第三歌
私を過ぎる者は、悲しみの都に入る。
私を過ぎる者は、永遠の苦悩を得る。
私を過ぎる者は、滅亡の民となる。
正義は、尊い創造主を動かし、
神の力、最高の知、初めての愛は、私を造る。
私の前に、永遠の事象以外はなく、私も永遠に続く。
私を過ぎる者は、すべての望みを捨て去るのだ。
門の頂に黒く記された言葉を目にして、ダンテはウェルギリウスに尋ねた。
「この言葉が意味することが、私には見当がつきません」
ウェルギリウスは、言葉の真意を見透かすかのように答えた。
「ここでは、すべての疑念を捨て、心の弱さは押し殺さねばなりません。私たちは、先に話した場所にやってきたのです。あなたは、知性の恩恵を失った者たちの苦悩する姿を目にするでしょう」
ウェルギリウスは、微笑みながらダンテの手に手を重ねた。ダンテは勇気づけられ、隠された世界へと導かれていった。
うめき声、泣き声、甲高い悲鳴が、星のない空に響き渡っている。悲痛な声を聞きダンテは涙した。苦痛の呻き、怒りの叫び、押し殺した声、それらに混じる打ち叩く音が騒然とし、時のない暗黒の空を旋風に舞い上げられ、砂塵のように果てしなく回っている。
頭が恐怖で満ちたダンテは尋ねた。
「私が耳を塞ぎたくなるこの音はなんでしょうか。苦しみに打ちのめされている姿をさらすのは、どのような人たちなのですか」
ウェルギリウスは、ダンテに答えた。
「この惨めな姿にあるのは、非難されることも褒められることもなく、ただ生きてきた恥ずべき魂たちなのです。彼らは、神に逆らうでも仕えるでもなく、自分のことだけを考える天使たちの邪悪な合唱なのです。天は、美しさが損なわれぬように、この者たちを追放しますが、地獄の深淵も、悪人たちが優位に感じることがないよう、受入れはしません」
ダンテは、尋ねた。
「なぜ、この者たちの罪は、激しく嘆き悲しむほど重いのですか」
ウェルギリウスは、答えた。
「手短に言うと、この者たちには、死して消える望みもないからなのです。無為な人生は下劣であり、今の運命以外なら、どんな運命さえも羨ましく思っています。彼らの名が世に残ることはなく、慈悲や正義も彼らを救うことはありません。彼らの話はやめて、見るだけにして通り過ぎましょう」
目を凝らすと、ひと竿の旗が見えた。一時たりとも止まることなく、凄まじい速さで廻っている。旗の後には、信じ難いほど大勢の人々が続いている。死がこれほどの人々を滅ぼしてきたかがわかった。
ダンテは、その列の中に何人かの見覚えのある者を見つけた。ひとりは、弱い心のために、取り返しのつかない拒否をした者だった。ダンテは、ここが神にも悪魔にも嫌われる卑怯者の集まりであることを確信した。
主体的に生きたことのない卑しい者たちは、そこら中の虻や蜂の大軍に裸の身体を刺しまくられていた。虫に喰われた顔から幾筋もの血が流れ、涙と混じりあい、足元で気味の悪い蛆虫が吸いついている。
目を遠くに向けると、大河の岸辺に集まる人々が見えた。
ダンテは尋ねる。
「教えてください。彼らは何者でしょうか。幽かな光を通して見る限り、向こう岸に渡りたいと強く願う者のようです。なぜなのでしょう」
ウェルギリウスは、ダンテに言った。
「私たちがあの悲しみの大河、アケローン川に辿り着いたときに明らかになるでしょう」
こう言われて、ダンテは恥ずかしさのあまり目を伏せた。ウェルギリウスの気に障ることをおそれて、川に着くまで黙っていた。
川岸を歩くふたりに、ひとりの年老いた男が船に乗り近づいてきた。歳を重ね髪も髭も白いその老人は怒鳴った。
「諦めろ。邪悪な魂たちめ。天を仰げるなどとゆめゆめ思うな。わしがやって来たのは、おまえたちを向こう岸に渡し、灼熱や極寒の永遠の闇の世界へと送るためだ。おい、おまえ! 生きている魂は、死んでいる者から離れるんだ」
しかし、ダンテが立ち去ろうとしない様子を見て老人は言った。
「おまえは他の道を通り、他の港から、もっと軽やかな船で向こう岸に渡るのだ。ここではない」
ウェルギリウスは老人に言った。
「カローンよ、青筋を立てて怒るな。全ては天上が望む意思なのです。これ以上、何も問うな」
この言葉を聞いて、鈍色の川の渡し守は、髭に覆われた頬を静めたが、両眼は怒りの焔の輪を灯していた。
弱った裸の魂たちは、カローンの情け容赦ない言葉を聞き、顔色を変え歯を鳴らした。彼らは、神を呪い、人類の起源を呪い。祖先を呪い、両親を罵った。やがて、彼らは、神をも畏れぬ者を待ちかまえる邪悪な岸辺へと、激しく泣きながら寄り集まった。
悪魔カローンは、炭火のように赤々とした目で彼らを促し船に乗せる。もたつく者は、容赦なく櫂で叩いた。
秋に葉がひとひら、またひとひらと落ち、枝のみになった木が、地面に落ちた葉を見るように、アダムの欠点を受け継いだ者たちは、ひとり、またひとりと、呼び笛に応じる鳥のように、船を飛び降りる。
魂たちが暗い水の中を向こう岸に渡りきる前に、こちらの岸には再び大勢の魂が集まってくる。
「ダンテよ」
ウェルギリウスは、優しく言った。
「神の怒りのうちに死んでいく者は、あらゆる場所からここに集まる。そして、川を早く渡ろうと気を急かすが、それは、神の正義が彼らに拍車をかけるため、恐れが望みに思えてしまうからなのです。この川を善き魂が渡ることは決してありません。ですから、カローンがあなたのことで文句を言おうとも、それは何を意味するのか、今ならよくわかるはずでしょう」
ウェルギリウスがそう言い終えたとき、漆黒の河原が激しく揺れた。
その恐怖は、思い返すだけで全身から冷や汗が噴き出すほどだ。
涙に濡れた大地は、風を起こし、風の中で朱の稲妻が瞬いた。その光に全ての感覚は奪われ、眠りに囚われた者のようにダンテは倒れ伏した。
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