第七歌

「パペ・サタン、パペ・サタン、アレッペ」

 プルートーは、しわがれた声で話し始めた。


 全てを承知している優しきウェルギリウスは、ダンテを励まして言った。

「恐怖で自分を見失わないようにしなさい。この者が、どれほど力を持っていようが、私たちがこの崖を降りる邪魔をすることはできないはずです」

 そして、膨れ上がった顔に向かって言った。

「静まれ、忌まわしい狼よ。自らの怒りで煩悶はんもんするがよい。私たちが深淵に向かうのは、理由あってのこと。天使ミカエルが傲慢にも神に叛逆し、天罰を下された天界で望まれていることなのだ」

 風ではらんだ帆が船のマストに絡み落ちるように、残忍な獣プルートーは地面に崩れ落ちた。


 こうして、ダンテたちは、宇宙の全ての悪を集めたような苦難の崖をさらに下へと第四の圏に降りていった。


 神よ、正義よ。いったい誰が、私が目にした多くの苦しみを集めることができるのでしょう。なぜ、私たちは、罪によってこれほどまでに失わなければならないのでしょう。


 メッシーナ海峡に住む怪物カリュブディスは、波をぶつけて渦巻きをつくり全てを砕くように、ここの魂たちも円を描きながら踊らされている。

 ここには、他の圏よりもはるかに多くの魂たちがいた。

 彼らは、大きな叫び声を上げ、右側と左側の両方から向かうように、重りを胸で押し転がしていた。

 両側から互いに進み、ぶつかると、それぞれ向きを取って返し、重りを転がしながら罵声を浴びせあう。

「なぜ、貯蓄する」

「なぜ、浪費する」

 このように魂たちは、暗い円に沿って互いに罵りあい叫びながら、反対側に戻っていく。やがて、再び出会うと互いに踵を返し、半円を描きながら、再度、反対側に向かうことを繰り返す。


 胸を痛めたダンテは尋ねる。

「ここにいる人々は誰なのですか。左手にいる頭を剃った者たちは聖職者なのですか」

「ここにいる者は、現世で、知性が心を歪め、適切にお金を使うことができなかったのです。彼らは、真逆の罪によってこの圏でふたつに分けられていますが、それらが出会うとき、彼らが発する言葉からそれぞれの罪がはっきりとわかるでしょう。覆いもなく頭を剃った者たちは聖職者です。法王や枢機卿すうききょうたちも含まれています。こうした者たちほど、金銭に貪欲なのです」

「悪に染まり穢れたこの者たちの中に、何人か私にも見つけ出せそうです」

「それは無駄な考えです。生前の貪欲さが彼らを汚し、今や見分けのつかないほど、真っ黒に汚れ切っています。永遠にふたつの点でぶつかりあい、最後の審判の日に、一方は拳を握りしめ、他方は髪を剃られ、墓から蘇るでしょう。使うことに執着し、あるいは、蓄財に執着したために美しき天界に行けず、こうして罵り合う羽目になっているのです。この騒動に美辞麗句を添えようとしても無駄なことです。たまたま手に入れた富が、いかに儚いものか。人は富をめぐって争いますが、この地上で、過去から現在に至るまで、富は、この疲れた魂たちの誰ひとりとして、安らぎを与えることはできなかったのです」


「もっと教えてください。今、触れられた運命の女神フォルトゥーナとは何ですか。鋭い女神の爪の間に掴まれたものは何ですか」

「人間は、なんて愚かな生き物でしょう。私の説明をよく聞いて、無知を補いなさい。全てを超越し全てを見渡す神は、それぞれの世界を造り、各世界を導く者を定めました。それらは、自分の世界を輝かせ、一様に光を分け与えるのです。同じように、神は、地上の輝きを導き統べる者を定めました。女神フォルトゥーナは、抗う人間の思いに関わりなく、一時の栄華を民から民へ、一族から一族へと移し替えるのです。彼女の決定次第で、ある者は栄え、ある者は廃れますが、その決定は、藪に潜む蛇のように私たちの目には見えないのです。自身の知恵をもってしても、彼女に逆らうことはできません。彼女は、他の天使たちが使命に専念するのと同じように、先を見越し、備えを固め、判決を下し、使命を全うするのです。彼女は、素早く移り変わることこそが存在であり、世の移り変わりを儚く感じる者が多いのもこのためなのです。本来なら、彼女を褒め称えてもおかしくない人々からも不当に罵られ、非難され、忌み嫌われています。しかし、彼女は神の至福を得て、恨む言葉を発することはありません。他の天使たちと共に、自分の世界を巡り、喜び、楽しんでいるのです」

 そして、ウェルギリウスは付け加えて言った。

「さあ、さらに激しくなる苦しみに向かい降りていきましょう。私たちが歩み始めたときに昇り始めた星は、すでに沈みかかっています。立ち止まらずに行かなければなりません」


 ダンテたちは、圏を横切り、反対側の泉が湧き出す場所に着く。泉から溢れた水は、溝の中へと流れ込んでいた。

 水は、紫紺よりも遥かに暗い。

 ダンテたちは、道ならぬ道に分け入り、黒く濁った水の流れに沿い降りていく。この暗澹あんたんたる流れは、邪悪な灰色の崖を落ち、ステュクスという名の沼となっていた。

 ダンテが沼を眺めると、沼の中に泥まみれの人々が見えた。みな裸で、怒りに荒れ狂っている。彼らは、手だけでなく、頭で、足で殴り合い、体をぶつけ合っている。相手だけでなく自分の肉でさえも、一片また一片と歯で食いちぎっている。

 ウェルギリウスは言った。

「あなたが見ているのは、憤怒に打ち負かされた者たちの魂です。また、どこを向いても水面に泡が立っているのが見えるように、この水面の下にも嘆く者たちがいるのです。沼の底に押し込められ、彼らはこう言っています『太陽の光を浴び喜びにわくときでも、私たちの心は、怠惰に任せ、憤怒の気持ちが燻ぶっていたのです。だから、今も黒い泥の中で悲しみにむせぶのです』と。彼らは、祈ろうとも、言葉をはっきりと話すことができず、喉元だけで唱えるだけなのです」

 泥を飲み込む者たちを見ながら、ダンテたちは乾いた崖と泥の沼の間を歩いた。


 沼が描く広大な円弧を廻り、塔の下に辿り着いた。

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