短編小説 後ろ安し
阿賀沢 周子
後ろ安し
2012年5月12日 土曜日
午後6時25分
背後で自動ドアの閉まる音がした。早歩きで西へ向かう。ショッピングモールの日よけから出る前に、夕日が木下健一を捉え眩しくて顔をそむけた。そのままちらっと後ろを振り返り、誰も追ってきていないのを確かめる。
バリアフリーの長い通路を過ぎて右へ折れ、桑園発寒通りへ出たところで「フウーッ」と長い吐息をついた。今まで呼吸をしていなかったような解放感があった。縮んだ肺に促されるように深呼吸を数回繰り返す。西空に眼をやる。雲一つない赤黄色の空が呼吸とともに体に染みてくる。
「あの暖かくて深い赤は何という名だろう」
健一は歩く速度を落とさずに思う。肺の隅々に行渡った酸素と、夕空の色が安堵を与えた。買い物に入った時の鬱積した閉塞感、苛々が消えていた。手にした洋品店のビニール袋を振るリズムと歩行が一致して足取りが軽い。緊張のあまり、ピクピク引きつっていた下瞼の痙攣も治まり、鼻筋の通った細面の顔が柔和になった。空いた右手でふさふさの髪をかき上げるいつもの仕草が戻った。
モールの西側にある発寒西公園の芝生には、散り始めたサクラの花弁がうっすら積もっている。JR発寒駅への信号を渡り、駅前ロータリーから駅舎や線路向こうへ渡る連絡通路を目指した。乗り捨てられて横倒しになった黒い自転車を跨いで、連絡橋の階段を上る。階上の駅舎内は、週末を楽しもうとする若者や仕事帰りの人々で混雑していた。駅舎の窓からモールの方角を窺うが、異常事態を示す兆候はないようだ。
健一は札幌市中央区のA建設会社の、資材部に勤めている。妻の好恵が、営業部の谷田が昇進したことを社内報で知った4月初め頃から、健一への態度が微妙に変わった。
頑なというか、なんとなく冷たくなった気がする。健一は、最初のうちは同期に入社した谷田の昇進にまつわる女の嫉妬だろうと受け止めていた。好恵には何かとそういう傾向があったからだ。務めて冷静に谷田の能力を褒めて見せたが、好恵の態度はひと月たっても変わらなかった。
勤めを終えて帰宅しても、以前のように夕食を一緒に摂りながら、その日のよもやま話をすることがなくなった。夕食の間中話が途切れなかったほどのおしゃべりが、だ。最近の好恵は夕食を先に済ませ、居間のテレビの前に座ったままで動かない。テーブルに食べ物は用意されていたが、汁の一つも温めてくれない。冷めた夕飯を一人で食べることが続いていた。
2、3日前だ。5月に入って暖かい日が続いたので、ダイニングテーブルで夕食を取りながら、テレビの前の好恵に、そろそろ薄手のシャツを出してくれと頼んだ。
「古い下着は全部ウエスにしました。サイズも合わなくなってきているし、新しいのを買ってきて」という。
これまで肌身に着けるものは好恵任せで、結婚して24年、下着類は買ったことがない。反論しようとしたが「自立して、そろそろ」と先に言われて、返す言葉がなくなった。サイズが合わないって、腹が少し出てきただけじゃないかと、こっそり手で撫で摩る。自分で出した缶ビールの味がいつもより苦かった。
4月末に職場の同期が谷田の昇進祝いで集まった時、10人いる同期の7割が、自分より上の役職にいるのに今更のように気づき、何気に回りと話すのがせつなかったのを思い出す。それを考えれば、好恵の立腹は自分のふがいなさのせいか。
会社の中で自分は人の上に立ちたいと考えたことはない。係長、課長と出世していく同期の仕事ぶりを、感心することはあっても羨ましくは思わなかった。仕事にまつわる様々なトラブルを乗り越えていくのは煩わしいし、うまく対処できるとも思えない。まじめに、与えられた仕事をきっちりやるのが、唯一の取り柄だと自覚していた。
50近くなった今でも、人前でしゃべるのは苦手なままだし、競争とか切磋琢磨とか、最近流行りの自己啓発という言葉も一歩退くところがあった。目立つのは嫌いだった。酒を酌み交わす友人と言えば、高校時代に所属していた美術クラブの仲間数人しかいない。妻と2人、そこそこの収入で穏やかに暮らせればよかった。
会話のきっかけにでもなればと、ビール缶を握ったまま、どこへ行ってどんなものを買えばよいのかしつこく問うと、テレビを見ながら振り返りもせず面倒くさそうな返事があった。
「モールへ行けばなんでもあるわよ」
「何を選んでよいかわからない」
「自分で着る物でしょ。行けば買えます。サイズは多分Lよ」
「多分って・・・。今までMだったじゃないか。そうそうサイズなんて変わらないだろ」
好恵は振り向きざま健一の腹を顎で指し示し、再びテレビに向き直った。
『その仕草はないだろ』直接好恵にそう返せない自分が情けない。
下着を全部ウエス……にした、という意味もよくわからない。ウエスといえば、エンジンをいじるときに使ううやつ。ぼろ布だ。どういうことか理由を知りたかったが、予想外の返事は聞きたくないと、糾せない自分がいた。
子どもはいないがそれなりに仲良くやってきたと思っていた。喧嘩をしてもこんなに長い間不仲でいたことはない。中年女特有の時期なのか、体調でも悪いのか。だとしたら好恵の性格だ、倍に強調して言ってくるはずだ。やはり谷田が原因か。昔、谷田と好恵に何かあったのか、考えはじめるとそこへ行きつく。下着のことから谷田のことに思いが移る。缶ビールはぬるく気が抜けて、さらに味がまずくなっていた。
好恵は健一たちの1年前に入社していた。総務部で、小柄で笑うと両えくぼが引っ込むかわいい女性だった。艶々の黒髪を肩のところで揃えてカットしているのが、ミカンの房のような形の二重瞼によく似合っていた。
新採用者は、各部署を3か月ごとに研修で廻った。仕事に慣れ同期がばらばらの部署に配属になったころには、気持ちにゆとりが出て誰某の職場恋愛や、同棲や不倫といったことも耳に入るようになった。健一は初めから好恵しか目に入らず会食などで同席しただけで喜んでいた。社内で会話する機会があると、一日中口元が緩くなった。だからと言って強くアタックするということができるほど器用ではないし、思い起こしもしなかった。
入社から3年ばかり経った6月中旬、中央区の空港会社経営のホテルで同僚の結婚披露宴があった。近くのワインバーでの二次会がお開きになって、三次会へ向かう集団と、地下鉄駅へ向かう何人かと、三々五々分かれたとき、好恵と自分だけがJR札幌駅へ向かうことになった。二人きりになったことが、内心嬉しくて仕方がない。話しかけようとするが言葉が見つからず、まっすぐ駅へ向かって並んで歩いていた。
街路樹のイルミネーションがまたたく、札幌駅前通りを歩いていると、好恵が「喉が渇いた」という。終電までまだ間があった二人は、札幌駅の地下のカフェへ入った。
唯一空いていた隅の席に、向かい合わせで座った。不愛想で化粧の濃い女店員に恐る恐る注文をして、二人は目を合わせ苦笑した。好恵は話し上手だ。花嫁のブーケトスを受け取れたのは5年先輩で、前回の同僚の披露宴の時にもキャッチした人だと説明する。受け取っても結婚に行きつかない先輩の話をしているうちに、話題がふくらみ、共通点がいくつかあるのがわかってさらに打ち解けた。
テーブルの上に一輪の珊瑚色のバラが活けられている。ガラス花器の水がウォールライトを反射し、好恵の頬をほんのり照らして美しかった。好恵にはいい人がいるという噂があった。が、別れたらしいと言う噂も耳にしたことがある。この時の健一は目の前に好恵が座っているだけで満悦だ。噂の存在は念頭から消えていた。これは千載一遇のラッキーチャンスかも、と健一の心が囁いた。今まで想像したこともない場面だ。途中から好恵の話は耳に入っていなかった。動悸で胃が迫り上がりそうだったが、好恵の笑顔と少しの酔いに勢いを借りて痞えながらやっと話せた。
「もし、よかったら、僕と付き合ってください」
唐突に真剣な口調になり、真っ直ぐなまなざしを向けた健一に好恵は戸惑ったようだ。返事まで間が空いた。健一は内心『やはり駄目だな。調子に乗り過ぎたか』と好恵の返事を待たずうつむいて両手を揉んでいた。終電の時間が近いかもしれないと腕時計を見ようとしたとき、思い掛けない返答が頭に振ってきた。
「私でよかったら」
健一は一瞬『本当にいいのか』と問い質したくなったが、唾と共に言葉を飲み込んで「ありがとう」と応えた。
「こちらこそよろしく」
好恵は二重の目を細め、同僚と並んでブーケトスを取ろうとしたが、二人とも大先輩にしてやられ悔しかったという。受けそこなったその同僚は、秋に結婚退職するのが決まっているという話もしていた。
自分に自信を持てた一番いい頃だった。カフェでの場面は、健一の頭の中で繰りかえし再生されたものだ。どちらかと言えば様々な意味で不器用な健一よりも、一つ歳上の好恵がリードを取った。デートで行く場所を決めるのは好恵で、金を払うのは健一だ。付き合いは順調でいつの間にか社内に知れ渡り、内向的な性質が変わることはなかったが、健一の自信は仕事ぶりにも良い影響を及ぼした
反面、交際が進むにつれ、本当にこのままうまくいくのかと疑っている自分がいた。どこかで梯子を外されるのではないかという根拠のない懸念が心の奥底にあった。もっと自分に自信を持てと叱咤するが、好恵を愛しいと思う気持ちの強さに比例して、不安は確かな存在となって潜伏していった。
付き合い始めて半年が経ちクリスマスが近づくと好恵の方から結婚を仄めかすようになった。自分を信じるしかない、何より好恵がその気なのだ、と不安を押しやり覚悟を固めた。
健一はクリスマスイブに札幌資料館裏のフレンチレストランを予約した。古い洋館の三階にある評判の高いレストランだ。一階はケーキ屋、二階には深煎りコーヒー専門のカフェが入っている。場所決めたのは好恵だが二人とも行くのは初めてだった。
人気のあるレストランで、クリスマスとなれば予約を取るのは大変だった。健一が11月半ばに電話を入れたときはすでに満席になっていた。キャンセル待ちが可能というので連絡先を伝えておいたが、待ちが一番最初だったのもあり、12月に入ると席が空いたと連絡が来た。自分の運の良さを暗示する出来事の一つだと一人でにんまりした。
小雪が舞う日だった。エレベーターで三階へ上がる。扉が開くとスタッフの声に出迎えられた。エントランスの真ん中には、クリスマスカラーの花々が大きな花瓶いっぱいに活けられていた。花の香りに包まれてコートを預けると窓辺の席に案内された。大きな窓が並んでイルミネーションで飾られた歩道の街路樹に粉雪が舞い、降りしきるのが見渡せた。
ディナーは申し分なく美味しく、サービスも行き届いていた。カップルの客で満席だったが、適度に離れていて話し声は騒がしくはない。BGMはオーケストラのクリスマスミュージックだった。
赤ワインの酔いが二人を包み、コーヒーが出てきたところで健一はポケットから小さな箱を出した。好恵は頬を真っ赤に染め嬉しそうに健一を見ている。やはり痞えたがプロポーズの言葉は「一緒に幸せになろう」だった。好恵は頷いて指輪をはめた。心の底に沈殿していた不安という澱が消えた瞬間だった。
しかし、最近の好恵の有様は。健一は好恵の後頭部に目をやりながら自問自答している。谷田と何かあったのか。そんな噂があったような記憶もあるが、当時は自分が選ばれたと自惚れ、些末なことに拘るのは男らしくないと意に介さなかった。男ぶりも自分の方が勝っている。こうなってみると、昇進を手にした谷田を選ばなかったのを悔やんでいるということか。自分は好恵にぞんざいに扱われるようなことを何かしでかしたか。身に覚えはない。一緒にずっとうまくやってきたじゃないか。胃がキリキリと病む。冷えた鮭をつつくが箸を置いた。ビールは喉を通らなくなった。
北三条通り公園沿いの12丁目にある自宅のサンライズマンションから歩いて10分くらいのところに、好恵が良く使うショッピングモールがあった。健一にとっては慣れない買い物だ。もたもたするのがわかっており、知り合いに会うのが嫌で、仕事の帰りに隣の西区までJRで移動した。発寒駅近くの同系列の大きなモールへ行った。
二階の西端で、名前の知っている洋品店を見つけて入った。男物の下着の棚を探すのにうろうろした。夕方だというのに小さな子供が店内を駆け回って騒いでいたが、注意する者は傍にいない。健一は子どもの声に慣れていないからなおのこと五月蠅い。ここは保育園か、と文句を言おうと店員を探すが見あたらない。暴力的な性格ではないが、子供の首根っこを掴まえて放り投げることを想像するほど苛ついた。
棚がわかっても今度は様々な色合いがあり型も種類が豊富で、かえって選ぶのに手間取った。薄手か、ボートネックか、色物か、結局今までの白い下着に近そうなものを数枚買い物カゴに突っ込んでレジに並んだ。週末だからか、セールだからか随分と並んでいた。
店内のざわめきと暑苦しさ。好恵と谷田の関係をあれこれ想像したための連夜の不眠。胃痛と食欲不振。やっと順番が近づいたが、前の年寄りが小銭を出すのに手間取っている。まるで財布から一枚一枚小銭を取り出しているかのようだ。健一は腋の下と掌に脂汗をかいていた。眼の奥の神経がビンと張り詰め、こめかみは脈打ち、下瞼がぴくつくのを自覚していた。
やっと自分の番が来て、カゴをカウンターに預けた。
「こちら、Mサイズですが大丈夫でしたでしようか」
下着をより分けていたレジの女の一言に、自分の腹を指さされているような屈辱を味わう。
「ありがとうございました」
屈託のない若い女の笑顔に向かって小さな声で言った。
「爆発物を仕掛けた」
振り向きもせず、ビニール袋をもって洋品店を後にした。
健一は車窓から、赤黄色から茜色に変わる夕焼けを振り返り、胸の痞えが消え去っているのを自覚した。むしろ少し興奮しているのか、鼻歌が出てきそうな浮揚感があった。
桑園駅で降りた。自宅へ戻る途中、駅の前にあるショッピングモールに入り先刻と同じ名の洋品店でスニーカーソックスを3足買い足した。今度は愚図愚図しないで済んだ。
店を出る頃には高揚感が治まっていた。元の気弱が出たのか、今度は後ろが気になってしようがない。ビクビクしているのとは違う。罪悪感はないといってよかった。誰かを傷つけたわけでもないし、ただの一言がこんなにも開放感を与えたことに驚いていた。ただ、後ろが気になる。桑園発寒通りを1kmほど歩いて自宅に着いた。マンションのエントランスに入る直前に、レシートをゴミ箱に捨てる時も後ろを確認した。
好恵が、洋品店の袋を覗いた。「買ってきたんだ」と期待に反したかのように言う。『買ってこいと言ったじゃないか、いまさら何を言っている』反射的に思ったが口には出さなかった。『ま、いいか』とすぐに切り替えられたからだ。これは進歩だ。
新しい下着の袋をもってバスルームへ向かった。シャワーを浴びて新しい下着をつけると、生き返った気分になった。
鼻歌まじりで食卓の冷めたハンバーグを、電子レンジで温めた。缶ビールを開け、おかずをつまみに夕刊を読み始めた。北電が、例年より暑い夏を迎える可能性があり、泊原発の停止の影響で、節電が必要になると書いていた。居間のソファでアイホンをいじっていた好恵が、珍しく話しかけてきた。
「発寒のショップングモールで、避難騒ぎがあったの知っている?」
「避難って?」
「爆弾騒ぎみたいよ。ツイッターで見たの。まだ騒いでいるみたい」
「へぇ。なんだろね」
我ながらうまい返事だと思う。落ち着いた受け答えに大変満足したし、好恵との普通の会話が嬉しかった。
その夜は、谷田のことも爆弾のことも考えず久しぶりに熟睡した。
2012年5月13日 日曜日
午前7時
「 △△札幌発寒店 爆破予告
3,000人避難
5月12日午後6時30分頃50代の男性が、衣料品店の女性店員に「爆発物を仕掛けた」と話して去る。
目撃情報
中肉の男性、身長175㎝、紺色のウインドゥブレーカー着用、黒色のキャップ、
午後8時30分、店内放送で客に避難を
呼びかけた。
3,100人避難 大混乱 」
朝刊の札幌版の下の方に、小さく記事が載っていた。
健一は、自分で淹れたコーヒーを飲みながら、新聞記事に目を通した。地元紙だが、記事は小さく目を引かない。紺色のウインドゥブレーカー? 紺色のジャケットを着て行った。キャップは被っていない。中肉と身長は当たっている。メディアの情報ってこんなものなのか、目撃者は思い込んだことを話しているだけなのかと、拍子抜けしたが安心感の方が勝った。避難開始の時間には、自分はシャワーを浴びていた。対応が遅いのもラッキーだ。
自分は捕まらないという確信が強くなる。何故か心が咎めるということはなかった。あるのは動機だけだ。あったというべきか。もう、あの苛ついた衝動はあの場で消え失せていた。日曜日はいつも、好恵が朝起きしないので、トーストを作ってコーヒーで飲み込んだ。テレビのニュースを見る気にはなれず、休日恒例の散歩へ出た。
北三条通り公園12丁目の南側にあるスーパー銭湯の脇を、南へ下って大通公園へ出た。大通り13丁目に、新緑の木立に囲まれた石造りの札幌資料館が見える。札幌軟石の建築物は少なくなり今は国の重要文化財になっていた。クラシックな造形の玄関口の右側に綻び始めたヤエザクラが枝を広げている。見通せないが、裏には好恵にプロポーズをしたフレンチレストランが入る洋館がある。婚約時代にも何度か行き、良い思い出ばかりがある場所だ。
健一のお気に入りは12丁目はバラ園だ。ここはあと数週間もすると緑が濃くなり、様々な種類のバラが咲き始めて、札幌で一番美しい季節を迎える。
健一は色にはうるさい。自分の身に着けるものも、好恵の服装の色合いも、新居のカーテンなどの布ものも色だけは健一が決めた。一緒に買い物に行くと、好恵はそこは健一に譲った。選ぶ色合いがなかなかのセンスだったからだ。毎日のように目に入る物の色合いは特に大事だと思っている。精神の安定に大きな役割を果たすというのが、健一の信条だった。
あの時魅かれた夕空の色を、自分の色彩辞典で調べた。似ているのに黄丹(おうに)という色があったが、何となくうす暈けた感じがする。鮮やかさという点では柿色だったろうと見当をつけた。ただの赤ではない柔らかさが心に沁みたのだ。
日曜日の朝の大通公園は、健一が一番使う散歩コースだ。人も車も少ない。排気ガスの臭いがしない清々しい大気を浴び、前と違う自分を感じていた。かつてほとんど抱いたことのない自尊心。いや、そんな大げさなものではない、ささやかな自己満足を味わっていた。しかし、つい後ろを振りむいてしまう。何を探すわけでもないのに、後ろを気にする自分も存在した。
いつもの2、3キロの散歩コースは、大通公園の8丁目から北上するあたりが中盤だ。北大植物園に沿って歩くと、小鳥の囀りが心地よく聞こえた。植物園は400メートル4方のほぼ四角形で、天然の森が保存されている。外周を二辺歩き石山通りに出ると、北三条通り公園の入り口が見えてくる。健一は散歩中何度繰り返したかわからない動作をつい、またやる。後ろを振り返る。
2012年5月15日 火曜日
午後6時30分
健一が、北三条通り公園の遊歩道を家に向かって歩いていると、サンライズマンションのエントランス前に人だかりがしている。遊歩道のブナの木陰で立ち止まって様子を見ると、近所の主婦たちが集まり、笑いさざめく中心に好恵がいた。何が楽しいのか、好恵が何か言うたびに甲高い笑い声が立つ。
「好恵さんの教育がいいのよ。家の人なら絶対自分で行かないわ。何のために主婦しているんだとか言われちゃう」
誰かが言うと、また笑い声。
好恵のえくぼを久しぶりに見た。家の中で見せなくなった笑顔がそこにあった。近所の知人とは普通に話すのか、笑うのか、夫の悪口を聞かせているのかと思うが腹立たしさは湧きあがらない。この2日、気持ちは落ち着いていた。好恵の不機嫌が気にならなくなった。自分のことを自分がするのは、案外気分が良いということがわかってきたのもある。木の陰から少し出ると、一人の主婦と目が合った。
「ご主人よ」
立ちっている健一を見て、さすがに好恵は戸惑いを見せたが、近所の手前なのか「おかえりなさい、あなた」と作った笑顔を向ける。
「さっきまで、集会室で集まっていたのよ。お祭りの出店準備の話し合いで」
周りの者に「ではまたね」と頭を下げ、健一の腕を取ってエントランスに入った。健一はいつも通り401号室の郵便受けから夕刊を出す。まだ人目を気にしているのか、陰口を言った疾しさでもあるのか、好恵は健一の腕を離さない。そのまま二人でエレベーターに乗ると、やっと手をほどいたが離れなかった。
四階に着き健一がロックを解除しドアを引くと、風圧がカレー料理の香辛料の香りを運んできた。
「集会があったから、カレーを作っておいたの。いつものバターチキンよ」
カレーは好恵の得意料理だった。東銀座のカレー専門店「□□レストラン」のオーナーが出しているインド料理の本を買ってきて、スパイスから取り揃えて手作りする。少なくとも月1回はカレーだったが、この2、3か月食べていなかった。
スーツを脱いで、熱いシャワーを浴びながら、好恵の態度の様変わり、いや治りがなぜなのかと考えていた。手の込んだカレーをわざわざ作ったということは、不満を解消する何かがあったのかも知れない。
パジャマになり、缶ビールをもってダイニングテーブルに着くと、二人分のカレーライスが用意されていた。随分久しぶりに、二人で温かい夕食を食べることになる。
「下着が少し足りないから、今日買い足しておいたわ」
健一は思わず好恵の顔を見つめた。久々に正視した。カレーもそうだがこの変化は嬉しい。きっかけが何かはわからないが、腕を組んだのも下着を買い足したのも、完全に機嫌が直ったということだろうか。
「なかなかうまい」
料理を精一杯褒めたつもりだが、相変わらず言葉ではうまく気持ちを伝えられなかった。健一は、食後そのままテーブルで夕刊を広げた。口元が緩んでいる。
「 悪質ないたずら
5月14日 月曜日
午後2時45分。
中央区北四条西2丁目××百貨店に『地下食品売り場に爆弾を置いた』
50から60代の男から電話があった。
札幌中央署は威力業務妨害の容疑で捜査。
12日の△△札幌発寒店の事件との関連を調べている。
4,200人が避難 」
関連? 何もない。誰かがマネをしたんだ。とんでもない話だ。調べているって単独犯だ、こっちは。健一の頭はあの時のことと、紙上の情報とを目まぐるしく行き来し、唇が歪んでいく。ふと顔を上げると、好恵が目を見開いてシンクの前からこちらを見ているのに気が付いた。
「どうした?」
「独り言いっているから。何がマネなの」
狼狽えて返事ができない。好恵は浅葱色のワンピースを着ていた。それでもその色の美しさに目が行く。かなり前に、健一が何かの記念日に買ってやったものだ。その色は自分も好きだったが、好恵も好きだというのは、初めて二人になった札幌駅の地下のカフェで知ったことだった。胸の下の方に、カレー色の点が付いているのを見つけた。
「カレーついているぞ。どうしてその服を着ているんだ。カレーのシミは取れないのに」
「えーっ。いやだぁ。集会だから着たのよ」
どうしようと言いながら寝室へ引っ込んだ。まもなくバスルームへ移り、水を流す音がした。
「カレーのシミは絶対取れないぞ」
好恵を責めているわけでも、追い打ちをかけて言ったわけでもない。ましてや古いワンピースが惜しくて言うのではない。ただただ、自分の混乱が鎮まるまで離れていて欲しかった。
記事は隅に小さく載っているだけだ。新聞は毎日隈無く見ているが、発寒の件はあれ以来掲載されることはなかった。泥沼から這い出ることができたのは、あの一件のお陰だと自覚している。健一の頭の中は混乱を分析し続ける。マネする奴がいるとは思わなかった。そいつの目的はなんだ。何かを発散したのか。ただのいたずらなのか。誰が見ても同じ人間の仕業と思うのではないか。両方やったと思われたら心外だ。
好恵がバスルームから出てくるころには、気分が落ち着いていた。好恵が機嫌を直したのは、健一が谷田と好恵という妄想から解放されて、自分を取り戻したというのもあるだろう。あれは貴重な出来事だったのだ。
「シミが目立たなくなったからよかったわ。どっちにしても普段着にしようと思っていたし。ところでその記事のことだけど、模倣犯かしら」
いつの間に新聞を読んだのかと思ったのが顔に出たのだろう。
「午後のテレビでやっていたのよ。あの日あなたが行ったのは桑園のモールよね」
「なんでそんなことを聞くんだ」
内心の動揺を隠そうと好恵の顔を殊更に見つめた。
「ジャケットのポケットに桑園のレシートがあったけど、ソックスのしかなかったから」
「ああ、それは後で買い足したものだ。下着の袋に入ってなかったか」
平然として嘘をついている自分に驚いていた。嘘吐きは泥棒の始まり、という定番の諺が頭に浮かぶ。あの時点まで嘘を付けないほど引っ込み思案だった。
「ないなら落としたんだろ」
好恵の顔つきは意味ありげのようだが、健一の考えすぎか。こちらを長く見過ぎていないか、訝しんでいるともとれるほど。
「なんだ」
「何でもない」
以前だったら険悪になっても不思議ではないやり取りがここで終わった。好恵が台所の片付けに戻ったのだ。
『一体何が言いたい』
××百貨店の記事の影響か、好恵の態度のせいか、健一の腹の奥底にある感覚が生まれた。かつて、好恵と交際中に健一の心の奥底にあった疑念と似たもの。プロポーズが受け入れられたときに霧散したが、熾火が残っていたのか、ちりちりと温度を上げはじめた。
2012年5月21日 月曜日
午前7時
寝室の窓から公園を見渡すと、31年ぶりの金環日食を観察するために、子供たちが公園のあちこちに陣を取っていた。今しも真っ盛りで、木漏れ日が、日食の形の夥しい影を地面に映している。電信柱にも影を落としている。子供たちのはしゃぎ具合を見ていると、閉じた窓から歓声が聞こえるようだった。
先刻読んだ朝刊には何も書いていなかった。あれ以来どちらの事件も全く新聞には載っていない。ネクタイを締めながら公園を見渡す。何もないようだ。これからも何もないだろう。すっかり癖になった仕草で後ろを振り向く。好恵が台所で洗い物をしているのがドアの隙間から見えた。家にいるときは、好恵の様子を確かめるためにドアを締め切らなくなった。近頃、ますます意味ありげな表情で自分を見ているような気がしている。
短編小説 後ろ安し 阿賀沢 周子 @asoh
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