第5話 サウナの客

 サウナであったりカプセルホテルは、駅前にあるわけではなく、少し離れたところにある。主要駅から歩いて、5~10分くらいのところに、実際には3軒ほどあり、ちょうどその奥には、昼間はアーケードを設けた商店街があり、その少し外れたところが、飲み屋街であったり、風俗街などがあり、

「一大歓楽街」

 というものができていた。

 駅前は再開発が進んでいるが、このあたりは、まだまだ一気に開発というところまで至っていない。飲み屋あたりは、雑居ビルになっていて、ワンフロアに3軒くらいの飲み屋が乱立しているようなところが多く。地上5階。地下1階というビルが平均ではないだろうか?

 昔は、週末ともなると、午前0時を過ぎても、まだまだ歓楽街のネオンは消えることはなく、人の出入りも激しかった。

 もっとも、性風俗地帯は、風営法において、

「深夜時間帯の営業は禁止」

 ということになっている。

 性風俗における風営法での、

「深夜時間帯」

 という括りは、

「午前0時から6時まで」

 ということになっているのだ。

 実際の効力を持つのは、風営法ではなく、都道府県の条例である。特殊浴場などの縛りは、県庁所在地によってまちまちで、特に店を出せる範囲は固定されていることが多い。県によっては、

「特殊浴場を県内に建設してはいけない」

 ということになっているので、法律が変わらない限りは、建設はありえない。

 しかも、特殊浴場は、

「新規参入を許さない」

 という決め事が風営法で決められているので。店舗の大規模改修も許されないのだ。

 条例というのは、

「風営法を厳守したうえで、都道府県の都合で制定することができるものであり、その効力は、条例に依存する」

 というようなことになっている。

 つまりは、風営法が基礎となって、条例を定めるというのが、性風俗業と取り締まる法なのであった。

 カプセルホテルは、その日、そこまで人がいっぱいではなかった。半分くらいの客がいるくらいではないかと思われたが、お腹が減ったので、食堂のある階で、うどんを食べようと思ったのだ。

 店内はガウンでの移動で、ロッカーのキーがそのまま会計にも直結していて、財布を持ち歩かなくてもいい仕掛けになっていたのだ。

 一応、ビジネスホテルは予約を入れていて、まずは、腹ごしらえだった。深夜開いている店もあるにはあったが、なぜ、サウナを選んだのかというと、

「食事と一緒に、大きな風呂に入れる」

 からだった。

 食事ができる店もあるにはあるが、最近は、また夜の街の人が増えてきて、特に飲んだ後の、

「締めのラーメン」

 ということで、店が満員ということもありえるだろう。

 それに比べて、サウナの食事は、そうでもない。ゆっくり食事をした後で、大きな風呂に入って、すぐ近くのビジネスホテルに泊まる。

 金銭的には結構なものだが、たまにこういう贅沢も悪くはないだろう。最近、ずっと巣籠状態だったので、久しぶりにはいいと思っての贅沢だった。

 食事を終えて、いよいよ、風呂に入ろうと、最上階まで行った。

 普段の昼間は、日が差してくるので、日光浴もできて気持ちがいいのだろうが、深夜にそれは望めないが、それでも、ビジネスホテルのユニットバスに比べれば、どれだけいいといえるだろうか?

 ビジネスホテルも、最初は嫌いではなかった。出張などで泊まるのも、悪くなく、

「どうせ、夕食は表で食べるのだから、寝るだけだ」

 ということだったので、サウナを今日使ったというのも、ある意味、夕食だけで、数千円を使うことを思えば、サウナと食事で、あまり変わらないのであれば、悪くはないというものだ。

 何と言っても、ビジネスホテルは、狭い。本当に、

「寝るだけ」

 といってもいいだろう。

 大谷は、仕事で本当に遅くなった時など、たまに家に帰らない時があるが、そんな時は、ビジネスホテルよりも、ラブホを使う時の方が多かった。

 何と言っても、広い。少々高い部屋にはなるが、ベッドと風呂の広さは、最高であった。

 こちらも、

「どうせ寝るだけ」

 それなら、風呂もベッドもストレスが溜まるビジネスホテルに比べれば、どれだけいいというものか、この日、

「じゃあ、なぜラブホに泊まらなかったのか?」

 というと、すでに満室だったのだ。

 ラブホのデメリットは、

「予約ができない」

 ということだ。

 最近では、前の日くらいから、予約ができるところもあるらしいが、このあたりの都心部では、まだそこまではなかった。駅前のこのあたりには、1,2軒しか、ラブホはないので、それも仕方のないことなのかも知れない。

 しょうがないので、

「サウナからのビジネスホテルコース」

 となったわけだった。

 サウナに入ると、ちょうど、一人の客が入っていた。その人は、初老くらいの人で、身体を洗っているところだった。風呂に入っている客はその人だけで、広々とした風呂に二人は贅沢に思えたが、会話がないと、どうにも息苦しさもあるようで、緊張もするのだった。

 大谷は、年齢的にもまだ、若いので、初老の人とは、下手をすれば、父親といってもいいくらいの年齢。会社であれば、

「雲の上の人」

 というくらいに、まったく意識もしないくらいの人であろう。

 そもそも、父親とは、ずっと疎遠だったので、年上の、しかも、年配の男性に対しては、昔からコンプレックスを抱いていた。

 だからと言って、母親くらいの年齢の人がいいというわけでもない。却って、母親を意識してしまい、しかも、怪しい行動が不倫だったと思い込んでしまっていたので、

「俺はただ、不倫に利用されていただけなんだ」

 と思うと、父親に対してよりも、憎しみという意味では、深いものがあった。

 だから、大谷は、大学を卒業すると、家から通えないところの会社ばかり受けて、早く一人暮らしがしたかった。

 ただ、就職した会社は、地元の会社だったので、それでも、

「親元から通うのは、まっぴらだ」

 ということで、結局、会社から地下鉄で2駅のところに住むことにした。

「それくらいなら、歩いて帰れるじゃないか。それにタクシーを使っても、値段的には絶対的に安いじゃないあ」

 と言われるだろうが、たまに、家に帰りたくないということもあった。

 ちょうど、今日が、そういう感覚の日だったのだ。

「あれだけ、一人暮らしがしたいと思っていたのに」

 と思ったのだが、しょせんは、

「一人暮らしがしたい」

 というわけではなく、

「親と一緒に住むのが嫌だった」

 というだけのことだった。

 確かに親と一緒に住みたくないという意識は、昔からあった。

 一番強かったのは、大学生の頃で、ただ、あの頃は、

「彼女ができた時を思うと」

 ということであった。

「部屋に連れ込みたいな」

 という思いが強かったのだが、幸か不幸か、彼女ができたとしても、そこまでの仲になることはなかった。

 ほとんどが、

「やっぱり、あなたとは、お付き合いできないわ」

 といって、去っていくことが多かった。

 要するに、最初はいいのだが、途中から、嫌われてしまうのだろう。それも、いつも同じところのどこかで嫌われてしまうようで、

「彼女たちの中で、何が気に食わないというのか?」

 ということが分からなかった。

「分からないというところが問題なんだろうな」

 と思うと、この感情は、

「まるで、マトリョシカ人号のようだ」

 と感じていた。

 人形が開くようになっていて、

「中を開けると、そこには人形が入っていて、その人形を開けると、そこにはまた人形が……」

 というのが、

「マトリョシカ人形」

 というものである。

 ロシアの民芸品ということだが、一説には。

「元々、日本の人形だった」

 という話もあった。

 日本では、江戸時代など、からくり人形であったり、結構、学問的なことでは先進国だったと言われるくらいに、算術などを考える頭の良さもあったようで、

「時代が古ければ、今よりも原始的だ」

 という固定観念が間違っていると、思わされるにふさわしい時代だったのだ。

 そういう意味では、

「日本が元祖だ」

 と言われても、まったく違和感がないといってもいいだろう。

 日本の人形において、からくり人形の技術もすごかったようで、人形浄瑠璃であったり、文楽などの伝統芸能が発達したのもうなずけるというものだ。

 だから、マトリョシカというのは珍しいとは思うが、日本人にとっては、

「どこか懐かしい」

 と感じる人が多いようで、それも無理もないことなのに違いないのだった。

 マトリョシカ人形のカラクリを、いつも考えていたような気がした。

 しかも、それが失恋した時に多かったように思うのは、一つは。

「失恋の理由を、ハッキリと分かっていない自分が、まるで、マトリョシカ人形のように、理屈が堂々巡りしているということを考えてしまうからではないか?」

 と感じるからだった。

 それだけ、失恋の回数も多かったということで、これは逆に言えば、大谷自身が、

「すぐに人を好きになる」

 という性格だったからなのかも知れない。

「片方の指では足りないくらいの失恋」

 を経験しているということは、

「同じ数だけの恋愛」

 も経験しているということなので、それだけ、

「好き嫌いを経験した」

 ということであろう。

 いや、考えてみれば、ほとんどが、相手から嫌われることばかりだったので、もちろん中には、

「俺のことを嫌いなんだったら、俺だって」

 ということで、相手を嫌うこともあったが、それは、稀なことで、ほとんどは、

「どうしてフラれなければいけないんだ?」

 と、疑問に思うことばかりだ。

 だから、自分には、フラれる覚えはないといってもいい。しかし、まわりから見ていると、

「ああ、やっぱり」

 と言われてしまうことが多かったようだ。

 嫌われるというよりも、何か憎まれているかのように思うのだが、その憎まれているという思いは、

「無駄な時間を使わされた」

 と相手が思っているからではないかと感じるのだった。

「ということは、相手がこちらを好きになったと勘違いして、好きになったつもりで付き合っていたが、そのうちに、自分の気持ちを騙せなくなった」

 とでもいいたかったのではないだろうか?

 それを思うと、

「相手は、自分が許せないという気持ちになったのだろうが、それを認めたくなくて、結局その怒りを俺にぶつけてきたんだろうな」

 と、かなり、自分に都合よく考えたのだが、相手に対して、

「何で、別れようというのか?」

 と、別れたいといってきた理由を聞こうとすると、一様に考えてしまい、

「もう、あなたといるだけでストレスなのよ」

 と、いうような回答が、皆から返ってくるのだった。

 言葉に多少の違いはあれども、言いたいことは皆同じなのだろう。

 しかも、その言葉は曖昧で、

「気持ちに若干の違いがあったとしても、結果、最後は同じ言い訳になってしまうだけではないか?」

 と感じるのだった。

「彼女というところまで本当にいっていたんだろうか?」

 と思えるほどで、城でいえば、

「まだ、内濠の外あたりと、ウロウロしているくらいだったのではないか?」

 と考えてしまう。

 昔から日本史が好きで、特に城郭が好きだった大谷にとってみれば、

「ついつい、感情や、心境というものを、城郭に例えて考えるくせがついていた」

 といってもいいだろう。

 城郭で考えると、まずは、城全体としての、

「総構え」

 というものがあり、その一番後ろには、外濠がある。

 そして、その中に城下町が広がっていて、商人などが、活気にあふれた街づくりをしていたと想像される。

 さらに、そこから、内濠があり、そこから中には、武衛屋敷などの曲輪が存在し、三の丸、二の丸、本丸と、城の中核に入っていくのだ。

 内濠には、いくつもの、見張りを兼ねた櫓が建てられていて、中に入るには、大手門などのいくつかの門しかない。

 そして、門などは、敵の攻撃に備えて、櫓門になっていたり、門の両脇にも、櫓が建てられていて、敵兵が攻めてくると、集中砲火する仕掛けができていたりする。

 つまり、

「城内に入る門が、一番最初の攻略口となる」

 といってもいいだろう。

 しかも、城郭というのは、敵の侵入に対して、結構いろいろ考えられている。

 相手が攻めてくるのに、大変なように、石段をわざと不規則に作っておいて、侵入してくるところで、相手は足元も気にしながらの突進になる。どうしても前がおろそかになると、そこに、弓矢の雨あられでは、溜まったものではないだろう。

 さらに、内濠の中の曲輪は、複雑になっていて、何度も曲がりくねっているうちに、

「まるで、迷路に迷い込んだようだ」

 と思わせる。

 そして、門をくぐれば、三の丸あたりに入り込めると思っていくと、そこは、行き止まりになっていて、四方八方からの集中砲火を浴びるという、一種の、

「枡形虎口」

 になっていたりする。

 さらに、そこを超えると、どんどん通路が狭くなっていく。上からは槍が降ってきたり、石や熱湯が浴びせられるような、そんなところもあったりする。そんなところを、大軍が押し寄せるのだから、前が詰まれば、後ろに下がるわけにもいかず、ひしめき合っているところを、またしても集中砲火である。

 つまり、本丸や天守に、迫れば迫るほど、突破が難関になっていき、大軍であればあるほど、その犠牲ははげしくなるというのが、

「城における、攻城というものである」

 というわけだった。

 だから、城攻めなどでよく言われるのは、

「攻城側は、籠城側の三倍の人数が必要だ」

 ということになるのだ。

 ただ、籠城する方もそれなりの覚悟はいる。

 何と言っても、表からの補給がなければ、城内の食料や武器弾薬が尽きると、もう終わりなのだ。

 つまり、相手が疲れて、

「これ以上の攻城は無理だ」

 ということで、自国に引き上げていくのを待つしかないというわけである。

 それこそ、

「時間との闘いだ」

 といっても過言ではないだろう。

 戦国時代というのは、そんな戦いが、全国で繰り広げられた。いわゆる、

「群雄割拠」

 の時代だったのだ。

 そんな戦国時代の、

「攻城戦。籠城戦」

 というものが好きで、本を読んでいたりしたくせに、実際に、

「彼女を作る」

 というような、相手があることを実践するのでは、まったく違うということが分かった。

 まず、

「相手が何を考えているのか分からない」

 というのが一番だった。

 何と言っても、恋愛は相手があることであり、しかも、異性ということで、

「同じ男性なら、何となく気持ちは分かるというものだが」

 と思えるようなところも、相手が女性ということになると、

「まったく考えていることが違う」

 といえるのだ。

 つまり、

「自分が攻城側なのか、それとも、籠城側なのか分からない」

 ということである。

 お互いに、どっちも攻城であったり、どっちも籠城と、お互いに同じ立場で相手を逆だとみていれば、まったく明後日の方向にいる相手に対して攻撃しているわけではないので、まったく何も感じるわけがない。

 そう思うと、

「見えない敵を相手にしているのと同じ」

 ということであって、真っ暗闇の中で、自分がどちらに進んでいるのか分からない状態なのかも知れない。

 その場合、攻城であれば、そのダメージは決定的だろう。

 まったく一寸先が闇であれば、一歩も動けない。相手からは見えているので、集中砲火の嵐だ。そうなると、死んでもいないうちから、死んでしまったかのように思え、もう、その時点で負けが確定しているといってもいいだろう。

 特に恋愛というのは、

「一対一」

 ということで、援軍もありえない。

 もし、援軍が来たとすれば、それは

「敵が放った刺客だ」

 といってもいいだろう。

 前がまったく見えない中での心細さからであれば、援軍に対して、頼ってしまう最高級の依頼心が生まれても無理もないことだろう。

 それを思うと、

「一対一ほど怖いものはない」

 と思うのだ。

 それは、相手が男でも女でも同じことだった。

「一対一になるくらいだったら、一人孤独な方がマシに決まっている」

 と考えるようになっていた。

 だから、この時の最上階の大浴場に一人でいる初老の男性と二人きりというのは、正直、息が詰まるような思いであった。

 かといって、父親と同い年くらいの人と話をする自信はない。

 ただ、父親に対しては、嫌悪を抱いていたが、同い年くらいの男性に対して、嫌悪はなかった。

 むしろ、

「どんなことを考えているのだろう?」

 ということを感じるくらいであった。

「そういえば、子供の頃、というか、中学生の頃に好きで読んでいた探偵小説を思い出すんだけどな」

 と感じていた。

 大谷は、中学時代、城郭に興味を持つ前には、よく探偵小説を読んでいた。

 探偵小説というのは、今でいう、

「ミステリー」

「推理小説」

 と呼ばれるようなもので、主に、戦前、戦後が多かった。

 探偵小説というのは、西洋から入ってきたというイメージがあるが、その通りであり、

「シャーロックホームズ」

 などと呼ばれる探偵が事件を解決するということから、

「探偵小説」

 と呼ばれていたのだ。

 探偵小説と言われるものが、日本でも、戦前、戦後にはよくあった。

 さすがに、シナ事変が始まってから、大東亜戦争が終結するくらいまでの間、

「当局による、出版規制」

 というものが行われていたりした。

 シナ事変が勃発すると、それまでの満州事変以降の、

「満州国建国」

 に対して、国際連盟が、

「日本による、自作自演」

 ということを、調査団の報告から位置付けてしまったことで、満州国の承認を加盟国で多数決を取ったところ、

「反対が日本、棄権が二か国」

 という以外は、すべて、賛成ということで、

「満州国を承認しない」

 ということに決まったことで、日本は、国際連盟を脱退し、孤立の道を選ぶことになった。

 そんな時代に、国内でも、クーデター未遂事件や、要人の暗殺などと、物騒な時代へと入り、陸軍が、北京で中国側と戦闘状態に陥ったことで、もう、後には引き下がれなくなってきたのだった。

 特に、欧州で侵略戦争を繰り広げる、ファシスト党イタリア、ナチス・ドイツなどと同盟を結んだだけでも、列強を刺激したのだから、そこへもってきて、欧米列強が大きな影響力を持っている中国と戦闘状態に陥ったとなれば、欧米列強も黙っているわけにはいかないということである。

 大東亜戦争に突入し、その後、軍の統制の元、情報統制が行われていた時代は、

「探偵小説のような、俗っぽい小説は発刊を許さなない」

 ということで、恋愛小説などと一緒に、発刊が禁止されたことで、数年間は、

「暗黒の時代」

 だったといえるだろう。

 昭和20年に入り、アリアナ諸島が占領されたことで、日本本土の主要都市ほとんどが、空爆範囲内となったことで、無差別爆撃が始まる。

 そんな時代において、

「明日、命があるか分からない」

 と言った時代を乗り越えて、いよいよ、無条件降伏を受け入れることで、戦争が終わるのだが、あくまでも、

「空から焼夷弾が落ちてこない」

「戦闘が終わった」

 というだけで、混乱は、その後も続く。

 何と言っても敗戦国。国内では食料も住むところもなく、さらには、占領軍は進駐してくることで、

「何をされるか分からない」

 という状態だったのだから、当然であろう。

 国内以外はもっと悲惨だった。

 満州に移民した人、中国大陸の居留民などは、ソ連が進駐してきたり、中国人からの迫害や、虐殺などが、平気で行われていた。

 満州は本当にひどく、捕虜となった人たちを虐殺したり、シベリアに抑留し、

「強制労働に従事させる」

 などということが、平気で行われているのだった。

 満州国の建国目的に、

「食糧問題」

 というものがあっただけに、戦前は、

「できるだけたくさんの人間を満州に送り込む」

 ということが、必須だった。

 それだけに、満州では、日本人や、朝鮮人がさぞかし多かったことだろう。

 当然、それらの民族が迫害を受け、狭いところに収容され、悪辣な環境の元、隔離されたりしていたことだろう。

 当然、虐殺も行われ、有名なとことで、終戦前に、満州国の首都を、新京から、通化に移していたが、捕虜をそこに集められ、大量虐殺が行われたという事実もあるくらいだ。

 相手はソ連の赤軍と、中国の八路軍と呼ばれる過激な軍である、

 ほとんどの人は虐殺されるか、シベリアに送られるかで、中には日本に帰国できた人もいただろうが、

「まだソ連の支配よりも、マシ」

 というだけで、結局は占領されているわけで、何も立場が変わるわけでもなかった。

 食料もなく、ハイパーインフレで、物価は、天文学的な数字になり、もはや、

「金銭は紙切れ同然」

 とまでなり、食料を得るには、

「田舎に行って、物々交換」

 ということになるのだった。

 しかし、田舎の人も、都会から持ってくるものは皆同じで、同じようなものをそんなにたくさんもらっても仕方がない。次第に売ることもしなくなり、さらに、食料がなくなってくる。

「国からの配給だけで生活をする」

 ということを貫いて、結果、栄養失調で死んだ、いわゆる、

「悪行を許さない、勧善懲悪」

 という考えを持った人がなくなる時代である。

 さらに、国のインフレ対策として、

「新円の切り替え」

 という政策を打ち出した。

「今持っている金は、使えない。両替できる額も決まっている」

 ということで、

「いくら、十万円持っていたとしても、実際に交換できるのは、千円まで」

 というようなことをするのだから、残りは、本当に紙屑でしかなかった。

 あまりにも荒っぽい政策で、景気がよくなるわけもないのだが、日本にとってよかったのは、

「朝鮮戦争の勃発」

 だった。

 朝鮮戦争の特需で、景気がある程度戻ってきて、そのおかげで、少し余裕ができてきたことで、復興に拍車がかかったのだ。

 昭和30年代に入ってくると、だいぶ景気もよくなって、戦後復興がほぼ軌道に乗り、日本は、好景気によって、奇跡的に復興できたのだ。

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