二つの毒林檎

眼鏡Q一郎

『二つの毒林檎』

 取調室は時に懺悔室に姿を変える。

 あのコンクリートの壁に囲まれた鉄方体の中で犯罪者達は自らに巣食う悪意を語り、暴力を語り、そして最後には自分の人生を語る。過ちをつきつけられ後悔の波が押し寄せ時には涙を流す。毎日毎日、責任を他人に転嫁した白々しい懺悔を目の当たりにして、もう本当にうんざりしていたんだ。もう、本当に。

 東方日明は机の上に両肘をつくと顔の前で祈るように両手を合わせる。立てた親指の上に顎を乗せ、合わせた人差し指でとんとんと唇を叩く。それから目の前の暗闇に向かって彼は語り出す。

「いいか。これから俺の言うことをよく聞け。絶対にしゃべるな。誰が何を質問しようが一言も答えるんじゃない。俺は不思議で仕方がないんだ。どうしてみんなこの部屋で、この取調室で自白してしまうんだ? どんな罪を犯したとしても、自分の手で人生を終わらせるなんて正気の沙汰じゃない。そうだろう? 俺ならしゃべらない。絶対に一言もしゃべらない。俺達がお前を勾留出来るのはたった四十八時間だ。ただここでじっと座っていればいい。簡単なことだ。一言もしゃべらず動かず息をしなければいい。だから、しゃべるな。絶対に。弁護士? ああ、かまわない。当然の権利だ」

 だが、と東方は悲し気な目をして言う。

「だが、よく考えろ。弁護士がついた瞬間、俺はこの部屋からいなくなる。この先お前の相手をするのは俺達じゃない、地方検事だ。優しいぞ彼等は。俺達はお前を逮捕、立件するのが仕事だが彼等は違う。お前を責め立てお前の罪を暴きお前を電気イスに送る。罪を憎みお前を天国の階段にいざなうのが彼等の仕事だ。さあ、弁護士を呼べばいい。そうすれば俺は今すぐにこの部屋からいなくなる。だがな、」

 東方は小さく唇を鳴らすと暗闇をじっと見つめる。

「俺がこの部屋から出ていけば一体誰がお前を守るんだ? お前を死刑にしたがっている血に飢えた検事様から。弁護士か? 金欲しさに人を殺したお前に、やり手の弁護士を雇うだけの金があるのか。ああ、国選弁護人か。頼もしい響きだな。死刑になりたければきっと確実にしてくれる。さて困ったな。一体誰がお前を守るんだ? お前が頼れる奴がいるのか、俺達以外に」

 それから東方は暗闇に向かって静かにたずねる。

「どうした。弁護士を呼ばないのか?」


1994/4/4 Monday


月曜日の朝はいつだって憂鬱で美しい。

雨上がりの歩道を歩く水沼桐子は、バス停で器用に折りたたんだ新聞を片手で読んでいる男性に声をかける。

「すいません。未未市警察はこちらであっていますか?」

「落とし物かい? だったら交番に行った方がいい」

「違います。この道であっています?」

「困ったことが起きたのなら、あそこはやめておいた方がいい。間違えて被害者を逮捕するような連中だ」

 ありがとうございます。彼女はさっさと頭を下げると再び歩き出す。しばらく行ったところで、歩道で屋台の売店を広げている中年男性に声をかける。

「すいません。市警察に行くにはこの道であっています?」

「もう始業時間だろう? 学校に行かなくていいのか」 

「お邪魔してすいませんでした」

「おい、君はどこの学校だ?」

 彼女は足早にその場を立ち去ると、記憶の中の地図をたよりに歩道を歩いていく。多くの人々がひしめき合い、古めかしい建物と近代的なビルが交錯する街の空は分厚い雲に覆われている。車が行き交う大通りを、片手を上げながら小走りで渡る。しばらく歩くと、右手にレンガ造りの大きな建物が見えてくる。歩道に沿って何台ものパトカーが並び、制服警官達が談笑している。建物の壁面には未未市の市章が刺繍された旗がはためいている。正面玄関を通る時に制服警官に保護者の方は、とたずねられるがポケットから取り出した警察手帳に彼はあわてて敬礼する。ご丁寧にどうも。

 彼女は階段を軽快に駆け上がる。壁にかけられた捜査一課と刻まれた金属製のプレートをちらりと横目に廊下を歩いていく。しばらく行くと、左手に大きく空間が開かれ同時に、騒がしい喧騒が聞えてくる。未未市警察捜査一課。刑事部屋の前に立った彼女は一度大きく息を吸い、うんと背筋を伸ばす。

「お嬢ちゃん、何か用かな?」

 制服警官の一人が声をかけてくる。彼女は姿勢を正すと敬礼する。

「首都警察から来ました水沼桐子巡査部長です」

 彼女の言葉にああ、と思い当たったのか警官は刑事部屋の奥にいる一人の男を大声で呼ぶ。「笹井刑事、お客さんですよ」

 やってきたのは銀縁眼鏡にこざっぱりしたスーツ姿の男で、彼女の前に立つと、水沼だったなとたずねる。

「首都警察から本日付けで着任しました水沼桐子巡査部長です。本日より三カ月間、お世話になります。よろしくお願いいたします」

 彼女は思いっきり勢いよく頭を下げるが、きちんと閉じられていなかった背中の鞄から荷物が彼女の後頭部越しに散らばってしまう。彼女は真っ赤な顔をして慌ててそれを拾い上げる。真っ黒なおかっぱ頭に大きな黒縁眼鏡、パンツスーツでリュックサックを背負った彼女が未成年に間違われることが多いのはその風貌だけでなく所作その他諸々が原因なのだが、本人だってそれをよしとしているわけではない。荷物を押し込み終えると再び鞄を背中に背負い直し、彼女は改めて敬礼する。

「敬礼なんてよせ。殺人課刑事はそんなふうにはしない。捜査一課笹井班の笹井警部補だ。それじゃあ早速捜査一課を案内しよう。まずは刑事部屋からだ」

 笹井と名乗った銀縁眼鏡は人々がひしめき合っている部屋の中をさっさと歩いていく。彼女は慌ててその背中をおいかける。ポケットからメモ帳を取り出し一言ももらすまいと早足で笹井についていく。あちこちで電話の呼び出し音と怒声が飛び交っている。床には血痕らしき汚れがあり、ずらりと並べられた机の上には片付けとは縁遠い書類の山が並んでいる。笹井は器用に刑事達をよけながら右手の奥へと歩いていく。一段高いところに机が並べられ、制服警官が電話を受けながらペンを走らせている。

「彼等が電話交換手。捜査一課への通報を取り次ぎ、俺達に捜査を割り振る」

 彼女がついてきているかを確認もせずに笹井はすぐに歩き出す。彼女は電話交換手にぺこりと頭を下げると小走りで笹井の背中を追う。次はこっちだと刑事部屋の入り口近くの巨大なホワイトボードまで歩いていく。ホワイトボードには大きな表が書かれており、一番上には担当刑事の名前が並び、それぞれの名前の下に、黒字や赤字の氏名が縦にずらりと並べられている。

「捜査一課のボードだ。担当事件の被害者の名前がここには記録されている。捜査一課には現在四つの班がある」大島班、笹井班、斉藤班、木山班とホワイトボードの一段目にはある。二段目には各班に所属する刑事の名前が並ぶ。「事件が割り振られると被害者の名前を赤字で書く。そして事件が解決すると赤字を黒字に変える」表の一番下が現在担当の事件、ということか。「途中にある赤字の名前は未解決という意味だ。多ければ多いほど、捜査一課では白い目で見られる。黒字の名前をいくつここに並べるか、まあ、ちょっとしたレースみたいなものだな」

 ちょうどホワイトボードの方へとやってきた刑事を捕まえて笹井は言う。

「こいつは杉本、大島班の刑事だ」

 背の高いがっちりとした体形に短髪の男が、杉本だと会釈する。彼女は再び深々と頭を下げる。

「あっちにいるのが同じく大島班の永野刑事と鈴下刑事。斉藤班と木山班は今、捜査に出ていて不在だがどうせすぐに会える」

 次はこっちだ。そう言うと笹井は足早に刑事部屋の奥へと歩いていく。

「ちなみにタバコは吸うか?」

 唐突な質問。彼女がいいえと首を振ると、笹井は俺もだと答える。「だがあいにく俺の相棒はタバコを吸う。ここは政府直轄都市だぜ。建前上、公的施設内は全館禁煙のはずだが、やめる気はないらしい。だから慣れろ。お前に気を使って禁煙を心がけるような奴じゃない。お前がタバコの煙にアレルギーがあって心臓発作を起こしても、咥えタバコで心臓マッサージをするような男だ。あいつは今、取調室にいる。こっちだ」

 刑事部屋の奥の扉の先には廊下があり、それに沿ってずらりと扉が並んでいる。

「取調室、通称BOXだ。俺達の最も重要な仕事は、ここで犯罪者達に気持ちよく自白してもらうことだ。お前のもう一人の指導教官は取り調べにかけては捜査一課で一番だと思ってもらっていい」

「それはお会いするのが楽しみです」

 彼女の言葉に笹井は立ち止まると片眉を吊り上げて言う。

「最初に言っておくが、あいつの第一印象は最悪だ。殺人課刑事としては優秀だが人間としては絶望的だ。アドバイスしよう、必要以上に関わるな。あいつと絡むだけ損をする」

「褒め言葉に聞こえませんが」

「褒めてない。あいつには褒めるところがない」

 笹井がそう言うのと同時に、一番奥の取調室の扉が開いて一人の男が現れる。それほど背は高くない。だが分厚い胸板に黒々とした隈が両目の下に鎮座する目つきの悪い男。笹井は手を上げると男の方へと歩いていく。笹井に気付いて男が言う。

「落ちたぞ」

 笹井は腕時計を見ると、ふむと鼻を鳴らす。「早いな」

「四分十二、新記録だ。俺の勝ちだ、払えよ」

 本当に死体を埋めた場所を自白したのかよ、と言う笹井に男はメモを手渡す。メモをちらりと見た笹井は、くそうと舌打ちをして財布から紙幣を一枚抜き取って男に手渡す。笹井の後ろに隠れるように立っている彼女に気付いた男があからさまに怪訝そうに眉をひそめる。

「いつから子守のバイトを?」

「話しただろう? 今日付けで首都警から研修生が来るって。覚えていないのかよ」

「いくつだ、十五歳か?」

「彼女はキャリアの研修生だぞ」

 男は無遠慮に彼女をまじまじと見ると、名札にある彼女の名前を口にする。

「ミズヌマ、キリコ、」

「トウコです」

 彼女が反論するが男はどっちでもいい、と言い捨てる。それから彼女の両肩に手を置いて、心底心配そうに彼女にアドバイスする。

「いいかお嬢ちゃん。悪いことは言わない、ここはやめておけ。苦労して一流大学を卒業して首都警察に配属されたのに、こんな掃き溜めみたいな職場でセクハラを受けるつもりか。金に困っているなら駅前で下着でも売ったらどうだ。女子校生なら高値で売れる」

 その瞬間、彼女の右手は鋭く男の左頬を張る。きょとんとした目で彼女を見る男を無視して、彼女は踵を返すなり刑事部屋の方へと歩き出す。

「今の、見たか?」

 男の問いに笹井は真顔で言い返す。

「出会って三十秒で嫌われたな。こっちも新記録だ」

 笹井はそう言うなり彼女を追いかける。刑事部屋に入るところで追い付くと笹井は嬉しそうに彼女の肩を叩く。

「だから言っただろう。あいつには絡むだけ損をする」

「すいませんでした。でも、あれは、」

「気にするな。俺もすっとした」

 えっと彼女が顔を上げると、笹井はにやりと笑う。だが、

「聞こえてるぞ」

 廊下の向こうから男が大声で言うのが聞え、彼女は最悪、とつぶやく。

 ほんと、最悪。

 だが、最悪の出会いが最悪の物語になるとは限らない。


 

 東方日明というのがあの目つきの悪い刑事の名前で、あれからずっと不機嫌そうな態度なものだから彼女はすっかり委縮してしまっている。笹井が、がこんとギアをローに入れると、三人を乗せたぼろぼろの2CVは市警察からゆっくりと走り出す。助手席の東方は相変わらずの仏頂面でずっと文句を言っている。

「どうして学生まで一緒に連れていくんだ?」「学生じゃない。研修生だ」「大して変わらん」それから東方はずいと体を後ろに向けると、後部座席で息を殺している彼女に向かって言う。「いいか、お嬢ちゃん」「は、はい」と彼女は上ずった声で返事する。「現場についても何もするな。何も考えるな。俺の邪魔だけはするな」呼吸もするなよと言いたげに告げると、それから眉間にしわを寄せて彼女に言う。「あと、むやみに暴力を振るうなよ」彼女があれは、と思わず何か言いたげな素振りを見せるが、ルームミラー越しに運転席の笹井と目が合って口をつぐむ。東方はふんと鼻を鳴らすと前を向いて言う。「いい子にしてたら、あとでジュースを買ってやる」

 首都警察から出向し、未未市警察捜査一課での三カ月間の研修初日。お定まりの施設案内やオリエンテーションで一日を費やすのかと思いきや、市警察の面々への挨拶もそこそこに彼女は早速捜査現場に連れ出されることになった。「殺人事件ですか?」彼女ははやる気持ちを抑え切れずにたずねるが、笹井は曖昧にしか答えずにいいから車に乗れ、と後部座席に押し込められた。当然、取り調べを終えたばかりの笹井の相棒も同席するが目も合わせてもらえない。気まずい空気の中、二人の刑事と研修生を乗せた車は走り出した。制服警官と違い刑事達には覆面パトカーがあてがわれているが、それにしたって車は選びたいものだ。彼女達を乗せて走っているのは塗装がところどころで剥げたくすんだ水色の2CVで、車内には埃臭さがこびりついている。

 ところが見かけに反して2CVは思いのほか軽快に走る。時折がたがたと不安な気持ちにさせるような音を立てるが、器用に車の間をすり抜けながら十五分ほど走り、未未市中央駅近くの大きなホテルの駐車場へと滑り込んでいく。この街は数年前の再開発に合わせて外資系ホテルが乱立したが、未未グランドホテルは古くからこの街の中央に鎮座する老舗のホテルで、古めかしいが豪華な作りのエントランスを抜けると、ボタンまで磨かれた制服を着こなしたベルスタッフが三人に挨拶をする。ロビーには真っ赤な絨毯が敷き詰められ、ソファで多くの客達が談笑している姿が見える。ドアスタッフが荷物を運びコンシェルジュが客の対応をする中、真っすぐにフロントに歩いていく二人の刑事の後ろで、彼女は豪華な照明を見上げながら、ため息をついている。高校生が間違って迷い込んだかのように見えているんじゃないだろうか、彼女はそんなことを思いながら、さっさと歩いて行ってしまう先輩たちの背中を小走りで必死に追いかける。

フロントで二人の刑事が警察手帳を見せるとすぐさま支配人がやって来て、こちらですとフロント裏手の従業員用のエレベーターに案内する。エレベーターに乗り込んでからも支配人は無言で深刻そうな顔で黙ってうつむいている。そういえばまだ何も詳しい話は聞いていなかった。彼女はちらりと銀縁眼鏡の刑事を見上げると、どんな事件なんですか、と小声で聞く。「まあ、着いてからのお楽しみだな」と答えにならない答えのあと、刑事は相棒を見る。東方は扉上の階層の表示板をじっと睨みつけるように見上げており、こちらのことは見向きもしない。このまま三カ月間、本当にうまくやっていけるのかと彼女が不安にかられていると、ちんと音がしてエレベーターが停まる。八階。従業員用エレベーターを降りてすぐのところの扉を開けると、その先にはロビーと同じく真っ赤な絨毯が敷き詰められた廊下と、部屋番号を刻印した真鍮製のプレートが打ち付けられた美しい木目調の扉が並んでいる。二回角を曲がると扉の目に一人の制服警官が立っているのが見える。三人の姿に敬礼をする警官に、笹井が敬礼なんてよせ、と答える。

「お疲れ様です」警官の言葉に東方はぶっきらぼうに返す。「お前がいるってことは現場の保存は滅茶苦茶か?」「その上あなたが担当なら事件は迷宮入りです」「笑える」東方と軽口を叩く警官は、彼女の姿に気付いて不思議そうな表情を浮かべる。「新しい刑事さん、ですか?」「冗談だろ。十五歳だぞ」「高校生には見えません」「よく知らん」「どうしてここにいるんです?」「だから、よく知らん」

 どうしてまるでわたしがこの場にいないかのように話が出来るんだ。二人の不躾な態度に、彼女は鼻の頭にしわを寄せると笹井を一瞥する。目が合うと笹井は、まあ気にするな、と他人事のように言う。「さっさと現場を見ようぜ」東方に促され、警官はこちらですと三人を部屋の中へと案内する。



 ホテルの部屋は想像以上に広く彼女はまたもや呆気に取られてしまう。部屋の手前側には大きなソファが二つ、ガラスのテーブルを囲むようにL字に置かれ、壁には巨大なテレビがかけられている。奥にはキングサイズのベッドとその右横に十分な広さの机とイス、左には大きな姿見が置かれている。ベッドの上には一人の女性が横たわっており、その周囲で制服警官や鑑識官が現場検証を行っている。三人はベッドの方へと歩いていき遺体を覗き込む。こぎれいな格好をした女性が、洋服を着たまま仰向けに倒れている。笹井はポケットからメモ帳を取り出すと警官にたずねる。

「状況は?」「佐島香苗、四十八歳。昨日よりこの部屋に宿泊していました。係りの者が朝食を運んできたのが八時五十分。ノックに返事がなく、廊下にワゴンを残して帰りました。三十分後に再度訪室した際にも応答はなくフロントに連絡、フロントからの電話にも出なかったため、ワゴンを入れるために部屋に入り、ベッドに倒れている彼女を発見し通報してきました」「外傷は?」「ありません。争った形跡や着衣の乱れもなし。死亡推定時刻は朝の五時前後。病死でしょうか?」「事件性がないならわざわざ呼び出すなよ」東方が不満気に鼻を鳴らす。「事件性がないとは言っていません」と警官は平然と言い返す。「異常死体の検分も、皆さんのお仕事でしょう?」正論を返され、東方は忌々し気に相棒を見る。「お前が親父にいい顔ばかりするから、こんなくだらない仕事を押し付けられるんだ」「これも水沼君の研修の一環だよ」「ガキのお守のことを言っているんだ」

 そう吐き捨てると東方はぶつぶつと何かをつぶやきながら部屋の中を物色するように歩き回る。情緒不安定なその様子に彼女は怪訝そうに眉をひそめたあと、とりあえず警官の報告に集中することにする。

「病死か、それとも自殺か。薬物を飲んだ形跡は?」笹井がたずねる。「遺体の周辺には何も。持ち物から薬物の類も見つかっていません」「診察券の類、病院に通っていたような形跡は?」「ありません」ぱっと見、遺体はきれいなものだ。外因死には見えない。彼女は部屋の中をぐるりと見回す。ベッドサイドの机の上にテレビのリモコンがある。壁には大きなテレビがかけられている。

「バスルームはもう見たのか?」東方が部屋を歩きながら警官にたずねる。「薬の類ですよね。すいません。ちょっと確認してきます」警官が足早に入口横にあるバスルームへと向かう。その背中にちゃんとやれよなと東方は舌打ちをする。東方は遺体を前にしている相棒の笹井に耳打ちをする。「何でもいいからさっさと終わらせようぜ」「そう焦るなよ」笹井が取り合わないでいると、東方は小さく唇を鳴らしてちらりと彼女の方を見る。「あいつ、何をやっているんだ?」笹井も同じ方を向く。彼女がリモコンを手に、壁にかけられたテレビを見上げているのが見える。「おい研修生、何も触るなよ」東方が厳しい口調で言うが、彼女は、ああ、はいと生返事をしてそれから部屋の隅に立つ支配人に声をかける。

「あの、すいません」

「はい、何でしょうか?」

「これ有料放送のチャンネルもありますよね。もし有料放送を見ていたら、時間やチャンネルなどの視聴記録は残るものなのでしょうか?」

「おい」東方が不機嫌そうな声を上げると笹井に言う。「勝手なことをさせるな。ちゃんとお守していろよ」

 やれやれと笹井は彼女の方へと歩いていく。

「どうした、何かあったのか?」

「すいません。黙って見ておきます」

「何か気付いたことがあるなら言え。どうしたんだ?」

「はい。あの、これ、」そう言うと彼女はテレビをつける。画面に、有料放送の案内の画面が表示される。「彼女、最後に見ていたのは有料放送だったみたいなんです」

「映画でも見たかったんだろ」

「このチャンネル、番組表によると旅番組のチャンネルなんです。昨夜は南国リゾートの特集をやってみたいですね。自殺する前にリゾート地の旅行番組なんて見るとは思えません」

「じゃあ病死か?」笹井が試すようにたずねると同時に、「研修生、」半分怒鳴るような声が響いて彼女はびくっと体を震わすと、すいませんと慌ててテレビを消す。怒鳴り声の主はベッドわきから仁王立ちでこちらをじっと見ている。

「あんまりいじめるなよ」笹井が東方に釘を刺す。それから支配人に向き直ると質問を始める。「彼女がこのホテルに泊まるは初めてのことですか?」「いいえ。御贔屓にしていただいております。大体、月に二度はご利用いただいております」「彼女と面識が?」「はい。昨日もチェックインの際にご挨拶いたしました」「こんな高級ホテルに定期的に泊まるなんて贅沢なことで」「お仕事で使われていたようです」「仕事?」「本を書かれていたようです」「作家先生」「かなり御高名な方だとお聞きしています。あいにく私は未読ですが」「昨夜は何かいつもと変わった様子はありませんでしたか?」「私の目には何も。昨日は昼過ぎにチェックインされました。ああ、そうだ、一つだけいつもと違うことがございました」「と、言いますと?」「ご夕食にルームサービスを頼まれました」「今まではそういうことはなかったのですか?」「ホテルにはレストランがございます。いつもはそちらでご夕食をとられ、朝はルームサービスでということが多かったと記憶しております。昨夜、ご夕食をお持ちした際にも、今夜は徹夜で仕事だとこぼしておられたと担当の者から聞いております」「昨夜はずっと部屋から出なかったのでしょうか?」「断言は出来ませんが、いつもは外出の際にはフロントに顔を出されます。昨夜は一度もフロントに下りてきていないようです」「徹夜で仕事、か」笹井がそうつぶやくと、あれだろ、と東方が、ベッドわきの机の方を指差す。

 机の上にはノートパソコンが開いた状態で置かれている。笹井がマウスを動かすとロックはかかっていなかったのか画面が起動する。

「死ぬ直前まで仕事をしていたのかな」それとも遺書でも書いていたのか、そうつぶやいた笹井の横から画面を覗き込んだ彼女があっと声を上げる。「何だよ、驚かすなよ」「これって、もしかして」「何だ?」「ちょっといいですか?」彼女がマウスに手をかけると再び東方が研修生、と声を上げるが、笹井はうるさいなと東方に言い返す。「ああ、そうだ、やっぱり」彼女が興奮気味に言い、笹井も画面を覗き込む。「何だ、何を見つけた?」「彼女、神宮寺かなえ先生です。有名なミステリー作家ですよ。わたしファンだったのに」

 ミステリー? 馬鹿にしたような声で東方が笑うが彼女ははい、とはっきりと答える。「ベストセラー作家ですよ」「知らん。なあ、もう行こうぜ」彼女に取り合わず、相棒にそう告げるが笹井はそれを無視して支配人に何やら話しかける。その様子に舌打ちをすると、東方は面白くなさそうに入口付近のソファの方へと歩いていき、どっかりと腰を下ろす。深々と背もたれ退屈そうに目を閉じる。そうこうしているとバスルームから戻ってきた警官が足早に東方に近付いてきて耳打ちをする。

「東方刑事。洗面所にピルケースが残されていたようです」ぎろりと警官を見ると、東方はたずねる。「中身は空か?」「はい。他には何もありませんでした。ゴミ箱にも薬のヒートらしき物もなく、バスルームもきれいなままでした。トイレ以外、使用した形跡はありません」

 警官の報告に、東方は怪訝そうに顔をしかめるとむくりと体を起こし、それからおもむろに立ち上がる。「何か?」警官がたずねるがそれには答えず、のっそりとバスルームへと歩き出す。



 バスルームは広く、きれいに磨かれた洗面台の鏡の前に、日焼け止めや化粧道具がきちんと並べられている。鑑識作業は終わりましたので触ってもらって結構ですと告げられ、東方は日焼け止めを手にする。化粧品をちらりと見たあと、東方はガラスの扉を開けてシャワールームを覗く。床は乾いている。バスタブには乾いた足ふきマットがかけられたままになり、きれいにたたまれたタオルに乱れた様子はない。タオルが渇いていることを確認すると、東方は無言でバスルームを出て、ベッドの方へと歩いていく。

 ベッドサイドでは笹井と水沼がまだ何やら支配人と話し込んでいる。東方はベッドの上の遺体に近付くと、顔の前で祈るように両手を合わせる。遺体をしばらく観察したあと、ふと何かに気付いたように遺体に覆いかぶさるように顔を近付ける。遺体の髪の毛の匂いを嗅ぎ、手で触れる。「湿っている」東方はそうぶつやくと警官にたずねる。「昨夜、このあたりの天気は? 雨は降ったか?」「いいえ、降っていません」「シャンプーの匂いはしない」「何です?」警官の問いをまたもや無視して、東方は再び入口の方へと歩いていく。

 東方はバスルームと反対側にあるクローゼットの扉を開く。春物のコートがかけられている。襟に触る。コートの襟は湿っている。しゃがみ込んで脱いであるブーツを手に取る。下半分には泥が跳ねている。ふむと鼻を鳴らすと東方は再びベッドサイドに戻る。

 ベッドサイドにはキャリーバッグが置かれている。手に持つ。荷物は軽い。膝をついて車輪を覗き込むが泥汚れはない。「来た時じゃない、」

 東方はそうつぶやいて立ち上がると先程まで自分が座っていたソファの方へと向かう。テーブルを囲むように置かれているもう一つのソファには、鞄から出された衣類や荷物がきれいに並べられている。

「どうした?」

 笹井がたずねると東方は困惑したような表情を浮かべる。

「ソファに鞄の中身を一度全部出して、全部並べ直している。洗面台の化粧品も使う順番に並べられていた。かなり几帳面だ。髪の毛は生え際まできれいに染められているしコートもよく手入れされている。そういう人間はブーツの汚れをそのままにしたりはしない」

「何の話だ?」

 東方はしばらく考え込んだあと、笹井の方を向き直りまだ話は終わらないのかとたずねる。もうすんだよとメモ帳をたたみながら笹井が答えると、帰ろう、と短く言うなり東方は部屋から出ていく。その様子に笹井と彼女は顔を見合わせる。



 がたがたと揺れながら走る2CVの中で彼女は、ミステリー小説には縁がなさそうな二人の刑事に神宮寺かなえについて説明する。

「神宮寺先生はいくつも賞を受賞している高名なミステリー作家です」

「聞いたことがないな」笹井はハンドルを握ったまま平然と答える。

「密室や不可能犯罪など本格パズラー物で絶賛されるこの国を代表する女流ミステリー作家ですよ。たしか初期の作品が来年、映画化されるという話が出ています」

「詳しいな」

 東方は話を聞いているのか、窓の外を見たまま何やら口を動かしているが、何を言っているのかは聞き取れない。とりあえず無視して彼女は説明を続ける。

「先程はベストセラー作家と言いましたが、正確にはかつてはベストセラー作家だった、と言うべきでしょうね。デビューから数年は海外でも翻訳され評判を呼んでいましたが、最近の評判は芳しくありません。実はこの二、三年、作風が大きく変わっているんです。初期の作品は隙のないパズラーでしたが、最近は男女の愛憎劇などの人間ドラマを重視した作風になり、評論家からはまるで昼メロだと酷評されています。ネットでも散々叩かれていたようです」

「作風なんてそんなに変わるものなのか?」

「スランプとか出版社の意向で変えられた、とかいろいろと言われていますが、あまりの豹変ぶりに旧来のファンからは手の平を返されたようにバッシングされています」

「それを苦に自殺した、としてもおかしくはないか」

 笹井の言葉に彼女はええとうなずきはするが、すぐに否定する。

「とは言え、来年には初期作品の映画化も控えていますし、このタイミングで自殺というのは腑に落ちません」

「映画化か、それは大仕事だな。仕事上で何らかのトラブルを抱えていた可能性もあるな」

 笹井はそうつぶやくとふむと考え込む。しばらくして、そういえば、とルームミラー越しに彼女を見る。「支配人が面白いことを言っていたな。彼女は昨夜一度、部屋からフロントに電話をかけてきている。自分宛てに外線電話があったら部屋に回してほしいと。実際には電話がなかったようだが、男からの電話でも待っていたのかな」

「ネットで叩かれているかつてのベストセラー作家、男にふられて傷心自殺、ですか?」

「新聞では三面扱いだな」笹井の言葉に彼女はでも、と答える。

「でも神宮寺先生って、たしか結婚されていますよ」



 一日の終わりに、三人は未未市警察捜査一課長室に出頭する。

この巨大な犯罪都市の殺人課刑事達を束ねる全知全能の神、御厨警視が机の奥から三人のことを射抜くような視線を向ける。小さな体躯に禿げ上がった広い額、灰色の髪の毛をきれいに後ろに撫で付けた鷲鼻の課長は刑事達にたずねる。

「毒物が出たのか?」

「検死結果によると致死量の毒物が検出されています。ネットの自殺サイトを探せばいくらでも手に入る代物です。毒物は白色無味無臭で即効性があり、早ければ経口摂取から数秒で体が麻痺し、一分以内に呼吸停止に至ります。ホテルにあったピルケースには何も残っていませんでした。毒物はカプセルに入れて持ち運んでいたと思われます。なお、被害者に直近の医療機関受診歴はなく、検死でも明らかな内臓疾患は指摘されていません。病死の可能性は低く毒物による中毒死と考えられます」

「死亡推定時刻は?」

「朝の五時前後。正確には四時三十二分から五時半までの間です」

「四時三十二分。ずいぶんと具体的だな」

「その時間までホテルの有料放送を見ているんです。視聴記録によるとテレビを視聴していたのは二十四時六分から四時三十二分まで。薬を飲んだのはそのあとと思われます」

「事件性は?」

「今のところありません。争った形跡や外傷もなし。毒物を無理矢理飲まされたとは考えにくいですね。ちなみに注射された痕跡もありません」

「胃の内容物は? 食事に混ぜた可能性は、」

「固形残渣物はありませんでした。ホテルの話では夕食のルームサービスを運んだのが十九時で、二十一時には廊下に出されていたワゴンを回収したようです。ホテルの部屋に残されたゴミなどから他に飲食した形跡はありません」

「無理矢理事件性を探す必要はないでしょう? 自殺ですよ」東方が何故か不満気な声を上げる。

「可能性の問題だ、東方」

「もし仮に誰かが毒を飲ませたとして、どうしてわざわざ犯行現場にホテルを選ぶんです? 遺体の発見は、遅れれば遅れるほど捜査が難航し犯人には有利になりますが、ホテルだとベッドメイキングや清掃が入るし、少なくともチェックアウトの時間を過ぎれば確実に遺体が発見されます。殺人現場には向きませんよ」

 仏頂面で言う東方に笹井も続く。

「自宅の方にも行きましたがね、机の引き出しから体内から検出されたのと同じ毒物が入ったカプセルが見つかっています。ネットで購入した記録も残っていました。状況証拠から考えて自殺で間違いないでしょうね」

「自殺だとして動機は?」

 ふうむと一度こめかみを掻いたあと、笹井は課長に答える。

「遺書はまだ見つかっていません。ただし、最近は仕事の方で行き詰っていたようですし、それほどおかしな状況ではないでしょうね」

「家族には?」

「両親はすでに他界、兄弟はいません。別居中の夫に亡くなったことの第一報は入れていますが自殺とはまだ。直接会ってお話しした方がいいでしょうね」

「慎重にやれ。相手が相手だからな」

「気が重いですね」

「本来なら私が出向くべきだろうが、」

「そう思うならお願いしますよ」

 笹井の言葉に課長はぎろりと睨みつける。

「くれぐれも失礼のないようにしろ」

 それからもう話は終わりだと言わんばかりに課長は扉の方を顎で指す。

「用が済んだのなら、三人共さっさと出ていけ」



 課長室から出ると、水沼桐子は笹井にたずねる。

「これから神宮寺先生の旦那様に会いに行くんですか?」

「車で片道二時間近く、帰ってきたら夜だな。どうしてそんな不便なところに住むんだ?」

「貧乏くじばかりだ、くそったれ親父」

 東方が吐き捨てるように言う。

「先程の課長の言い方では、旦那様とはお知り合いのようですね」

 水沼の言葉に笹井はああと首肯する。

「鬼頭貞義。市警察にも捜査協力をしている犯罪学の権威だ。まあ言ってみれば身内だよ」

「鬼頭貞義って、あの『天心教の犯罪行動についての社会心理学的分析』を書いた東都大学の鬼頭教授ですか?」

「何だ、よく知っているな」

「学生時代、非常勤でうちの大学でも教鞭を。講義を受けたことがあるんです」

「恩師と感動のご対面だな」

「それが奥様の自殺の報告だなんて、ほんと最悪」

「ご愁傷様」

 笹井はそう言うと、行こうぜと駐車場に向かって歩き出す。



 走る車の中で、相変わらず東方は黙り込んでいる。

「何かあるのか?」

 いつもなら車での移動の間中、不満を言い続ける相棒の沈黙に笹井がたずねる。東方は答えず窓の外をぼんやりと眺めている。会話を諦めて笹井も声をかけるのをやめる。そんな様子を後部座席で彼女は不思議そうに眺めている。車は中央高速道路を下りて三十分ほど走ると風景はどんどん変わり、郊外の山の中へと入る。鬼頭貞義の山荘が見えてきたころにはすでに陽は落ち始めており、たしかにどうしてこんな不便な場所に住むのかと彼女は小さくため息をつく。山荘前の広い駐車場に車を停めると三人は車をおりる。土の地面はぬかるみ、多くの足跡や轍が残っている。

「雨でも降ったんでしょうか」

 彼女の言葉に、笹井がんん、と振り返る。

「いくつものタイヤ痕、お客さんでもあったんですかね」

 彼女の言葉に地面を見たあと笹井は薄暗くなりつつある空を見上げる。分厚い雲が空全体を覆い、不安を呼び起こす雰囲気が漂っている。

「今夜あたりまた降るかもな」

 さっさと行こうぜ、と笹井は歩き出す。東方は一人、駐車場をぐるりと見回すと、二人の背中を追ってゆっくりとついていく。

 駐車場から山荘には、両脇を背の高い茂みに挟まれた小道が続いており、同じくぬかるんだ地面には多くの足跡が残されている。不特定多数の人物が出入りしたことは間違いないらしい。小道をしばらく行くと真っ白い壁の大きな建物が見えてくる。玄関の周りには大きな花壇によく手入れされた植栽が並んでいる。

「気が重いな」

そう言って笹井がインターホンを鳴らすと古めかしい鐘のような音が響き、しばらくしたのち扉の奥から灰色の髪の毛と豊かな口髭の眼鏡の男が現れる。鬼頭貞義教授ですね、笹井は警察手帳を見せると恭しく一礼する。「よく来てくれた。さ、こちらに入りたまえ」手伝いの者などはいないのか、教授自らの出迎えで、三人は応接室へと通される。

山荘は古い造りだがきれいに手入れされている。案内されたその部屋には暖炉と共に重厚な調度品が並び、壁には大きな絵画がかかっている。部屋の中央には机を挟んで大きなソファが二つ置かれている。壁に備え付けられた巨大な本棚には、英語のタイトルが刻まれた分厚い本がずらりと並べられている。

促されるままに笹井と水沼はソファに座り、それに対峙するように家主の鬼頭貞義が腰をおろす。「吸ってもいいかね?」教授の問いに笹井はちらりと横に座る彼女を見る。彼女が拒絶しないのを見て、どうぞと笹井は言う。ガラスの灰皿にはすでに何本かの吸い殻が入っている。教授はタバコに火をつけると、ふうと大きく煙を吸い込む。

一しきり教授が吸うのを待ってから、笹井は本題を切り出す。

「本日は奥様が亡くなられて大変な最中、突然押しかけてしまいまして申し訳ございません。これまでの捜査でわかったことをお伝えします」

 笹井がお定まりの挨拶から入ったところで、教授が突然眉間にしわを寄せて声を上げる。

「ああ、君、申し訳ないのだが勝手に触らないでもらえるか」

 教授の言葉に笹井と水沼は揃って教授の視線の先を見る。部屋の隅にあったマガジンラックの雑誌をぱらぱらとめくっている東方の姿に笹井は大きくため息をつき、戻せ、と鋭く言う。東方は不満げに雑誌を戻すと、不貞腐れた子供みたいにカーテンの空いた大きな窓の方へと歩いていく。

 東方は窓の前で両手を後ろ手に組むと窓の外を眺める。挙動不審なその様子に、教授は変な奴だと言わんばかりに眉をひそめたあと、改めて対峙する二人の刑事に向き直る。「いや、すまなかった。では話を聞こう」

 事件の概要を説明し終えると笹井は、遺書等は見つかっていませんとつけ加え、残念ですと告げる。

「こんなところまでわざわざ報告にきてくれたことを感謝する」

 教授の声は弱々しく、落胆の色がありありと浮かんでいる。

「教授にはわれわれも常日頃からお世話になっていますし、直接会ってお伝えするのが礼儀かと思いまして」

「恐れ入る。妻とはもう二年近く別居状態でね。直接会ったのはもう一年以上も前のことだ。だがそれにしても妙なこともあるものだ。実は昨夜、彼女に電話をするはずだったのだ」

「電話、ですか?」

「実はおせっかいな友人がいてね。何とか私達の仲を取り持とうと骨を折ってくれたのだ。出版社から彼女がホテルに缶詰めと聞き出したらしく、ホテルに電話して驚かそうと」

「ホテルに、ですか?」

「携帯電話からだと彼女が警戒して出ないだろうと友人が言うのでね。酔いも手伝って私もその気になって、これでも二十年近く連れ添ったのだ。そう、もう一度話し合ってみるつもりだったのだよ。だが、人生とは上手くいかないものだな。昨夜は大勢の客があって、いささか飲み過ぎたらしい。君達から妻の訃報を聞くまで電話のことはすっかり失念してしまっていた。自殺した理由はわからないが、昨夜電話をかけていればあるいは何か変わったかもしれないと思うと、悔やんでも悔やみ切れぬよ」

「お察しします。このようなことをおたずねするのは大変心苦しいのですが、奥様が自殺されるような動機に心当たりはございますか?」

「あれは若い時分から精神的に不安定なところがあってね。一時期は心療内科にかかっていたほどだ。妄想癖というか物事を悪いように悪いように考える節があったのだ。あれとの仲がこじれたのも、私が浮気していると彼女が思い込んだことが原因で、もちろん誤解なのだが、どんなに説明しても取り付く島がなかった。家を出て行ってしまいそれっきりだよ」

「一つ、おたずねしてもよろしいですか?」

 彼女がおずおずと口を開く。

「君は? そう言えばまだ名前を聞いていなかったな」

「首都警察より捜査一課に研修に来ています水沼と申します。学生時代に先生の講義を何度か聴講させていただきました」

「ほお。私の教え子が今や首都警察の刑事とは、教師冥利に尽きるな」

「恐れ入ります。実は奥様は昨夜、ホテルの有料放送で南国リゾートの旅番組を視聴されているんです。先生のご専門である心理学的観点から考えて、自殺する前にそんな番組を見るということがあり得るのでしょうか?」

「南国リゾートか。むしろそれが引き金だったかもしれんな」

「と、言いますと?」笹井がたずねる。

「彼女はスノール諸島がお気に入りで、われわれの新婚旅行もそこだったのだ。二人の思い出の地という奴だな。きっと昔を思い出して、幸せだったころの記憶、それが引き金になったのかもしれぬな」

「幸せだったころ。つまり今は幸せではなかったということですか?」

「愛想を尽かした亭主と離れられたことは幸せだったかもしれぬが、友人によると仕事の面では随分と悩んでいたらしい。ミステリー作家とは難しいらしいね。ミステリーの世界では新しいアイデアは出尽くしたと言われているようだ。あとは先人達の作り上げた既存のアイデアの組み合わせでしかない。彼女は読者があっというようなトリックを作り上げるのはもう限界だと漏らしていたらしい」

「最近は作風も変わっていました。あれは編集者の意向なのでしょうか?」

「別居してからは私ももう彼女の本を読んでいなくてね。くわしくはわからないが、本意ではなかっただろうな。ネットでもあれだけ叩かれていれば、彼女には大きなストレスであったことは違いあるまい」

「教授もミステリーはお好きですか?」

 唐突な質問の声に教授は顔を上げる。窓際に立つ東方がいつの間にかこちらを向いている。

「何故、そう思うのかね?」

「ここには立派な本棚がありますが専門書ばかり。一方、廊下の本棚には何冊もミステリーが並んでいました。奥様が残していったのかとも思いましたが、中には読み込んだ古い本も多くありました。作家なら思い入れのある本を手元に置いておきたいはずです。ですからあの本は教授のものだと思ったのですが、」

「よく観察しているな。私自身こう見えても生粋のミステリーファンでね。家内と出会ったのも大学のミステリーサークルだった。私はそのうちフィクションよりも現実の事件に興味が出たので、この道に進んだがね」

 そうですか。東方はありがとうございますと頭を下げると、再び窓の外を見る。怪訝そうな教授に対して取り繕うように笹井は立ち上がると一礼する。

「教授。こちらからのお話は以上です。お忙しい中、貴重なお時間をいただきありがとうございました」

「こちらこそわざわざ出向いていただき感謝する。本部長にもよろしく伝えてくれたまえ」

 それから教授は彼女に向き直ると優しいまなざしで語りかける。

「教え子の成長した姿にこうして出会えるのは幸せなことだ。これからも頑張りたまえ」

「ありがとうございます」

 彼女は深々と頭を下げる。



 玄関まで見送る教授に、笹井がもう一つだけ、とたずねる。

「参考までに昨夜、ご友人がお帰りになった時間を教えていただけますか?」

「たしか夜中の四時は過ぎていたように思う。ある殺人事件について議論を交わしているうちについつい熱が入ってね。必要なら連絡先を教えるが」

「恐れ入ります。もし必要になりましたらまた改めてご連絡しますのでその際に。では、これで失礼します」

 三人の刑事は玄関を出ると駐車場に向かう小道を歩いていく。

 背中で扉が閉じられる音を聞くと、東方はぼそりとつぶやくように横を歩く笹井にたずねる。

「気付いたか?」「というと?」「マガジンラック、」笹井が足を止め、怪訝そうに東方の顔を見る。笹井の無言の返答に東方は山荘を振り返る。三角の屋根に白い屋敷が不気味な灰色の空を背景に浮かび上がっている。

「お前、さっきから変だぜ。どうしたんだ?」

 笹井の問いに答えず、東方は小さくつぶやく。

「まさかな」

 それから何かを振り払うように頭を振ると、東方は駐車場に向かって歩いていく。


1994/4/5 Tuesday


 神宮寺かなえこと佐島香苗(本名:鬼頭香苗、ホテルでは旧姓を名乗っていた)は服毒自殺と考えられ、未未市警察捜査一課は事件性なしと判断した。報告書の作成のため、翌朝水沼桐子は笹井に連れられて神宮寺かなえの作品を出していた出版社を訪ねていた。

「担当編集者に会って来た。ああ、二年くらい前、彼女は突然スランプに陥ったらしい。書けなくなったと大騒ぎだったようだ。誰だっていつまでも天才ではいられないよな。路線変更を進めたのは編集者だったようだ。最近は割り切ったかのように新しい作風で新作を発表していたらしいが、本の売り上げは下行線を辿っていたようだ。あの高級ホテルを見る限り、本は売れなくなったがかつての生活水準は下げられないといった感じだろうな。借金や原稿料の前借りはないが、かなりの浪費癖を周囲は心配していたらしい。いいや、特に編集部とトラブルがあった様子はないが、映画化も控えているし正念場だったようだな、って、おい、聞いているか?お前、今どこにいるんだ?え、何を調べているって? くそ、電波が悪いな」

 出版社の前に路上駐車した2CVにもたれ掛かりながら笹井は携帯電話に向かって苛ついた声でしゃべっている。横に控えている彼女が不安げな表情を浮かべる。

「東方さん、今、どこにいるんですか?」

 今朝、刑事部屋に出勤してきた彼女を待っていたのは笹井だけで、結局姿を見せなかった東方をおいて二人は捜査に出ている。

「おい、聞こえるか、ああ、続けるぞ。仕事以外にも彼女の周辺では最近、いろいろとあったらしくてな。担当編集者の話では、数ヶ月前から彼女には新しい恋人が出来たようだ。編集者が急用で自宅に訪れた時、見知らぬ車が停まっていたらしい。彼女に聞いても客は来ていないと誤魔化されたらしいが、その後も何度か同じ車が停まっているのが目撃されている。別居中とはいえ離婚はしていないからな。褒められた話ではないが、近所の住人に確認したところ、件の車は一時期、毎日のように彼女の自宅の駐車場に停まっていたらしい。ところがこの二週間は見かけていないというから、男との仲がこじれたか、案外それが自殺の動機かもな。ほら、ホテルにかかってくるっていう電話、あれがその男だったのかもしれない。かかってくると期待していた電話がなくて、衝動的に自ら命を絶った。ああ、そうだな、それと、くそ、」

「どうしたんですか?」

「電波が、あいつ今どこにいるんだ。おい、聞こえるか。それとな。先程連絡が入って、彼女の自宅から遺書らしき物が発見された。いや、自宅のパソコンのデスクトップに残されていた。もちろんサインや日付はないが、内容は遺書と言っても差支えない。結婚も失敗し作家としても挫折を味わった、とか何とか。いや、男のことは書かれていない。正式な遺書とは言えないだろうが、最近の彼女の心理状態を説明するには十分だろう、って、おい、聞こえてるか、おい、」

笹井が携帯を下ろすとふんと大きく鼻で息を吐く。

「切れた」

 携帯をしまうと彼女に向かって笹井はやれやれと何度か首を振る。

「俺達はさっさと報告書を完成させよう。これで事件は終わりだ」



 笹井からの電話が切れたあと、東方は車をおりると足元の地面を見る。昨夜、再び雨に降られた地面は相変わらずぬかんでいる。ふんと鼻を鳴らすと東方は真っすぐに小道を歩いていき、昨日と同じように玄関のチャイムを鳴らす。扉を開けた教授は東方の姿に、怪訝そうに眉をひそめる。

「君は、」

「市警察の東方警部補です。昨日はありがとうございました。本日はいくつかご報告があって参りました」

「今日は一人かね?」

「奥様の件の裏がとれ、正式に自殺と認定されましたのでご報告に上がりました」

「そうか。わざわざこんな山奥まで来なくとも電話一本で済む話だが、いや、ご足労をかけたな。ありがとう」 

「ずいぶんとお疲れに見えますが、大丈夫ですか?」

「別居中だったとはいえ、妻が亡くなっててんてこ舞いだよ。悲しむ暇もないくらいだ。不思議なものだな。一年以上も会っていなかったのに、この山荘で一緒に過ごしていたのがつい昨日のことのように思えてしまう」

「お察しします。大変な最中に押しかけてしまいお詫びします」

「気にすることはない。君達は自分の仕事をしているまでだ。わざわざすまなかったな。気をつけて帰りたまえ」

「はい、とお答えしたいところですが、実は教授に相談したいことがありまして。あまり大きな声では言えないのですが、奥様の自殺に関しまして実はいくつか問題が生じまして、」

「問題?」

「入ってもよろしいですか?」



 応接室に入ると、東方は昨日は座らなかったソファに腰を下ろし、対峙するようにソファに座った教授に話し始める。

「奥様が自殺であるということには上層部も納得しています。ですが、警察もこれでなかなかお役所仕事でして、報告書には厳密さが求められます。その中でいくつかの齟齬、と言いますが問題が指摘されまして、そこが解決するまで書類は受け取れないと上司が言うんです。それで教授のお力をお借りしたく参った次第です」

「ふむ。それで問題というのは一体何だね?」

「些細なことなんですが、あの研修生、覚えていますか? 昨日ここにいた高校生みたいな、彼女が言うんです、この報告書にはおかしな点があると。納得出来ない点があると。どうにもくそ真面目といいますか、無視しろと言ったんですが、いい加減な報告書は書けないとの一点張りで、上司もそれに同意している始末です。何しろ首都警察からの大事な研修生なので、こちらとしてもあまり無下には扱えないものですから」

「だから、何が問題なのだね?」

「あの研修生がこう言うんです。自殺する前にピザを注文する人間がいると思いますかって。これから死ぬ人間がそんな物を注文するはずがないって」

「妻はピザを注文していたのかね?」

「ああ違います。これはただのたとえ話です。奥様の本でそういうシーンが出てくるらしいですね」そう言うと東方は小さく笑う。「ああ、すいません。奥様の作品を悪く言うつもりはありませんが、私に言わせれば別に死ぬ前にピザを食べたい人間だっているはずですし、どうせ死ぬなら最後の晩餐を頼んでも不思議はありません。誰だって等しく腹は減る。そうは思いませんか?」

「同感だが、その話と妻の自殺と、何の関係があるのかね?」

「あの研修生が言うんです。奥様が亡くなっていたホテルは、仕事用に籠るホテルだったそうですね。奥様は死ぬ前に仕事をしていました。新作の小説を書いていたんです。それはおかしいんじゃないかって」

「君の言葉を借りれば、自殺する前に小説を書く人間がいても、不思議はないのではないかね」

「同感です。条件反射とでも言いましょうか。いつもの習慣でパソコンに向かっていた、ただそれだけのことで深い意味はない。私もそう言ったのですが、あの研修生は納得しないんです。書いていたのが恋愛小説なら理解出来る。青春小説でもいいかもしれない。ですがミステリーはあり得ない。自分が死ぬ前に、他人を殺すトリックについて考える人間なんているだろうかと。上司もそれは一理あるなんて言い出すものですからほとほと困り果てているんです。教授の専門は心理学です。ですからお力をお借り出来ませんか? 自殺する前の人間の心理状態として、人を殺す話を書くなんてことがあり得るでしょうか?」

「あり得るだろうね」

「あり得る、」

「人間の心理とは複雑で、時に思いもよらないことをするものだよ。習慣的にやっていたことならなおさらだ。自殺を決意したからといってすぐに実行するとは限らない。実行に至るまでの間、抑うつ状態の時には半ば無意識に習慣を繰り返してしまうことは十分にあり得る話だ」

「なるほど。教授のそのお言葉があれば、あの研修生も納得するでしょう。すいません、大変参考になりました」

 東方はそう言うと立ち上がろうとするが、すぐに、いや、それだとおかしいなあと再びソファに腰を下ろす。

「自殺をしようとしていた人間が混乱状態の中、ついいつもの習慣を繰り返すというのは納得出来ます。ですが奥様はホテルに泊まっていたんです。そこがわからない」

「どういう意味かね」

「奥様が泊まっていたのは仕事で使っているホテルです。ホテル側の証言ではあの夜は徹夜で仕事だとおっしゃっていたようです。自殺する前につい無意識にパソコンに向かったのではなく、初めから仕事をするつもりでパソコンに向かっていたことになります。つまりあの研修生が言いたかったことを正確に言うとこうなります。死のうと思っている人間が、わざわざホテルに泊まってミステリーを書くなんてことがあり得るのだろうか?」

 なるほど。教授は一度うなずいて少し考えたあと、東方にこう答える。

「こう考えたらどうかね? ホテルに泊まった時点では、いや、自殺する直前まで、妻は自殺するつもりなんてなかった」

「え、どういう意味ですか? ちょっとわからなかったのですが、」

「君は大きな勘違いをしているよ。自殺というのはしようと思ってする計画的なものと、ある時ふと死にたくなる衝動的なものとがある。衝動的なものの場合、何が引き金になるかはわらかない。妻も最初は、もちろん仕事をするためにホテルに泊まったのだろう。だが仕事をしていて、そうだな、例えば新しい殺人トリックを必死に生み出そうとする。だがかつてのような斬新なアイデアが浮かばない。その挫折感が、衝動的に彼女に自殺をさせたとしても、何ら不思議ではないだろう」

「なるほど。それならすべてに説明がつきますね」

「納得出来たかな?」

「さすが心理学の専門家でいらっしゃいます。明快な解答、感謝いたします。ありがとうございました」

「質問は以上かな?」

「いえ、実はもう一つだけ、」

「すまないが状況をわきまえてもらえないか。午後から会わねばならない客があるのだ」

「手短に済ませます。実は奥様が遺体で発見された時、髪の毛が濡れていたんです。あの研修生はどうもそれが引っかかるみたいでして、」

「シャワーでも浴びたのだろう」

「バスルームを使用した形跡はありませんでした。それにブーツに泥が散っていたんです」

「じゃあどこかで雨に降られたのだろう」

「普通はそう考えます。ですが、キャリーバッグに泥は散っていませんでした。つまり泥がついたのはホテルにチェックインする前ではないことになります。それにホテルのチェックインは亡くなる前日の昼過ぎです。その時に雨に降られたのならとっくに乾いているはずです」

「ブーツは以前から汚れていただけかもしれないし、洗面所で髪を直した時に水を使っただけではないのかね」

「あれだけおしゃれに気をつかう方が、ブーツの泥をそのままにしておくはずがありませんし、髪の毛が濡れたなら乾かすでしょう。洗面所にはドライヤーも備え付けてありました。あの研修生は、それはおかしいと言うんです」

「出かける用事がなければ髪の毛などわざわざ乾かすまい」

「私もそう言ったのですが、問題は、奥様のコートの襟も湿っていたんです」

「わからんね。何がそんなにひっかかるのかね。チェックインしてからそれこそ夜中に散歩したのかもしれない。そこで雨に降られたんだろう」

「おっしゃる通りです。しかし、ホテル周辺は奥様がチェックインされてから遺体が発見されるまでの間に、一滴の雨も降っていません。そしてあの夜、奥様は一度もフロントに下りてきていない。つまり奥様はあの夜、フロントを通らずにホテルを抜け出し、少なくともホテルから遠く離れた雨が降っていた場所を訪れていた可能性が高いということになります」

「君は何が言いたいのかね?」

「教授。あの夜、ここら一帯は雨が降っていました。昨日も地面はぬかるみ私の靴にも泥が跳ねました。聞きたいのは一つだけです。奥様はあの夜、ここに来られましたか?」

「何だと?」

「私が疑っているわけではありません。ですがあの研修生がどうしてもたしかめておきたいと言うんです」

「昨日も言ったはずだ。妻とはもう一年以上会っていない」

「ここには来ていない、」

「くどいな、君は」

「教授のお言葉、あの研修生にしっかりと伝えておきます。聞きたいことは以上です。すいません、ずいぶんとお手間を取らせました。これで失礼します」

 東方は立ち上がると慇懃に一礼する。お見送りは結構です。そう言うとさっさと部屋から出ていき、やがて玄関の扉が開いて閉まる音がする。教授はしばらくソファで何やら考え込んでいたが、やがておもむろに立ち上がると部屋から出ていく。



 教授は玄関の扉を開ける。目の前には駐車場に続く小道が延びている。ゆるやかにカーブする小道は、両脇を背の高い生垣で挟まれ駐車場は見渡せない。地面はぬかるんでいる。教授はゆっくりと何か探すように足元を見ながら小道を歩いていく。小道の半分ほど歩いたところで、ひょっこりと駐車場側から一人の男が現れる。

「何かお探しですか?」

「君は、」教授はぎょっとする。目の前から現れたのは、とっくに帰ったはずの市警察の刑事で、何かを疑うような視線をこちらに向けている。教授は咳ばらいすると刑事に答える。

「いや何、あの夜、訪れていた友人からイヤリングを落としたと連絡があってね。落ちていないか見ていたんだ。それよりも君こそこんなところで何をしているのかね?」

「奇遇ですね。実は私もどうも鍵を落としたみたいで、ああ、あった」

 そう言うと、東方は半分泥で汚れた車の鍵を拾い上げる。

「それにしてもずいぶんと多くの足跡が残っていますねえ」

 キーケースに鍵を戻しながら東方は言う。

「あの夜は客が多かったからね」

「実は昨日、この足音を見てあの研修生は思いついたようなんです。奥様がここに来たんじゃないかって。本当、はた迷惑な奴です。これだけ足跡が入り乱れていますと判別はまず不可能ですからね。いや、余計なことでした。それではこれで退散します。イヤリング、見つかるといいですね」

 東方はにっこりと笑うと一礼し、踵を返す。やがて姿は駐車表の方に消え、しばらくしてエンジン音と共に車が走り去る音が聞こえる。車の音を確認しなかった自分を呪いながら、教授は忌々し気に地面を蹴る。



 二時間後。市警察に戻った東方はすぐに捜査一課長室に出頭するように命じられる。予期していた東方はまっすぐに課長の部屋に向かい、ノックもせずに扉を開く。そこには笹井が研修生と共に立っており、東方の姿を見るなり盛大にため息をつく。

「お前達は一体、何をやっているんだ。鬼頭教授から本部長にクレームが入った。奥様を亡くされて傷心の教授に、まるで何かを隠しているんじゃないかと言わんばかりにいろいろと問い詰めたらしいな。本部長はおかんむりだ」

「お前、何やったんだ?」笹井が横に立った東方にたずねるが、東方は涼しい顔で、聞くなとだけ答える。

「あの事件は自殺として決着したはずだ」課長の言葉に笹井はええ、と答える。

「あの事件はもう終わったんだ」笹井は再度、ええ、と答える。

「報告書は完成したのか?」笹井はまだです、と答える。

「今日中に仕上げて、明日の朝一番で、私のデスクに持ってこい」笹井ははい、と答える。

「二度と教授に、取り調べのような失礼な真似をするな」課長の言葉に、笹井はちらりと横に立つ男を見たあと、了解、と短く答える。

「もういい、出ていけ」

 課長が三人を追い払うように手を振ると、東方が火に油を注ぐ。

「もし間違っていたら?」

 東方、と笹井が諫めようとするが、時すでに遅く課長は不機嫌さを爆発させて東方に問う。

「今のはどういう意味だ?」

「教授は明らかに何かを隠しています。もう少し調べるべきですよ」

「東方、これは命令だ。お前は何もするな」

 東方が何かを言おうとするが、課長はそれを許さない。

「あと、むやみに研修生の名前を利用するな。彼女の経歴に傷をつけるつもりか?」

 彼女が吃驚した顔で東方を見る。

「ちょっと、何をしたんです?」

「二度は言わんぞ。話は終わりだ。三人共、部屋から出ていけ」

 なおも食い下がろうとする東方を制して笹井は言う。

「失礼します」

 笹井は東方を課長室から引っ張り出し、水沼は慌てて課長に一礼するとそのあとに続く。扉が閉じると、その向こうで、一体何を言ったんですかという彼女の声が響き、課長は大きくため息をつく。



 悪夢がずっと続いている。

 最初に指導教官に手を上げたのは自分だとしても、その私怨による報復なのか、あるいは単なる新人いびりなのかは知らないが、まさか名にし負う犯罪心理学の権威に自分が厄介者の烙印を押されることになろうとは。ほんの二日前までは想像すらしなかった事態に彼女はただひたすら困惑し混乱している。半ばパニックになっている彼女をよそに、指導教官たる二人の刑事は、机の上に並べられたテイクアウトの料理を黙々と喉に流し込んでいる。捜査一課長に釘を刺された以上、刑事部屋で好きにすることも出来ず、三人は今、市警察の地下の資料室に籠っている。未解決事件の資料が収められた普段は誰も近寄らない埃臭い資料室に、食欲をそそる匂いが充満する。

「毒物が見つかって、これで捜査は終わりだとよろんでいたのはお前だろうが。何が気になっているんだ?」

「教授は嘘をついている」

 東方はそう言うと、左手に持った春巻きをほおばりながら、手元の資料のページを箸でめくる。

「汚えな」「教授のこと調べたよ」「何だよその資料」「教授の論文」笹井はちらりと机の上を見る。教授の名前が表紙にある学会誌や、神宮寺かなえ名義の本が何冊も積み上げられている。「朝からいないと思ったら、一体何を調べていたんだ?」笹井の問いに答えず、東方はイスに座ったまま鼻の頭にしわを寄せている彼女に言う。「おい、いつまでむくれているんだ? 食わないのか、代金はこっちが出したんだぞ」「払ったのは俺だけどな」笹井の言葉を無視して、東方は箸で彼女の方を刺して言う。「いいから食え。そして俺達への感謝を忘れるな」「わたしをだしに使ったくせに」「小さいことは一々気にするなよ」「小さくありません、」と彼女が言い返そうとしたところで、それで、と笹井がしびれを切らして会話に割り込んでくる。「一体何がわかったんだ?」

 東方は机の上に無造作に置いてあるメモの中から一枚を箸でつまみ上げると笹井に手渡す。顔をしかめて資料を受け取った笹井に東方は言う。「南国リゾートのくだり、覚えているか。新婚旅行にスノール諸島に行ったと、妻のお気に入りだったと言っていただろう?」

「言っていたな」

「たしかに二人が新婚旅行に行った記録は残っている。だがそれ以降、一度も彼女は海外旅行に行っていないし、何よりも行きたがるはずがない」

「というと?」

 東方は別のメモを箸でつまんで笹井に渡す。

「それやめろよ」

「この季節に、ホテルの洗面台には日焼け止めが置いてあった」

「わたしも使ってます」と彼女が言うが東方は再び箸を向けて言う。

「お嬢ちゃんはいいから黙って食べてろ」いいか、と東方は笹井に言う。「彼女の場合は深刻だ。彼女の医療記録を調べたが、以前、心療内科にかかっていたのは事実だった。彼女は当時、処方された薬の副作用で光線過敏症になったことがあるらしい。火傷みたいになって大変だったと記録されている。その後、薬を変えて症状は治まり現在は通院していないようだが、それ以降も紫外線は極力避けて生活をしていたらしい。教授が言っていただろう。妻は思い込みが強いと。彼女にとって日差しは忌避すべきものだ。南国の強い日差しなんて浴びたがると思うか?」

「見る物がなくて、たまたまその番組を見ていただけじゃないのか?」

「有料放送だぞ。しかも朝の四時にわざわざ金をかけて興味のない番組を見るものか。やることがなければ寝るだろう」

「知らないよ。自殺する前の人間の心境なんて何でもありだ」

「自殺ならな。自殺でないなら、明らかにおかしいことになる」

「何がそんなに引っかかっている?」

「少なくとも教授は、俺達に誠意ある対応をしているとは言い難い」

「ブーツの泥の件か? 一応、教授の自宅前の小道の泥のサンプルを出したんだろ?」

 東方はポケットから汚れた鍵を取り出し振って見せる。

「今、彼女のブーツの泥と照合中」

 東方は春巻きを食べ終わると指をねぶる。

「あの夜、彼女は教授と会っていたはずだ。そして、教授に殺された」

 あのなあ、と笹井が首を振る。

「彼女はホテルで発見された。教授の家までは車で二時間かかる。ホテルを抜け出して教授を訪ね、教授に殺されたのか?」

「そうだ」

「殺害したあと、教授がホテルまで遺体を運んだ、お前はそう言うのか?」

「そうだ」

 笹井はふむと鼻を鳴らすとちらりと彼女を見る。

「どう思う?」

「俺に同意するよな」と東方が圧をかけるが、彼女は神妙な面持ちのまま答える。

「一つ、気になることがあるんです」

「ない」と東方。

「あります」と彼女。

「聞こう」と笹井に促され、彼女はわかりました、とうなずく。

「彼女が教授の山荘を訪れるのは無理があると思います。ホテルの有料放送を見ていたのが四時三十二分まで、少なくとも四時半まで彼女はあのホテルにいましたが、死亡推定時刻は五時前後です。前後一時間の幅があるとしても遅くとも六時までには彼女は亡くなっています。当然まだ列車が走っている時間でもないですし、ホテルから山荘までは車で行くしかありません。車で二時間かかるのなら、四時半に出て六時前に教授の自宅で殺害されるのには間に合わないと思うんです。泥の件を置いておいたとして、教授がホテルに向かって殺害した場合でも、四時過ぎまでお客さんがあった教授が六時までにホテルに行って彼女を殺害するのは厳しいでしょうね」

「ちなみに彼女がチェックインした時のサインは筆跡鑑定で彼女の物と確定している。顔見知りの支配人と話をし、フロントへの電話も従業員が本人の声だったと証言している。誰かが成りすました可能性はない。彼女があの夜、教授の家に行き殺害されるというのは物理的には不可能なようだな。どうする、東方?」

 笹井の言葉に、東方はふんと鼻を鳴らすと二人に向かって箸を突き付けて言う。

「もういい。よく噛んで食って寝ろ」



 食事は続く。時折、神宮寺かなえの著書のページを箸でめくりながら東方は黙々と食べている。彼女も最初は遠慮がちだったが、どうやらこの刑事達は眠る気がないらしいことを理解して、体力維持のために料理に手を伸ばす。テイクアウトの中華なんてどう食べても美味いのだが、こんな時間に食べて明日の肌の調子が気にならないでもない。いや、嘘、気にしないが。

「仮に泥の件がお前の想像通りで、彼女が教授の家に行った可能性が高いとしてだ、それで教授に殺害されたということにはならないだろう。大体、遺書の件はどう説明する?」

「お前自身が言った。日付もサインもない。本人が書いたとは言い切れない」

「パソコンからは彼女の指紋しか出ていない。ロックがかかっていたし、見ず知らずの他人が書き込むのは簡単じゃない」

「じゃあ、どうやって開いたんだ?」

「あんまり鑑識を舐めるなよ」

「記録ではその文書が作成されたのは一週間以上前のことだ。こういうの、遺書とは言わないんじゃないのか?」

「精神的に不安定だった、それで十分だろ」

「物は言いようか」

「それにな、普段からワープロに慣れている人間は、文字の変換や句読点、改行に癖が出る。遺書の文面は彼女の作品の癖と一致していると判定されている」

「本が手本になるのなら、誰かが偽造することは簡単だ」

「難しく考え過ぎだぜ。彼女は小説が書けなくなっていた。それは事実だ。自殺したって不思議はない」

「スランプは二年も前からだ。どうしてこのタイミングで自殺する?」

「知らないよ。いつ死ぬかくらい好きに選ばせてやるさ」

「映画化が決まっていた。彼女にとっては一発逆転のチャンスだろう?」

「遺書に証拠能力がないことはいい。彼女がこのタイミングで自殺することに疑問を持つこともいい。だがこれまで見てきた自殺だってそんなものだろう? 家族はみんな言う。死ぬようなそぶりはまったくなかったって。めずらしい話じゃない」

「俺は納得出来ない」

「お前の納得は関係ない。仮にあれが自殺でないとして、仮に誰かに毒を飲まされたとして、どうしてそれが教授ということになるんだ? 泥だけでは弱い。教授に彼女を殺す理由でもあるというのか?」

「あいにくそっちは期待外れ。通常殺しの動機は金か色欲か怨恨。金については、被害者に保険金がかかっているわけでもなく、何より教授は金に困っていない。欲。よほど上手くやっているのか少なくとも教授に愛人の影は見当たらない。そもそも別居しているし好き勝手出来るだろう。妻が邪魔になるとは思えない。最後に怨恨だが、別居を切り出したのは妻の方で教授が望んだことじゃない。これは教授の周りもそう証言しているから事実だろう」

「何もなしか?」

「ああ」

「朝から調べて何も出ていないのに、それでも教授が彼女を殺したと言うのか?」

 ん-と考えた素振りをしたあと、東方はうなずく。「そうだ」

「勘か?」

「いいや、電話だ」

「電話?」

「彼女はホテルのフロントに、自分宛てに電話がかかってくると言っていた、そうだったな?」

「そんな話もあったな」

「だがそれはあり得ない」

「何故です?」彼女が興味深そうに東方にたずねる。

「じゃあ聞くが、一体誰が彼女に電話をかけてくるんだ」

「え、でも教授があの日に電話をかけると、」

「驚かすつもりだったと教授は言った。それならどうして前もって彼女は電話がかかってくることを知っていたんだ?」

「お節介な友人とやらが、漏らしたんじゃないですか? 今夜、ある人から電話があるとか何とか、」

「そもそもどうしてホテルにかけてくるんだ? 何故、携帯電話を使わない。携帯電話の番号が変っていたのならわかる。別居して彼女が番号を変えた。連絡先がわからない。ホテルに泊まっていることだけがわかる。それならわかる。だが、」

「彼女は番号を変えていないのか?」

「学生時代からずっとな」

「教授が、携帯電話だと名前が表示されて出ないかもしれないからと言っていましたね」

 彼女が言うが、東方はぴっと箸の先を向けて答える。

「なおさら電話がかかってくると知っていたことはおかしくなる。携帯に出ない関係なら、ホテルにはむしろ電話を取り次ぐなと言うだろう?」

 なるほど、彼女はつぶやく。

「教授からの電話でないとすると、彼女の家をたびたび訪れていたという恋人でしょうか?」

「却下。それこそ携帯電話にかけるはずだ。あの夜ホテルに電話をかけてくる相手は、ホテルに泊まっていることは知っている程度には彼女に近い人間でありながら、彼女の携帯番号は知らない人物ということになる」

「仕事中は携帯の電源を切っていたんじゃないのか? 仕事に集中するために」と笹井。

「現場に残っていた被害者の携帯電話は電源が入っていたし、俺ならホテルのフロントからの電話の方がわずらわしい。ホテルにかけると前もっと話していたのなら、自分の都合のいい時間にどうして彼女からかけないんだ?」

「熱狂的なファンとかはどうでしょう。彼女がホテルに入るところを見たとか」と彼女。

「厄介なファンがホテルに電話をかけてくるのを予想したとでも言うのか? 言っておくが、普通、ホテル側はそんな見ず知らずの人物からの電話に客が泊っているという情報は漏らさないし間違っても電話を取り次いだりしない」

 ですね、と彼女はばつが悪そうに肩をすくめる。

「あの夜、望んでもいない一方的な電話がホテルにあった、というのならわかる。だが彼女は電話がかかってくることを前もって知っていた。つまりここでの問題は、彼女は自分に電話がかかってくることを知りながら、どうしてその相手に携帯の番号を教えなかったのか、ということだ。そんな状況は通常あり得ない。そして、」二人の刑事が声を揃えて言う。「通常あり得ないことは、やっぱりあり得ない」

 通常あり得ないことは、やっぱりあり得ない。彼女はその言葉を喉の奥で反芻する。

「結論、彼女に電話をかけてくる人物なんて存在しない。とすると問題は、彼女は何故、フロントにかかってくるはずのない電話を取り次ぐように言ったのかだ」

「答えはもう出ているのか?」

 笹井の問いに東方は首を振る。

「いいや。だがこの事件は何かがおかしい。普通じゃないことが起き過ぎている。単純な自殺とはとても思えない」

 そう言うと、東方は二本目の春巻きに手を伸ばす。



 机の上には食べ終えた紙の食器が散乱し、三人は黙々と資料を読んでいる。神宮寺かなえの小説をめくっていた彼女が唐突に二人の刑事に言う。

「あの、一ついいですか?」

「駄目だ」間髪入れずに東方が言うが、何だ、と笹井が聞き返す。

「先程の東方さんの話で、一つ思いついたことがあるんです」

「また俺の粗探しか?」

「そんなつもりは、」

「言ってみろ」笹井が彼女を後押しする。

「動機についてです」

「俺が見つけられなかった動機をお前が見つけたのか? 教授の調べが不十分だと言うのか?」

「教授の動機ではありません」

「飲んでないのに酔っ払ったのか?」

「二年前に彼女と教授は別居しています。そして彼女の作風が変ったのもちょうどその頃です。これは偶然でしょうか?」

「精神的なストレスでスランプに陥ったんじゃないのか?」

 笹井が言うと、彼女はええ、と神妙にうなずく。

「もちろんそれは十分にあり得ると思います。ですが、引っかかることがあるんです。昨日、教授はこうおっしゃっていました。妻とは大学のミステリーサークルで知り合ったと」

「それがどうした?」

「もしかして、二年前までの神宮寺かなえの小説は、教授が書いていたんじゃないでしょうか?」

「教授が?」

「神宮寺かなえの初期の作品は、本当に隙のないロジックを組み合わせたきわめて論理的なミステリーです。それがいくらスランプとはいえ、最近の作品は男女のどろどろの愛憎劇がメインなばかりか、そもそも話の構成は滅茶苦茶で、トリックも論理的には破綻していることが少なくありません。作風が変った、スランプだという一言では片付けられない変化です。もし、二年前以前の作品を書いていたのが教授で、別居してから彼女自身が書かざるを得なくなったと考えれば納得出来ます」

「根拠がない。それはただのお前の妄想だ」東方がため息交じりに切り捨てるが、彼女はいいえと首を振る。

「根拠ならあります。先程、笹井さんはパソコンで文章を打つことに慣れていると、漢字の変換や改行に癖が出る、とおっしゃいましたよね」

 ああ、と笹井はうなずく。

「これ見て下さい。こっちが初期の小説、そしてこっちが最近の小説です。初期の作品は主人公の一人称が平仮名で『ぼく』だったのが、最近は漢字で『僕』と書かれているんです。小説家の文体はたしかに変化することがありますが、一人称が変るのはめずらしいと思うんです。それともう一つ、」

 彼女は机の上の一冊のファイルを引っ張り出して笹井に差し出す。

「『天心教の犯罪行動についての社会心理学的分析』、ああ、あのカルト教団の事件の論文か」

「教授の有名な論文です。学術論文って英語でなくても句読点を『,』や『.』にする文化があるんです。もちろん神宮寺かなえの小説自体は普通の句読点が使用されていますが、初期に書かれたエッセー、これを見て下さい」

 彼女が古い雑誌のコピーを差し出す。そこには、『,』や『.』が使われた文章が掲載されている。

「面白い指摘だな。『,』や『.』が研究者にとってはありふれていても、一般人は普通こんな使い方はしない。教授かどうかはさておき、誰かもう一人作者がいた可能性はたしかに否定出来ないな。彼女の経歴から考えて、論文とは縁がなさそうだしな」

「文章の癖となると、探せばもっと見つかるかもしれません」

 彼女がそう言ったところで、東方が呆れたように声を上げる。

「だから何だ? 仮に教授が本をゴーストライティングしていたことがあったとして、それがどうしたというんだ? 夫婦なんだから勝手にすればいい」

「問題は例の映画化の話です。彼女は生活が派手だったようですし、本の売り上げが落ちている今、以前のベストセラーの印税や映画の売り上げは生命線です。作家としての名声も過去の作品にしかありませんし、彼女は何よりもそれを守りたかったはずです。もし、過去の作品が自分の書いた物でないと知れたら彼女の作家生命は終わります」

「だからそれがどうしたと言うんだ? それは彼女の弱みであって教授の弱みじゃない。教授が殺害する動機になり得ないだろう」

「その通りです。ですが、彼女になら動機があるかもしれません」

「本当に大丈夫か? どこかの課みたいに被害者と加害者を間違うなんて御免だぞ。殺されたのは彼女だ。彼女が教授をどう思っていたかは関係ない」

「ですから、そのためのホテルの電話だったんです」

 彼女の言葉を理解出来ない二人の刑事は怪訝そうに顔を見合わせる。そんな二人に彼女ははっきりとこう指摘する。

「わたし、人殺しは二人いたと思うんです」


1994/4/6 Wednesday


 翌朝。窓の外で空が薄っすらと白く輝き始めた頃、東方は刑事部屋の隅のソファに深々と腰をおろしていた。机を挟んで目の前のソファには水沼桐子が毛布をかぶって眠っている。東方は顔の前で祈るように両手を合わせ、目を閉じたままぶつぶつと何かつぶやいている。刑事部屋の不味いコーヒーをすすりながら笹井がやってくる。小柄な彼女は丸まって眠っており、空いているソファの端に笹井はどっかりと腰をおろす。ずずずと音を立ててコーヒーをすすりながら横に座る東方に言う。

「大したお嬢ちゃんだな」

 笹井の言葉に目を閉じたまま東方は答える。

「話としては面白いが、証拠がない」

「素直に褒めてやれよ」

 東方は目を開けると笹井を見る。「嫌なこった」

「たしかに彼女の推理が正しければアリバイの件は説明出来る。だがそれでも自殺と考えた方がよほど自然だ。自殺であることが覆せない限り、単なる妄想に過ぎない」笹井はコーヒーを喉に流し込むとちらりと東方を見る。「自殺、だよな?」

「自殺を否定出来る材料がない限り、その結論は変わらないだろうな」

 そう言うと東方は手を下ろしてぐっと背もたれる。

「時間はあまりないな」

 笹井が言うと、東方は目を閉じたまま肯定も否定もしない。

「東方さん。鑑識から報告書が届いていますよ」 

 制服警官が背後から声をかけてくる。ぴくりとも動こうとしない東方の代わりに笹井が書類を受け取る。書類を一瞥したあと東方に言う。

「ブーツの泥の成分が一致したようだな」

 東方は目を開けるとふんと小さく鼻を鳴らす。

「とは言え、それで証明出来るのはあのブーツを履いて教授の家に行ったことがあるというだけだ。決定的な証拠にはならない」

「これはどういうことだ、」笹井が書類を見ながら怪訝そうにつぶやく。「被害者の自宅から見つかった毒入りカプセルの分析結果。毒物はもう分析が終わっていたはずだが、追加の報告がある」

「追加の報告?」

「毒物が入っていたカプセルは不溶性、だったようだな」

 笹井の言葉に、東方は何だそんなことかと答える。「違法薬物の売買ではめずらしいことじゃない。誤飲による死亡事故を防ぐためだ、」

 そうつぶやいた瞬間、東方はむくりと体を起こす。笹井も厳しい表情で東方を見ている。

「ホテルにカプセルは残されていなかったな」

 東方の言葉に、ああ、と笹井は唸る。「トイレにでも流したのか、だが洗面台のコップからも毒物は検出されていない」

 笹井は飲み干したカップを東方に向けて言う。

「これで自殺が覆る」

 笹井は彼女の横画をちらりと見たあと相棒に視線を移す。

「あの手で行くか?」

 東方は口元を歪め無言でそれに同意する。



 鬼頭貞義の山荘の駐車場に車を停めると、三人の刑事は玄関へと続く小道を歩いていく。歩きながら笹井が彼女にたずねる。

「準備は?」「本当にわたしでいいんですか?」「勘違いするな。本意じゃない。俺達は教授への取り調べを禁じられているんだから仕方がない」東方は平然と言う。「緊張で吐きそうです」彼女がそう言うと、笹井が止まれ、と言い、三人は揃って足を止める。「深呼吸」笹井に促されて彼女は二度、三度と深呼吸する。「恩師だったことは忘れろ。俺達の目の前にいるのは、」「殺人犯」「吐くなら今のうちに吐いておけ」と東方が言うと、彼女は若干青い顔で気丈に、大丈夫です、と答える。「深呼吸」笹井に再び促され彼女は深呼吸する。「行けるか?」「大丈夫です」「では行こう」笹井の号令で、再び三人は歩き出す。



 玄関の扉を開けた教授は、三人の姿を確認するや露骨に表情を曇らせる。

「いい加減にしたまえ。君達の上司に、二度とここに来させるなと忠告したはずだが」

「ええ、たしかに私達は教授への取り調べを禁じられています。ただ話があるのは私達じゃないんです。この研修生でして」東方はそう言うといやらしい目つきで教授の顔を覗き込む。「彼女、首都警察の所属ですので」

 いくら市警察に圧力をかけても彼女の自由までは制限出来ないというのはもちろん詭弁だが、一定の効果はあったのか教授はなかば諦め気味に彼女を見る。

「君が私を取り調べようというのか?」

 彼女が答えるよりも先に、東方が彼女に問う。

「準備はいいか?」

「はい」

「じゃあ、始めろ」

 彼女は教授を見ると、はい、と力強く答える。「私が取り調べを行います」

 諦めたように教授は扉を開けたまま踵を返し、入りたまえと短く言う。

 彼女が応接室のソファに座ると、その後ろに二人の刑事が彼女を守るように並んで立つ。彼女は一度深呼吸をすると、それから相貌を引き締め、教授を見る。

「では教授。これからいくつかお聞きしたいことがありますのでご協力下さい。まず単刀直入にわたし達の見解をお伝えします。わたし達は、奥様は自殺したのではなく殺害されたと考えています」

「君達は一体何を言っているのだ。いい加減にしたまえ」

「自殺ではない根拠があります」

「例の死ぬ前にホテルで小説を書いていたとかいう話かね。それとも旅行番組の件かね」

「そのどちらでもありません。問題は奥様が飲んだ毒物です。遺体から検出された物と同じ毒物が自宅から発見されています。かなり即効性の高い毒で、直接飲めばものの数十秒で呼吸が停止し、数分後には死亡します。そしてここからが重要なのですが、自宅から見つかった毒物は、不溶性のカプセルに入っていました。つまりカプセルごと毒物を飲んでも体内では溶けることはありません。あのまま飲んでも死ぬことは出来ません。では、奥様はどうやって毒を飲んだのでしょうか?」

「何を言っている。中身だけ出して飲んだに決まっている」

「はい、そう考えるのが普通です。無味無臭で水にも速やかに溶けますから、飲み物に混ぜれば簡単に飲むことが出来ます。ただそうであれば、毒の入っていたカプセルはどこに消えたのでしょうか? ホテルには残されていませんでしたし、もちろん体内からも見つかっていません」

「トイレにでも流したのだろう」

「あり得ません」

「何故かね?」

「あの毒物は即効性があります。毒物を直接飲んでカプセルをトイレに流す。ここまでは可能ですが、飲んですぐに呼吸が停止し動けなくなります。バスルームからベッドまで辿り着くことは出来ません」

「では何かに溶かして飲んだのだろう。カプセルを処分したあと、それをベッドサイドで飲めばいい」

「部屋には飲み物は残されていませんでした」

「洗面台のコップを使えばいい」

「コップを使った形跡はありましたが、コップから毒物は検出されませんでした」

「洗えば済むことだ」

「同じです。飲んですぐに動けなくなります。仮に洗えたとしてもやはりベッドには辿り着けません。ではどうやって奥様は毒物を飲んだのでしょうか。毒物が入っていたカプセルも、毒物を溶かしただろう飲み物もベッドサイドにはないんです。それなのに奥様はベッドで亡くなっていた。考えられる可能性は二つです。一つは毒物を飲んで死亡した奥様を誰かがベッドまで運んだ。もう一つは、ベッドで奥様が死亡したあと、毒物の入ったカプセルやコップを誰かが片付けた。いずれにせよ、あの現場には奥様が亡くなった時に、もう一人誰か別の人物がいたことになります。ここまではよろしいですか?」

 彼女の問いに、教授は無言で小さくうなずく。

「ホテルには第三者がいた、その前提で考えてみましょう。自殺する時に、普通は人を呼びません。自殺の邪魔をされる可能性があるからです。それとも偶然一緒にいたところで、奥様が突然自殺をはかったのでしょうか。ですが、事故や想定外の自殺だった場合、その第三者は救急車を呼びますよ。少なくとも通報をためらうとは思えません。あの夜、第三者による善意の通報はあったでしょうか?」

 いいや、と笹井は否定する。

「とすると、奥様が自殺なら一緒にいたのは自殺の協力者ということになります。では、自殺の協力者がカプセルやコップを片付ける意味とはなんでしょうか。何のために、自殺ではない状況を作り上げる必要があるのでしょうか。自殺では保険金がおりない、そのための偽装工作でしょうか。彼女に保険金はかけられていましたか?」

 いいや、と笹井が否定する。「一般的な生命保険には入っていたが、事故、病死以外では保険金はおりない。毒物死では意味がない」

「つまり、自殺ではないと思わせるための偽装工作ではないということです。大体、こちらが自宅に残された毒入りカプセルが不溶性だということに気付かなければ成立しない偽装工作には無理があります」

 教授は彼女の言葉を吟味するように黙って聞いている。

「では何故、ホテルにコップやカプセルは残されていなかったのでしょうか。第三者は何のためにそんなことをしたのでしょうか」

 一度言葉を切ると、彼女は小さく息を吐き、それから相貌を引き締める。

「奥様の体内でカプセルが検出されていない以上、毒物は何か飲み物に混ぜて飲ませたということになりますが、これが他殺であるならばむしろ積極的に自殺に見えるようにふるまうはずです。わざわざ飲み物やカプセルを現場から回収するなんてあり得ません。とすると結論は一つです。コップやカプセルがホテルに残されていなかったのは、そもそも毒を飲んだのがホテルではなかったから。つまり、奥様はホテルの外で殺害され、あのベッドまで遺体として運ばれた。いかがですか?」

「反論はあるが、まずは君の講釈をすべて聞いてからにしよう。続けたまえ」

「ありがとうございます。さて、これが他殺であるとして、毒殺である以上、衝動的ではなく十分に準備された計画的な殺人ということになります。しかも、奥様の自宅には同じ毒物が残され購入記録もあります。奥様が毒を買ったことは間違いないでしょう。奥様の毒を使用したのか、あるいは同じ毒を用意したのか、犯人はそれを利用して自殺に見せかけています。つまり犯人は、奥様が毒物を持っていることを知っているほど近しい人物と言えます。次に視点を変えて、奥様が、どこで殺害されたのかを考えてみることにします」

 教授は何も答えず、じっと彼女の話を聞いている。

「奥様はあの夜。一体どこに行き、誰と会っていたのでしょうか。ブーツには泥が跳ね、髪の毛が濡れていました。ホテルから離れた雨が降る場所に行き、殺害された可能性が高いと思われます」

「先程から聞いていると、すべてが可能性の話ばかりに思えるのだがな」

「ではここで証拠の話をしましょう」

 彼女は鞄の中から鑑識の資料を取り出すとテーブルの上に置く。

「奥様のブーツに残っていた泥と、この山荘前の小道の泥を分析した結果です。泥の組成が完全に一致しています。奥様はあの夜、ここにいた」

「つまり君は、私が妻を殺した、そう言いたいのかね?」

 威圧感のある声。彼女は一瞬ひるんだように笹井と東方を見るが、二人の刑事はまったく表情を変えぬまま同時にうなずく。彼女はそれに背中を押されて教授に断言する。

「そうです」

 なるほどな。教授はそうつぶやくと、彼女の後ろに控える二人の刑事に強い口調で告げる。

「私にこれだけ無礼な振る舞いをして、君達はことの重大さを理解しているのだろうな」

「私達は何も言っていませんよ。研修生が血迷っているだけです」

 東方はしれっと答えるが、それが教授の怒りをさらに増幅させる。

「この件はしっかりと本部長に報告させてもらう」

「かまいませんが、たかが研修生が口にすること、電話をするのは最後まで話を聞いてからでも遅くないのではありませんか? ここからが本題なんです」

 東方の言葉に、教授は彼女を見る。今度はひるむことなく、彼女はしっかりと教授と目を合わせて言う。

「話を続けてもかまいませんか?」

 教授はしばらく彼女を見たあと、続けたまえと答える。

「ありがとうございます」彼女は静かに一礼すると話を再開する。「奥様がここに来て教授に殺害されたと仮定すると、問題になるのはアリバイです。奥様は四時半過ぎまでホテルで有料放送を見ています。死亡推定時刻は五時前後。どんなに遅く見積もっても、ホテルから抜け出して生きている間にここに辿り着くことは出来ません。つまり、教授には鉄壁なアリバイがあることになります」

「それを聞いて安心したよ」

「完璧なアリバイです。ただ教授のアリバイは、奥様のホテルでの行動によって支えられています。ここがどうも腑に落ちないんです。被害者の行動が犯人の無罪を証明する、犯人にとって都合が良過ぎます。まるで奥様があなたのためにアリバイ工作をしているみたいです。そう考えた時、わかったんです。つまり、奥様は被害者であると同時に、加害者でもあったんです」

「どういう意味だね?」

「奥様はアリバイ工作をしたんです。もちろんそれはあなたのためではありません。自分自身のためです。奥様はあの夜、普段は頼まない夕食のルームサービスを頼み、徹夜で仕事だと愚痴をこぼしました。かかってくるはずのない電話がくることをフロントに伝えました。そうすることで、一晩中、ホテルの部屋にいることを印象付けることが出来ます。深夜になり、有料放送のスイッチを入れ、彼女はホテルを抜け出します。彼女はそうやってアリバイを作り、ここにやって来たんです。何のためでしょうか? 教授、あなたを殺すためにです」

「妻が、私を殺す?」

「はい。奥様はあなたを殺そうとしていました。そして、ここで返り討ちにあったんです」

「論理に飛躍があるように思えるが」

「奥様はあなたに毒物を飲ませようとしました。何か飲み物にでも混ぜたのでしょう。ですがあなたに気付かれ、逆に殺されたんです」

「荒唐無稽過ぎる」

「そうでしょうか。先程も説明した通り、奥様が毒物を購入したことは間違いありません。偶然犯人が同じ毒を持っていたというのは無理があります。奥様が自分を殺しにくることを予期することが出来ない以上、前もって用意しておいたものでもない。奥様が自分を毒殺しようとしていることに気付き、その毒で逆襲したと考えるのが一番自然です。違いますか?」

 教授は答えない。

「彼女はあなたを殺害するために毒物を購入し、アリバイ工作をした上でここに来て、あなたに逆に殺された。教授であれば、彼女が過去に心療内科にかかっていたことも仕事で行き詰っていたこともご存知だったはずです。毒物を飲んだ彼女を自殺に見せかけるのは自然な発想だったはずです」

 しばらく考え込んだあと、教授はタバコに手を伸ばすとゆっくりと煙をくぐらせる。

「なるほど。面白い話だ。首都警察の優秀な研修生なだけある。いや、さすがは我が教え子、といったところか。だが君はそこにいる愚かな者達にそそのかされて、その結果、一生悔やむべき過ちを犯した」そう言うと教授は東方を睨みつける。「このまま黙っているつもりかね?」だが、東方は答えない。

「いいだろう。それではこちらからいくつか質問させてもらおう。まず妻がしたとかいうアリバイ工作についてだ。君は、妻が有料放送のスイッチを入れ、ホテルを抜け出してここに来たと言ったな。結果的にここで彼女が殺害されたのなら、一体誰が有料放送のスイッチを切ったのかね。たしか、四時半だったか。その時間まで有料放送を見ていたということは、誰かがその時間にテレビを消したことになる。誰がそうしたのかね?」

「そう、それこそが今回の事件の肝なんです。その質問にはこう答えます。奥様には共犯者がいたんです。奥様がホテルから出たあと、ホテルに残り時刻を見計らってテレビを切った。まるでその時間まで、ホテルに奥様が残っていたかのように振舞った人物がいたんです」

「共犯者。なるほど、それは一体誰かね?」

「奥様の恋人です。まだ捜査中ですが、奥様には愛人がいた可能性が高いと思われる証言がすでにいくつか上がってきています」

「可能性、可能性、君の話は可能性ばかりだな、では妻が私を殺そうとする動機は何かね? その愛人か?」

「違います。動機は神宮寺かなえの秘密を守ることです。教授、あなたが学生時代、ミステリーサークルにいたころに書いた小説を見つけました。短篇ながら随所に素晴らしいトリックを散りばめた傑作です。あなたが本気で小説を書き続けていたら、きっと素晴らしいミステリー作家になったと思います。いえ、実際なったんです。奥様は二年前から作風を大きく変えています。それ以前の作品、あれは教授、あなたが書いていたのではありませんか? あなたがお書きになった論文や評論では文体が大きく違うため判定が困難ですが、あなたの学生時代に描いた小説と神宮寺かなえ名義の初期の作品を比べてみますと、多くの部分で文章の癖が一致していました。専門家の鑑定でもあなたの文章と酷似していると結論づけています。奥様にとって自分の作家生命を守るには、その秘密を隠し通さなければならない。奇しくもかつての作品の映画化が決まりました。ヒットすれば莫大なお金が動きます。秘密を守るため、恋人と共謀してあなたを殺そうとした。いかがですか?」

 なるほど、教授は面白そうに小さく笑うと、ちらりと東方を見る。

「まだ黙っているつもりかね?」

「私には、彼女に分があるように見えますが」

「だとしたら、君の目は節穴だな。では次の質問だ。共犯者がいたとして、彼は一体今、どこにいる?」

「ですから、それは今、捜査中でして、」

「なるほど。だがおかしいとは思わないかね。君の話では、私を殺しに来た妻を、私が返り討ちにしたのだろう? であれば妻の死体をホテルまで私が運んだことになる。そうだな」

「はい」

「つまり私は彼女がどのホテルのどの部屋に泊っていたかを知っていたことになるな」

「奥様のホテルに電話をかけるつもりだったとおっしゃったのは教授です。当然、ホテルの名前は知っていたはずですし、ルームキーがあれば部屋番号を知ることも可能です。奥様の遺体を運び込んでいる以上、犯人は部屋の鍵を持っていたことになります」

「なるほど。だがいくら部屋を知っていたとしても、妻の死体をホテルのその部屋に運び込むのはまずいのではないかね?」

 教授の言葉に、彼女ははっと何かに気付く。

「気付いたかね? そう、ホテルにはアリバイ工作を手伝い、妻の帰りを待っている共犯者がいるんだろう。そこに妻の死体を担いで私が戻ってくれば、何事もなく済むと思うかね」

「それは」

「もちろんこういう可能性はある。共犯者はどこかのタイミングでテレビを切ってホテルからすでに姿を消していた。だが、アリバイ工作のためにテレビを切るのが仕事なら、普通なら妻から殺害したという連絡がくるまでテレビをつけっぱなしにしておくだろう。毒殺となるとタイミングは難しい。私と会ってすぐに殺害出来るとは限らない。何時までテレビをつけておくべきか、妻からの連絡が必要だが、彼女が私に逆に殺されたのなら誰がその連絡を入れるのかね? 連絡がなければ彼はずっとホテルで待っていたはずだ。百歩譲って何らかの理由でホテルをすでに出たあとだったとしても、翌日、妻が死んだことが報道されれば当然、何かしらの行動を起こすはずだ。何しろ、妻の計画、つまり私への殺害計画の詳細を知っていたのなら、当然、妻を殺害したのは私だと思うはずだし、妻に利用されただけで計画の詳細を知らずにホテルで留守番を頼まれていただけなら、それこそ警察に通報するだろう。善意の通報がなかったと言ったのは君達だったはずだが、違うかね?」

 彼女は思わず笹井と東方を見る。

「こっちを向くんだ。君の組み立ててきた論理は、所詮、可能性の積み重ね、都合のいい解釈の入り混じった妄想に過ぎない。いいかね、共犯者なんているはずがない。そんな男は存在しないんだ。男が存在しないのであれば妻が死亡時刻にここに来ることは不可能だ。つまり、私に妻を殺害することもまた、不可能ということになる。いいかね、共犯者はいなかった。賭けてもいい。どんなに探しても、そんな男は現れない。君の論理は、初めからずっと破綻している。君には失望したよ」

 彼女の顔はすっかりと青ざめ、言葉を失いうなだれている。そんな様子を憐れむように見たあと、教授は憎悪の眼差しを二人の刑事に向ける。

「かわいそうに。こんな未熟な研修生を利用して、手柄を上げることが出来るとでも思ったのかね。君達のくだらん企みが、彼女に大いなる挫折を与えてしまったのだ。指導者としては失格だ。恥を知りたまえ」

「共犯者もあなたが始末したとしたら?」東方が一矢報いるが、教授はそれを一蹴する。

「なあ、いいかね、刑事諸君。妻がここに私を殺しに来て、逆に私に殺されたとしてだ、どうして私は警察に通報しなかったのかね? わざわざ妻の遺体をホテルまで運ぶ理由は何だね?」

「アリバイ工作、」

「馬鹿なのか、君は。アリバイはホテルのテレビの時間によって成立しているのだろう? そもそもホテルのテレビについて私は知る由もない。アリバイ工作の存在を知らない私がどうやってアリバイ工作を利用出来るというのだね? それに、君達は根本的に間違っている。君は先程、妻の心療内科や仕事のことを知っていて自殺に見せかけることを思いついたと言ったが、それこそ私にはまったく無意味な工作だ。仮に妻の死をすぐに警察に通報したとして、私に何の不利益があるのかね?」

「いくら身を守るためとはいえ、毒物を飲ませるのは立派な犯罪ですよ」

「私を殺そうとした妻が誤って自分で用意した毒を飲んで死んだ、事故だった。そう証言すればいいだけの話だ。私は市警察とも深い付き合いがある。電話一本で本部長にことをおさめるよう頼むことも出来るだろう。自殺に見せかける必要がそもそも私にはない」

 刑事達は言葉を失っている。

「君達の推理は最初から的外れだ。毒物は不溶性のカプセルに入っていた。それを飲んだあとカプセルを処理してベッドに行くことは出来ない、だから自殺ではないと君達は主張するがね、彼女が飲んだのは本当に不溶性のカプセルに入った毒だったのかね? 心理学的には抑うつ傾向にある人間が、いつでも自分が死ねるという環境にあえて身を置くことで、逆に精神が安定し自殺せずに済むということはよくある話だ。妻は毒を常に身に着けることで、いつでも死ねると実感することでこれまで死なずにやってきたのだろう。飲んでも死なない薬を持ち歩いても意味がない。死を身近に置くために、体内で溶けるカプセルに入れ替えていた毒物を持ち歩いていたという可能性を、何故君達は無視するのかね。カプセルがホテルに残されていなかったのは体内で溶けたから、そう考えるのが最も自然な発想のはずだ。ブーツの泥に何の証拠能力があるというのだ。別居しているとはいえ妻だぞ。私が不在の日に訪ねてきたことがあったのかもしれない。あの泥がいつ着いたかなんて誰にもわからないことだ。可能性、可能性、君達のお得意の可能性は、掛け合わせるたびにどんどん真実から遠のいて行く。さあ、それで、」

 教授はタバコを灰皿に押し付けると、三人を見回して言う。

「話は以上かね?」



 三人の刑事達が無言で立ち去った山荘の応接室で、教授はしばらくゆるりと煙をくぐらせていた。やがておもむろに電話に手を延ばすと、登録してあった番号を呼び出す。何度目かのコールのあと、教授は怒り心頭といった口調で受話器に向かって何やら話すが、その顔には笑みが浮かんでいる。


**********


 水沼桐子は失意のどん底にいた。

 市警察刑事部屋の隅のソファに座り、落ち着かない様子で両手を握り合ったりしながら黙り込んでいる。人を寄せ付けない雰囲気に、捜査一課の刑事達はその様子を遠巻きに見ている。市警察に戻ったあと、笹井と東方の両者がすぐに課長室に出頭を命じられてからすでに一時間近くが経過している。教授があれから市警察にクレームを入れたのは火を見るよりも明らかだが、彼等が断罪されている間、自分だけは爪弾きにされたみたいに、ぽつんと刑事部屋の隅に取り残されている。わかっている。シナリオを書いたのは指導教官たる二人の刑事で自分はセリフを諳んじただけ。だがそれでも自分がもっと上手くやれればあるいは自白を取ることが出来たかもしれないと思うと、彼女はいたたまれなくなり自分で自分の首を締めたくなる。無限にも思える重苦しい沈黙のあと、がちゃりと扉が開く音がして二人の刑事が課長室から出てくる。二人がソファの方へと歩いてくると、野次馬の刑事達は厄介ごとに巻き込まれては御免だと言わんばかりにさっと道を開ける。もうとっくに市警察中にこの失態は知れ渡っているのだろう。

 彼女の方まで来ると、反対側のソファに二人はどっかりと並んで腰を下ろす。彼女と対峙して座る二人は彼女を責めるどころか一言も発しようとしない。彼女はいてもたってもいられなくなりおもむろに立ち上がると二人の刑事に向かって言う。

「わたし、彼女の共犯者を見つけてきます。その男さえ見つけることが出来れば、すべてがはっきりします。もう一度、彼女の自宅に停まっていたという車を探してきます」

「余計なことはするな」

 笹井が厳しい口調で言う。

「でも、このままでは、」

「お前を責めているんじゃない。お前はよくやった。これはすべて俺達のミスだ。捜査はもう終わりだ。何もしなくていい」

「ですが、共犯者はいるはずです。男を探さないと」

「協力しますよ、水沼巡査部長、」

 それまで彼女がうなだれているのをずっと見ていた制服警官が思わず彼女に告げる。

「車種の目星はついています。形式、色、該当する車を所持する男性全員の照会をかけましょう。私も協力します」

「駄目だ。余計なことはするなと言っているんだ」

「ですが、このままでいいはずはありません」

 すぐ目の前で行われている会話なのに東方にはその声は頭の遠くの方で響いている。むっつりと黙り込み、何かを考え込んでいる。それからふと顔を上げて彼女を見る。必死に捜査を続けることを訴える彼女の姿に何かを感じる。共犯者、彼女の共犯者、車、彼女の自宅に停まっていた、彼等の会話に東方の思考が揺さぶられる。


「いいかね、共犯者なんているはずがない。そんな男は存在しないんだ。男が存在しないのであれば彼女が死亡時刻にここに来ることは不可能だ」

「共犯者はいなかった。賭けてもいい。どんなに探しても、そんな男は現れない」

 

突然、教授の声が頭の中で鳴り響く。そして、

 唐突に東方は立ち上がる。その視線はどこか宙を不規則に漂っている。

「どうした?」笹井の問いにも答えず東方は歩いていこうとする。「おい、どこに行くんだ。俺達は内勤を命じられたんだ。市警察から出るなよ」

 東方は振り返る。それから、上の空といった口調で、ああ、そうだなと答える。彼女も怪訝そうに東方を見るが、東方は何度かうなずいたあとタバコを吸ってくる、とつぶやく。「全館禁煙だぞ」「ああ、わかっている。屋上だ。屋上に行く」東方はそう言うと、ぼおっとした表情で刑事部屋から出ていこうとする。「東方さん?」彼女が声をかけると、東方は振り向いて、「いいぞ、調べろ、車の持ち主を探せ」それだけ言うと、刑事部屋から出ていく。

「何です、今の?」

警官が呆気に取られたようにたずねるが、笹井はそれには答えずやれやれと大きなため息をつく。

「始まったか」


1994/4/9 Saturday


 数日後、鬼頭貞義は山荘の応接室でソファに腰をおろし、雑誌のページをめくっていた。チャイムの音が響くと顔を上げ、怪訝そうに玄関の方を見る。今日は訪ねてくる予定の客はいない。郵便でも来たのだろうか。教授は雑誌を机の上に置くと玄関へと向かう。

 玄関の扉を開けると、そこには招かれざる客が立っている。分厚い胸板に安物のスーツを着込んだ男。目の下には黒々とした隈を飼う目つきの悪い男がいる。

「君か。今度は一体何の用かね?」

「先日は本当に失礼なことをしまして、お詫びをしに来たんです」

「君一人かね?」

「そうです」

「君の顔を見ているだけで不愉快になる。詫びはいいからさっさと帰りたまえ。そしてもう二度と、私の前に姿を現さないでもらいたい」

「そうなるでしょうね。実は、本日付で捜査一課から交通課への異動を命じられたんです。殺人事件の捜査はもう終しまい、これにて退場です。ですから最後に、数々の無礼に対しまして、お詫びを申し上げに来たんです」

「随分反省したようだな。まあ次の部署でもせいぜい頑張りたまえ」

「最後に一つだけ、教えてもらえませんか?」

「何だね?」

「奥様の以前の作品は、本当に教授が書いたのですか?」

「何だ、そんなことか。まあいいだろう。あの研修生も一つだけは正しかったということだ。そう、神宮寺かなえの初期の作品は私が書いたものだ。だが他言は無用に願いたい。死んだ妻の名誉に関わることだ。私も公表するつもりはない。葬儀も終わって神宮寺かなえの名前もこれで永遠に眠ることになる。話は以上だ。これで気が済んだかね?」

「ええ、おかげですっきりしました。やはり奥様にはあなたを殺害するだけの動機があったんですね。あの研修生は正しかった」

「あの研修生の話はいい。すべては終わったんだ。さ、気をつけて帰りたまえ。私は忙しいんだ」

 教授は刑事の鼻先で扉を閉じようとするが、おもむろに東方はその扉に手をかけて締め出されることを拒む。

「何のつもりだ?」

「教授、私とゲームをしませんか?」

「ゲーム、だと?」

「私はこれから一つの仮定の話をします。先日と同じです。妄想、絵空事、何とでも称していただいて構いませんが、私の仮説の穴を見つけ出して下さい。それが出来ればあなたの勝ち。私は自分の無能さを笑って引き下がります。もしあなたが指摘出来なければ私の勝ち。とは言え、私には捜査権限はありませんし勝ったからどうだというわけではありません。ですがそれがたとえ事実だろうが妄想だろうが、私にとっての真実として胸に抱いて交通整理に励みます。これだけのことをしでかしましたからね。私はもう二度と、殺人課には戻れません。これが最後の事件なら、納得いくまでやってから終わりにしたいんです」

「君はどうかしているのか? 私がそんなものに付き合う義理がどこにある?」

「そうですね。いや、あまりに身勝手な提案でした。おっしゃる通りです」

 そう言うと東方は一礼して踵を返す。玄関前の段を二段下りたところで東方は、ああ、そうだと足を止めて振り返る。

「私の仮説、これは別の刑事にゆだねることにしますよ。たしかに私はこれで退場しますが、いつかこの先、私のような人間がまた、あなたの前に立つことになるでしょう。何年先になるかはわかりません。ですが必ず私の意思を継ぐ誰かがあなたの前に立つことになります。楽しみにしていて下さい」

 そう言うと、東方はそれでは、と会釈する。再び背中を向けた東方に、教授は不機嫌そうな声で言う。

「君は私を脅迫しているのか?」

「脅迫? 私はただゲームがしたかっただけですよ。勝っても負けてもこれですべて終わり。ですが私が今、この場を立ち去れば、ゲームは続く。いつか必ず誰かがその扉をノックします。ただそれだけのことです」

「気に入らんな」

「手間は取らせません。これは交通課刑事の迷いごと。ただの遊びです。あなたにとっても決して悪い話じゃないはずです」

「呆れた男だ。だが君のような無礼な人間を今、ここできちんと叩き潰しておくことは市警察のためにもなることだろう。うるさい蝿がまとわりついてきても困るしな。いいだろう。君の戯言に付き合うことにしよう」

 それは何よりです。東方は、にいと口の端を歪めて笑う。



 山荘の応接室、テーブルを挟んで東方と教授はソファに座る。

 東方はさてと、と一度両手で膝を叩いたあと、教授を見る。

「あの研修生ですが、」

「彼女か。今回のことが心的外傷にならなければいいがな」

「教授は彼女に失望したと言いましたが私は違います。ただの高校生にしか見えませんが、彼女は優秀です。事件の全貌まであと一歩というところまで辿り着いた。まあ、詰めは甘かったが、所詮は研修生、ですが目の付け所は悪くない。なかなかの演説でしたが、彼女はヘマをしました。何だかわかりますか?」

「ご高説承ろうか」

「彼女はこう言いました。毒殺だから計画的な犯行であると。ですが、自分を殺しに来た妻を教授が返り討ちにしたのであれば、教授は衝動的に毒殺したことになります。言った先から矛盾してます。こういう矛盾は気になるものです。一気に畳みかけて相手の自白を引き出そうとする時に、雑音になる。まったく、酷い演説でした」

「擁護するつもりはないが、彼女が言いたかったのは、最初に殺そうとした妻が計画的な犯行だというだけだろう。それ以上でもそれ以下でもあるまい。そんな重箱の隅をつついて研修生をいびるのは感心しないな」

「まあ、たしかに。私は少々大人げないようです。あの研修生にお前の演説が悪くて自白がとれなかったと責めたら、相棒にもどこまで性格が悪いんだって言われましたよ。自分でもどうかと思うんです。こうやって他人の粗ばかり探してしまう。ですが、今回ばかりはそんな自分の性格の悪さに感謝していますよ」

「話が見えないが」

「もし仮に、彼女の言葉がすべて正しいのだとするとどうなるのか。衝動的な毒殺はない。この言葉が奥様だけでなく、あなたにも当てはまるとすると一体どうなるのか。ふとそう考えてみたんです。奥様は計画的にあなたを殺害しようとして返り討ちにあったが、教授による奥様の毒殺もまた、計画的だったとしたら。この発想が生まれた時、事件の見え方は百八十度変わりました」

 それから東方は小さく唇を鳴らす。

「結論から言いますと、あの研修生の推理は間違いです。奥様があなたを殺そうとし、それを返り討ちにしたのではなかったんです。この事件に衝動的な毒殺は存在しません。すべては計画的な殺人だったんです。そうなると重要なのは、ホテルにいた第三者、共犯者の存在です。共犯者、それがこの事件で最も重要な存在です。そして教授、あなたは共犯者に関して私達を操ろうとしましたね」


「いいかね、共犯者なんているはずがない。そんな男は存在しないんだ。男が存在しないのであれば彼女が死亡時刻にここに来ることは不可能だ。つまり、私に彼女を殺害することは絶対に不可能ということになる。いいかね、共犯者はいなかった。賭けてもいい。どんなに探しても、そんな男は現れない」


「あなたは私達に何度も繰り返しました。共犯者などいないと。何のために? あなたは心理学の教授で人を操ることに長けています。私達に共犯者などいないと刷り込み操ろうとしたのでしょうか。ですが実際にはそれは上手くいきませんでした。事実あの研修生は、あれから躍起になって共犯者を探そうとしていましたし、効果はありませんでした」

「操る? 私はただ、共犯者がいるなんて荒唐無稽、そう思ったからそう言っただけだ。実際、通報はなかったのだろう? 共犯者は名乗り出ていないのだろう?」

「あなたは言いました。共犯者がいるのなら、お奥様の死体をホテルに運び込んだあなたと鉢合わせたはずだと。それが研修生の推理を否定する最も大きな要素でした。ですが、こうも考えられるはずです。あなたはたしかに共犯者とホテルで鉢合わせた。でもそれで問題はなかった。何故なら、初めからそういう計画だったからです」

「何が言いたいのかさっぱりわからないな」

「つまり共犯者というのは、奥様の共犯者ではなく、あなたの共犯者だったんです」

「私の共犯者だと?」

「正確には両者の共犯者、ということになるでしょうね。何しろ人殺しは二人。二人の人殺しが一人の共犯者を共有していたんです」

 東方はそれから顔の前で祈るように両手を合わせる。両肘を膝に乗せ、合わせた人差し指で唇を何度かノックする。

「奥様があなたに殺意を抱いていたのは事実でしょう。それに気付いたあなたは、ある計画を立てた。そう、奥様にあなた自身を殺害させる計画です」

「何?」

「奥様に自分の殺害計画を立てさせ、奥様自身にアリバイ工作をさせる。被害者がアリバイ工作をしたと疑われることは通常ありません。彼女にアリバイがあるのならあなたのアリバイは鉄壁になる。上手い手です。奥様は自分であなたの殺害計画を立てたつもりになっていたが、すべてはあなたの計画の一部でした」

「なるほど。では一体どうやって私は妻に、私を殺害させようとしたのかね?」

「奥様の元に、自分の息のかかった共犯者を送り込んだんです。奥様はその共犯者と一緒にあなたの殺害計画を練り、アリバイ工作をしましたが、それはすべてあなたのシナリオ通りだった」

「君は妻よりも作家の才能があるらしいな。ではあの研修生の言う、妻の愛人とやらは私が送り込んだのかね。妻が見ず知らずの男を信用して自分の夫の殺人計画を立てるなんてことがあり得るかね。人殺しだぞ。失敗すればすべてを失う。そんなリスクの高いことを、見ず知らずの男とやったというのかね。もしそうであるならば、私が送り込んだ男は余程魅力的らしいな。彼女を虜にして人殺しをさせようというのだから。だがあいにく私の周りにそんな色男は思い当たらないな」

 東方は小さく唇を鳴らすと手を合わせたまま指先を教授に向けて何度も首を振る。

「教授、教授、あなたときたら。まったく。またやりましたね。あなたは大した心理学者だ」

 東方の様子に教授は眉をひそめたまま口を閉ざす。

「あなたは先日、何度も何度も私達に繰り返しました。共犯者はいないと。実際にそれは効果がなかったように見えますが、あなたほどの方がそんな無駄なことをするはずがない。あれだけ執拗に私達に繰り返したのには意味があるはずです。あなたは私達に共犯者がいないと刷り込みたかったんじゃない。あなたは私達に、共犯者は男である、と思い込ませたかったんです。最初から私達は共犯者が男性だと決めつけていました。当然です、奥様と共犯関係にあり別居中の夫を殺すなら普通は愛人、男だと考えます。私達がそう誤解していることをあなたは利用し、私達にこの事件は共犯者が男であるというメッセージを刷り込んだんです。そしてそれは上手くいきました。事実、私達は共犯者の男を探そうと躍起になっていました。そして共犯者が男だと思い込んでいる限り、共犯者が奥様の愛人であるという思い込みからなかなか抜け出せなくなる。まったく、あなたは本当にすごい。あの場で、研修生に追い詰められながら瞬時にこれを思い付き実行したんですか? 私達はすっかり騙されましたよ」

 教授は答えない。

「ですが私はあなたが執拗に私達に共犯者が男だと刷り込ませようとしていることに気付きました。そして本当は共犯者が女性なのではないか、そのことに思い当たれば、共犯者が奥様ではなくあなたの共犯者だと発想するのはそれほど難しい飛躍ではありません。そしてあなたが女性を奥様の元に送り込んだと考えればいろいろと見えてきます。その女性はきっと奥様にこう言ったのでしょう。自分は教授の元愛人であると。酷い捨てられ方をして恨んでいると。奥様に元愛人だと信じさせることは簡単です。あなたと奥様しか知らないことを口にするだけでいい。奥様とあなたの仲が睦まじければ、当然そんな愛人は奥様にとって忌むべき存在ですが、奥様にはあなたを殺す動機があった。そこに、酷い目に遭いあなたを恨んでいるという女性が現れたらどうなるか。昨日の敵は今日の友じゃありませんが、二人が手を取り合うことは十分にあり得る話です。そしてここでもまた、あなたは人の心理を巧みに利用しました。あなたは認めました。奥様のかつての作品は自分が書いたものだと。ということは現在の、失礼を承知で言いますが、現在の神宮寺かなえの書く、くだらない三角関係や愛憎ももつれこそが彼女の中から出てくる物語、彼女の本質、彼女が傾倒している世界です。あなたに恨みを持つ元愛人という設定は、そんな奥様におあつらえ向きの餌でした。あなたの共犯者は奥様と信頼関係を築き、そしてある日、殺害計画を持ちかけます。まるで自分の書く小説のようなドラマチックな展開に、奥様は熱狂したはずです。運命に背中を押される気持ちになったはずです」

 教授は答えない。

「奥様と共犯者は綿密にあなたの殺害計画を立てますが、もちろんシナリオを書いたのはあなたです。アリバイ工作のために、共犯者をホテルに残して奥様はあなたを殺すためにここにやって来る。どのように毒殺するかを考えたのもあなただ。彼女に飲み物に毒を入れるように仕向け、それを逆に彼女に飲ませた。具体的にどうやったかはわかりません。過去にあれだけすごいミステリー小説をいくつも書いているんです。他人に毒を飲ませる方法くらい、いくらでも思いつくでしょう。そして絶命した彼女をホテルに運んだ。そこには奥様の共犯者であり、あなたの共犯者でもある女性が待っている。ホテルの部屋も鍵も共犯者がいれば問題ありません。そしてあなたは共犯者の女性と一緒にホテルを出た。これが私の仮説です。これならすべてのことに説明がつくと思います。いかがですか教授?」

 東方が話し終えると、しばらくして教授はおもむろに東方に拍手を送る。

「君は自分の才能の使い方を間違えたらしいな。たしかに君の仮説には論理的な矛盾はない。実に見事な発想だ。だが残念なことに君の話には何一つ証拠がない。すべてが仮説。いくつもあるシナリオの一つ、可能性の一つに過ぎない。妻が自殺したことを覆す何の材料にもならない。いや、面白かったよ東方刑事。ゲームは、そう、君の勝ちということにしておこう。これをいい思い出として、しっかりと交通整理に励んでくれたまえ」

「私の仮説が正しいとお認めになるんですか?」

「その質問は無意味だ。信じたいことを信じればいいが、私は何も認めないしその必要もない。面白い話だった。いや、素直に感動したと言ってもいい。だからこそ残念だ。君との会話をずっと続けていたいが、君は最早殺人課の刑事ではない」

 そう言うと教授は立ち上がり、部屋の出口を指す。

「お引き取りを」

 東方はしばらく教授を見上げたあと、そうですかとつぶやき立ち上がる。

「まあ、仕方ないですね」

 東方は教授に深々と一礼すると部屋から出ていこうとする。ドアノブに手をかけると東方は、ああ、そうだと再び教授の方を向く。

「教授、本当のことを言いましょう。実は私は、最初にあなたにお会いした時からあなたのことを疑っていました」

「ほお。何故かね。ブーツの泥の一件かね」

「いいえ。最初の日、私があそこのマガジンラックの雑誌に手を伸ばしてあなたに注意されたのを覚えていますか?」

「そんなこともあったか」

「マガジンラックには、今、机の上にあるその雑誌が置かれていました。南国リゾートへの旅行雑誌。そしてあの夜、ホテルの有料放送で奥様は同じ場所の旅番組を見ていました。偶然にしては出来過ぎています。春先に日焼け止めをぬるような人物が見るにはふさわしくない南国リゾートの番組と、同じ行き先の旅行雑誌を読んでいるあなたには、強烈な違和感がありました。それからずっと、私はあなたのことが気になっていました」

 教授は机の上に置かれた雑誌を一瞥する。

「ですが、ずっとその理由はわかりませんでした。単なる偶然だったのか、そう自分を疑ったこともありましたが、あなたに共犯者がいた、その考えに至った時にすべてがつながりました。ホテルで有料放送を見ていたあなたの共犯者が、あなたと同じ南国リゾートの地に思いを馳せていたのなら、その女性とは一体どんな人物か。教授、共犯者はあなたの愛人ですね?」

「先日君達は、共犯者は妻の愛人と言った。今度は私の愛人だと言うのかね? まあ、好きに想像すればいいが、どうしてもこの続きがやりたいのなら、その愛人とやらを見つけてきたらどうだね」

「それは難しいでしょうね。これだけ綿密な計画を立て、人を操ることに長けているあなたが、愛人の存在の証拠を残しているはずがない。細心の注意を払って会っていたはずです。事実、あなたの周辺を調べた時も、愛人の影は見当たりませんでした」

「見当たらないのはいないからではないのかね?」

「結論を急ぐ必要はありません。私はただ待っていればいいんですよ。だって愛人はあなたのために奥様の殺害にまで協力したんです。とすると、彼女の要求はあなた自身のはずだ。あなたはいずれその愛人と再婚するでしょう? そんな約束でもしない限り、妻殺しの協力をするとは思えない。あなたが再婚するのを待って、新しい奥様を問い詰めればいい」

「興味深い意見だが、すべての愛人が結婚を望むとは限るまい」

「もちろんです。あなたの愛人も結婚のことは口にしない奥ゆかしさがあるかもしれません。ですが心理学の専門家ならおわかりでしょう? 人はそこに愛があると信じるが故に、その身を捧げるんです。時には人を殺しさえする。ですが、ひとたび仲が違えば必ず秘密は暴かれる。それを防ぐためにはあなたは結婚するか一緒に暮らすか、少なくとも隠し通せるほどぞんざいに扱うわけにはいきません。あなたはまたもや自分の妻にたかられることになる」

 それは皮肉な話だな。他人事のようにつぶやいて、教授は扉の前に立つ東方に向かって言う。「仮に私が君の想像するような事件の犯人であるならば、その共犯者たる愛人をいつまでもほっておくと思うかね? 言葉で足りないのであれば、別の方法を探せばいい」

「ご冗談でしょう? まさか愛人まで殺すつもりですか? 彼女のために奥様まで殺しておいて、何の意味があるんです?」

「おいおい君は、君は肝心なところを間違えている。がっかりだよ、東方刑事、君なら私のことを理解していると思ったが。いいかね。仮に私が妻を殺した犯人だとしよう。仮にそうだとして、その動機が愛のためとでも思っているのか? 愛なんてものはまやかしだよ。そんな物は存在しない。私がもし妻を殺したとしても、それは愛人なんかのためではない。愛人を共犯者にしたのも利用出来たからそうしただけだ。私が犯人ならそう答えるだろうな」

「今の言葉を聞いて、俄然あなたの共犯者を見つけ出したくなりましたよ。今の言葉をきかせたいものですね。あなたの言葉を。そうすればきっと彼女は私の力になってくれます」

「無理だろうな」

「何故です? その前にあなたが口止めするからですか? 私がここから出て行ったらすぐに電話をかけますか? 刑事がたずねてきてもくだらない言葉に耳を傾けるな、そう釘を刺すんですか? たしかに妻殺しまで手伝ったんだ。彼女はあなたの言葉しか信じないでしょう。私の言葉なんてとても届かない」

「そうだろうな」

「だったらあなたの言葉を聞かせればいい」 

 そう言うと東方は応接室の扉を平手で何度か強く叩く。やがてどかどかという足音が近づいてきて扉が開かれる。そこには笹井と水沼、何人かの制服警官の姿がある。

「何だね、君達は」

 東方はポケットから小さなマイクを取り出すと笹井に手渡す。

「彼女は?」

 水沼がうしろを振り向くと、警官に連れられて一人の女性が入ってくる。

「奥様の自宅に何度か停まっていた車が近所のガソリンスタンドの防犯カメラに写っていました。ナンバーから辿り着くのは簡単でした」

 東方は淡々と教授に伝えるが、そんな言葉は聞こえていないのか、教授は女性の方を見たまま青ざめた顔で立ち尽くしている。

「今の話、聞いていたね?」

 東方がたずねると女性はうなずく。

「それじゃあ、向こうで話を」

 女性が警官に連れられて行くのを阻止しようと、教授が思わず立ち上がるが、東方は応接室の出口を塞ぐ。

「彼女は今の今まで、一度もあなたを裏切りませんでしたよ。見事なものです。あなたは彼女を完璧に支配していた。物的証拠は何もありません。あなたを逮捕するには彼女の証言だけがたよりでしたが、彼女は口を割ろうとしない。ですがね、私は、あなたの妻殺しの動機が愛人じゃないことなんてわかっていましたよ。もしあなたが愛人のために妻を殺すならもっと簡単にやりますよ。自殺に見せかけて殺害するだけならもっと簡単な方法はいくらでもあったはずです。あなたは奥様に遺書まで用意させた。共犯者に言わせたんでしょう? 計画が失敗し罪に問われたとしても、自殺を考えるほど精神的に不安定だったことが証明出来れば裁判で心神喪失を訴えることも出来る、と。遺書を用意させることが出来るのに、あんなに手の込んだことをする必要はどこにもありません。だとしたら理由は一つです」

 東方は教授の方へと歩いていくとその青ざめた顔を覗き込む。

「教授。あんたはさ、ただやりたかったんだろ? まるでミステリー小説のような刺激的なトリック。奥さんと仲違いするべきじゃなかったな。奥さんはあんたを失い本が書けなくなったが、あんた自身もそれまでは小説を書くことで満足させていた欲望を満たせなくなった。あんただって気付いているだろう? あんたは頭の中に人を殺す光景がいつもいつも浮かんできてしまう。ただ単に殺すだけでは物足りない。より複雑で刺激的な殺し方、あんたはそんな妄想に支配されている。あんたにとってミステリー小説を書くことは人殺しの疑似体験だ。そうすることで欲望を抑え込んでいたが、小説を書くことを奪われたあんたはこの二年間、ずっと渇望していた。だから映画化が決まり、奥さんが自分に殺意を抱いていると知ったあんたは我慢出来なくなった。愛人のためなんかじゃない。自分のためだ。疑似体験を奪われたあんたは、自分の頭に浮かんでくる殺人計画をどうしても試したくなった。やりたくてやりたくて仕方がなかったんだ。動機はただそれだけ。だから愛人を見つけ出して、あんたの口から愛情などないことを聞かせれば彼女は証言してくれる、そう思ったんだ」

 東方は小さく息を吐くと頭を振る。

「あんたは自信があったんだろうが、愛人を見つけ出すのは簡単だったよ。あんたの殺人計画は見事だったが複雑過ぎた。必然的に奥さんが共犯者と会って打ち合わせをする機会は多くなる。機会が多くなれば隠れて会っていてもぼろが出る。目撃証言から車を見つけ出すのは簡単だったよ。あんたは一流のミステリー作家かもしれないが、あんたの奥さんは、こう言っては何だが、やはり三流のミステリー作家だ。あんたの愛人も所詮は素人。詰めが甘過ぎる」

 それから東方は扉のところに立つ彼女の方に振り返る。

「研修生、」

 唐突に名前を呼ばれた彼女は驚いたように東方を見る。

「逮捕しろ」

 彼女は笹井を見る。笹井がうなずくと、彼女は力強く東方に返事をする。

「はい」

 それから彼女は教授の元に歩み寄ると手錠を取り出す。

「待て、君達には何の権限もないはずだ」

「それについては謝らなくてはなりません。あれ、嘘なんです。たしかにあなたが本部長と話をしたあと、本部長はうちの課長に怒鳴り込みに来ましたがね。うちの課長、あれでなかなかの狸親父なんです。本気になって潰しに来たということは、お前は真実に近付いているということだ、あなたを追い詰めろ、そう言われましたよ。だから私は今でも殺人課の刑事なんです」

 彼女が教授に手錠をかけると、東方は肩をすくめてみせる。

「残念でしたね」

「まさかあのカプセルが不溶性だったとはな」

 教授は自分の手首にはめられた手錠を見ながらつぶやく。彼女はそんな恩師を見上げながらはっきりと告げる。

「現実は小説とは違いますから」

「君の言う通りだな」

 彼女に連れられて教授は応接室から出ていく。

東方はその様子を見送ったあと、おもむろに腕時計を見る。

「二十八分。俺の勝ちだな」

 東方の言葉に、笹井は呆れたようにあっそ、と答えると部屋から出て行く。

 一人応接室に取り残された東方はやれやれと首を振り、それからゆっくりと歩き出す。


20231128

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