カフェ・ミネルヴァ3

マリイは巨勢の話の途中から顔色が変わり、じっと彼の唇を見つめると、ジョッキをもった手まで震え出した。


巨勢ははじめてこの酒宴に混ざったときから、少女があのすみれ売りに似ているのに驚いたが、話に聞き入ってこちらを見つめる彼女の眼差しは、間違いなくあのときの瞳であると感じた。


それともこれもすみれ売りの幻影の仕業であろうか?


話しおえたとき、少女はしばらく巨勢を見ていたが、

「あなたはその後、再び花売りを見てはいないのかしら?」

と問いかけた。

巨勢はすぐに言葉が出てこないようであったが

「いいえ。花売りを見たその日の夕方には汽車でドレスデンに向かったので。

しかし、どうかこのぶしつけな言葉に気分を悪くしないで聞いてほしい。思い巡らせたすみれ売りの顔も、ローレライの絵に描かんとする顔も、いつも同じように浮かんでくる顔はまさしくあなたの顔そのものだ」

と切り出した。これには周りの人々も声高く笑い出した。


少女は

「どうやら、額装された絵画ほど美しいこの私の顔のせいで、あなたと私の間にもその花売りの子の幻が入り込んでしまったようね。私を誰と思ってのことかしら」

と立ち上がった。


さらに真面目ともふざけているとも分からない声で

「そうね、私こそはそのすみれ売りよ。今こそ、あのときあなたに憐れんでもらったお返しをしなければね」

と言うと、少女はテーブル越しに伸びあがり、うつむき加減の巨勢の頭を両手で抱えて持ち上げるとその額に唇を寄せた。


そのとき、少女の前にあったジョッキが倒れ、こぼれたビールはスカートを濡らし、テーブルの上に蛇が這うように跡を残しながらまわりに向かって流れ落ちた。

巨勢は掌の熱さを耳の上におぼえ、それに驚く間もなく、これよりも熱い唇が額に触れるのを感じた。


「友人の目を回させようなんて真似はよせ」とエキステルが呼びかけた。

テーブルに座っていた人たちは半分ほど立ち上がっていた。


「なんという戯れなんだ」

とひとりが言えば、

「悔しいが、僕らは継子らしい。実の子の巨勢君ほどの愛情をマリイから受け取ったことがないからね」

と他のひとりが冗談を言って笑い、ほかのテーブルの皆も、興味ありげに見守った。


少女の横に座っていた一人は

「僕にもしてくださいよ」

と言って、右手を差し出すと、もう一方の手を少女の腰にまわした。


「なんて礼儀知らずな継子たちだこと。あなたたちにふさわしいキスの仕方はこうよ」

少女は叫ぶと、手を振りほどいて突っ立って、美しい目から稲妻でも出てくるかのごとくまわりを睨みつけた。

巨勢はただただ茫然自失だったが、このとき見た少女の姿はすみれ売りにも、ローレライにも似ず、さながら凱旋門の上に屹立した女神バヴァリアのようだな、と思っていた。


少女は誰かが飲んだコーヒーに添えられた水のコップをとって、中の水を口に含むや否や、周りの人々に水を吹きかけた。

「あんたたちは継子よ、継子。

あなたたちの誰が美術の継子じゃないと言えるの。フィレンチェ派を学べば、ミケランジェロやダヴィンチの生き写しの幽霊、オランダ派で学べば、ルーベンスやファンダイクの幽霊じゃないの。この国のアルブレヒト・デューラーに学んだところで、アルブレヒト・デューラーの幽霊じゃないほうが珍しいくらいよ。

おまけに画廊に置いた習作スツヂイの二つか三つ、ちょっといい値段で売れたあかつきには、やれ七星だ、いやいや十傑、十二使徒だなんて尊大に自分たちを見立てうぬぼれて。

このような屑連中にミネルヴァの唇がどうして触れるっていうの? 私の冷水ので十分でしょうよ」


吹きかけた霧のもとでのこの演説、巨勢は何事か判然とはしなかったけれども、当世の絵画を卑しめる風刺だろうとは推察されて、その表情を仰ぎみると、女神バヴァリアに似ていると感じた威厳は全く崩れることはなかった。


少女は言い終わってテーブルの上、酒で濡れた手袋をとると、大股歩きで店を出ていこうとしていた。


みな驚愕した表情のなか、ひとりが

「狂人だ」

とつぶやけば、またひとりは

「近いうちに仕返ししなきゃ終われないね」

と吐き捨てた。

少女は戸口で振りむいて

「恨みに思うようなことなんて何もないでしょう?

月の光に透かして額をごらんなさいよ。どこに血の跡が残っているっていうの。水を吹きかけただけじゃない」

と捨て台詞を吐いて出ていった。

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