事の真相

「おいていかないで」


 伸次の口から零れた言葉に、30年前の記憶が呼び起こされた。



 伸次は、俺を慕ってくれていた。いつも俺を追いかけて「一緒にあそぼ」って誘ってくれた。でも俺は、弟と遊ぶよりも友達と遊ぶ方が好きだった。


 あの日、俺は伸次が帰ってくると留守番を押し付けた。


「ダメだよ伸一。カラスが鳴いたら家に帰る約束だよ!」


 自転車で走り出した俺に向かって伸次は叫んでいた。


「行くなら俺も連れてってよ!……待ってよ~!」


 聞こえないふりをして自転車を漕いだ。友達に大きなクワガタが採れたと自慢されたから、俺も罠を仕掛けようと思ったんだ。


 一心不乱に山道を自転車で登った。伸次が俺を追いかけてきていたとも知らずに……。


 山道の途中で勢いよく走ってきた車とすれ違った。その車はカーブのところで何かにぶつかったらしい。大きな音に驚いて振り返ると、車から男が降りてガードレールの下を覗き込んでいるのが見えた。気になった俺は自転車を降りて、男に気付かれないように近づいた。


 しばらく様子を見ていると、男は何かを淵に投げ捨てた。

 それは見覚えのある自転車だった。車にぶつかって歪んだそれが、淵の底に沈んでいく。同時に、傍に浮かんでいたものが目に入る。


 頭から血を流した伸次が、目を開けたまま淵を漂っていた。その目が俺を捉え、僅かに口が動いた気がした。


「伸次いいい!」


 ガードレールに身を乗り出すと、男の冷たい声が聞こえた。


「見たな」


 首に迫る手から逃げて、俺は淵に飛び込んだ。手を伸ばせば届く位置に伸次はいたのに、俺は男から逃げる為に対岸だけを見続けた。


 足がつかないほど深い淵を、溺れかけながら必死に泳いで向こう岸に上がると、男の怒声が聞こえた。


「お前の顔は知ってるぞ! 話したらお前も殺すからな!」


 俺は家に逃げ帰った。今思えば、男の言った事はハッタリだったのだろう。でも俺は怖くて、必死に伸次を探す大人達に本当の事が言えず、ずっと「まだ帰ってない」と言い続けた。


 結局、警察の捜査で夜のうちに男の罪は暴かれた。

 後になって知ったけど、その男は何度も傷害事件を起こしているクズだった。あの時、男は遂に殺人を犯して、逃げようとしている最中だったらしい。猛スピードで車を走らせていたのも、俺を追って来なかったのも、早く遠くに逃げようとしていたからだったとか……。


 男が逮捕されてひき逃げを認めたと聞いた俺は、やっと本当の事を話した。でも大人達は少しも怒らず「よく無事に帰って来てくれた」と泣いていた。


 俺は、それが苦しくてしょうがなかった。生まれて初めて罪悪感を覚えた。淵を漂う伸次の顔が忘れられず、一睡もできなかった。


 明るくなってから、淵に浮いている伸次が発見された。だけど、俺が見たあの頭の傷は綺麗に塞がっていた。


 こんなことがあったから、この事件に関わった大人達はこの話題を避けた。でも、中途半端に聞きかじった人達が面白半分に騒ぎ立て、話はどんどん形を変えて、今に至るまで怪談としてあの地域に伝わっている。




「あの日、俺が山に行かなければ、伸次はまだ生きていたのかな」


 俯きながら呟くと、四辻は何を思ったのかハンカチを渡してきた。


「やっぱり伸次は、俺を恨んでいたんだな」


「それは違います。伸次君をここに呼び寄せ、悪霊に見せているのは、あなた自身の罪悪感です」


 見上げれば、四辻の鋭い視線とぶつかった。


「伸次君が一度でも恨みの言葉を口にしましたか? 伸一さんが彼を強く思ったから、彼はあなたを見つけてここに来たんです。もしかしたら、今度こそ自分の願いを叶えてくれるかもしれない、と期待して」


「それは理由にならないだろ。伸次は息子にあんなことをしたんだぞ!」


 怒りとも、恐れともいえない気持ちが溢れだす。


 そんな時——


「だって、やっと伸一を見つけたんだもん……」

 伸次がポツリと呟いた。俯いたその姿が、ふと、叱られた息子の姿と重なった。


 四辻の顔を見れば、コクリと頷いている。


 あの怪奇現象の全てを——所詮子供のやった事——と割り切れってことか?


 ため息が漏れた。


 でも、そうか……。大人になった俺と違って、伸次は子供の頃のままなのか。俺と遊びたくて、追いかけてきたあの頃のまま……。


「ごめんな」


 一言そう呟くと、伸次は頷いて手を伸ばしてきた。


 ——これは、たしか仲直りの合図だったな。


 小さな手を握ってやると、伸次は笑みを残して消えてしまった。


「何だよ。こんな騒ぎを起こした癖にもう消えるのか? 俺に何をして欲しかったんだよ。俺がお前にしてやれる事は、もう、何も……」


「ありますよ」


 声の方に視線を向けると、逢が微笑んでいる。


「伸次君は、ずっと迎えが来るのを待っていたんです」


 「おいていかないで」と言った、伸次の顔を思い出した。


「たった今、調査チームから連絡がありました。伸次君のご遺体を無事に回収したそうです」


「……すぐ迎えに行く。今度は一緒に帰ろうって、伸次に伝えておいてくれ」




 伸次の骨を墓に収めてから、南淵の近くで事故は起こらなくなったらしい。きっと伸次はそこにいるって気付いてほしくて、通りかかる車に悪戯を仕掛けていたのかもしれない。


 息子も今では元気に学校に通っている。妻も調子を取り戻した。


 だけど、あの淵はまだそのままになっている。何であれがそこにあるのか、どうして見繕うのかも、まだ謎のままだ。


 四辻達には忘れろと言われたが、簡単に忘れられるものじゃない。


 時々思う。痛みで体を動かせず、成す術なく水に沈む中、伸次はあの淵の底で——何を見てしまったのか。


 想像する度、淵を泳いだ記憶が甦る。あの時、微かに聞こえた伸次の声が耳から離れない。


「あれがこっちみてる。こわいよ、しんいち……おいていかないで………………」



 ごめんな……伸次……。





 終

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あの淵の底で—— 木の傘 @nihatiroku

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