カフェ・ミネルヴァ2

巨勢は緊張した面持ちでこそあったが、流暢なドイツ語で語り始めた。

「私がミュンヘンに来たのは、今回が初めてではありません。六年前にもザクセンに行く途中、ここミュンヘンに立ち寄りました。そのときには美術館ピナコテークに飾られた絵画を鑑賞するだけで、美術学校の皆さんと交流を持つことができませんでした。

そのときは故郷を出たときからの目的であったドレスデンの美術館へ行くことだけに思い焦がれていたのです。しかし再びここにやってきて皆さんとの団欒にお邪魔することができましたので、私がミュンヘンにきた理由を、当時の話をしながらお聞かせまいたしましょう」


「大人げないことだと思って聞いてください。

謝肉祭カーニバルの最後の日のことです。美術館ピナコテエクの建物から出ると、雪がちょうどやんで、街の中通りの並木の枝々が薄い氷に包まれて、点灯したばかりの街灯の光できらきらと輝いてみえました。私は、カーニバルを祝う仮装を身に着けて白や黒の仮面をかけた大勢の人が行き交う往来や、あたりじゅうの窓に垂らされているフェルト飾りを見物しながら歩いていました。


カルルの辻にあるカフェ・ロリアンに入ってみていると、客たちはおもいおもいに競いあうような派手な色合いの仮装をまとい、その中に混じると普段服すらも仮装をしているかのように映えてうつります。みな、コロッセウムやヴィクトリアといった舞踏場が開くのを待っていたのでしょう」


このように語るところ、白エプロンを掛けたウエイトレスが、泡だったビールがこぼれそうなほど注がれた、あの大きなジョッキを四つか五つ、取っ手を寄せて両手に握って持ってきた。


「新しい樽から注ごうとしていたら遅くなっちゃいました。ごめんなさいねぇ」と断りながら、ジョッキが空になった人々にビールを渡しだした。少女は「こっち、こっちよ」と呼び寄せて、まだ酒がなかった巨勢にもビールを置かせた。


巨勢は一口それを飲むと、続きを語りだした。

「僕も片隅の長椅子に腰かけて、賑わっている店内をしばらく眺めていると、門戸が開いて薄汚れた十五歳くらいのイタリア栗の売り子が入ってきた。焼き栗を盛った紙包みをうず高く積んだ箱を小脇に抱えて『皆さん、栗はいかが?マロオニイ、セニョレ』と呼びかける声は堂々としたさまでした。

その後ろに続いて十二、三歳とみえる女の子も入ってきました。古びた鷹匠頭巾カプウチェを深々と被って、凍えて赤くなった両手をのばし、その先で底浅の目籠の縁を掴みもっていた。目籠には常盤木の葉が重ね敷かれ、上にはこの時期には珍しいすみれの花束を愛らしく載せて、『すみれはいかがですかファイルヘン、ゲフェルリヒ』とうなだれたまま顔をあげることもせずに呼びかけていた。そのときの澄んだ声は今も忘れられない。

栗売りと女の子は商売仲間のようには見えなかったので、栗売りが入るのを待って、それを機に女の子もここに来たのだろうと思いました」


「ちょっとばかし小生意気な栗売り、優しく愛おしげなすみれ売り。この二人の対照的な姿は、すぐに僕の目に留まった。


二人が人込みの間をかき分け、座敷の真ん中、帳場の前あたりに来たときでしょうか。そこで休憩していた大学生らしき男の連れた、イギリス種の大きな犬が、今まで腹ばいでいたのに、急に身を起すと、背中をくぼめ、四脚を伸ばして栗売りの栗の箱に鼻を差し込んできた。それを見た栗売りは犬を払いのけようとすると、驚いた犬が、後からついてきた女の子に突き当たってきた。


女の子は『あっ』と怯えた声を出して、手に持った目籠を取り落としてしまった。茎を薄錫で巻いたすみれの花束は、きらきらと光ってあたりに散らばり、その犬はいいものを見つけたとばかり、それを踏みにじったり咥えて引きちぎりだした。周りの客がこの様子をただ嘲り笑ううちに、花束は、落花狼藉、靴の雪が暖炉の熱でとけた床で泥水にまみれるままに乱れ散ってしまった。栗売りはさっさと店を出ていって逃げ去り、学生らしき男はあくびをしながら犬を叱りつけるだけだった。


女の子はあっけに取られて見守ることしかできない。泣くのを堪えることができたのは、日々の艱難辛苦に慣れすぎて涙の泉も枯れ果てたのか、そうでなければあまりのことに驚きすぎて、一日の生計たっきを失ったことまで思い至らなかったのでしょう。


しばらくして、女の子は散乱した中に残った花束を二つ三つ、力なく拾おうとしたところに、帳場にいる女からの知らせで、ここの店主が出てきた。赤ら顔で腹の突き出でた、白いエプロンをした男だっただろうか。太い拳を腰にあてて、花売りの子をじっと睨みつけると、

『俺の店では、そういったこすい商売をする暖簾師ハウジイレルみたいな稼業はさせない決まりなんでね。さっさと出ていきな』

と言い放った。


女の子は言い返す言葉もなく出ていくと、店中の客たちは一滴の涙の同情もかけず、ただただそれを見送るだけだった。」


「僕はコーヒー代の白銅貨を帳場の石板の前に投げ、外套を持って店を出ると、花売りの子は一人さめざめと泣きながら通りを歩き、僕が呼べども、呼べども振り向きもしない。

追いついて『さぁ、いい子だ。これはすみれの代金だ。受け取りなさい』と言うのを聞いて、初めてこちらに顔を向けた。その眉目の麗しさといったら、濃藍の目には底知れぬ憂いをのぞかせ、ひとたびその瞳を見つめられただけで胸を締めつけられる思いがした。


バッグの中にマルク硬貨が七、八枚あったので、籠の木の葉の上において与え、女の子が驚いて何も言わないうちに、立ち去ったが、その顔やその眼はいつまでも目に焼き付いて離れることはなかった。


ドレスデンに着いたのち、美術館の絵画を模写する許可を得て、ヴィーナス、レダ、聖母マリア、ヘレナといった絵画を目の前にすると、不思議なことに、すみれ売りの顔が霧のように僕と絵画の間に割り入って邪魔をする。こうなってはどうやっても僕の筆は進なない。

この悩みで、旅館の二階で、座した長椅子の革に穴が開くほどに引き籠って憂いた時期もあったが、ある朝、大勇猛心を奮い起して、自分の力の限り込め、この花売りの娘の姿を絵にして、永遠の形に残そうと思い立った。


しかし、そう思ってはみたものの、僕がみた花売りの瞳には、春の潮を眺める喜びの色も、まして夕暮れの雲を見送る夢見心地も見いだせない。白鳩の一群が舞う空の下で、ローマ遺跡の中で立ちつくす絵は相応しくはない。


空想めぐる中で、あの乙女の姿を、ライン川の岸の岩根に佇ませ、手に琴を一張り取らせ、悲哀の嗚咽にむせぶ精霊ローレライに写し取ろうと決めた。——その下に流れる河には一隻の小舟を浮かべ、彼方に向かって両手を高く上げて、限りなく愛おしい表情を見せている。舟のまわりには数知れぬほどのニックセンやニンフといった水の精霊や人魚たちの姿が波間より出てきてそれをからかっている。


今日このミュンヘンにやってきて、しばらく美術学校のアトリエを借りるのも、皆の意見を聞きながら、カバンの中のこの一枚の素描を完成させようとだけ願ってのことだ」


巨勢は自分でも気がつかず話に熱が入り、こう言い終えころには、黄色人種モンゴリアン特有の細い目の眼光は鋭さを増していた。

「みごとなお話でした」と声をかけるものが二、三人いた。エキステルはニヒルな笑みを浮かべて聞いていたが

「皆もその絵を見にいってくれ、一週間ほどで巨勢君のアトリエも手筈が整うだろうから」

と告げた。


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