魔女の重力、第二感情速度
葉月氷菓
魔女の重力、第二感情速度
「ニュートンは私の飛び降り自殺を見て、万有引力を発見したんだよ」
サトウさんは荒唐無稽な与太話がたいそう好きらしかった。
「生きているようにしか見えないけど……サトウさんは幽霊なの?」
サトウさんは見るからに突っ込み待ちの顔をしていたので、構ってほしいのだろうと思って私は質問した。案の定、彼女は嬉しそうに私の目を見て、にへらと笑みを浮かべて口を開いた。
「別の魔女に永遠に死ねなくなる
「死ねなくなるって、罰になるんだ」
サトウさんは私が仕事帰りの道中で拾った自称魔女だ。冬の冷たい雨の中、傘もささずに危なっかしくふらふらしていたものだから、つい声を掛けてしまった。私の地味な黒髪ボブとは対照的な、ウェーブがかったロングのアッシュブロンドと整った顔立ちは、まあなんとなく魔女っぽいと言えるかもしれない。ただ、チェスターコートにパンツスタイルと、妙に流行りを抑えたファッションがその説得力を半減させていた。
──あたしを愛してくれる人を探しているの。
出会い頭に、彼女はそんな言葉を口にした。そういうことをして生計を立てている人なんだろうと思ったけど深くは追及しなかった。
次に彼女は名乗ったが聞きなれない発音だったので、私はうっかり砂糖? と聞き返してしまった。彼女は「
彼女が「じゃあサトウでいいよ」と言うので、以後サトウさんと呼ばせてもらうことにした。驟雨にじっとりと濡れた彼女をマンションの自室に連れ帰り、シャワーを貸して、今に至る。私はサトウさんより幾分か小柄なので着替えを貸すにも困ったが、フリーサイズのスウェットがどうにかフィットした。下着はどうしたのかは知らない。
「じゃあ飛び降りたのは本当に不死の身体になったのかを試そうとしたの?」
私が質問をするとサトウさんは意外そうに、ぽかんと呆けた表情を返した。
「マリちゃんは人の話をよく聞く子だねえ。この街だと十人くらい家に泊めてくれた人が居たけど、みんな取り合ってくれないか、愛想笑いで流されちゃってさ。まあ信じないよね、こんな話」
もちろん私も半信半疑……いや、良くて三信七疑くらいだ。けれど今、ひっそりとサトウさんの眉が下がって、どこか慈しむような顔をしたのを見て、あっさりと秤は逆に傾き始めた。私は騙されやすい性格なのだ。
「んー、ちょっと違うかな。不死になったのはその百年くらい前で、その頃にはとっくに何度も試してたから。その時はもう
痛ましい話だ。彼女は口ぶりだけでなく表情までそれらしく作るから、反射的に同情してしまう。
辛いことを思い出した所為か、サトウさんは憂鬱そうに溜め息を吐いてそれきり黙ってしまったので、彼女の舌の回りを良くする為に冷凍庫から虎の子の高級カップアイスを二つ取り出し、その内の一つにスプーンを添えて差し出した。いわゆる自分へのご褒美用だが惜しくはない気分だ。
「わあ。ありがとう。魔女はアイスが好きって知ってたの?」
「知らないけど、
私はまだ固いバニラアイスの表面をスプーンで掬い、口に運ぶ。暖房の効いた部屋で食べる冬のアイスもまた格別だ。サトウさんも嬉しそうにアイスをつついている。
アイスがほどよく蕩けてきた頃に、今度は私から話題を切り出した。
「どうすれば呪いが解けるか、もう判っているんですか?」
サトウさんの握るスプーンがアイスにさくりと沈み込む。
「あたしが
私は出会い頭の彼女の言葉を思い出す。サトウさんの言動を繋ぎ合わせると、つまりは永遠の生を捨てるために街を彷徨っているらしい。しかし、同性の私から見ても端麗な容姿と出で立ちの所為で、いまいち説得力がない。愛してくれる人なんて山ほど見つかりそうなのに。幸せそうにアイスを味わうあどけない表情も、魔女という仰々しい肩書きからどんどん遠ざかっている気がする。怪訝な顔の私にサトウさんが説明を付け加える。
「マリちゃんは
引力──例えば家族や恋人という存在が、人が還る場所だとサトウさんや昔の魔女たちは解釈したのだろうか。現代人よりもよほどセンチメンタリズムに過ぎた感性だと思った。それはそれとして気になった点を指摘する。
「四元素ってファンタジー小説とかゲームなんかでよく見るけど……それは後に科学的に否定されているというか、実際の引力の仕組みとは違った訳でしょう? なら呪いそのものが嘘ってことにならない?」
元来のサブカル趣味が高じて細かい指摘をしてしまった。けれど話の矛盾を突いて彼女を困らせたいという意図はなく、純粋に考察を深めたかったからだ。
「そこが魔法の面白いところ」
サトウさんは銀色のスプーンを掲げて、得意顔をこちらに向けた。
「あたしが呪いを掛けられた頃にはアリストテレスの理論こそが真実だと誰もが考えていて、むしろそっちが常識だった。あたしを呪った魔女にとっても同じくね。四元素思想を信じる魔女が、その知識に基づいて魔法式を構築した訳だから、呪いは四元素思想に従って働くの。万有引力や相対性理論を認識している現代の魔女には同じ魔法式はもう書けないだろうねえ」
自身に降りかかった悲劇を他所に、感心したみたいにサトウさんは言う。
「大昔に退職した前任者が書いたコードで何故か動いてる現役のプログラムみたいな……? うわ、それは困ったね」
例として正しいかは分からないけれど、身近なものに翻訳すると理解しやすい。所謂オーパーツというやつだ。
「そうそう。それで、四元素に属さないはずの魔女が高い所から地面に向かって落下したのを見て、ニュートンは元素由来の引力説との齟齬に疑問を抱いた。そこから着想を得たのが、万有引力の法則なんだよ。教科書に載せるにはゴアが過ぎるから、リンゴって暗喩になってるけど」
流石に眉唾な話だけど、私が信じそうなギリギリのラインを上手くつつかれているみたいで、くすぐったい気分だ。屈託のない笑顔もセットで始末が悪い。
仕組みは一応、理解できたので、話題はその解決方法に移行した。
「誰かに頼み込んで婚姻届けを出してもらうとか、養子にしてもらうとか?」
「試したけど、だめでーす」
サトウさんは両手を交差させてバツ印を示した。試したんだ……。
私は少しだけ悩み、咳払いをしてから、その言葉を口にした。
「サトウさん好きです。愛してます」
「そんな上っ面な告白、嬉しくなーい」
サトウさんはぷいと目を逸らした。演技とはいえ無駄に恥ずかしい台詞を吐いた所為で、顔が熱くなる。そうだろうとは思ったけど、物的なものや即席の言葉では駄目らしい。なら魔女にとって愛で満たされるというのは具体的にどういう解釈が正しいのだろう。私は碌に恋愛経験がないので、愛というものを正しく理解できている自信もないが、愛と
「お手上げなら、いっそのこと永遠の人生を謳歌しちゃいません? いろんな時代の食べ物やゲームを楽しんだり。エッセイなんか書いたら大ヒットするかも」
「それもいいけどねー」
へらへらと笑いながら、彼女は続けた。
「どれだけ生きても誰にも愛されないことが認識できちゃうのって、結構しんどくてさ。でも割り切れる程、人を嫌いにもなれなくて。もどかしい」
サトウさんはカップの中心に芯のように残ったストロベリーアイスを、溶けた部分を絡めるようにしてスプーンで掬って口に運んだ。
不死ゆえの辛苦。創作の中では幾度も語られたであろうそれは、私にとっては半信半疑なものだった。けれど今初めて、それは愛という解呪条件との相乗効果で確かに罰としての効力を持つことに得心がいった。孤独な牢獄。闇の中で鍵を探し回るような苦痛に彼女は何百年も耐えてきたのだろうか。
「けど……呪いが解けたらさ、愛してくれたその人と添い遂げるっていうのは、少しロマンチックかも」
フォローのつもりだったが、サトウさんはかぶりを振った。
「んー、それも無理かも。後から分かったんだけど、呪いが解けた瞬間に、あたし
それを知って尚、結末を厭わず呪いを解きたいと言うのだろうか。限られた時間を生きる私にはきっと理解できない心情だった。
「じゃあ、いつかサトウさんを愛する人は可哀そうだね。愛した途端に消えちゃうんだから」
デリカシーのない言い方になってしまった。気まずくて、ちらりと伺いみると、彼女は少し翳りのある表情で「そうかもね」と言った。
その日の夜は、一人用の狭いベッドに並んで寝ることにした。サトウさんは遠慮したが、ミニマルな一人暮らし故に貸し出せる寝具もないため説得して押し切った。
「床でいいのに」
「風邪でもひかれて、うつされたら困りますし。薬だって高いし」
サトウさんは、「あははっ」と声に出して笑った。
「なんで面倒みちゃう前提? 追い出すって発想はないんだ」
言われて、言葉に詰まる。私の対応はどうやら一般的ではないらしい。いろんな人の家を渡り歩いてきたらしいサトウさんが言うなら、そうなのだろうか。世間知らずを露呈したかもしれない。
「マリちゃんって対価とか求めない人? 泊める代わりに、私に何かして欲しいとか思わない?」
「え。でも、お皿洗ってくれたし。面白い話も聞けたし、いいかなって」
「えー……」
夕食の光景を思い返す。私は残り野菜を炒めて乗っけただけの手抜きパスタを振舞った。
いただきます。おいしいおいしい! ごちそうさまー!
サトウさんの笑顔で、いつもは味気ない食卓がなんだか楽しかった。後付けの理由だけれど、それが対価で十分だと思った。
「変わった子。押しかけたあたしが言うのもなんだけど、マリちゃん無防備すぎるよ。あたしが女だからって油断してない?」
サトウさんの表情がきゅっと引き締まり、凄むような顔つきで私の背に腕を回し、抱き寄せた。綺麗な顔がぐっと迫り心拍数が幾分か上がる。私と同じシャンプーを使ったはずなのに、彼女からは魅惑的な香りが漂っている。狼狽して碌に反応を示せずにいると、サトウさんはなんだか気恥ずかしそうに背中を向けた。
「あたしに出来ることなら、なんでも言って頂戴ね」
おやすみ、とサトウさんが言ったので私は照明を消し、目を閉じた。誰かの体温を感じながら寝るのは幼少期以来で、こそばゆい感じがした。
◆
そんなサトウさんの居候生活が何日か続いた。経理事務の仕事をしている間にも、家のことが気になった。彼女がお腹を空かせていないかとか、困っていないかとか。仕事が手につかない程ではないにしても、思考のリソースを数パーセント割かれる所為でキーを叩く手が鈍る。たぶん私は猫とか飼えないな、と自嘲する。帰宅後に、そのことをサトウさんに話すと彼女は「誰がペットだー」と口を尖らせた。でもその後、「いいご主人様に出会えたにゃん」と、おどけた。二人で笑った。私はチョコ、サトウさんはラムレーズンのアイスを食べた。ひとくち交換した。
ある夜はサトウさんにどんな魔法が使えるのかと尋ねてみた。
「あたしみたいな
「関連性がわからないよ……。けど、それなら呪いも一緒に消えたらよかったのにね」
「既に死んだ魔女の認識を更新することはできないからね。永遠に魔法の不成立を証明できないってわけ。だから世界の何処かには未だ魔法による成果物がいくらか遺ってるはずだよ」
サトウさんには気の毒だが、なんだか浪漫のある話だ。
「だったら魔法の媚薬みたいなのが見つかれば、呪いを解くのに役立ったりして?」
「あたしの分野じゃなかったけど、確かにそういうのは存在したよ。魔法で得た愛が呪いを解く条件を満すかは分からないけどね」
条件。家族愛、隣人愛、自己愛……性愛。愛にもいろいろあると思うが、自分が考える愛こそが真実だとサトウさんに押し付けた魔女はなんて傲慢なんだろうかと思う。けど、その魔女はもしかしてサトウさんのことが好きだったんじゃないかと思った。何故そう思ったかは上手く言語化できないけれど。
私が考えを巡らせていると、サトウさんは出し抜けにワインボトルを取り出した。
「じゃーん。いつもお世話になってるお礼だよ。一緒に飲も?」
「えっ。ありがとうございます」
生憎ワイングラスなどという洒落たものは持ち合わせがなく、それっぽいゴブレットを二つ食器棚から取り出す。ボトルの中身を注ぐとグラスは宝石のような赤に染まった。大人っぽい色だ。
互いにグラスを軽く掲げて、私が口を付けようとした時、サトウさんはボトルに指を這わせて言った。
「実はこれ、ワインじゃないんだよね」
珍しく低く神妙な声に、私は手を止めた。
「アンブロシアって言って、神様の血を魔法で再現したものなの。さっき言った、現代に遺ってしまった魔法の成果物のひとつ。これを飲むとね」
サトウさんが私の頬に手を添えて言う。妖しげな表情に背筋がぞくりとする。彼女は伏し目がちに言葉を続けた。
「永遠の命が手に入る。どう? 飲む? ずっと一緒に居てくれる?」
突然、選択を迫られる。永遠の牢獄も、二人で入れば孤独は薄れるのだろうか。寂しげな声が、頬に添えた温かい手が、私を闇に誘う。保留、という賢しく冷静な選択は彼女を傷つけるだろうか。
どう答えるべきか判らない。判ってしまう前に、私はグラスの中身を一気に呷った。熱が喉を通り抜け、腹に落ちていく。身体の芯が私じゃない何かに支配されたみたいに下腹が熱が蠢く。血が沸騰して、世界がぐるぐる回る。
「えっ! 一気に飲んじゃったの⁉ てか、お酒ダメなの? うそうそごめん、お水持ってくるね!」
どたばたとキッチンを駆け回るサトウさんを見ているうちに意識が遠のいていく。後から聞いたがボトルの中身はただのワインだったらしい。私はお酒に弱いのだ。
重力に抗えず床に寝そべって、そのまま私は夢を見た。夢の中でサトウさんは膝枕をしてくれた。
「何日でも何年でも、ずっと居てくれていいからね。迷惑なんて思ってないよ」
意識と無意識の境界を彷徨いながら、そんな言葉が口をついて出た。
サトウさんは照れた顔を誤魔化すように、くすんだ色の髪をくるくると指に巻き付けた。その仕草を眺めていると、夢の中なのに心地のいい眠気を覚える。彼女は私に
◆
週末の仕事の帰り道、スーパーマーケットに立ち寄った。手抜きパスタしか作れない女と思われないように、休日くらいは見栄を張って凝った料理でも振舞ってみようか。サトウさんの笑顔を思い浮かべながら食材を買い物カゴに入れていく。アイスの買い溜めもしておこう。
会計を済ませて店を出る間際、出入り口付近の青果売り場で、真っ赤に熟れたリンゴがふと目に入った。その瞬間、脳裏にサトウさんの万有引力の話がフラッシュバックする。
還る場所がないってどんな気持ちだろう。
魔女も呪いも関係なく、自分が本当に誰かに愛されているかの証明なんてきっと不可能だ。サトウさんを呪った魔女は適当なことを言って彼女を苦しめようとしたんじゃないだろうか。本当は愛されているのに、生ある限り彼女は愛を疑わなければならないのだ。愛を信じては自分を殺め、息を吹き返しては愛が偽りだったと思い知る。スパゲッティコードみたいな忌まわしい呪いはサトウさんの首に絡みついて、嘲るように締めつけ続けているのだ。
私の中で何かが弾けた。それは、哀れな魔女への同情じゃない。理不尽な呪いへの怒りでもない。芽生え始めたひとつの事実への想到。
自覚しないよう必死に押し込めた。抑えきれなくて目に涙が滲んだ。ローヒールのパンプスが固い足音を鳴らす。足が痛むのを押して、バッグを揺らし、駆け足で帰路を急いだ。走るのに不向きな靴はやがて私の足をもつれさせた。往来で派手に転倒し、冷たい地面に突っ伏して年甲斐もなく泣きじゃくった。
──じゃあ、いつかサトウさんを愛する人は可哀そうだね。
かつて自身が吐いた言葉が、刺々しく心を抉った。
「えっ! どしたの、その恰好⁉」
サトウさんはいつもの「おかえり」ではなく、開口一番に驚きの声を上げた。自分の足元を見下ろすと、汚れたスーツのスカートと破れたストッキング、擦りむいた膝が目に入った。きっと涙でメイクもぐちゃぐちゃだ。
「ただいま。サトウさん、お腹すいたでしょ。すぐにご飯作るから待ってて」
声の震えを自覚する。こんな状態で平然を装うのは無理がある。それでも胸中を悟られたくなくて捲し立てた。
「アイスも買ってきたよ。あとで一緒に食べよ。サトウさんラムレーズン好きでしょ」
「マリちゃん。とりあえず着替えて、消毒しよっか」
「明日も、明後日のぶんもあるから。ね、一緒に食べてよ」
「マリちゃん」
二度目の呼びかけは、強く窘めるような声だった。彼女の声が鼓膜を震わせ、存在がハイライトされた。たった数日だけの思い出が走馬灯みたいに頭を巡った。
力が抜け、膝を折った拍子に取り落したショッピングバッグが中身を打ち撒ける。サトウさんは、屈んで私の頭をひと撫でして、バッグから転がり出たカップアイスを拾って言った。
「そっか。とけちゃったんだね」
私の中に生まれた引力は、隠しても隠しようがなかった。
「そっか。ごめんね、マリちゃん。ありがとうね」
感謝も謝罪の言葉も今は欲しくない。私の胸中をサトウさんはきっと知っていて、それでも彼女は重ねて言った。
「ありがとう」
シャワーを浴びて、一緒に夕食をとり、アイスを食べた。ベッドに入り明かりを消す前に、サトウさんは私の頭をまた撫でて、ハグをして、そのあとキスをしてくれた。その後、今度は私の方からハグをした。
「抱きしめたくなるのは、引力が働くからだったんだ」
長年の謎が解けたみたいにすっきりした。
涙で滲んだ視界の中ではサトウさんの輪郭はなんだか曖昧で、今にも消えてしまいそうに儚げに見えた。照明を消し、私は暗闇の中でサトウさんの体に強くしがみついた。彼女が何処にも行ってしまわないように。幼児みたいに浅はかな抵抗だった。
散々泣いて、泣き疲れて、意識はいつの間にか暗闇へと落ちた。
朝、目覚めると、サトウさんは跡形も無く消え去っていた。
なんていうことはなく、すやすやと私の横で寝息を立てていた。
いろいろな感情や言いたいことがふつふつと湧き上がるが、「いろいろ」の中で辛うじて安堵の気持ちが競り勝ち、セロトニンだかオキシトシンだかに満たされた脳の指令に従って二度寝をすることにした。
◆
「お世話になりましたー」
二人で昼前まで眠って、そのあと身支度を整えたサトウさんは、玄関先に立ち元気よく礼を述べた。
「本当に行くの? 居てくれたって構わないんだよ。せめてお昼食べていってよ」
「だーめ。呪いを解かれちゃったら出ていくって、あたしの中の
そうやって今までいったい何人を誑かしてきたのだろうか。他人の影がちらついて、私は不機嫌になる。
「そんな顔しないで。あたしマリちゃんの笑ってる顔が好き。笑顔で見送ってよ」
サトウさんは眉を下げて潤んだ瞳をこちらに向けた。賢い大型犬が不意に見せる甘えた表情みたいで、全部水に流してしまいそうな魔力があった。
「本当に飛び降りたり、死んじゃったりしないよね」
「もう、からかってごめんってば。今までの話、全部嘘うそ。今夜また違う人を探して、適当な嘘を吐いて、泊めてもらいます。マリちゃんに心配される資格なんてない、タダ飯食らいのサイテー女なんだから」
そう卑下するサトウさんを見て確信を得る。私はよほどサトウさんが好きで、いつもまじまじと眺めていた証左かもしれない。
「サトウさん、嘘つく時に目を逸らす癖があるから気を付けた方がいいですよ」
うぇっ⁉ と、サトウさんは素っ頓狂な声を上げて顔を赤くした。少しは仕返しになっただろうか。焦るサトウさんの顔を見て、私はやっと笑えた。
「元気でねサトウさん。変な人に捕まっちゃだめだよ」
「マリちゃんに言われちゃったか。気を付けまーす」
サトウさんは「それじゃあね」と短い別れの言葉を残して、私に背を向けて歩き出した。
僅か時速四キロメートルで、魔女は私の重力を振り切って行ってしまった。迷いのない歩みが少し悔しくて、その背中に向けてべえと
お昼を済ませたら洗濯して、そのあとアイスを食べながら映画でも観よう。それから枕を抱いて、未だ消えぬ魔女の重力に悶える夜を過ごす。
◇以下注釈
※1 肉体の第五元素イミテーションとしての再構築。月下界である大地には決して還ることのできない不変の存在への置換。
※2 正しくは〝Sugaar〟
※3 解呪条件を満たす為の手段は、被呪者が同じく第五元素により構成された世界、即ち天上界(現代においては宇宙に等しい)へと赴き、流動するエーテルの風に乗り遥か巨大な引力を持つ天体=月に到達することだ。愛という文言については※6参照。
※3-2 十六世紀当時には技術としては勿論のこと、いかなる魔法を駆使しても※3の実行は不可能であると、賢明な魔女は気付いただろう。
※4 「アイスクリーム白書2020」(一般社団法人 日本アイスクリーム協会 編)によれば、「あなたは『アイスクリーム』はお好きですか?」の設問について約七九%が「好き」と回答。
※5 四元素説においては四元素に属さない
※6 解呪条件として想定された愛とはエンペドクレスの説く元素の結合作用(ピリアー、あるいはストルゲー)を指し、第五元素構成物に作用する唯一の力でもある。また、後に第五元素は宇宙の膨張を加速する引力あるいは斥力を示す仮想エネルギーとしても解釈された。
※7 呪いと銘された第五元素置換は十六世紀ヨーロッパにおける共通認識に基き構築された。四元素説についての共通認識が更新された二十一世紀において解呪された場合、本来想定された可逆変化先が存在せずエラーを示し存在自体が消滅すると考えられる。
※8 第五元素は自然物の核にも閉じ込められているとされ、生命の根源とも考えられた。旧世代の魔女はこれを摘出し魔法の触媒として用いたが、第五元素不在証明により旧魔法を新たに実行することは不可能となった。
※9 人類が天上界もとい宇宙到達を成し得た二十世紀には、皮肉にも天体は第五元素などではなく鉱物で構成されていると同時に証明された。つまり※3の解呪条件を満たすことは、この瞬間に永遠に達成不能となった。旧世代魔女の歴史は冷戦の陰で人知れず幕を閉じていたのである。
※Ⅹ 「愛してる」を限りなく抽象的に濁した言葉、あるいは行動。
※Ⅺ 神話や魔法が科学に退けられた現代において、開錠の為の鍵は年月を経て歪み、錆びついて二度と鍵穴に嵌ることはない。しかし他者から与えられる愛こそが唯一残された解=仮想第五元素であると信じる他なく、魔女は愛を求めて永遠に街々を彷徨い続ける。只の人間には知る由も無く。
魔女の重力、第二感情速度 葉月氷菓 @deshiLNS
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