警官が不審な表情を浮かべて尋ねた。

「あの倉庫で打ち合わせをしていました」

「打ち合わせね」

「突然、爆発音がしましたので、飛び出したら、この通りです」

鬼頭が頭を手で押さえながら答えた。


警官たちは倉庫に移動し、倉庫の扉に大きな穴が開いているのが目線に入った。

「誰がこんなことしたか、心当たりがありますか?」

「犯人の布施明生と渋野絵里と言う女です」

「その女性も一緒に火をつけたの?」

「そうです。一緒です」

「確認しました?」

「二人が黒のクラウンに乗り、逃げるのを目撃しました」


「二人はどうしてこんなことをしたの?」

「我々に恨みを持っているのです」

「犯人を詳しく知っていますが、どんな関係ですか?」

鬼頭はここまですらすら答えていたが、ここで行き詰った。

「仕事のライバルです」麻衣が助け舟を出した。

「どんな仕事ですか?」

「風俗です」口を滑らせた。

「なるほど」警官は納得したようだ。


警官が倉庫の中に入り、冷蔵庫や応接セットを見つけ、

「これは誰のもの?」と麻衣に尋ねた。

「布施明生や渋野絵里のものです」

犯人の物がどうしてここにあるのか。ここはあなた方の倉庫だ。ここで打ち合わせをしていたと言っていたはずだ。

「違います。犯人が借りた倉庫です」麻衣が苦し紛れに答えた。

「おかしいな」

犯人が借りていたのなら、自分でドアを壊すわけがない。犯人の倉庫に、十二人の人間が入り込んで、打ち合わせをしていた。こんなこと考えられない。詳しく調べないといけないと説明した。


警官は腕組みして首をひねった。倉庫内の異様な雰囲気に、警官は驚きの表情を浮かべた。

床に大きな鍋や肉や野菜が散乱している。机の上に大きな冷蔵庫が、ドアが開いた状態で乗っている。窓から黒いケーブルがぶら下がっている。

床に車の割れたガラスの粒と思われる物がたくさんあるのに気付いた。

警官はいちいち指さして尋ねた。

どうして床に、鍋や肉や野菜が捨てられているのか。どうして冷蔵庫がこんなところに乗っているのか。どうして車のガラスのような破片があるのかと疑問だらけだった。

「どうして?」

「さあ。分かりません」と答えるしかなかった。

何かおかしなことになり、麻衣も鬼頭も黙り込んでしまった。

鑑識係が到着し、詳しく調べた。

               (六十)

布施のクラウンは、レンタルした車を駐車している所に到着した。黒のクラウンを停め、ドアを開けて降り立った。

自慢の愛車は哀れな姿になっていた。窓ガラスはほとんどが割れ、ボディーは大きな傷だらけになっていた。

自分が犠牲になり、二人を救ってくれたのだ。感謝しなければいけない。

「さあ、レンタルしたこのシロのプリウスに乗り換えよう」

「えっ! このクラウンを捨てるの?」

「そうだよ。過去のものは全て捨てるんだ。今坂麻衣対策でもある」

彼女はなにをするかわからない。警察を利用するかもしれないのだ。

こんな傷だらけの車に乗って行けば、すぐに警察に捕まる。用心しないといけない。どんな羽目になるか分からないのだ。


「そうね。彼女ならやりかねないわ」

「もう、彼女の顔は見たくないよ」

今坂は本当にしたたかだ。ヒーちゃんの動画から、絵里の住所を割り出した。悪の天才だと、絵里は呆れたという風に、肩をすぼめた。

二人が出会えたのもヒーちゃんのお陰である。最後もヒーちゃんに救われた。倉庫からヒーちゃんを連れださなければ、という合言葉が奏功したのだ。

「合言葉がなかったら、終わりだったよ」


「私はこの合言葉を言いたくなかったわ」

布施に言えば、必ず来る。相手は大勢で、武装しているのだ。布施が来ても、どうにもならない。迷惑かけるだけだと、彼女は踏んだに違いない。


「この合言葉を聞いて、布施さんはどう感じた?」

「私は死んでもいいと考えた。絵里さんを助けることしか頭になかったよ」

「いつ死んでもいいと考えているのね。そんな心境には、とてもなれないわ」

「普通はそうだよ」

布施も以前は死ぬのが怖かった。エマから死ぬことは終わりではないことを教わり、死ぬのが多少怖くなくなったのだ。

四十歳近くまで奇跡的に生きられた。これで十分じゃないかと思うようになったのだ。


「だけど、ヒーちゃんが見つかって、本当にうれしいわ」

「時間がないのに、倉庫でヒーちゃんを大声出して呼んだのは、尻毛を抜かれる思いだったよ」

「迷惑かけたわね」

迷惑と言えば、倉庫をめちゃくちゃにした損害をどうやって弁償するのかに思いをはせた。

不動産仲介所に手紙を出し、クラウンのキーを同封し、捨てた場所の地図を書くことにした。クラウンを処分し、壊したドアや窓の修理代に充ててもらうよう、詫びの手紙を書くことにした。

「飛ぶ鳥、跡を濁さず」

「良いことを言うわね」


今坂麻衣に十二億五千万円をやらないですんだ。この金額を教会や貧しくて困っている人に寄付することにした。

「大金が浮いたよ」

「彼女に、欲張る乞食は貰いが少ないと言ったけど、そのことよね。十二億五千万円の損だわ」

布施と絵里とヒーちゃんがプリウスに乗り込んだ。

国道を少し行った所で車を止めた。


布施はポケットから鬼頭の鍵束を取り出した。手錠の鍵を見つけて、絵里の手にある手錠を外した。


その時、サイレンを鳴らし、パトカーが通り過ぎて行った。

布施は車から降り、パトカーがどこに行くのか見届けた。

パトカーは倉庫の方角に走って行った。

やはり、今坂麻衣は警察に110番通報したのだ。布施の本名や八重樫純一の名前を伝えるはずだ。外国旅行など行けなくなった。

麻衣はすごい女性だ。自分たちでは見つけることが出来ないと判断した。警察に見つけてもらって、また我々を責め立てようというわけだ。拍手を送りたいぐらい呆れて感心した。


白のプリウスが十分ほど走行すると、百メーターぐらい先に、パトカーの赤いランプが回っていた。バイクも二台が配備されていた。三角の停止ランプが列をなしていた。


最後の難関が待ち受けていた。

「検問ね。大丈夫かしら」絵里が眉をひそめた。

「免許を見せろと言われたら一巻の終わりだね。祈るしかないな」

黒のクラウンから、白のプリウスに乗り換えたのだ。最善を尽くした。これで捕まれば、仕方がない。

二人の警察官が路上で、赤く光る警棒を横に振り、走行するように促した。

布施の運転する車は検問を無事に通過した。

「危ないとこだった」

布施は深い安堵の息を吐いた。

「ついているわ。さすがの今坂麻衣も、白のプリウスに乗り換えたことは、知る由もないわね」


今度は警察が相手か。なかなか、負の連鎖を断ち切ることが出来ない。布施の人生はいつも誰かとの戦いになる。これも布施の反骨精神の現れかもしれない。

「よっぽど注意して生活しないと駄目だよ。見つかったら終わりだ。この覚悟がいるよ」

「大丈夫よ。注意を払って、思いっきり人生を楽しみましょう。今までの辛さ、苦しみのご褒美よ」

警察が見張っていることが分かっただけでも、対策を打てるかもしれない。


布施明生はここでキッパリと決着しないといけないと判断した。車を止めて言った。

「絵里さん、結婚して貰えませんか?」勇気を振り絞って言った。

「私も結婚したいわ。でも---」また同じ歯切れの悪い答えだった。

「でも、何? 今度は、はっきり、言って貰いたい」布施は口調を強めて依頼した。

「許可を貰わないと」彼女は感情を抑えようとしているようだ。

「誰に? 」彼女の顔をまじまじと見つめて言った。

「お母さんに」彼女の口調はいつもと違っていた。恐る恐る言った。

「えっ! どうしてお母さんの許可が必要なの?」

絵里は二十一歳だ。自分の意志で決められないのはおかしいと、布施はとても信じられなかった。


「お母さんが布施さんのことを嫌っているの」言いづらそうに言った。

「お母さんとは会ってもいないのに、なぜ、嫌っているの?」

「ごめんなさい」

絵里は今まで嘘をついてきたと白状した。渋野絵里は偽名だ。佐久間優香本人なのだ。

「えっ! どうして偽名で俺に近づいてきたの? 」

「布施さんがどんな人か分からなかったし、大膳に見つかったらまずいと思って」

彼女はまるで腫れ物に触るような言い回しで先を続けた。

母は、父を直接的に殺したのは大膳だ。しかし、間接的には布施だと言い張る。

「布施さんは疫病神だ」が、母の口癖のようだ。

布施はこの言葉は胸がふさがるおもいがした。顔をしかめ、

「そうか。お母さんの許可をもらってきて欲しい」と消え入りそうな声で言った。


彼女を柏市駅まで送り届けた。彼女の母親は柏市の病院に入院していた。彼女はビジネスホテルに泊まるらしい。

                  (六十一)

翌朝、優香は母親が入院している個室にいた。

「体の調子はどう? 」心配げに尋ねた。

「最悪よ。もうお終りだわ」弱々しい声で言った。

母親はすっかりやせこけ、弱弱しそうであまり先はないと思った。悲しみをたたえた目は、辛酸をなめてきた過去を物語っていた。


「大金が入ったの。手術でも、臓器移植でも大丈夫よ」しきりに励ました。

「もう手遅れよ。昨夜、余命三か月を宣言されたわ」

彼女の肝臓の量や機能が十分に残っておらず、手術は無理だった。

「肝臓移植が残されているわ」

ドナーが割り当てられるには十年以上待たなければいけない。

「三か月以内に、ドナーを見つけるのは不可能よ。順番待ちなの」


優香は出鼻を挫かれた思いだった。絶望感を漂わせている母親を見つめ、思わずため息をついた。母親は何の喜びもなくこの世を去ると思うと、悲しみを抑えることは出来なかった。大金を手に入れたが、母親の幸せには全く結びつかないのが不憫だった。まして結婚話を持ち出すのは、はばかれた。


大膳は高利貸しから大金を借りなければいけない状況に追い込み、暴力団からの逃亡生活に陥った。地獄のどん底を這いずりまわっていることを伝えた。

「大膳に完璧な復讐できたわ」少しでも喜ばす作戦に出た。

「そう、それは良かった。冥途の土産が出来たわね。きっとお父さんは喜ぶわ」

目が嬉しくてたまらないと言うようにきらきら光った。でもそれは長くは続かなかった。真顔に戻って言った。


「布施は?」

「まだ、布施さんを許せない?」

布施と言う存在があったから、父親が死ぬ羽目になった。今、母親が不幸のどん底にいるのは、元はと言えば、布施が事務所に手紙を送り付けたからだと、いつもと同じように言った。

「当たり前よ。布施さん? なぜ敬語を使うの?」不審そうに尋ねた。

「大膳に復讐できたのは布施さんの協力があったからなの」

「そうなの。でも許せないのは変わらないわよ」


優香は失望の色を浮かべた。

母親はその表情を見てとり、ピーンと来たようだ。

「まさか、布施と結婚するなんてことはないでしょうね」

「もしそうだとしたら?」彼女は自分でも残酷な質問だと思った。

「えっ! 私をこれ以上、不幸にしないで」

「冗談よ。結婚などしないわ」

「お願い。でも私が死ねば、あなたの自由よ」

「お母さん、この話は止めましょう。何か、して欲しいことはない? 」

「毎日、優香の顔を見たい。それだけよ」

「分かった。毎日、顔を見せるわ」


夕方、優香は渋谷のイタリアレストランで、布施と同席していた。

「結婚は無理だわ」優香の決意は固かったのでキッパリと言った。

「残念だ。俺はひどいことをした。仕方がないよ」

母親が肝硬変で、三か月の余命宣言を受けた。手術は無理だし、臓器移植を受けるのも不可能だと告げた。

「お母さんが死ねば、考えが変わるかもしれないけど」

布施はゆっくりと頷いて言った。

「二十五億円をあなたの銀行口座に振り込むよ」

                       (六十二)

二ヶ月後。優香は病院の個室に駆け込み、満面の笑みを浮かべて母親に言った。

「ドナーが見つかったわ。アメリカに行く準備して」

「嘘! どうして? 肝臓移植が出来るの? 」優香の一言を聞いた瞬間、母親は大きく息を呑んだ。

「私も理由は分からないわ。アメリカの移植センターから電話があったの。手術の準備してくださいとのことよ」


「夢のような話ね」母親は嬉しそうに顔を輝かせ息を弾ませた。

「私も行く準備するわ」

「誰が一体こんな素晴らしいことをしてくれたのかしら?」

大金持ちで、優香の携帯番号を知っていて、彼女の母親が臓器移植しなければ死ぬことを知っている人物だ。


「何も知らされていないけど、一人しかいないわ」

「誰よ? 」母親はせかすように言った。

「布施明生さんよ」優香はきっぱりと言った。

「えっ! 優香が頼んだの? 」目をまん丸にして言った。

「いや。結婚を断っただけ」

「あと一か月ぐらいすれば、私は死ぬのに。そうすれば自由に結婚できるじゃない。なぜ私を生かすの? 結婚できなくなると思わないのかしら」

「本当にそうなの? まだ結婚に反対なの?」優香はいたずらっぽく言った。

「親を馬鹿にしないで。早く布施さんの所に行きなさい」母親の目に大粒の涙を溢れさせていた。


「さんを付けたわね。OK。アメリカに行く前に、一仕事、してくるわ」

布施に電話を入れ、初めて出会った場所である渋谷のハチ公前で待ち合わせることにした。

布施は微笑みを浮かべ、ハチ公のそばに立っていた。

優香は間髪入れず彼の腕の中に飛び込んだ。

「ありがとう。お母さんの喜ぶ顔を見たのは何年ぶりかしら」感情を抑えきれずに言った。

「アメリカの移植センターから連絡があったんだ」

「そう。すぐにアメリカに渡るわ」


「渋野絵里の偽名を使ってよかったね」

「えっ? 」目を大きく見開いた。

「警察の包囲網からすり抜け、安心して渡米出来るよ」

「そうね。ツキが回ってきたわ」優香は感慨深げに言った。


「あっちに行ったら、イーサン夫婦に礼を言って。特に、イーサンはこのことにやりがいを持って全ての手続きをやってくれた」

「やりがい?」

「彼は俺を殺そうとした罪滅ぼしに、必ず、やってやると誓った」

「私はいい人たちに出会ったわ」

「我々四人はワンチームだ」布施が力を込めて言った。

「その通りね。よく、短期間にドナーを見つけられたわね」

「アメリカでは待つ時間を金で買えるんだ」


「もっと話したいけど、渡米の準備があるの。帰ってきたら結婚しましょう」

「楽しみに待っているよ」布施はわが意を得たりの表情を浮かべた。



 


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復讐の裏に 泉 清寂(イズミ セイジャク)) @seijyaku

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