神曲リノベーション・地獄篇

Dante_Alighieri

第一歌

 人生の半ばを過ぎたダンテは、我に返ると暗い森の中を彷徨さまよっていた。

 森は深く鬱蒼うっそうとしていて、後にも先にも道は見えなかった。

 引き返すことのできないこの世界を語ることは恐怖でしかないが、死とも言える苦しみの中で見つける真実を伝えるため、ダンテは、この世界でのできごと全てを語ろうと決意していた。


 道を見失ったとき、ダンテの意識は朦朧もうろうとしていた。どのようにして、この森に迷い込んだのかさえ覚えていない。

 ダンテは、それでも歩き続け、丘陵のふもとに出た。恐怖でしかなかったかたわらの谷は、もう見えなくなっている。

 見上げると、太陽は丘陵を照らし、人々を正しい道に案内するかのように輝いている。ダンテを夜どおし苦しませ続けてきた恐怖は、いくらか和らいだようだ。

 荒海から岸へと息せき切って逃れた者が、振り返って波を見るように、ダンテは逃げ出したい気持ちを抑えて、今まで辿ってきた、人が生きては帰れぬ道を振り返った。


 ダンテは、疲れた身体を少し休め、人気のない丘陵をゆっくり登り始めた。

 坂を登り始めるとすぐ、まだら模様の毛皮をまとった俊敏なひょうが現れた。豹は、ダンテの目の前から離れようとせず、行く手を阻む。ダンテは、引き戻そうかと逡巡した。

 空は明るくなり、かつて神が星を動かし始めたときと同じように、太陽は牡羊座を従えて昇っている。この輝かしい時刻と爽やかな季節は、ダンテの斑の獣への恐怖を消し去っていった。

 しかし、次の瞬間、ダンテの前に獅子が現れ、新たな恐怖を生み出した。獅子は、頭を高くもたげ、飢えのために怒り狂いながら、ダンテに迫ろうとしている。

 周囲の空気が震えている。

 なんということか、ダンテの前に更に痩せこけた雌狼が現れた。その姿と眼光は人々に恐怖を植え付ける。これまで多くの人々を悲劇の淵へと追いやってきたことが、容易に想像できた。

 ダンテもその恐怖に圧し潰され、丘陵の高みに登る望みを失った。

 人は、財を成したときは喜び、失うときはそれ以上に嘆き悲しむ。ダンテは、獣たちによって、森を抜けた喜び以上の絶望を味わっていた。

 獣たちは、一歩また一歩と迫ってくる。


 ダンテは、太陽の光が差さぬ場所へと押し戻された。再び現れた暗き森の谷に堕ちそうになったそのとき、長きにわたり沈黙し、今まで気づかれなかった人影がおぼろげに見えた。

 ダンテは、人影に向かって叫んだ。

「助けてください。あなたが誰であろうと、たとえ影であろうとも構いません」

「そう、私は、かつては人でした。しかし、今は人ではありません」

 人影が姿を現し答えた。

「私は、北イタリアのロンバルディア州マントヴァの出身です。ユリウス・カエサルの治世下の晩年に生まれ、嘘と偽りの神々の教えの時代、賢帝アウグストゥスの統治下のローマに生きました。詩人である私は、誇り高き都イーリオンが焼け落ちたとき、トロイアから逃れたアンキーセースとその息子のアイネーアースの物語を『アエネーイス』に歌いました」

「あなたは、言葉を紡ぐ詩の源流となったウェルギリウスなのですか」

 ダンテは、俄かには信じられなかった。

「ウェルギリウスは、全ての詩人の誉れであり、しるべである光となる存在です。私は、あなたの叙事詩を愛し、研鑽を重ねてきました。あなたこそが、私の師であり鑑です。私の文体はあなたの詩法を学んだものです。どうか、このような私に情けをお掛けください」

「あなたは、なぜ、暗い森の苦しみの中に戻ろうとしているのですか。なぜ、あの丘陵の頂こそが至福の源であるのに、高みに登ろうとしないのですか」

 ダンテは、驚きながらもおもてを下げて、ウェルギリウスの質問に答えた。

「私が後戻りしているのは、そこにいる獣たちのせいなのです。名高き賢者よ、私を心底から震え上がらせる獣たちから救ってください」

 ダンテが涙する姿を見て、ウェルギリウスは答えた。

「この地から抜け出したいのなら、あなたは別の道を行かねばなりません。この獣たちは、どんなに叫ぼうとも道を通ることを許さず、しまいには、あなたを殺してしまうでしょう。獣たちは、生まれながらに邪悪であり罪深い。欲望は満たされることは決してなく、次から次へと獲物を求めます。猟犬が現れ、獣たちを駆逐するまで、獣たちは交わり、これからも増えていくでしょう」

 ウェルギリウスは、猟犬の話を続けた。

「フェルト帽を被る双子座のカストールとポリュデウケースの間から生まれるこの猟犬は、土地や貨幣を欲せず、智と愛と徳を糧とします。建国のために乙女カミラ、エウリュアロス、トゥルヌス、ニーソスが命を投げ打ったというのに、今や貶められたイタリアの救いと猟犬はなるはずです。全ての都市から獣を狩り立て、最初に堕天使ルシファーが獣を解き放った場所『地獄』へと封じ込めるのです」


 ウェルギリウスは、ダンテに言った。

「あなたにとって最善の選択は、私についてくることです。私が導き、この永劫の地『地獄』を通り、あなたを救い出しましょう。地獄では、希望もなく嘆く声を聞き、死をもないことにしたいと叫ぶいにしえの魂たちが苦しむ姿を見るでしょう。また、炎の中『煉獄』では、いつの日か祝福された人々に加わるときが来ることを待ち望み、笑みを浮かべる人々を見るでしょう。その後、あなたが祝福された人々の許に昇りたいと願うのならば、私よりもふさわしい魂にあなたを預け、私は立ち去ることにします」

 ウェルギリウスは、悲しげな表情を浮かべた。

「私は、かつて、天に君臨する神の掟に背いたため、その都市『天国』に入ることを望まれていません。神の力が及ばぬところは全宇宙上どこにもありませんが、統治されているのは天界のみです。神に選ばれ、天国と神の玉座がある天界に行く者は、なんて幸せなのでしょう」


「詩人よ、お願いです、あなたの知ることのなかった神の御名において、私がさらなる苦しみから逃れられることができるよう、その場所に連れていってください。煉獄の入り口、サン・ペテロの門や、地獄で悲嘆にくれる者たちをお見せください」

 ウェルギリウスは、歩き出した。


 ダンテは、その後を追った。

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