アトリエ 3

「母の亡骸の引き取りなどをしているとき、世話をしてくれたのは、一つ上の階に住む裁縫職人でした。哀れな孤児みなしごをひとり放っておくわけにはいかないと言って、迎え入れられて喜んだこと、今思い返しても悔しいことです。

裁縫職人には娘が二人いて、好き嫌いが激しく、何ごとにつけて自慢ばかりにみえました。家に迎えられてみると、夜に入るとしばしば客がやってきて、酒を飲みはじめると、最後には笑い声とともに騒いだり歌ったりしていました。客は外国の人が多く、あなたの国の学生もみえました。


ある日、裁縫職人が私にも新しい服を着なさいと言ってきましたが、そのときの私を見て笑う男の顔が、なんとなく恐ろしく、子供心ながらうれしいとは思えませんでした。

昼過ぎたころ、四十ばかりの知らない男性が来て、シュタルンベルク湖に行こうと言い、裁縫職人も一緒になってそれを勧めてきました。父が生きていたころに一緒に行ったときのうれしい思い出が、そのときになっても忘れられず、しぶしぶ承諾すると『よく言ってくれた、いい子だね』と褒められました。


連れの男は私を道中優しく扱い、湖に着くとバヴァリアという座敷船ザロンダムフェルに乗って、食堂に行って食事をとらせました。酒も勧められましたが、慣れていないので、遠慮して飲みませんでした。ゼースハウプトに船が到着したとき、男は今度は小舟を借りて、これに乗って遊覧しようと言い出しました。

空が暮れはじて心細くなった私は、早く帰ろうと言ったのですが、男は聞かずに漕ぎ出します。岸沿いに進んで、人気のない葦間まで来たとき、男は舟をそこに停めました。私はまだ十三の年ごろだったので、はじめはなにごとかもわかりませんでしたが、ほどなくすると男の顔色が変わり、私は恐ろしくて我を忘れて水に飛び込んでしまいました。


しばらくして我に返ったときは、湖畔にある漁師の家で、貧しい夫婦のもとで介抱されていました。帰るべき家がないと言い張って一日、二日と過ぎるうちに、漁師夫婦の質朴さに親しみを感じ、不幸な身の内を打ち明けたところ、憐れんで娘として養ってもらうことになりました。ハンスルというのは、この漁師の名前です」


「こうして漁師の娘とはなりましたが、ひ弱な身では舟の舵をとることも叶わず、レオニの近くに住んでいる裕福なイギリス人に雇われて小間使いになりました。信心深いカトリックの養父母は、イギリス人に雇われることを嫌いましたが、私が本を読むことができるようになったのは、この家の雇われの女教師グェルナントの親切心のおかげです。


女教師は四十余りの貞淑なオールドミスで、尊大な態度の家の娘よりも私に深く目をかけて、三年ほどのうちに、多くはありませんが教師の蔵書はことごとく読んでしまいました。読み間違いも多いでしょうし、読んだ本の種類もまちまちでした。クニッゲの人間交際術があれば、フンボルトの国家福祉論もありました。ゲーテ、シラーの詩抄をきっかけにしてケーニッヒの通俗の文学史をひもとき、あるはルーブル、ドレスデンの美術館の写真集を繰りひろげて、テーヌの美術論の訳書を読み漁りました」


「昨年、イギリス人が一家を率いて国に帰ったのちは、しかるべき家に奉公しなければと思いましたが、身元が良くなかったので、よいところの貴族には雇われず、この学校のとある教師に、思いがけず見出されて絵のモデルとなったが縁となり、ついには学校でのモデルの認可を受けることとなりましたが、私をあの名高きシュタインバッハの娘だと知る人はいません。


今は美術家たちに混じって、その日一日がただ面白ければよいと思って過ごしています。さりとて、かのグスタク・フライタークの言葉通り、美術家ほど世に行儀の悪いものはいないので、独り立ちして交流する際には少しも油断することはできません。彼はさすがに大作家、絵空事を言ったわけではありませんでしたね。

あまり近かづきすぎず、さし障りないようにしなければと思っているうちに、図らずもご覧のように風変わりな曲者となってしまいました。最近は自分は本当に狂人になってしまったのではと疑ってばかりです。狂ってしまったのはレオニで多くの文章に触れすぎたことが、すこし祟りをなしたかとも思ったのですが、もしそうであれば、世で博士と呼ばれる人たちはいったいどんな狂人なのでしょうか。


私を狂人だとけなす芸術家たちはむしろわが身が狂人たりえないことを憂えないといけませんね。

英雄豪傑、名匠大家となるには、多少の狂気なくして叶わないことは、セネカの論説や、シェイクスピアの言葉を持ち出すまでもないでしょう。

見てください、私の学問の博識さを。そして私が狂人であってほしいと願っている人たちが、狂人となりえないこと見ている私の、もの悲しさを。


狂人にならないでよい国王は狂人になったと聞きますが、それもまた悲しいことです。悲しいことばかりが多いので、昼は蝉とともに嗚咽し、夜は蛙とともに袖を濡らしますが、同情してくれる人さえいません。しかし、あなただけは私を蔑んで薄情に笑うことはないでしょうと思いました。どうか、心の赴くままに語ったことを咎めないでください。


あぁ、こう言ってしまうのも狂気でしょうか」

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<現代語訳> うたかたの記 @yzkzk

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