アトリエ 1

何かに憑かれたような少女が出ていくと、ほどなくして酒宴は散会となった。


帰り路でエキステルに尋ねると

「美術学校のモデルの少女のひとりでフロイライン・ハンスルというものだ。見てのとおり、突飛な振る舞いをするため狂女だとも呼ばれ、またほかのモデルの娘と違って、人に肌をみせることがないので、なにか身体に障害を抱えているのではと噂するものもいるが、経歴を知るものはいない。気性が激しいところはあるものの、教養があり、卑しいことには関わらないので、美術学校の仲間には、好んで友として交流するものも多くいる。よい顔立ちなのは見ての通りだ」

と答えた。


巨勢は「僕の描く絵にもモデルがいるに越したことはない。アトリエの準備ができたら来てほしいと伝えてくれないか」と頼んだ。

「心得た。しかし十三の花売りの子ではないし、ヌードの手本にとしては、不適切かもしれないよ」

「ヌードのモデルはしない人だと君が言ったばかりだが」

「あぁ、現にそう言ったよ。だが額に口づけをするのだって、今日はじめて見たんだ。君は特別なのかもしれない」

エキステルのこの言葉に巨勢は赤面したが、シルレル・モヌメントのあたりの街灯は暗く、この友に顔を見られることはなかった。


巨勢のホテルの前で二人は別れた。


* * *


一週間ほど後のことであった。エキステルの紹介で、美術学校のアトリエ一間が巨勢に貸し出された。南側が廊下で、北面の壁はガラスの大窓に半分占められ、隣室との隔てにはただ帆木綿の仕切りが一枚あるだけだった。六月の半ばであったが、旅行に出ている学生も多いためか隣室に人は居らず、画業を妨げる余計な心配がないことに巨勢は喜んだ。


画額の架台スタッファージュの前に立って、今入ってきたばかりの少女にローレライの絵を指し示した。

「君に聞かせたのはこの絵だ。面白そうにふざけながら笑っている横顔のときには気がつかなかったが、ふっとした一瞬の折々に、君の面影がこの絵の女の子にとてもふさわしいと感じる瞬間があるのだ」


少女は高笑いすると、

「もの忘れしないでくださいね。あなたのローレライの本当のモデル、すみれ売りの女の子とはこの私だと、先日の夜に告げたではありませんか」

そういってにわかに真面目な顔つきで

「あなたが私の言っていることを信じられないのは無理ならないこと。世間の人みなが私を狂女だと噂すれば、そう思ってしまうでしょうね」

と言う。


この声は戯れには聞こえなかった。巨勢は半信半疑であったが、ついには少女に語りかけた。

「周囲の声をあまり気に病むことはない。今も僕の額には、君の唇の熱さが残っている。ひとときの冗談だと思って無理にでも忘れようとしたこと、何度あったろうか。しかし迷いはついに晴れないままだ。痛ましい君の本当の身の上を、よければどうか聞かせてくれないだろうか」


そう言うと、窓の下にある小さいテーブルの上の、さきほどバッグからとり出した絵入りの古新聞、使いさしの油絵具の錫筒、巻きたばこの端が残った粗末なキセルなどを載せた片隅に巨勢は頬杖を突いた。


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