第4話
イツキがこの島に漂着してから二週間ほどが経過した。最初の四日間は家から出ず、掃除や洗濯物を畳んだりして過ごしていたが、流石に肩身が狭くなってきていた。デジレおじさんは「そんなことを気にする必要はない」と言ってくれたが、体自体は何の問題もなく、精神の方もだいぶ落ち着いてきている。病人のふりをするのも心が痛むので、イツキはリハビリがてらミネルウィナ島の港で働くことにした。
小さな港だから、仕事も少ない。たまにやってくる船の積み荷を確認し、購入したものを運び出して、輸出するものと補給物資を載せるだけ。読み書き計算が出来るというだけで初日から責任者にされてしまったが、幸いプレンゲール軍にいたころに部隊内の物資の管理を行った経験が活きて、業務内容に戸惑うことはなかった。今思い返すと、勇者なんて大層な名前なのに現場の指揮官からは便利屋くらいに思われていた気がする。
今日の仕事も昼過ぎには終わった。暇で暇でしょうがないイツキは一人の船員と桟橋でだらだらと喋っていた。
「お前、顔つき的に東洋の人っぽいけど、今まで見てきた人とちょっと違うんだよなぁ。別のところから来たのか?」
「お、すげぇな!東洋人の顔の見分けつく西洋人はおっさんが初めてだ。実際よく見る東洋人と俺の出身は違うのよ。もっと東に住んでたんだ」
この島の支配者層は全員白人のように見えるが、下層の民には意外とアジア系の顔立ちが多い。しかしそれはどちらかと言うと中国系とか東南アジア系の雰囲気で、日本人的な人はいなかった。この世界にも日本があるかどうかは分からないが、とりあえずある前提で話を続ける。仮になかったとしても、第二次産業革命も終わっていないこの世界では真偽を確かめるすべなどないとイツキは高をくくった。
「へぇー。船乗りになって長いが、初めて知ったぜ。どんな場所だったんだ?」
「抽象的すぎる……そうだな、四季が豊かとか?」
何を喋るか困ったイツキは、中学校の英語の教科書に出てくるような手垢のついた日本観を説明した。それでもおっさんには目新しい概念のようで、表情には疑問符が浮かんでいる。
「四季っつーのは、一年のなかに暖かいのとクソ暑いのと涼しいのとクソ寒いのが回ってくること。だから同じ場所でも干からびるくらい熱いこともあれば、雪が積もって地形が一変することもある」
説明しながら、他の国にも四季くらいはあるだろ、と心の中で突っ込む。
「ふーん。住んでて飽きは来なさそうだが、衣替え大変だろ」
「それはそうかも」
あまり考えたことのない視点が飛び出して素直に感心するイツキ。今度は問いかける。
「逆におっさんのとこはどんな気候だったの。衣替え楽だった?」
「衣替えはうーん……忘れた。船乗りになってから長らく帰ってないからな。ただ、年がら年中暖かいところではあった。さすがに赤道付近のここよりかは冷えるけど」
そういって何かを思い出したのか、おっさんはどこか遠くを見つめる。
「お前さんは、国に帰りてぇな、とか思わんのか?」
「思うことはあるけど……帰る方法もねぇし、今更故郷の暮らしに馴染める気もしない」
どうやってこの世界に勇者なる者として召喚されたのかは、皆目見当がつかない。記憶の中に残る「勇者計画」とか「勇者部隊」みたいなワードからしてプレンゲール王国の誰かが、俺たちを戦力目的に呼び出したのだろうが、それを深堀する気にはなれない。多分日本に戻る方法なんて見つかるわけがないし、殺人を犯した自分が日常にまた溶け込めるとは到底思えなかった。
イツキの精神はこの島での、穏やかな暮らしに多分に支えられていた。朝はゆったりと起きて、のんびりと働き、誰かとつまらないことを語らって、暗くなったら眠る。一切がゆっくり進行するこの島は、誰も追いつめない。
対照的に現代日本は、学校に塾に部活、世間体を気にしてより社会的に正しい存在になり、誰もが夢を持つことを求められる。少なくともイツキはそう感じていた。もはやこの追いつめられることが当然の社会に戻ったとして、昔のように折り合いをつけて生きていける様には思えない。そもそも罪の意識を抱えながら正しさを語れるとも思えなかった。これほど心安らぐ生活でも、一晩に何度も悪夢を見てその度に目覚める。日本ではもっと悪化するだろう。
「逆におっさんは故郷帰りたいの?」
「ずっとそんなこと考えたこともなかったんだがな。お前と喋ってて、なんとなくそう思ったよ」
そう言うとおっさんはカバンから何かを取り出してイツキに投げつける。慌ててキャッチし正体を確かめると、それは缶詰だった。ラベルはあるが、公用語ではなく地方言語で商品名が書かれているから何が入っているのか分からない。
イツキが缶詰の中身を尋ねようと顔を上げると、おっさんは既に船のタラップを上っていた。
「そろそろ仕事に戻るわ!そいつはプレゼント!俺の地元の名産品さ」
「中身を教えろー!」
おっさんは振り向かず左手を上げた。別れの挨拶をしたんじゃねぇよ。中身を教えろよ。
話し相手もいなくなり、港にいてもしょうがないので家に帰るとアレットが洗濯物を畳んでいた。イツキを見つけるとすぐに手招きする。
「手伝え!」
「はいはい」
デジレおじさんの言う通り、アレットはびっくりするくらい図々しくなった。居候の立場で言えることではないが、ほんとに図々しい。イツキに対して硬い表情を見せていたのは最初の二、三日だけで、一週間が過ぎるころにはイツキを顎で使うことに躊躇いなど微塵も見せなくなった。
しかし俺は17歳、2年間分の記憶を足せば実質19歳。お兄ちゃんとして大人な対応を心掛けている。お兄ちゃんじゃなかったら耐えられなかった。
「ほい、プレゼント」
お兄ちゃんだから妹の機嫌を取るためのプレゼントも欠かさない。アレットの瞳はプレゼントの言葉を聞いたタイミングでは輝いていたが、渡されたものを見てどんどん表情が失せていく。
「缶詰ぇ?もっとロマンチックなものがいいんだけど」
「ワリィな。今度海辺で綺麗な石拾ってくるよ」
「それは六歳児の思うロマンチックでしょ」
口では文句を言いながらも、ボードリヤール家の食糧管理担当大臣はこれを今日の晩御飯に使うと決めたようで、なにかぶつぶつ言いながらキッチンの方へ歩いて行った。
イツキは取り残された洗濯物を畳んで片づける。それは早々に終わったので、物置からトンカチと釘と廃材を引っぱり出してきて、嵐で傷んでいた家の外壁を補強を始めた。作業の途中、名前は思い出せないが嗅いだことのあるいい匂いが家から漂ってくる。
キリの良いところで切り上げて家の中に戻ると、既に料理は出来上がっているようだった。二組のフォークとスプーン、鍋敷き、スープボウルがテーブルの上に置かれていて、あとは料理をよそうだけの状態。
「なんで二組なんだ?デジレおじさんの分は?」
「え、私とお父さんの分だよこれ」
「お前最低だよ」
「うそうそ。お父さんは総督さんの元でディナーだって。羨ましいねぇ」
「そうか?」
総督とは、この島の所有国であるブランチャード連合王国から派遣されたこの島の統治者のこと。どんな事情であれ、島の偉いさんと食事など気を使って仕方がないだろう。あまり楽しそうなものとは思えないが、アレットは振舞われる食事にしか興味がないらしい。まぁ、16歳ならそんなものか。
自分には縁遠いこと思って、アレットは総督のディナーからすぐに興味を失った。もっと身近な、今日イツキが渡した缶詰の話題を始める。
「今どき珍しいよね。南部レジオール語でしか書いてないラベルって。統一公用語使ってないってローカルすぎでしょ」
「あれ読めたの?全然分からなかった」
「もしかして、何か分からないもの私に渡したわけ?」
「イエス!」
「えぇ……一応聞いとくけど、トマト食べられる?」
「食べられるよ。久しぶりだな」
嗅いだことのある匂いの正体はトマトだった。この世界に来てからだと、プレンゲール時代に南部遠征で食べた記憶がある。日本で食べていたそれより、ずっと酸味が強かった。
「てか、なんで南部レジオールの言葉が読めるんだ?この島、公用しか使ってないだろ」
「私のルーツは南部レジの小さい島なの。生まれはこの島だけどね」
自慢するように鼻を鳴らしながらホーロー鍋をテーブルの方へ運んでくる。そのまま鍋敷きの上に置いた。
「本日の料理は鶏肉のトマト煮込みです」
開かれた蓋の中から飛び出すかぐわしい香りと、真っ赤なスープ。
赤は血の色。
突如として思い出される虐殺の記憶。子供の体から飛び散る鮮血、開花する様に真っ二つに体は裂け、ピンク色の花のように咲いたかと思えたのは一瞬で、後に残った無残な死体が現実をイツキの脳に流し込む。転んだ人間の体を一瞥もせず踏み抜いた時の、骨の硬さと筋肉の柔らかさの同居した感触が、まるでついさっき行ったことのように蘇る。
「どした?食べないの?」
食事を前に硬直するイツキを訝しんでアレットは声をかける。
「すまない、ぼーっとしていた。もらうよ」
お玉を手に取って、よそう。零れ落ちるスープが、壊れた家屋の二階から滴り落ちる血を連想させた。長く降り続いたと思われるそれは、足もとで大きな血だまりを作っている。
汗が止まらない。震える手に力を入れて抑え込もうとするが、余計に不安定になって、指先の感触がなくなった。視界が揺れる。目の前にあるものに焦点が定まらなくなって、現実が何個にも分裂する。
「―――――――」
耳鳴りがひどくて、アレットが何かを話しかけているのにそれを聞き取れない。座っているのにバランスが保てず、倒れていないのに落ちるような感触がやってくる。
頭蓋骨の中で鉄球が跳ね回っているようだ。その感触は刻一刻と強くなる一方で、やがて意識を保てなくなって、イツキの上半身は机の上に崩れ落ちた。
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