第八歌

 話は続く。


 高い塔の下に着くかなり前に、塔の頂に炎がふたつ灯されると、遥か遠くで別の炎が合図を返すのをダンテたちは目にした。

 ダンテは、知をたたえた大海というべきウェルギリウスに尋ねる。

「今の灯りは、何を意味するのでしょうか。合図を交わしたのは何者で、遠くの火は何を答えているのでしょう」

「沼を覆うもやが隠さなければ、合図を送った者が、濁った水の彼方で待っているのが、あなたにも判るはずです」


 弓から放たれた矢であっても、これほど早く空を切ることはないであろう。ダンテは、小さな船が水面をすべるように向かってくるのを目にした。

 船を操る男は叫んだ。

「悪しき魂よ、おまえは、既に我が手中にある」

「プレギュアースよ、今度ばかりはわめいても無駄です」

 ウェルギリウスが言った。

「おまえが、私たちを手中に収めていると思うのは、私たちを船に乗せ泥の沼を渡る間だけのことです」

 詐欺に騙されたと後から聞かされた者が悔しがるように、プレギュアースもやり場のない怒りをどうすることもできなかった。

 ウェルギリウスは、先に船に乗り、ダンテを案内した。船は、ダンテが乗ったときだけ重みでかしいだ。ふたりが船に乗り込むと、古めかしい舳先は亡者たちを運ぶときよりも深く沈んだ。

 船は水を切って進みだす。


 ダンテたちが淀んだ沼を渡っていると、突然、泥だらけの男が現れ、言った。

「まだ、定めの時でもないくせに、ここに来るおまえは誰だ」

 ダンテは答える。

「私は、ここに来ても留まりはしません。それより、汚い姿になり果てたおまえこそ、誰なのか」

「俺は、ここで苦しむ者だ」

「罰を受ける者はここに留まるのだ。全身が泥にまみれようとも、お前が誰か私にはわかります」

 男は、船べりに両手を伸ばす。

 それに気づいたウェルギリウスは、すぐさま男を追い払って言った。

「ほかの犬どもと、泥の中へ消え失せるがよい」

 そして、ダンテの首に手をまわし、頬に祝福の口づけをして言った。

「悪を追い返したあなたを産んだ母に祝福があらんことを。あの男は、現世で傲慢な人間でした。現世で記憶に残るような善行はひとつもなく、ここでも彼の魂は怒りに満ちています。今、王様気取りで威張っている者が何と多いことでしょう。こうした人間は、軽蔑に値する不評を後世に残し、泥まみれの豚のように暮らすことになるのです」

 ダンテは言った。

「私たちが沼を出る前に、彼がこの泥の中に漬け込まれるのを見届けることはできるでしょうか」

「あなたが向こう岸を見る前に望みは叶うでしょう。そう願うのも当然のことです」

 その後、泥まみれの者たちは、寄ってたかって彼を責めていた。

 その様子を見られたダンテは、今でも神に感謝している。

「フィリッポ・アルジェンティをぶちのめせ!」と全員が叫ぶ。フィレンツェの激高した魂は、自分の身体を嚙みちぎっていた。

 ダンテたちは、そこで彼を見放したので、これ以上述べることはない。


 そのとき、まとまった悲鳴がダンテの耳に襲い掛かる。ダンテは目を大きく見開き、前方を見た。

 ウェルギリウスは、ダンテに告げる。

「さあ、いよいよディースの都が近づいてきました。そこには、重罪人たちと悪魔の大群が控えています」

「いくつもの尖塔が、第六圏の谷の中にはっきりと見えます。炎から取り出したばかりのように真っ赤です」

「地獄の下層であなたが見るとおり、内側で永遠の火が燃えさかり、尖塔を赤く焼いているのです」

 ダンテたちは、希望のないディースの周囲を幾重にも取り巻いている奥深い堀へとたどり着いた。城壁は鉄でできているようにダンテには思えた。


 ダンテたちは周囲を大きく巡り、辿り着いた。

「降りるんだ。ここがディースの入口だ」

 船頭プレギュアースが怒鳴った。

 城門の上に、天から降りてきた悪魔が千以上いて喚いている。

「死んでもいないのに、死者の王国をうろつくな」

 ウェルギリウスは合図を送り、ひとりだけで話そうとした。

 悪魔たちは、怒りを抑えて言った。

「おまえひとりで来るんだ。無謀にもこの王国に入り込んだあいつは立ち去らせよ。定めに従わぬ道をひとりで帰らせるがよい。できるかどうか、やらせてみよ。この暗黒の土地を案内してきたおまえは、ここに残るのだ」


 読者よ、ダンテがこの忌まわしい言葉を聞いて、どれほど絶望したことか思い描いてほしい。

 ダンテは、二度と地上に戻れないと思った。


「あなたは、七回以上も迫りくる危機から私を救い、安堵させてくださいました。今にも破滅しそうな私をどうか見捨てないでください。これ以上進むことができなければ、今まで来た道を辿って一緒に戻りましょう」

 ここまでダンテを導いてきたウェルギリウスは言った。

「怖れることはありません。私たちの歩みは、神によって許されているのですから、誰にもさえぎることはできません。ここで私を待っていてください。挫けた気持ちを希望で養い元気を出してください。この世界にあなたを置いていくようなことはしません」

 ウェルギリスは、立ち去った。

 置き去りにされたダンテは不安にかられ「うまくいく」「いかない」という思いがせめぎ合っていた。


 悪魔たちがウェルギリウスに話しかけている言葉は聞き取れなかったが、長く一緒にいることはなかった。悪魔たちは我先にと城壁の中へ駆け込んだ。ダンテたちの敵は、ウェルギリウスの目の前で城門を閉ざした。

 ひとり外に残されたウェルギリウスは。足取り重く引き返してくる。目を伏せ、眉をひそめ、溜息を吐いている。

「この苦難の都に私が入ることを拒む者がいるようです。私が心痛めるようなことがあっても、決して狼狽うろたえないでください。いかなる者が城の中で守りを固めようとも、私はこの闘いに必ずや勝ちます。彼らの思い上がりは、今に始まったものではありません。以前にも地獄の門にかんぬきを掛けたことがありますが、今は門には何もなく開いたままになっています」

 ダンテは、地獄の門を思い出した。

 ウェルギリウスは話を続ける。

「今にも、あなたが目にした死を告げる碑銘が刻まれた門を通り、斜面を降り、圏から圏へと案内もなく向かってこられる方がいる。その方の力でこの都も私たちに開かれることでしょう」

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