第6話 ある探偵

 そんな混乱の昭和20年代から、30年代にかけて、探偵小説も、

「復興」

 してきたのだった。

 特にそれまで抑圧されていた状態が、戦後復興により、ストレスも解放され、時代に即した、

「おどろおどろしい小説」

 がウケたりした。

 しかし、それは、最初のプロローグの部分であり、後半になればなるほど、トリックを駆使したストーリー展開に、胸躍るというものが多くなった。

 その作家の作品は、令和の今でも人気があり、平成の頃、

「昔の小説は時代遅れということで、本当に売れるもの以外は、本屋には置かない」

 という時代がやってきて、さらに、2000年代に入ると、

「絶版」

 という状態にまで追い込まれていたりした。

 だが、その作家の小説は、

「不死鳥」

 のようなところがあった。

 元々は、昭和50年代前半に、急に爆発的な人気が出てきたのだ。

 そもそも、この作家の作品は、それまでにも何度も映画化やドラマ化をされてきた。

 探偵が個性的な探偵だったので、それがウケたのだろう。

 結構探偵小説というのは、戦前にも映画化されたりしたものだが、

「爆発的な人気」

 というところまでは行かなかったのだ。

 ただ、昭和50年代のブームの時には、バックアップをしたのが、出版社であり、出版社が、

「社運を賭けて」

 というくらいに、力を入れての映画化だったのだが、それが、大人気を博したのであった。

 おかげで、その他のこの作家の作品も、他のジャンル。

「社会派推理小説」

 であったり、まったくジャンル違いの、

「学園、青春もの」

 なども、すべてがヒットした。

 そのおかげで、

「推理小説ブーム」

 が到来したのだった。

 有名な作家だけではなく、人気のある作家。あるいは、

「トラベルミステリー」

 などの、作家独自のオリジナリティの先駆者は、爆発的に売れ、一発屋というわけではないのだった。

 だが、それらの作家も、合わせて、

「推理小説ブーム」

 というものが終わると、人気は当然すたれてくる。

 しかし、元々の火付け役になった作家の作品は、ブームがすたれている間でも、爆発的なブームに比べればかなり静かではあるが、何とか、底辺にまでいかずに、売れ続けていたのだ。

「ロウソクの炎が、消えそうで消えない」

 というそんな状態であろう。

 そして、

「ブームというのはサイクルがある」

 とよく言われるが、この作家の作品も、ある時期になると、またブームを巻き起こすのであった。

「いい作品は、いつになっても、色褪せない」

 と言われるが、逆に、

「古い時代の作品だからこそ、再度人気になるのだ」

 といえるだろう。

「今の時代と比較して読む」

 ということが、その時代時代を反映して、想像力という、

「小説の醍醐味」

 を自然に感じることができるのだった。

 この一連の小説に出てくる探偵は、他の探偵と同じ特徴を持ったところと、

「明らかに違う」

 というところが、共存している。

 まず、共通点としては、

「自分が好きな事件。気に入った事件であれば、依頼料度返しで、すぐに飛びつく」

 というところである。

 だから、どんなに金を積まれても、

「気に入らない事件であれば、引き受けない」

 という考えに徹底しているのである。

 だから、いつも金銭的に困っていたり、探偵事務所の人間が、

「やれやれ」

 と思っていたりしているのだった。

 ただ、それでも、本気で嫌なわけではない。あくまでも探偵をリスペクトしているからこそ、事務所でずっと働いているのである。

 あくまでも、

「呆れながらも、探偵の人間性を好きでなければ、やっていられない」

 ということである。

 この探偵と比較される、もう一人の巨頭と言われる探偵がいた。その探偵の活躍時期は、

「戦前の頃」

 ということであるが、その作家の性格と、戦後の探偵の性格とが酷似しているのであった。

 というのは、

 戦前の作家は、作品が出来上がって、それが映画化されたりして、人気が出たとしても、自分の中で納得していなければ、自己嫌悪に陥るのか、1年以上出奔してしまうことが多いという。

 出版社としては、

「せっかく人気が出ているのに、今のうちにたくさん作品を世に出す」

 と思っていたものが、作家が行方不明では、どうなるものでもない。

 ただ、その作家の場合は、出奔してから戻ってきて、最初に書いた作品が、本人も納得する作品で、世間からも認められ、ベストセラーになったりしている。

「彼の代表作と言われるのは、行方不明になってから、帰ってきてから書いた作品ばかりではないか」

 と言われるようになった。

 そんな作品は、今でも。地道に人気があり、結局、絶版になることもなく、今でも大きな本屋では、そのほとんどが、並んでいるくらいであった。

 ただ、戦後の代表的な探偵の方も、戦前の作家と似たところがあった。

「ああ、あの作家のリスペクトですよ。本人には話をしています」

 ということであった。

 もっとも、この作家は、戦前は、出版社で編集長をしながら、自分でも作品を書いているというような作家だったのだ。

 だから、二人は知り合いであり、悩みを聞いたりするくらいの仲だったというくらいである。

 だから、戦後の探偵の外見は、実は、戦前の探偵の初期の姿そのものだった。

 最初の頃は、設定が大学生で、当時、大正時代だったこともあって、いわゆる昔の、

「書生姿」

 というものであった。

 それこそ、夏目漱石の、

「坊っちゃん」

 に出てくるような、羽織袴と言えばいいか、そんな姿だったのだ。

 だが、戦前の探偵は、最初こそ、そんないでたちだったのだが、それは、

「あの探偵は一作品だけにしようと思っていた」

 ということだが、どこからそう思うようになったのか、その後の作品にも登場するようになった。

 ただし、同じ探偵ではあるが、最初は、探偵ごっこに近かったのだが、再登場してきた時には、

「探偵事務所を持った、素人探偵」

 ということで、前の作品を知らない読者には、

「新しく登場した探偵」

 として映ったかも知れない。

 その時には、背広にネクタイ、パリっとした清潔感のある探偵に変わっていた。

 自分から、どんどん行動していくタイプで、得られた証拠や状況を加味し、犯人を追い詰めていくというところが売りであった。

 だが、戦後に登場した方の探偵は、様相こそ、羽織袴に、ボサボサ頭というところであるが、頭脳明晰で警察が迷宮入りした事件を次々に解決するという探偵だったのだ。

 時代背景なのか、作者の好みなのか、事件は、東京以外でも、田舎の旧家で起こることが多かった。

 というよりも、代表作が、そういう作品に集中しているということで、作家が戦争中に、疎開していたことから、田舎の旧家であったり、

「血のつながり」

 というものに、異常なまでの意識があったに違いない。

 だからこそ、やけに、

「近親相姦もの」

 が多かったり、

「父親の秘密」

 なる話が多かったりした。

 都会の方の作品では、混乱した時代を反映するかのように、

「ドロドロした犯罪が多い」

 今のラブホテルのような、いわゆる、

「連れ込みホテル」

 で殺されていたり、犯罪の中に、SMであったり、猟奇殺人などと言った、

「変格探偵小説」

 を思わせるものがあり、そこに耽美主義が結びついてくることで、まるでオカルトっぽさが滲み出ていたりした。

 しかし、実際に謎解きになると、本格探偵小説というべき、

「トリック重視」

 の作品に変わっている。

 この探偵は、最初から理論立てて考える方であり、決して、犯人を追い詰めたりということはしない。

「彼ほど、人間らしい探偵はいないのではないか?」

 ということで、羽織袴を着せたのも、そのあたりに思惑があったのではないかと思うと、感慨深いものがある。

 その彼には大きく分けて、2つの性格があった。

 まず、一つは、

「実は、躁鬱症の気がある探偵だ」

 ということであった。

 というのも、

「彼は、自分の好きな事件には前のめりで進んで入り込んでいくというのは、前述のとおりだが、実際に事件がクライマックスを迎え、犯人を指摘し、絶頂を迎えた瞬間、急に冷めてしまうところがある」

 ということであった。

 いわゆる、

「賢者モード」

 といってもいいだろう。

 それまであれだけ、自分の独壇場だったのに、犯人を指摘して、実際の逮捕ということになると、そのあたりから、一気に冷めてくる。

「もう、ここから先は、自分の仕事ではない」

 と言いたいのだろう。

 それが、彼の一番の性格であり、これも、

「一番人間臭い」

 と言われるゆえんだろう。

 これはやはり、

「戦前の作家の性格をそのまま拝借した」

 といってもいいだろう。

 しかも、その作家は、結構その探偵のプライバシーを書いたりしている。

 ある作品では、朝食のラインナップを書いたりしていたが、たぶん、そのあたりは、ひょっとすると、

「字数稼ぎ」

 なのではないか?

 と思うが、それだけではないだろう。

 さて、その作家のもう一つの特徴は、

「犯罪防御率が悪い」

 ということだ。

 犯罪防御率というのは、

「その探偵が事件に関わってから、何人の犠牲者(殺害された人間)がいるかということを、作品で平均したもの」

 というのであった。

 他の人は、1、2人がいいところなのに、この探偵に限れば、4,5人と一気に膨れ上がるのだった。

 ただし、この作家の特徴からか、作品の中で、実際にあった他の犯罪や、一度に数人が殺されるという、多重殺人事件を得意としていることもあり、特に実際にあった犯罪の中には、

「集団に毒を盛る」

 というような、凶悪な犯罪もあったりするからだ。

 このあたりは、

「探偵に関係のないところで防御率が跳ね上がっている」

 ということで、探偵とすれば、不服に思うのだろうが、実はそれだけではないことが含まれている。

 というのは、

「この探偵が、人間臭いところがある」

 というところから来ているのだが、

 普通であれば、犯罪が露呈し、犯人が分かってしまうと、どの探偵も、刑事もであるが、犯人が自殺しようとするのを、必ず止めようとするのが当たり前であった。

 しかし、この探偵は、犯人の気持ちを慮ってか、

「自殺しようとする犯人を、そのまま死なせてやる」

 ということをするのである。

 そうなれば、犯人も自殺とはいえ、防御率の頭数に入るので、必ず、分子が高くなり、防御率が上がってしまうのだ。

 この場合、

「防御率が低いほど、優秀な探偵」

 という見方になるのだろうが、そういう意味でいけば、この探偵は、数字の見た目だいけで見ると、

「とても有能な探偵だ」

 とは言えないのだ。

 しかも、性格的に、

「賢者モードに入りやすい、躁鬱症の気がある探偵だ」

 ということであれば、さらに、

「無能な探偵」

 というレッテルが貼られることであろう。

 そういう意味では、気の毒な面がある反面、人間らしいというところを、どのように解釈すればいいのか、防御率の悪さを、逆に、

「誰からも好かれる」

 という、憎めないタイプの探偵だといえるだろう。

 だからこそ、警視庁勤務の周知の警部は、彼の性格をよく分かっていて、敢えて、彼が考えていることが分かっていながら、犯人が自殺を遂げても、本来なら、警察とすれば、咎めなければいけない立場にありながら、

「文句を言わない」

 という態度を貫き、部下に対しても、

「彼は、ああいう探偵だから」

 といって、納得させようとしているくらいである。

 そんな彼は、

「とにかく、運がいい」

 というところもあった。

 というのも、彼には、パトロンと呼ばれる人間が2人いる。

 元は学生時代の友達で、戦後、土建屋で儲けて、彼のパトロンになった。

 もう一人は、彼が、学生時代にどうしようもない生活をしている時、ふとした事件をきっかけに、彼の才能を見抜き、

「学費も生活費も面倒みてやるから、探偵をやらないか?」

 といってくれた人がいて、その人の見る目の確かさと、彼の洞察力が生きたことで、のちに、

「名探偵」

 と言われるようになったのだ。

 時代が時代なので、事務所もまともに維持できない時、パトロンがいてくれたので、居候しながらの、居候先が探偵事務所の代わりになるということで、食うにも困らず、名探偵としての、面目躍如が保てているというわけである。

「沈みかけそうになっていても、必ず誰かが助けてくれる」

 という運の良さも、探偵としての力にもなっているというわけで、

「運も実力のうち」

 と言われるが、

「運というよりも、人を引き寄せる力がある」

 ということが、この探偵の一番の魅力なのではないだろうか。

 それもこれも、すべてにおいて、

「人間臭い」

 というところが、彼を有名な探偵にし、さらに、仕事がやりやすいように、

「警察に顔が利く」

 ということが言えるのではないか。

 彼も最初は警察に誰もつてがない時は、邪魔者扱いされたものだった。

 特に、警部クラスの人からは、完全にライバル視され、

「探偵ごときに、出し抜かれてたまるか」

 と言わんばかりになっていたのだった。

 だが、この探偵の人間性というべきか、一度事件を解決しただけで、完全に見直され、

「あの探偵のいうことであれば、間違いない」

 とまで言われ、捜査会議にも普通に参加し、刑事と一緒に行動することで、単独の探偵では得ることのできない情報を得ることができるのだから、他の探偵に比べれば、有利なのは当たり前のことである。

 警察にも顔が利き、さらには、世間で有名になるだけの、

「変わった名前」

 をしていることも、ある意味、

「運がいい」

 といってもいいだろう。

 探偵は、

「運」

「実力」

「情報力」

「推理力」

 などがいいバランスで保たれることで、名探偵と言われるのではないかと思えるのであった。

 この四つは単独で機能もするが、それぞれに、微妙に結びついている。それを考えると、名探偵と言われる人には、どれ一つとして欠かすことのできないものであるといえるのではないだろうか?

 そんな探偵が出てくる小説が、今は一度絶版となったのだが、またしても、ブームが来たことで、新しく発刊されることになった。

 実際には、短編、長編すべてを含めて、

「77作品」

 と言われているが、そのうちの、30作品くらいの有名どころだけが、再発になっているのだった。

 ただ、これからもまだ少しずつ発刊が増えてくるということなので、昭和40年代の頃に、すべてといっていいほどの作品が、文庫化された時代が思い出されるのであった。

「探偵小説というものを読むのに、時代は関係ない」

 と言われるが、まさにその通りであろう。

 逆に想像力が湧いてくるところが、マンガにはない大きな特徴ではないだろうか?

 もっとも、劇画作家が、小説をマンガ化したものがあったが、イメージは湧いても、さすがに原作にはかなわない。ドラマよりもリアルさがあるだけに、惜しいといえるかも知れない。

 そんな小説の中に、一人の老人が出てくる話があった。その老人と探偵は、温泉で語り合うシーンが出てくるのだが、その情景は頭に浮かんできたのだ。

 その老人の小説内での役目というのは、

「犯人ではないが、大きな役目を負わされている」

 と言った方がいいかも知れない。

 小説のタイトルに、

「悪魔」

 という文字が入っているのだが、小説評論家に言わせると、

「彼が、悪魔とタイトルに書いた時、作中に本当の悪魔と思しき人間が必ず出てくる」

 ということであったが、実際の悪魔は他にいるのだが、この老人も、その悪魔に負けず劣らずというべきか、元々の犯罪の根っこを作ったのは、その悪魔と言われる男だが、引き金を引いたのは、その老人だったのだ。

 話としては、一人の詐欺師が事件の根っこを作り、その男の正体を教えることで、嫉妬に狂った妻が殺してしまう。何が目的だったのか分からないが、作中としては、

「生活費の搾取」

 だったのだろう。

 その、

「行き掛けの駄賃」

 として、性欲を満たすというその行為が、けだものであり、

「悪魔」

 であった。

 そもそも、この作家の書く話は、

「近親相姦」

 であったり、悪魔の所業を、ひとことの言葉で言い表すことができるということであった。

 ただ、当時としては、いくら時代が民主主義になったとしても、昔の農地を巡る封建的な考え方が根付いていたちしていただろうから、途中までがどんなに紳士的であっても、所業がすべて明らかになると、

「この男は、やはり悪魔として見てしまうと、悪魔はあくまでしかないということなのであろう」

 ということだった。

 この作家の話で、

「悪魔」

 と言われる人は、必ず殺されているか、あるいは犯人であり、最後には自殺を図るのである。

 普通の探偵小説であれば、悪魔である犯人が自殺を試みようとすれば、探偵や警察は必至になって止めるであろう。

 ただ、ある別の小説で、

「悪魔」

 と呼ばれているのが、未成年の女の子で、その子が、実は不幸な境遇に生まれていて、その境遇に、

「敢然と立ち向かって生きている」

 という、

「お涙頂戴的な話」

 だと思っていたが、実際はそうではなかった。

 その子は、世の中のすべての人に恨みを持ち、自分の境遇を可哀そうだと思うことで、自分の正当性を確かめようとしているのだった。

 しかし、そのことに気づくものは誰もいない。彼女が、

「まだ中学生の可憐な乙女」

 という印象を読者に植え付けることで、しかも判官びいきのように、彼女を可哀そうだと思って見ていると、誰も彼女が悪魔であり犯人であると思うこともないだろう。

 だが、実際には嫉妬の塊で、母親が再婚するということで、最初はネコをかぶっていたが、どこからか毒を手に入れていて、それを使ったのだ。

 しかも、彼女の可憐さが武器になり、悪魔とは知らずに、共犯の片棒を担いでいるとは思わず、青酸カリという毒薬を渡し、最後には、自分も口封じに殺されるというような話だった。

 だから、この作家の書く、

「悪魔」

 というのは、本当の悪魔であり、それ以上をいかに表現するかというのが作家の腕であったのだ。

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