アトリエ 2

少女は前の藤椅子に腰かけて語りだした。

「まずは何から話しましょうか——。

この学校でモデルの仕事の許可を受けたとき、ハンスルという名を称しましたが、それは私の本当の名前ではありません。父はシュタインバッハという、今の国王に気に入られ、ひととき持てはやされた画家でした。


私が十二のとき、両親ともに王宮の冬園ヴィンテルガルテンで開かれた夜会に招かれました。

宴もたけなわになったころ、国王の姿が見えなかったので、人々が驚いて、各地から移し植えた熱帯植物が深く茂るガラスの屋根の下、そこかしこを捜し求めました。庭園の片隅には、タンダルチヌスの彫刻による、ファウストと少女の名高い石像がありました。


父がそのあたりに来たとき、胸が裂けるような「助けて、助けて」と叫ぶ声がありました。声をたよりに、黄金の円天井で覆われたあずまやキオスクの戸口に近寄ると、周りに茂る棕櫚しゅろの葉の隙間から、ガス灯の光があずまやの色鮮やかなステンドグラスに差し込んで、屋内に薄暗く不思議な影かたちを映しだしていました。

父は、そこに一人の女性が逃げ込もうとしているのを見つけました。その後ろを追いかけるのは国王ルードヴィヒ二世でした。その女の顔を見たときの父の胸裏はいかほどであったでしょうか。――女性は私の母でした。


父はあまりのことに一瞬だけ躊躇しましたが、『お許しください、陛下』と叫んで王を押し倒すと、その隙に母は走って逃げたのですが、不意を打たれて倒れた王は、起き上がって父に組み付きました。恰幅があり力の強かった国王に、父がどうして敵いましょうか。父は組み敷かれて、かたわらにあった如雨露じょうろでしたたかに打たれました。この騒動を知って王を諫めた、内閣の秘書官ツィーグラーはノイシュヴァンシュタインにある塔に投獄されそうになりましたが、さる人物によって助命されましたとのことです。


私はその夜、両親が帰ってくるのを家で待っていました。下女がやってきて『ご両親がお帰りになられました』と言うので、喜んで出迎えると、父は担がれたまま家に戻り、母は私を抱いて泣いていました」

少女はしばらく押し黙った。


今朝方から曇りはじめた空は雨にかわり、ときおり窓をうつ雨粒がはらはらと音を立てる。

巨勢は言った。

「王が精神を病んでしまい、シュタルンベルク湖の近く、ベルン城に移ったということは、昨日の新聞で読んだが、当時からその気配があったのだろうか」

少女は言葉を続けた。

「王が賑わう場所を嫌って、田舎に住まわれ、昼ごろにご就寝されて夜お目覚めになるようになってから、もうずいぶんと長くなります。

ドイツ、フランスとの戦争があった折、カトリック派の国会に打ち勝ってプロシア側についた壮年のころの功績は、次第に暴政のうわさで損なわれてきました。

公言するものこそいませんが、陸軍大臣メルリンゲルや大蔵大臣リイデルなどを理由もなく処刑しようとした事件を、国王の周辺の者たちが隠蔽していること、知らぬ人はいません。


王が昼に寝ていらっしゃるときは使用人たちはみな退室させられますが、うわ言で『マリイ、マリイ』とおっしゃると言うのです。何度もそのうわ言を聞いたものもいると聞きます。


私の母もマリイといいました。叶わぬ恋のために王の躁鬱は長患いをしたのではないでしょうか。母の顔立ちは私に似たところがあり、その美しさは、宮中でもたぐいまれであったと聞いています」


「父は間もなく病で亡くなりました。交遊が広く、もの惜しみせず、世間のことには極めて疎かったので、家に遺産はまったくありませんでした。

それ以降はダハハウエル街の北の果て、裏家の空いた二階を借りて住んでいましたが、そこに移ってから、母も病気になってしまいました。このようなときに無情にも枯れ果ててしまうのが、人情という花の道理というものでしょう。数知れない苦しいできごとによって、私の幼い心は早くも世の人への憎しみを抱くことになりました。

明けた年の一月、謝肉祭のころでした。家財衣類一切を売り払ってしまい、かまどの火をおこすことさえ満足にできなくなったために、貧しいこどもの集まりに混じって私もすみれを売ることを覚えたのです。母が身罷る前の三、四日ほどを心安らかに生活できたのは、あなたからいただいたお金のおかげです」

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