第九歌

 ウェルギリウスが引き返し戻ってくるのを見て、ダンテは怖れを表情に出してしまう。黒々とした空は厚い霧に覆われ、遠くまで見えない。ウェルギリウスは、常ならぬ顔色を内へと隠し、耳を澄まして沼に意識を集中し立ち止まった。

「私たちは、この戦いにどうしても勝たねばなりません。さもなくば……いや、あの方が約束されたというのに、天の使いの到着がなんと遅く感じることでしょう」

 ダンテは、ウェルギリウスが言いかけた言葉を呑み込んだことに気づいた。内容が途中で変わったが、ダンテは、言いかけの言葉から悪いことを勝手に想像し、恐怖に駆られた。

「罰として希望を奪われた第一圏の者たちの中で、この悲惨なな窪地の底ディースに降りた者はいるのですか」

 ダンテが尋ねると、ウェルギリウスは答えた。

「私たちの仲間で、今歩んでいる道を辿る者は滅多にいません。しかし、私は以前ここに来たことがあります。死者の魂を肉体に呼び戻すことができる恐ろしい魔女エリクトーの呪文によって、私は呼び出されました。私が肉体から魂を失くして間もないころ、ユダの圏に閉じ込められた魂をひとり連れ出すために、エリクトーは私をディースの城壁の中に侵入させたのです。ユダの圏は最下層にあって最も暗く、全てを包み込んで廻る天球から最も遠い場所にあります。しかし、安心してください。私は、そこまでの道をよく知っています。悪臭を放つ沼が苦難の都ディースを囲んでいますが、今や怒りなしに中に入ることはできません」


 ダンテは、ウェルギリウスの話をそれ以上覚えていなかった。

 突如、紅蓮に輝く高き塔の頂に、怒りで血塗られた地獄の悪魔三体が立ち上がるのをダンテは見逃さなかった。容姿と振る舞いは女性であり、腰には緑色の水蛇を巻きつけ、頭からは大小の蛇を髪のように生やし、それらは、恐ろしげに頭に巻き付き、とぐろを巻いている。

 ウェルギリウスは、永遠に悲嘆にくれる女王に仕える侍女たちのことをよく知っているようだった。

「見てください。残酷なエリーニュスたちです。左側にいるのがメガイラ、右側で嘆き悲しむのがアーレクトー、中央がティーシポネーです」

 三人は、爪で胸を搔きむしり、平手で自分を叩き甲高い声をあげている。ダンテは不安になり、ウェルギリウスに身を寄せた。

「メドゥーサを呼び、おまえを石に変えてやろう」

 三人は下を覗き込んで、口々に叫んでいる。

「地獄を襲ったテーセウスに報いを与えなかったのが失敗だった」


「後ろを向き目をしっかり閉じていなさい。もし、メドゥーサの首が現れ、あなたがその顔を見ようものなら、二度と地上には戻れなくなるでしょう」

 ウェルギリウスは、そう告げると、ダンテの身体を後ろに向かせ、ダンテが目を覆う手の上から手を重ねた。


 健全な知性をお持ちの読者よ、この不思議な詩篇のベールに包み隠されている真意を見抜いてみせなさい。


 まさにこの時、濁った水面にすさまじい音が響き渡り、両岸は激しく震えた。それは、まるで相対する熱波が衝突するときの暴風が発する轟音に似ていた。暴風は、森を引き裂き、行く手を阻むものなく枝を折り、木を倒し、吹き飛ばした。野の獣も、牧場主も逃げまどうほど、風が吹き進む前には埃が巻き上がっている。

 ウェルギリウスは、私の目から手を放し言った。

「神経を集中させ、靄がひと際濃くなっている辺り、太古の泡の上をしっかり見てください」

 蛙は、天敵の蛇が近づくと、立ちどころに水中に消え、水の底にへばりついて身を縮めているように、足を濡らすことなくステュックスの沼を歩いて渡る者が近づいてくると、幾千の魂たちは慌てふためき逃げ去っていくのが見えた。その方は、気に障るように左手で前をしきりに払い、立ち上る濃霧を顔から遠ざけていた。

 ダンテは、その方が天からの使者だと悟った。

 ウェルギリウスは、振り向いたダンテに黙ってその方にお辞儀するように合図した。


 怒りに満ちている様子の天の使いは、扉に辿り着くと小杖で簡単に門を開ける。なんの反撃もなかった。その方が恐怖の入り口で話し始めた。

「天から見放され、神から蔑まれた者どもよ。お前たちは、なぜ驕りたかぶり、神の意志に逆らうのか。望む目的が叶えられたためしは一度もなく、逆らうたびに己の苦痛は増していくというのに、運命に抗って何になる。お前たちのケルベロスは、逆らったがために顎と喉の皮が剝がされた姿になっているのを忘れてはいないであろう」

 彼は、目の前にいる者よりも他のことが気掛かりなようで、ダンテたちに声を掛けることなく、泥の道へと引き返した。


 ダンテたちは、ディースの街に向かって歩き出す。彼のおかげで何も心配することなく中に入ることができた。高い城壁が閉じ込める内側の様子を知りたがっていたダンテは、中に入るとすぐに隅々まで見渡した。そこに見えたのは、果てしなく広がる地にっ満ちている耐え難い苦難ばかりだった。

 ローヌ川が干潟をつくるアルルの街やイタリアのカルナーロ湾近くのポーラの街では、多数の墓標が大地を起伏ある地形に変えているように、ここでも至るところに無数の墓標が起伏をつくっている。

 しかし、その墓の石棺の周りからは、炎が燃え広がり、比較にならぬほどの惨状だった。石棺は炎の熱によって赤く焼かれ、いかなる鍛錬にも十分すぎるほど焼かれている。

 石棺の蓋は開けられ、中からは苦しげな呻き声が聞こえてくる。あまりの痛ましさに、それらは重い罰を受ける者たちの声であることは、すぐにわかった。


 ダンテは尋ねた。

「あのような石棺に葬られ、苦しげな呻き声でしか存在を表せない者たちは、どのような人々だったのですか」

 ウェルギリウスは、ダンテに言った。

「ここにいる者たちは、異端の創始者とその信奉者たちです。あなたが思う以上に、全ての墓にあらゆる異端者が、数多く収められています。ここでは、同門同士が同じ墓に葬られ、墓標を焼く熱も過ちの度合いに応じています」

 ウェルギリウスは右に曲がり、墓と城壁の間を通っていった。

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