第5話
薄く雪の積もった石畳の上に、イツキは立っていた。そこはボレワスの小さな農村で、イツキがかつて蹂躙した場所だった。
そして彼の目の前には、十歳にもなっていないであろう少年が立っていた。少年の体はあらゆる箇所が抉れていて、特に腹部は酷く、開いた穴から腸やつぶれた肝臓が零れ落ちていて、上半身と上半身と下半身が繋がっていることが不思議なくらいの有様だ。自分が蹴とばしたからそうなった。なのに彼は優しく笑いかけていて、血まみれの腕を持ち上げてイツキを指さす。
「許すよ」
それだけ言って、大きく場面は変わる。今度は砂漠。ターバンを巻いた男とその家族が同じように立っていて、またイツキを指さす。
「「「許すよ」」」
場面は無限に移り行く。汚れた町の路地裏、王城、訓練所の宿舎。物乞い、官僚、同じ勇者の仲間。自分の知るすべての人が現れて、イツキを許して去っていく。
やがて数えきれない人が自分を指さし始めた。「許すよ」という言葉が、無限に思えるくらい広がる世界で反響し続ける。
地面に臥せって人々から目をそらしても、天地が回ってまた彼らは正面に現れる。目を閉じたとしても、瞼の裏にまた世界が広がる。耳を塞いでも言葉は何事もなく貫通して脳の中枢へ届く。
この空間に存在するあらゆる事象が嫌になって、意識を失いたくなり頭を強く床に打ち据える。頭蓋骨が割れるような強烈な痛みを感じた瞬間―――
イツキは上半身を勢いよく跳ね上がらせた。椅子の背もたれにぶつかった衝撃に驚き、周りを見渡す。そうして初めて、自分が今まで夢を見ていたことに気づいた。
あの光景が現実でないことに安堵すると共に、イツキは自身に対して深い失望を感じた。
自分が殺した人間に何を言わせているんだ、俺は。
この期に及んで許されることを望んでいることに吐き気を覚えてえづく。
そんな様子のイツキを、アレットは何も言わずに背中をさすった。そうして初めて、アレットは自分が意識を取り戻すまで机の上から転げ落ちないよう支え続けてくれていた、ということに思い至る。
「すまん。ありがとう……申し訳ないんだけど、料理下げてくれないか?別に料理に文句があるとかそういうんじゃなくて、ただ……」
「全部言わなくていいよ。現在進行形で苦しんでいる人に文句なんて言わないから」
イツキの心労を慮って、アレットは微笑んで答える。鍋をキッチンに戻すと、すぐに戻ってきてまた支えるように寄り添う。
「ずいぶんとうなされてたけど、一体なんの夢を見てたの?」
そう問われて、言葉に詰まる。夢の内容を伝えるためには、まず自分が過去に何を行ってきたのか伝えなければならない。
イツキにはその行為が怖くてたまらなかった。アレットが優しいことは分かっている。この家で受けてきた善意は紛れもなく本物だ。
しかしその感情は、殺人鬼に対しても向けてくれるものだろうか。すぐに家から出ていけだとか、そんなことは言わないだろう。しかしイツキに向けられる視線は、まるっきり変わるだろう。子供も老人も見境なく殺めた化け物。恐怖の感情を抱くな、というのは無理な話だ。
思考中にまた気づく。結局俺は、自分がいかに苦しまないようにするか、しか考えていない。自己嫌悪の念がまた深まる。
「あのさ、自分の中で会話を完結しないでよ。私がいるのよ」
顔を伏せたまま視線を右往左往させるイツキに、業を煮やしたアレットがイツキの頬を両手で挟んだ。そのまま強引に顔を持ち上げ、目が合う位置まで持ってくる。
「あなたの過去がどのようなものかは分からない。でも話さなきゃ何も解決しないよ?人間は自分に対して、都合のいい言葉か都合の悪い言葉しか吐けないんだから。誰かが別の視点を持ち込まないと」
「あなたがどんな人間であれ、人生は続く。だったら抱えている問題は解決しないと。私じゃ力不足?あなたの責任感に見合う女じゃない?」
アレットが尽くした言葉に、イツキは負い目を感じた。そうだ、責任なのだ。俺は誰かに自らの行いを問うて、裁かれる責任がある。
アレットは俺を裁くだけの心を持った、強い人だ。
「わかった。話す」
それでも、恐怖が消え去ったわけではない。一度深呼吸して腹をくくってから、話し始めた。
「俺はもともと、軍人だったんだ。プレンゲール王国の。だからたくさん殺してきた。同じ軍人も、民間人も。目的達成のために、子供だろうが見境なく惨たらしく殺してきたんだ」
手が震える。また情景が浮かび上がって、指をさした少年が視界の端に現れた。彼から目をそらすとアレットの顔が視界に入る。
アレットは顔色一つ変えないで、真剣そのものだ。
「最初はよかった。俺はそれに使命感を感じて行っていたんだ。どんな汚れ仕事だろうと、この行いは価値あるものだって。でも……ある時、記憶を取り戻したんだ。まったく別の世界の記憶で、血生臭い世界に全く縁がない、普通に学生やってる俺の記憶だ。その記憶の中の俺が言うんだ。お前はクズだって。やってはならないことをやっているって」
イツキは日本からの転移者。それは確かなことだ。だが日本にいたころの記憶をだいぶ薄れていて、彼自身の構成要素は十七年の積み重ねが醸成した準日本人的な人格と二年間の血の記憶。
思い出せることのほとんどはこの世界に来てからのことで、イツキの心はその記憶を糾弾し続ける。本来自分を支えてくれるはずの過去の行いが、一転して自分を苛む。
「死にたいんだよ。死のうと思ったよ。殺人鬼がのうのうと生きてちゃいけないって。腹も切って、頭も刺した、海の底にも飛び込んだ。でもさ、俺…死ねないんだよ」
「それは……死ぬのが怖いってこと?」
「いや、もっと物理的な話さ」
困惑を隠せないアレットのためにイツキは自身の再生能力を見せることにした。右手で左手首を掴み、痛みを抑えるためにドーパミンを作り始めた。イツキの能力は自身の体にまつわるものならなんだって作り出せる。神経伝達物質だって例外ではない。快楽ホルモンが少しづつ体を巡り、うっすらとした幸福感が憂鬱を押しやっていく。
「一応聞くけど、血とか見て大丈夫?」
「え、それはぜんぜん問題ないけど、なんで?」
返事を聞いて、しかし脳内麻薬がもたらした興奮がためその後に続いた言葉を聞かなかったイツキは、何も言わずに左手をねじ切った。右手の中にはもう一つの手が握られていて、手首の断面からは血が噴き出す。
「ヘェァー!何やってんの⁉」
「まぁ見てろって。ほれ」
左手だったものが投げ上げられる。混乱の中でアレットは無意識にそれを目で追いかけた。少しづつ消滅していって体積が小さくなっていくそれは、最後にはイツキの左手にぶつかって、消えた。
「え、左手がある」
「そ、治っちまうんだよ。どんだけ自分を傷つけてもすぐ治る。どれだけズタボロになっても、また生えてくるんだよ」
そういってイツキはまた左手の親指をちぎる。
「ヒョエ!びっくりするからやめて!」
「なんだよ、大丈夫なんじゃなかったのか」
「いや違うでしょ。自傷行為は違うでしょ!」
アレットはイツキの暴挙を理解できず喚いていたが、その最中にある可能性に思い至って冷静になる。
「ねぇ、なんで記憶を取り戻したの?」
「頭にナイフぶっ刺したときがあって…多分その時に脳をやったんだと思う。それが引き金じゃないかな」
全身がバラバラになるようなケガは何度も繰り返してきたが、しかし首から上だけは重度の損傷を受けないように振舞っていたことをイツキは思い出す。訓練を受けていたころ、頭を優先して守るように指導され、それを律儀に守っていたのだ。少なくとも、肉が抉れることはあっても頭蓋骨が吹き飛ぶようなケガはなかった。イツキの記憶にある限り、明確に脳が損傷したのはおそらくそのときが初めてだった。
「ナチュラルに自傷の話題が出てくる……多分、イツキは被害者だよ」
「はい?」
「洗脳魔術って知ってる?」
初めて聞く言葉が出てきた。イツキは軍事行動にかかわる魔術、攻撃、輸送や土木などは詳しく勉強していて、軍隊時代に魔術工兵が実際にそれらの術を行使するのを見ていた。だが前線に必要のない術は、興味すら持っていなかった。
「まぁ、最近は犯罪にも使われないしね。凶悪すぎて早々に対処法が出来てしまったから」
そういってアレットは自分の頭に人差し指と中指を当てる。
「昔の王族とかが攫ってきた美少年美少女に使ってた魔術なんだけど、記憶を消して人格をまっさらにするの。何も覚えていない状態、子供みたいな状態だからなんでも受け入れちゃう」
「それが俺にかけられていたと……」
「そ。普通は洗脳破りの暗示を生まれてすぐにやってるから、私たちには効果がない。でも、別の世界から来たんでしょ?あんま信じられないけど……なら、暗示なんてやってるわけがない。洗脳にかかって当然だよ」
「しかし、証拠もなにもないだろ」
「洗脳魔術は脳に作用する魔術なの。イメージ的には脳内に雑草の根っこがはびこって、昔の記憶を思い出せないように邪魔してる感じ。だから多分イツキは脳を傷つけて、でも再生したときに根っこが機能しなくなったんじゃないかな」
怪我の功名というか、なんというか。理解できなかった自分の行いが良い方向に転がっていることに複雑な気持ちになる。
同時に、衝撃を受けた。俺は頭にナイフを突き入れることを理解不能と言っておきながら、ついさっき躊躇いなく手をねじ切った。その不可解がまたイツキを混乱の渦へ突き落したが、今回は素直にアレットへ尋ねる。
「なんだか、思考と行動が一致しなくなってきているんだ。自傷は異常な行為だと認識しているのに、俺はさっき自分を傷つけることに何の疑問も抱かなかった」
「人格が混ざり合ってるんじゃない?取り戻した記憶と軍人の頃の記憶で。いやまぁ専門家じゃないからテキトーなことしか言えないけど」
その言葉はイツキの内心に大きな不安を生み出した。
「じゃあ俺は、俺と呼べる人格はどうなるんだ?元の世界で出来上がった俺は、消えるのか?」
イツキとしてはこの世界での二年間を受け入れたくなかった。どこまで行っても自分は現代社会における正しいモラルを持ち合わせた人間で、虐殺を忌むべき行為だと思える人間と自認していたい。
だがアレットの言が正しければ、今感じているこの罪悪感もいずれ混ざり消えてしまうのではないか、そういう思考がよぎる。悪を悪とすら認識できなくなることが、イツキにはどうしても嫌だった。
「いやそんなことはないんじゃない?混ざるって言っても、自分が思う双方のいいとこだけ取ると思うよ。悪癖を受け入れたい人間なんていないんだから」
「でも、俺の二年間に認められることなんて」
「洗脳魔術って、人格自体は残るの。別に自分でなにも選べなくなるわけじゃない。ただ別の常識で動くようになるだけ。だから楽しいことを楽しむ心も、何かを好きになる心も残ってる。よく思い出してみて、友達が一人もいなかったわけでも、ただの一度も喜ばなかったわけじゃないでしょ?」
アレットの言葉にハッとする。アスフージで思い出していたじゃないか。友達と遊びに来ていたって。
戦場も、ただ地獄なだけだったわけじゃない。ギーツェン小隊長にぼろぼろの体を支えて
もらった事は、直前の地獄から目を背ければ、孤独に苛まれつつあったイツキの心を満たしてくれた。無意識に涙が零れ落ちる。
「俺は、いいのかな。自分を認めて」
「いいんだよ。罪を抱えなくても。人が自分で選べるものなんて少ない。常に周りに影響されて、逆らえない現実の中を生きてるんだから。殺したのはあなたなのかもしれないけれど、でもその理由はあなたの中から生まれたものじゃない」
私だって好きでこんな島に住んでるわけじゃないしね、とアレットは言い、自嘲気味に笑う。
「正しくあろうとしてる限り、人は生きていてよいって、昔お父さんが言ってたんだ。だからこれから、人を助けるとかはどう?私も手伝うから」
涙は滝となって机を濡らす。自分にはまだ出来ることがある、という事実はイツキにとって何よりも嬉しかった。
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