第11話 あの夏に帰る
早朝、新幹線のぞみの窓からは、雪の無い富士山がはっきりと見えた。
里奈は、洋子との旅行に喜んで、新幹線の中でも大はしゃぎであった。
そして、新幹線が大阪に到着すると、新大阪から地下鉄御堂筋線に乗り、難波で下車した。地上に上がると、洋子と里奈の二人は、ミナミの繁華街の喧騒に圧倒された。東京には無い、浪速のパワーを肌で感じた。
それから、日本橋に向かって千日前を歩き、堺筋にぶつかるとそこが黒門市場であった。黒門商店街の一角に由美の住んでいるサニーハイツがあった。
102号室のドアをノックした。
ドアが開いて由美の姿が現れた。その瞬間に、洋子も里奈も目を丸くしてしまった。まるで、紗枝子が目の前に立っているようであった。それは、あたかも、紗枝子が生き返って、今ここに存在しているかのようでもあった。紗枝子と由美は、双子のように似ている姉妹だったのだ。
「どうぞ、お上がり下さい」と由美が言うと、部屋の奥から雨宮も顔を出した。
由美の部屋は、いかにも独身女性の一人住まいの部屋という感じであった。ただ、現在は、雨宮という男の同居人が居り、ベランダの洗濯物は、男物と女物の下着がいっしょに干されていた。
小さなガラステーブルの向こう側に雨宮と由美が座り、こちら側には洋子と里奈が座った。4人は、沈黙した。暫くして、由美が里奈の方を向いて頭を下げた。
「あの電話は、すみませんでした。ほんとうにごめんなさい」
里奈は、慌てて
「いいえ、そのー、ちょっとだけ怖かったですけど……」
と言い笑ってごまかした。
「映画サークルのみなさんには、信吾さんとの関係を伝えたくて、あんな電話をしてしまいました。でも、結果的に里奈さんを怖がらせてしまいました」
「私も里奈ちゃんから電話のことを聞いたときは、とても、怖かったです」
洋子も微笑しながら言った。
「信吾さんは、私の横で、電話するのをやめるように言うので、結局、里奈さんに電話しただけでした」
「あの時、何か男の人の声が聞こえたけど、あれは、雨宮先輩の声だったんですね」と里奈が言った。すると、由美がきっとした態度で話を始めた。
「私と信吾さんは、姉の七回忌で顔を合わせました。それ以来、信吾さんは、奥さんに隠れては、私と会うようになりました。正直言って、私は、姉の愛した男性という興味で、信吾さんと接していたんです。しかし、信吾さんは、姉の死を自分の罪のように思いつめているばかりなので、私が、そんな信吾さんの心を解してあげたいと思うようになりました」
洋子が言った。
「由美さんは、紗枝子になってあげたんですね」
「はい」と言って由美は頷いた。
「でも、私がこの大阪に転勤になってしまうと、私自身、信吾さんに会えないのが辛くて耐え切れない状況になってしまいました」
「俺も同じ気持ちだった」
雨宮が言うと、由美は、雨宮の横顔を見つめた。
「雨宮くん、仕事どうするの? どうやって生活するのよ」
洋子は、問い詰めるように言った。
「ああ、会社が失踪中を休職扱いにしてくれてね。依願退職という形をとらせてもらった。これからの仕事は、この大阪で再就職して一からやり直すつもりだ」
「しかし、雨宮くんには、奥さんがいる。雨宮くん、どうするつもり?」
雨宮はゆっくりと言った。
「離婚する。もちろん、素子には、出来る限りの誠意を尽くすつもりだ。仮に、このまま、素子と暮らしてもお互いに辛いだけだと思うんだ」
「由美さん、ご両親には、雨宮くんのこと話したの?」
と、洋子が言うと、由美は目を伏せて
「雨宮さんとの関係は、一切話していません。父は、今だに姉の死とあの夏合宿を切り離せないでいますから…… ただ、母は、雨宮さんと私が密かに付き合っていることを薄々気付いていたかもしれません。しかし、私が大阪に行くことになって、雨宮さんとは縁が切れたと思ったのではないでしょうか」
「由美の両親には、会いに行って、時間をかけてお願いするつもりだよ」
雨宮は、由美を見つめて力強く言った。
洋子は、由美の母親との会話を思い出し、あのときの事情を納得した。そして、洋子は、雨宮と由美の心が堅く結ばれていることを知った。
洋子は、二人が幸せになることに応援したいという気持ちになった。この後のことは、二人で協力して、それぞれの状況を解決していくことだろうと思った。
そして、洋子と里奈は、由美のアパートを後にした。
洋子は、心の梅雨が晴れたように思った。雨宮は、10年目にして、死んだ紗枝子から解放された。洋子も紗枝子の死を引き摺ることは、無くなると思った。なぜなら、雨宮は、紗枝子との愛を由美によって成就させたのだから。
二人は、道頓堀まで歩き、食事をとった。
里奈は、蟹尽くしの料理を前にして、ひたすら舌鼓を打っている。
洋子は、里奈に尋ねてみた。
「里奈ちゃん。由美さんのことどう思う?」
里奈は、箸を止めると、暫く考えて答えた。
「分かるような気がする。でも、私は、由美さんのように男性を必要としないの。それは、お姉さんも知っているように、私は、一度だけ好きになった男性がいたんだけど、結果は、ご覧の通り別れてしまいましたから」
「里奈ちゃんと由美さんは、同い年だから、ちょっと、聞いてみたかったの。ごめんね」
そう言って、洋子は、里奈にウィンクしてみせた。そして、洋子は言った。
「私はね。雨宮くんと、紗枝子の恋を羨ましく思うの。だって、一途だったんだもの。結果的には、素子さんを捨ててしまった男になるのかな。そうして、雨宮くんは、夢を追い続けたのかな」
「うん、そうかもしれない。雨宮先輩は、由美さんによって、夢を実現させたのね」
里奈は、さらに続けた。
「窓ガラスに映った女が、青年に、『どう? もう一度、あなたの夢を追ってみる?』って言って生きるチャンスを与えてくれたでしょ? あれみたいに」
洋子は、里奈が、窓ガラスに映った女の台詞を覚えていてくれたことが嬉しかった。
そして、洋子は里奈を見つめて言った。
「私にとって、里奈ちゃんは、大切な人よ」
洋子のその言葉は、はじめて明かす里奈に対する思いであった。
「私にとってもお姉さんは、大切な人。映画サークルに入ったときから、ずっと、この気持ちは変わっていないの。お姉さんに挑発的なことをしたことが、いろいろあったけどね」
里奈も、洋子を見つめた。
洋子は、里奈をもう二度と失うようなことはしたく無いと思った。そして、最初に里奈の心に接したあの夏の小豆島に里奈といっしょに、再び行ってみたいと思った。
「里奈ちゃん、せっかく、大阪まで来たんだから、今夜、大阪に泊まって、明日、フェリーで小豆島へ行ってみない?」
「わーっ、最高! 大賛成よ!」
里奈は、大喜びであった。洋子は、大阪出張でいつも使うビジネスホテルをツインで予約した。里奈は、観光準備のために、心斎橋のブティックにタンクトップを買いに行こうと、洋子を誘った。洋子も予期していなかった小豆島への旅行に胸を弾ませた。
翌朝、洋子と里奈は、フェリーに乗船し、小豆島に向かった。
二人を乗せたフェリーは、真っ青な海を切り開くようにして進んだ。そして、空も海と同様に青く、10年前の夏合宿のあの日にタイムスリップしてしまったようだと、洋子は、感じていた。
デッキの手すりにもたれて洋子は、里奈に言った。
「あれから10年か、懐かしいわね」
里奈は、潮風で乱れる髪の毛を両手で押さえて言った。
「お天気も良いし、波も静かだし、あの夏と同じ」
「帰ってきたのね。あの夏に……」
そう言って、洋子は、帰りたくても帰れないでいたあの夏に帰ることが出来たのだと思った。
終わりばかりが心に残ったあの夏は、はじまりの夏でもあったのだ。ここに、こうして里奈と二人でいることが10年かかり実を結んだ結果だと洋子は感じていた。
すると、里奈が思い出したように言った。
「お姉さん、窓ガラスに映った女は、死神だったの?」
「違う。死神なんかじゃないわ。女神よ。そう、里奈ちゃんは、私の女神よ」
洋子は、里奈の肩を強く抱き寄せた。
そして、洋子と里奈は互いに見つめ合い微笑んだ。
終わり
あの夏に帰るとき がんぶり @ganburi
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