止まり木

月影筆理

第1話

 灰色の重たい雪雲が覆い被さる十二月三日。高台に造られた個性溢れる家が建ち並ぶ住宅街。その一軒──強いて言えば二階の一室に響き渡るキーボードのリズミカルな調べ。そこから紡ぎ出される言葉は楽譜に記された音符の様に奥ゆかしいものであった。


 鳥類の生は卵から始まる。自分で殻を突き破り、柔和な瞳で親鳥を見つめ、擦り寄り、甲高く可愛らしい産声を上げる。

 最初は親鳥に餌を強請ねだりひたすら頬張る。そして寝る。これを幾日も繰り返す。

 やがて成鳥になった雛鳥達は、大きくなった身体を支えて余りある立派な翼を広げ、手狭になった草木で造られた巣から、大空へと羽ばたいて行く。

 無事に巣立ちを終えた彼らは、降りかかる数多もの苦難に抗い、弱肉強食の自然界を生き抜き、親鳥と同じように子孫を残して生涯を終える。

 人間は哺乳類だが通ずる部分は多い。未成年の間に知識や一般常識を学び、高卒の人間は成人を迎えるとともに、進学した者達も二年後から四年後には、人間が創造した最も恐ろしいシステム──『社会』という名の自然界に足を踏み入れる。絶え間なく押し寄せる理不尽な荒波に耐え、労働者としての責務を果たし、理想もしくは妥協した相手と結婚をして土地を買い家を建て、子供を産み育てる。そして死ぬまで税金を納め続ける。もし、挫折してしまったら……その時は『新卒一括採用』という救いのない現実が突き付けられる。最初に勤めた会社で三年すらもたなかった者はこの先も長続きしないと受け取られ、なかなか次の就職先が見つからない。だが、捨てる神あらば拾う神ありとも言う。どこかしらに就職して継続的に働くことができれば良いが……それも叶わなかった場合、行き着く先は部屋に閉じこもる……までは行かずとも、社会復帰が難しい状況に陥ってしまう事だろう。鳥で例えるならば、巣立つことはできるのに、いつまでも親鳥に甘えて餌を貰おうとする成鳥せいちょうや、一度は巣立ったが厳しい自然界を目の当たりにして巣に戻ってしまい、それ以降はじっと空を眺めている鳥の木彫りになってしまう。もし本当にこのような鳥がいるとすれば、滅ぶしかないだろう。しかし、私達は人間である。故に………………。


 あれ? 文章が出てこない。どうしよう? 真城牡丹ましろぼたんは小顔に付いた大きな目をしばたかせ、黒髪のポニーテールを揺らしながら首をかしげた。

 頭が疲れちゃったのかな? でも執筆意欲はまだある。どうかな私、もう少し頑張ってみない? 無理? もうちょっと頑張ってみよう。牡丹はどうにか執筆を継続しようと心の中で優しく自分を鼓舞してみたが……水色のスウェットの袖口そでぐちからのぞく色白の細い指は、キーボードの上を彷徨さまようだけであった。

「やっぱり無理! 一旦休憩!」

 投げやりな態度で椅子の背もたれに体を預けた牡丹は、イライラのこもった溜め息をき、だらしのない姿勢で白とピンクのマウスを操作した。マウスポイントを画面左上に移動。ツールバーを開く。保存をワンクリック。幾つかの選択肢と共に出てきた上書き保存をダブルクリック。『止まり木』と書いてあるファイルを選び、乱暴な指付きで保存するを押した。画面中央に上書き保存完了の文字が表示される。

「これで良しと。はあー疲れた。それにしてもマウス冷たっ」

 牡丹は熱を奪われたてのひらこすりながら、冬の訪れとともに冷たくなった無機質な物体を眺めた。それもそうだよね。もう十二月に入ったんだもん。そりゃあ寒くもなるよね。牡丹は壁に掛けられたカレンダーに目をやった。一枚だけ残された大判用紙が過ぎ去った月日を想起そうきさせる。はあ、今年も駄目だったか……牡丹は再び画面に向き直り、保存ファイルのページを開いた。今年書いた小説が物悲しく眠っている。長編三本に短編七本。中編はゼロ。それ以外に小説投稿サイトに連載している小説が一本。

「約一年前から書き始めたから今年で二年目になるのか。もうストーリーも終盤に差し掛かっているのに、結局今年も書籍化の声は掛からなかったなあ」

 牡丹は年季の入った白い天井を見つめ、頭の中で自分の履歴をなぞった。

 普通科の高校を卒業したあと地元の工場に就職。牡丹が配属されたのは金属を加工して部品を製造する部署だった。地方の工場は男性社員が圧倒的に多い。例に漏れず牡丹の会社も男性比率は恐ろしく高かった。そのせいであろう。数少ない女性社員からは仲間が増えたと喜ばれ、すぐに打ち解けることができた。しかし、男性社員は少し時間が掛かった。なんせ若くて華奢きゃしゃで愛嬌のある女性社員が入ってきたのだ。嬉しい反面、萎縮してしまい、なかなか近寄って貰えず。だがそこは明朗明快めいろうめいかいの牡丹。仕事でわからない事は勿論もちろん、休憩時間も昼食時も自ら積極的に話し掛け、徐々に距離を縮め、気が付けば後輩が入ってくる二年目には冗談も言い合えるほどの仲になっていた。不平不満など微塵もないように思える社会人生活。まさに他も羨むようなスタートを切った牡丹であったが、自身は拭い切れぬ物足りなさを感じていた。

 転機が訪れたのは二十五歳の時。雪がちらつく冬の頃。年末年始の大型連休が過ぎてから二週間後の日曜日。ちょうどお昼のニュースが報じられる時合じあい。仕事が休みだった理子は炬燵こたつに入り母親が用意した蜜柑を頬張りながらテレビを眺めていた。政治に経済に事件事故。観光旅行に有名人の結婚発表など、まるで別世界のような情報が次々と流れてくる。社会に関心のある者やゴシップ好きなら食い付きそうな話題だが、生憎牡丹はそういう事には疎い性格なので、面白味を感じることができなかった。動画でも見ようかな……そう思い牡丹がスマートフォンを手にした時、若い女性アナウンサーが日本で一番有名な文学賞の発表を報じた。金屏風を背に誇らしげな顔で単行本や雑誌を抱える作家達。これだ!! 私の求めていたモノは!! なぜ惹かれたのか。それは牡丹自身もわからなかった。わからなかったが、スマートフォンの検索履歴は瞬く間に小説関連で埋め尽くされていった。どうしたら小説家になれるか。小説の書き方とは。上達方法は……牡丹はそれらの情報をむさぼり喰う様に読み散らした。

 その最中、牡丹は自己に問い続けた。そもそも私って小説好きだったけ? ううん、違う。どちらかと言うと頭を使うより体を動かす方が好きな子だった。保育園の時は部屋とか小さい校庭とか走り回ってたし、小学校に上がってからは男子に混ざってドッジボールとか鬼ごっこをしていた。中学と高校はソフトボールに夢中になって毎日練習してたっけ。でも、小説を読む機会はあった。そうだ、『読書習慣』だ。朝のホームルームの前に全員が読書をするという大人達が作った謎のルール。まあ、あの時は活字が苦手だったから、流し読みしてたけど。それでも小説の内容は覚えてる。現実世界では絶対に言わないであろうキザな台詞や甘々展開が繰り広げられる学園恋愛小説。有り得ないでしょう。なんてツッコミながら読んでたなあ。懐かしい。そうか。そういうことか。

 この瞬間──牡丹の心に火が付いた。

「私も皆の記憶に残るモノを書いてみたい!」

 社会に出て六年目。遂に牡丹は自分に欠けていたピースを見つけることができた。

 

 そして現在──二十八歳になった牡丹は、結婚もせず叶うかもわからない夢ばかり追い続けて大丈夫なのか。という年相応の問題に直面していた。

「仕事は続けているから将来への不安はないけれども……」

 引き際という言葉が牡丹の脳裏をぎる。いやいやいやいやいやいや、弱気なっちゃ駄目よ! 例え僅かな希望でもそれに賭けるの! 牡丹はかぶりを振り、待機状態で暗くなった画面に映る自分を見つめ、なぜ賞を取れないのか、書籍化の声が掛からないのか、思考をめぐらせた。賞の選考方法や内容については外部に漏れないから確かめようがない。よって神に委ねる他ない。でも、書籍化に関しては考察の余地がある。考えられるのは……出版社の人も読んではいるけれども、完結するまで様子を見ている……かな。ということは完結すれば連絡が来るってこと? そんことある? うーん、わかんない。こういう時は誰かに聞くのが一番早い。牡丹はノートパソコンの電源を落とし、木目調の書斎机に置かれたスマートフォンを手に取り、SNSアプリ『イロッター』を起動させた。すぐにタイムラインが表示され、フォロワーの投稿した文章や写真が映し出された。牡丹は右手の人差し指で画面を下から上にスワイプし、仲の良いフォロワーの投稿にはハートマークを送り、それ以外の投稿は華麗にスルーした。このアプリを使い始めてはや三年。慣れたものである。

 

 暫く『イロッター』を操作していた牡丹は仲の良い物書き仲間に先程の質問をしてみた。が、その答えは皆同じであった。書籍化したことがないのでわからない。まあ、そうだよね。フォロワーさん達も私と同じでプロを目指すアマチュア作家だもんね。でも、そうなると答えを知っているのは超ロマン作家の色男──『無限大のペロペロマン』しかいないのよねえ。 悪い人じゃないんだけど、なぜか毎回食事に誘ってくるのよ。うーん、どうしよう。まあ、聞くだけ聞いてみるか。牡丹は二、三年前にプロになった『無限大のペロペロマン』にダイレクトメールを送る事にした。

《ちょっと聞きたいことがあるんだけど、今大丈夫?》

 文章を書き込み送信ボタンを押す。これでよし! あとは返事が来るのを待つだけ──って私の指めっちゃ赤くなってるじゃん! 何これ!? もしかして霜焼け!? そういえば石油ストーブ点けてなかった! 牡丹はスマートフォンを机上に置き、椅子の座面にクマのキャラクターが描かれた黄色い膝掛けを放り投げ、部屋の入り口付近に置かれた反射型石油ストーブのスイッチを入れた。ピーピーピーという機械音が鳴り、青い炎が揺らめく。それから数十秒後、安定した炎は網目模様の燃焼筒をだいだい色に染め上げ、遠赤外線を放射。ストーブの前にしゃがみ込んで様子を窺っていた牡丹は、顔を綻ばせ、そっと両手をかざし、暖をとった。

 これで大丈夫かな。とはいえ部屋全体が温かくなるまで少し時間が掛かるから、もう一枚上に着よう。牡丹はそそくさと書斎机の反対側に置いてあるベットの方へ向かい、その横にある引き戸を開け、ハンガーパイプに掛けてあった白いモコモコのパーカーを取り出し羽織った。よし、これで大丈夫と。それにしても寒いわね。雪でも降るのかしら。牡丹はその足で東側に面した掃き出し窓へ近付き、白いレースのカーテン開け、遠くにそびえ立つ山々に目をらした。

「山頂付近が白一色に染まってる。雪化粧だ。綺麗。いや、そんなこと言ってる場合じゃない。こっちも降るわね。頑張れ! 石油ストーブ!」

 牡丹はブルブルと震える唇から白く生暖かい息を吐き、唯一の暖房器具にガッツポーズとエールを送った。その後、白いレースのカーテンを閉めた牡丹は、冷えた体を両手でさすりながら椅子に腰掛け、太ももの上に膝掛けをかぶせたのであった。


 室温が上がり眠くなってきた頃、スマートフォンの画面にダイレクトメールの受信通知が表示された。牡丹は色合いの戻った指で『イロッター』を開き内容を確認した。

《ヤッホー牡丹ちゃん元気にしてた。俺は常に元気ビンビンだよ!! それで例の問い合わせの件なんだけれども、結論から言うと、書籍化は連載中だろうが完結済みだろうが関係なく、出版社の人がこの小説すごくね!? と判断した時点で来るもんよ。連絡方法に関しては、例えばSNSのダイレクトメールとか、あとは小説投稿サイトにアカウントを作る時に登録したメールアドレスとか、どっちかじゃね? まあそんなもんよ。俺からは以上なんだけど、実はもう一つ方法があって、実はこっちの方が確実なんだ。牡丹ちゃん、なんだかわかる!? わかるよね!? さあ、答えてごらん!!》

 牡丹は醜悪しゅうあくと性欲のこびり付いた文章を前に、渋面を作り固まってしまった。ああ、これは本格的にヤバイ領域に入ったな。取り敢えずお礼だけは言っておこう。そのあとは──言わずもがな。牡丹は嫌悪感で震える指を動かして返信を打った。

《有益な情報ありがとう。では、ブロックします。さようなら》

 牡丹はすぐに『無限大のペロペロマン』のプロフィールに飛び、清々しい笑顔でブロックをタップした。はあ、やっとこの変態野郎と縁を切る事ができた。めっちゃ晴れ晴れとした気分。よし! この勢いで執筆を再開するぞおおおおおお!!

 牡丹は意気揚々とパソコンを起動し、血の気の戻った指でキーボードを打ち始めた。


 しかし、我々は人間である。故に生き甲斐さえ見つける事ができれば、再び情熱という翼を広げ、夢と希望に満ちた大空へ羽ばたく事ができるはず。ある意味これが人間にとっての独り立ちなのかもしれない。そう考えると私は幸せ者だ。小説という名の生き甲斐に出会えたのだから。

 

                完

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止まり木 月影筆理 @fuderitsukikage

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