第3話 潮の香り
酔いも手伝ってか、フラッと入ってしまったが、一気に酔いが冷めたのは、急に冷たさを感じたからではなく、生暖かく、それこそ、
「生臭い臭い」
というものを感じたからだった。
その生臭さを感じる時というのは、
「雨が降る」
ということが分かる時であった。
その時に、何か、石のような臭いがするのだ。嫌いな臭いではないのだが、その臭いを感じると、身体がべたべたしてしまうような湿気が感じられ、気持ち悪い。
そう、
「海の潮のような臭い」
という言い方をすれば一番いいのか、気分的に、そういう感覚になるのであった。
海の香りというよりも、磯の香りと言った方がいいのか、彼は子供の頃から、実はその潮の臭いが苦手だったのだ。
それは、小学生の頃、よく夏になると、親が海に連れていってくれた。一泊旅行で家族全員出かけるということもあったが、それよりも、母親が、自分だけを連れて行ってくれることが多かった。
どうやら、母親は彼のことが好きだったようなのだが、よく、まわりから、弟と比較され、
「お兄ちゃんは、お母さん似で、弟さんは、お父さん似ね」
と言われることがあった。
そこには、別に悪気があるわけでもないし、どちらかというと、
「お兄ちゃんは、お父さん似というよりも、お母さんの方に似ていて、弟さんは、お母さんよりも、お父さんの方に似ている」
というだけのことであり、何もどっちも、似ていると言われた相手の反対側と似ていないといっているわけではない。
しかし、母親は、変な意識があった。
「お兄ちゃんは、私が思っているように、私に似ているから可愛いわ」
と思っていたようで、弟のことは、どちらかというと、少し毛嫌いしているくらいだったかも知れない。
子供心に、
「お母さんに好かれて嬉しい」
と思ったのは正直な気持ちで、弟に対して、優越感を持ったのも事実だった。
弟の方は、別に何も感じているわけではない。
その代わり、そんな弟を見て、
「あざといな」
と思ったほどだった。
どれだけ、偏見で見ていたかということなのだろうが、父親も弟も嫌いになったりはしなかったので、家族は円満だったのだろう。
だが、母親が偏見を抱いていたのは、事実のようで、
「お母さんは、僕のことを大切にしてくれる」
ということを真剣に思っていて、
「自慢のお母さんだ」
と、まわりに自慢したいほどだった。
実際に、友達から、
「お前のお母さん、キレイだな」
と言われ、まんざらでもない気分だった小学生の頃だったが、思春期になると、まんざらでもない気持ちだけではなく、母親のことを思った以上に、偏見な目で見ているまわりに対して、
「気持ち悪い」
と感じるようになったのも事実であった。
だが、それは、思春期だったからで、未来永劫、そんな気持ちのままでいるわけはないだろう。
そのことも自分で分かっていたので、母親が、
「海に行こう」
といっても、敬遠するようなことはなく、いつもくっついて行っていたのだ。
しかし、いつの頃だったか、潮の風を感じると、気持ち悪くなってしまうことが多くなった。
「何で、こんな気分になるんだ?」
と考えさせられるのだった。
母親が連れてきてくれる海は、いつも同じ海だった。
そんなに遠くでもなく、来ようと思えば日帰りでもできるのだが、なぜか、いつも同じ海の同じホテルだった。
部屋は毎回違い、表の景色は少し違うのだったが、小学生の3年生から、中学1年くらいまで、毎年の恒例のことだった。
母親も。自分で水着に着替えて、子供と一緒に遊ぶというわけではなく、決して、肌を晒そうともせず、いつも手や足に、時間があれば、白いクリームのようなものを塗っている感覚だった。
小さい頃は分からなかったが、5年生くらいから、それが、
「日焼け止めクリームだ」
ということが分かってきた。
「女性だったら、日焼け止めを気にするのは当たり前」
と言われてはいたが、確かにその通りである。
母親が泳ぎにつれて行ってくれるところは、海水浴場ではなかった。数人の海水浴客が音すれる、いわゆる、
「穴場」
と言った感じであろうか?
あまり、まわりの人と絡むのが好きではない母親だったので、これくらいのことでビックリはしない。
ただ、6年生くらいになってから、海に来た時の母親の雰囲気が違うということは分かってきた気がしたのだ。
というのは、
母親が、夜の自分が寝静まった時間になると出かけていき、朝方のどこかで帰ってくるということが分かったからだ。
小さい頃は、一度寝たら起きなかったので、気にもならなかったが、5年生の時、急に目が覚めて母親がいないことに気づいた時、その時はすぐに気にせず寝たのだが、朝方、食事の時に、
「お母さん、夜中いなかったね」
と、何の気なしという感じで聞いた時、さすがに母親もビックリしたのだろうが、
「ああ、気にしなくて寝てていいんだよ」
と、そっけなく言われた。
子供心に、
「聞いてはいけなかったことだったんだ」
と思ったので、そのまま素直に気にしないことにしていた。
母親も一切そのことに降れようとはしなかった。
母親がどこに行っているのか分かったのは、中学生になってからだった。
学校で、友達に話した時、
「お母さん、不倫なんじゃないか?」
と言われた。
不倫という言葉は知っていたので、顔が真っ赤になったが、それ以上のことはなかった。ただ。
「不倫じゃないか?」
と思うと、それまでのことの辻褄が合ってきた気がした。
悪いことであることは分かっていたが、だからと言って。ここで騒ぎ立てるのは、絶対に違った。
「まさか自分から、公表するなどということをするのもおかしい」
と思い、必要以上に、両親を刺激しない方がいい。
「黙っておくに越したことはない」
と思ったのだが、母親の方としても、息子がそう感じるのは、当たり前だと思っていたのだ。
後で知ったことだが、その不倫相手というのが、彼の顔によく似ていたという。
「なるほど、子供が母親が好きになった父親に似ているということを思えば、不倫相手も、自分の好みで、息子に近い顔立ちなのかも知れない」
と思うと、不倫にしても、自分を一緒に連れだってきたことも分かる気がするのだ。
「お母さんが、そんなにも男好きだったなんて」
と、中学生の頃に母親に対して、今までと違う見方をしてしまっている自分というものに、嫌悪を感じているのも、無理もないことのように思えるのだった。
その時に感じた潮の臭い。そこに、何やら、鉄分を含んだ嫌な臭いがあったのを感じた。その臭いがいかに嫌なものだったのかということは、
「潮の臭いだ」
と感じると鉄分を感じ、
「鉄分の臭いだ」
と感じると、潮の臭いを感じるのは、それだけ、この二つの臭いが、切っても切り離せない気分にさせるのかということを感じさせるからだった。
今回は、きっと鉄分の臭いを感じたことで、潮の臭いを思い出したことで、あの時の湿気がよみがえってきたのだろうが、今思い出せば、あの潮の臭いに感じた鉄分は、
「血液の臭いからだった」
ということは、自分でも分かっているような気がしている。
あの時、血液の臭いを感じたのは、大人になった今では分かる気がした。
「きっと母親の中から滲み出るような、淫蕩な臭いが、身体から出ていたんだろうな?」
ということであった。
彼は名前を大谷慎吾というが、大谷は、もちろん、童貞ではない。今はいないが、かつて彼女もいて、付き合っている時、
「この女、この俺を求めているな?」
というのが、分かる時があった。
明らかに、隠微な香りが身体から、にじみ出ていたからだ。その香りは、どこか血の香りがしてくるのが分かったのだが、それが、
「男にはない女の生理的特徴」
ということなのは、分かっていた気がする。
高校時代から、性に対しての知識が急に増してきたのは、人から聞いたり、SNSなどで得た知識もあったが、高校時代につき合っていた女から教えられたというのが一番大きかっただろう。
その女は、初めてつき合った女性であった。
その女とは、同級生であったが、彼女の方からのアプローチで、女性と付き合うということがどういうことなのかということをあまり意識したことがなかった大谷にとって、彼女は、結構センセーショナルな存在だった。
女性というのは、もう少し、控えめなものだと思っていたのに、彼女の場合は最初からグイグイくる。
「私、あなたのことが好きだから、付き合いたいの」
と自分から告白してきた時はさすがにビックリさせられた。
実は、彼女からすれば、
「あなたは、絶対に私のことを断るとは思えなかったのよ。従順で、私を大切にしてくれるということが分かったから、あなたを好きになったの。そういう意味では、あなたは女性を引き付けるだけの魅力を持っているんだけど、それは、あなたが自分で意図したものじゃないから、あなたは、本当は気を付けた方がいいの」
と彼女は言った。
彼女を見ていると、
「どうも、他人ではないような気がするんだよな」
と感じられた。
その思いがどこから来るのかということは、すぐには分からなかったが、よく考えてみると、懐かしさを、彼女から感じる、潮の香りのような、鉄分を含んだ臭いを感じることから、すぐに、
「ああ、母親のイメージがあるからなのか?」
ということであった。
「彼女が自分に対して取る態度は、きっと、母親が、当時付き合っていた男性にしていた態度だったんだろうな?」
と思うと、母親が、相手の男性に有無の言わせぬ状況に、自分から追い込んでいて、その発言力に、男は逆らうことができなかったのではないかと感じるようになっていたのであった。
そんな母親が、今はだいぶおとなしくなってきている。それは、母親から、隠微な臭いを感じることがなくなってきたからであって、そんな時に現れた高校時代の彼女は、
「忘れかけていたものを思い出させてくれた」
という意味でも、
「決して、彼女と別れることを、自分からはしないだろうな」
と感じさせたのだ。
「彼女と別れるということは、母親を自らで捨てるようなものだ」
という感覚になるからだった。
その彼女と一緒にいる時の自分は、
「束縛されている」
という思いがあったのも事実だが、逆に、
「束縛はされているが、守られていると思うこともあって、気が楽なんだよな」
と自分で思っていた。
束縛されることも、嫌ではない。ただ。もし母親の存在がなかったら、自分のプライドが許さなかったかも知れないと感じたのだ。
「自分のプライドというのが、どういうものなのか?」
ということを自分で、どこまで分かっているというのか、難しいところであった。
ただ、その頃から、
「俺は、Mなんじゃないか?」
と感じるようになった。
SMというものがどういうものなのかということは、高校時代に急激に増えてきた、
「性の知識」
の中で増えてきたのは、当たり前のことだった。
その時に得た、
「性の知識」
というのは、広く浅いものだった。
本当は、中学時代に得るべきものを高校時代になって、それまでなかった知識が、少しずつではなく、一気に入ってきたことで、頭の中で混乱もあったが、それ以上に、
「知識を細かく分ける」
という考え方が生まれてきたのだった。
「整理できないと、欲情が深まるだけで、何を自分が求めているのか分からなくなり、すべての性に対して、肯定的な気持ちになるかも知れない」
と感じた。
だから、性の知識が膨らむことに抵抗はなかったが、できることなら、一つ一つ理解しながらの吸収であってほしかった。
だが、入ってくる知識に、そんな整然としたものはなく、どちらかというと、
「順不同」
が多かった。
それでも、何とか頭の中で理解はしようとしていたのだが、思春期の頃に受け入れるべき知識を受け入れてこなかったことが、少し致命的であったのではないかということが、いまさらながらに、その頃の自分が吸収できない部分が、どうしてもあることを自覚するしかなかったのだった。
だから、高校時代にできた彼女に対しては、どうしても、従順にしかなれず、
「決して、自分が彼女の前に立つことはない」
ということも分かってのことであった。
彼女と、初めて身体の関係になったのは、2年生の頃だった。
彼女は決して急がない。普段は絶えず強引に、自分を前にして、彼が前に出ようとするのを必死に止めていた。
しかし、初めてのその時は、完全に主導権は彼女が握っているのだ。
だから、彼女にとって、別に慌てることはない。まな板の上に置かれた鯉を、いかに料理するかということは、彼女だけに与えられた特権だったのだ。
料理される方に、まったくの権利など存在するわけもない。ただ、調理されるだけのことだったのだ。
「俺はどうすればいいんだ?」
と考えることはできるが、自分に選択権はない。
相手もそのことを分かっているので、何も慌てることはないのだ。
しかし、それだけに、彼女は徐々に本性を現してくる。今までに見たことのない、ギラギラしたその顔は、明らかに、肉食系を表している。
まるで、吸血鬼のように、口を開けると、血を吸う波が並んでいた。恐ろしい形相が目の前に浮かんだかと思い、思わず目を閉じてしまったが、そこで感じた隠微な香り、目を開けると、妖艶な彼女の姿が写っていた。
それは、相手の生き血を吸う、
「吸血鬼」
などではなく。従順な清楚な女がそこにいるのだった。
「これはどうしたことだ?」
と感じたが、
「これが、本当の彼女なのではないか?」
と思うと、二度と、あの吸血鬼の形相を彼女はしなかったのだ。
「なるほど、この本性を現すための、途中の変異のようなものなのかな?」
ということで、幼虫から成虫になる間の、
「さなぎのようなものではないか?」
ということを、大谷は感じたのだった。
それを思うと、
「母親も同じなのかも知れない」
と一瞬感じたことで、その時の自分の覚悟が決まった気がした。
まだ、童貞で、しかも、高校生ということもあり、こんな積極的な彼女を相手にしていれば、
「俺は完全に食われてしまう運命にあるだけなんだろうか」
と感じるだけだった。
しかし、途中までは、
「吸血鬼に食われる女たち」
というイメージを自分に抱いていて、男である自分が、その時だけは、女になったかのような錯覚を持っていたことをその時だけ感じたはずだった。
あの時には確か、
「俺は、二度とあの時のことを感じることはおろか、思い出すこともないんだろうな」
と思った。
なぜ、そう思ったのかというと、
「童貞を失う機会というのは、一度だけだ」
と思うからだった。
これは、処女にも言えることで、一度失ってしまうと、もう、童貞でも処女でもないのだ。
だから、喪失の時は儀式のようなもので、誰もが、一度キリのことを、失う前から、
「神聖なもの」
と思うようになり、さらに、喪失後は、
「新鮮だった」
と感じることであろう。
それを思うと、
「本当であれば、女の隠微な香りを感じている時以外に、童貞喪失の時をイメージすることなんかできないはずなんだ」
と感じていたのだ。
しかし、この時、童貞喪失という感覚には至ったが、最初に感じたのは、潮の臭いだった。その後にイメージしたのが、
「童貞喪失」
だったのだ。
ということは、自分の中で、
「童貞喪失のイメージは、潮の香りの延長線上にあるものだったのではないだろうか?」
というイメージがあるということである。
「それにしても、こんな薄気味悪いところで、そんなイメージを抱くというのは、どういうことなんだろう?」
と、まるで、自分が何かを予感しているような気がしていたが、それがいかに恐ろしいことであるかということも分かっていて、その恐ろしさが、そのまま、
「予感の的中率にあるような気がして、怖い気がした」
のであった。
潮の臭いに引き寄せられるように進んでいくと、次第に今度は風が吹いてくるのを感じるようになった。
どうやら、ビルとビルの間の隙間から、風が吹いてきているようで、その風の強さが、いかに強いものかということを感じさせられた。
そもそも、この時期に、雨が降るわけでもないのに、こんなに湿気を帯びていることが気持ち悪かったのだ。
「雨が降らない」
というのは、あくまでも、自分の勝手な想像でしかない。
実際に湿気は感じるのだから、雨が降らないと言い切れるわけはないのに、その時は、
「降らないはずだ」
と言い切れる気がして仕方がなかった。
それは、母親に連れて行ってもらった、あの海の潮の香りを思い出すことがなければ、きっと言い切れるものではなかったに違いない。
風に煽られるように背中を押され、さらに、寒さが背中から押し寄せてくるような感覚があったことで、押される背中には、汗が滲んでいることを教えてくれたのは、先ほどから強まってきた風によるものだった。
足早に歩こうとは思うのだが、いかんせん足場が悪い。
「さすが、工事中のビルの中」
ということで、吹き抜けの風が来ること、そして、その気持ち悪さというものは、最初から覚悟の上だったのは、後から思い出しても、容易に感じることができる。
そのうちに、
「潮の香り」
というセンサーが何かを見つけたと感じたのと同時に、目の前に何か白いものが倒れているのが見えた。
「人ではないか?」
と、瞬時にして感じたが、その人が死んでいるということに気づくまでに、さらに時間が掛かるということは、分かっていたような気がした。
倒れているからといって、死んでいるとは限らない。あくまでも、いろいろな可能性をすべて否定して、それでも、否定できない部分が出てくれば、それが死だったという感覚だったのではないだろうか。
白く見えたものは、目の錯覚で、
「そこに何かがある」
ということが分かると、次第に、白い色が、だんだん暗く感じられてくるように思えたのだった。
近づいてみると、果たして人だった。
微動だにせずに、うつ伏せになって倒れている。一瞬、
「殺された?」
と思ったので、反射的に、
「触ってはいけない」
と感じた。
前に回り込んで顔を覗き込むと、その顔は断末魔の顔をしていて、血の気がないように思えた。
後から思えば、その状況で、
「よく、血の気がないと分かったものだ」
と思ったのだ。
まわりに明かりもなく、ただ最初の真っ暗な状況から目が慣れてきただけではないか。死んでいると思った瞬間、背中を引っ張られた気がして、衝動的に腰を抜かしたような気がした。
「テレビドラマなんかで、よくビックリした時、腰を抜かしている人をよく見るけど、あれって本当のことで、ただ、自分から腰を抜かすのではなく。背中を引っ張られているんだ」
と思ったのだが、その心境が、結構な信憑性に感じられたのだ。
まずは、警察に通報するしかなかった。
「この場から、通報もせずに、立ち去る」
という選択肢はなかった。
なぜなら、自分は何も悪いことをしたわけでもないのに、逃げ出せば、もし後でここにいたのが分かってしまい、警察に追及された時、絶対に逃げられないと感じたからだった。
警察はまもなくやってきて。刑事と思しき人と、腕章をして、肩から、金属のジュラルミンのケースをかるい、制服を着ている人たちは鑑識官であるということは、刑事ドラマなどを見ていれば。すぐに分かるものだった。
すぐに、黄色い、
「規制線」
と呼ばれるテープが張られ、そこは立ち入り禁止状態となった。
カンデラのような明かりがいくつもつけられ、あたかも、深夜の突貫工事現場であるかのように化したのだった。
そこまでの準備はさすがに訓練されているのか、あっという間だったような気がした。その場が一気に、昼間のような明るさとなり、そこまで、誰も何も言わない。状況にあった音がしているだけで、違和感はまったくなかったが、状況が、真っ暗な状態から、いきなり昼間になったというのに、大谷の感じていた、
「潮の香り」
は消えることはなかったのだった。
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