眠りの園に
犀川 よう
眠りの園に
タクシーを降りると嫌でも現実と向かい合うことになる。彼氏の眠るお墓がある霊園の麓にはサナトリウムがあって、玄関先には車椅子に乗っている男性が看護師に付き添われて散歩をしている。男性は春になると力強いピンクのトンネルになる桜並木を遠い目をした顔で眺めていて、看護師はこんな寒い冬の日なのに白衣の上はセーター姿という薄着でじっと立って待っている。わたしが霊園の管理塔に向かって枯れ果てた桜並木を歩き始めようとすると、男性はわたしを一瞥してから、満開の回廊になる数ヵ月後に思いを馳せるかのような、優しい顔をした。
管理塔の中に入り仏花を買う。受付の中年女性は穏やかな微笑みをたたえてでわたしに花を選ばせてくれる。花のことなどわからないわたしは、冬らしかならぬ明るい赤色の花が多いものを指差す。別に彼氏が好きだったわけでも、わたしの好みでもない。寂しい霊園に色を添えたいという気持なのか、季節に抗うような彩りに心が幾ばくか反応したのか。わたしの気まぐれなど知る由もない彼女は、ゆっくりと丁寧に花束を渡してくれた。
外に出ると木枯らしがわたしと花束に突き刺さる。赤い花は凛としていて、周囲の枯れきった木々とは違って生き生きとしている。――こんなに生命力の溢れるものが冬に眠る霊園に存在できるなんて。わたしは彼の逞しかった笑顔を思い出す。日に焼けて心強く、優しい笑顔であった。あんな笑顔はこの世に存在出来ないのではないかというくらいに貴重なものであった。わたしの心の中にある、彼との思い出のアルバムをひとつひとつを大事にめくっていくと、ほとんどのページに彼の笑顔が存在するくらいに、ありふれているものであった。
そんな大量の笑顔がするりと流れ落ちて消え失せてしまったことを、わたしはまだ認められないでいる。彼はこの広い霊園のどこでかくれんぼしていて、わたしが見つけ出してあげれば、気恥ずかしそうな笑顔をしながら、頭を掻いてわたしの前に出てきてくれるのではないかと、心のどこかで期待をしている。
そんな物想いから離れて手元を見ると、赤い花が風で揺れている。風にそよぎ、北東側に反るようになびいている。彼の居場所を指しているように思えてそちらを見ると、東屋と自動販売機しかなかった。
管理塔から彼のお墓のある中間まで来る。先程の自動販売機の前に立ち、救いを求めるような目をしながら商品を眺めた。わたしは温かい缶コーヒーを選ぶ。それはミルクがたっぷり入った彼好みのものだ。手に伝わる温もりを彼に重ねるが、全身を包み込むような熱を感じることはできない。少しだけ気が滅入り、東屋の木造ベンチに座り込む。坂の上にある彼の墓のあたりを見上げて、白いため息を宙に撒き散らす。手には花束と缶コーヒー。あともう少し歩けば辿りつくのに、わたしの腰が重たくて、立とうという気持ちを沸いてこない。こんなことではいけないと思いながら、冷たい風に晒されながらも、呆然と広大な石の山々を眺めていた。
墓参りを終えた幾人かが上から降りてくるさまを眺めて踏ん切りをつけようとする。あと三人降りてきたら行こう、あと二人。だが、あと最後のあと一人がなかなかやってこない。彼の形見になってしまった腕時計を見ると、普通に歩けば麓から3分もかからないのに、10分近く過ぎている。わたしは自分でも理解できない不思議な焦りを感じて立ち上がり、歩き始めることにした。
途中の水場で水を入れた桶に柄杓を入れ、ようやく彼のお墓の前に立つ。カイロ代わりになっていた缶コーヒーの熱はわたしと冬の気温に奪われて冷たくなり、どれくらい経ったのだろうかと時計を見れば、ここまで12分が過ぎていた。
「どうして、死んでしまったのよ」
わたしは、お墓を掃除するはずだった水を、桶ごと石の塔にぶちまける。投げ出された桶や柄杓は石畳に打ちつけられ、墓石から跳ね返った水がわたしの顔と花束にかかる。わたしは顔が濡れたことを口実に泣いてしまう。彼のあっけない交通事故死が認められなくて、怒りと悲しみをお墓にぶつけてしまう。花束を墓石に投げつけ、最低な弔いをしする。――怒りたいのなら、そこから出てくればいい。顔を手で覆い、跪いて彼の登場を待つ。厳しい北風が濡れた頬を刺し続ける中、彼が笑顔で現れてくれるのを待つが、無情にも何も起きることはなく、日の傾く冬空の上からカラスの野太い鳴き声だけがこの眠りの園に降り注ぐのであった。
あれこれと
歩きながら
考える
気が付きゃ時間が
12分
わたしは我に返ると、無残に散らかった彼のお墓を掃除しなおし、花を添え、冷えきった缶コーヒーを供えた。涙はもう出ない。彼の抱擁の代わりにわたしは自分の慟哭によって自身を立て直すことができたので、静かに手を合わせる。
あれだけ乱暴に墓石に叩きつけた赤い花たちは元気なままだ。わたしは彼に「これだけ、持っていくわね」と言うと、一輪の赤い花を握り締めた。
桶と柄杓を返却し、坂道を降りていく。あれだけ時間が必要だった行きとは違い、帰り道は彼に背中を押されるように足早に降りていけた。春を待つ桜並木を降りきれば、先程の男性たちがいたサナトリウム。この寒い中、彼らはあれからもここにいたようで、男性は帰りのタクシーを呼ぼうとするわたしを見ている。いや、見ているのはわたしではなく。
わたしは男性のもとに駆け寄り、一輪の赤い花を手渡す。男性は驚きながらも礼を言うと、「もうすぐ春になるね」と呟いた。そして、やがて訪れる満開の桜並木を見つめてから、「春を待てるってのは、幸せなことだよね」と坂の上の霊園に向かって、赤い花を持ったまま、静かに手を合わせてくれるのであった。
眠りの園に 犀川 よう @eowpihrfoiw
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