第3話

 ミネルウィナ島。それは南の海に存在する小さな島。人こそ住んでいるものの、水が湧き出るため寄港地に適している、くらいしか特徴のない島だ。


 代り映えのしない毎日。やることと言えば、コーヒー畑で働くか、小さな港で力仕事をするか、島に駐屯する兵隊さんの話し相手になるか。特に「大人の事情」とやらで島から出ることを禁じられている16歳のアレットという少女は、死ぬまでこの退屈な日々を続けなければならないことに絶望感すら感じていた。


 だから日課の朝の散歩中に、波打ち際に人が打ち上げられていて、しかもその人にまだ息があると分かった時、驚きや焦り以上にワクワクの感情が彼女の心を満たした。どこからやってきたかも分からない、名前も知らない彼が、アレットの単調でつまらない灰色の人生を彩ってくれる。そんな予感を彼女は抱いたのだ。








 目を覚ましたイツキの視界に飛び込んできたのは、風に揺蕩うレースのカーテンと、それを潜り抜けて同じように揺れる光。あまりに幻想的な光景のため、ここは天国かな?と一瞬思いかけたが、すぐに「自分が天国に行けるわけがない」ということを思い出した。では地獄か?とも考えたが、これほど美しい世界が地獄なわけがない。せめて地獄とやらは、俺の記憶の中にある世界よりもっとひどいものであって欲しい。


 体に括りつけていたアンカーが解け、海上に浮き上がってどこかの島に漂着したのか、そして誰かに助けられたか。イツキの中の軍人であった時の人格が現状を分析していると、自分が寝ているベッドの横に誰かがいること気付いた。そちらに顔を向けると、向こうもイツキが目覚めていることに気付き、驚きのあまり飛び跳ねるように立ち上がった。




「げげげっげ、げ、元気ですかー!」


「……いや全然」


 


 再生能力のおかげで身体的には万全だが、メンタルが死んでいる。体にいくら元気があったとしても、何でもできるわけではないのだ。


 イツキの言葉を聞いて、挙動不審の少女は分かりやすく落ち込む。




「そうですよね…今目を覚ましたばっかりなんだから。大声出してすみません…」


「あ、あぁ全然大丈夫ですよ!気にしないでください!」




 まるで世界の終わりを知ったかのような表情になる少女を慌てて慰める。結構単純な子のようで、その言葉を聞いてすぐ立ち直った。




「よかったー!あ、私の名前はアレットです!あなたの名前は?どこから来たんですか?ごはん食べれそうですか?」


「ちょっと待って。冷静にならせて」




 矢継ぎ早に質問してくるアレットに戸惑いを隠せないイツキ。一度深呼吸して頭の中を整理してから、一つ一つ質問に答えていく。




「まず、名前はイツキ。まぁ、好きなように呼んでください。どこから来たかは…分からないです。記憶が曖昧で。ご飯は、食べられると思います」




 名前こそ答えたものの、あえてイツキは記憶喪失のふりをした。下手に自分のことについて考えてしまえば、すべてを喋ってしまいそうな気がしたからだ。今は吐き気も収まっていて、食事も出来そうな状態。なるべくなら、嫌なことを思い出したくなかった。


 イツキの中にある罪悪感は未だ消えていない。自分は死ぬべきである、という感覚は意識の大部分を占めてはいるが、同時に今自分が死ねば彼女の心を傷つけてしまう、くらいの思考は出来ていた。俺が死にたいのは俺の事情であって、アレットが俺を助けたのは彼女自身の良心に従っただけ。俺の我儘によって彼女の良心を傷つけるようなことはあってはならない。


 イツキの内心などアレットは当然知る由もなく、また飛び跳ねて、喜んだ。




「じゃあごはん持ってきますね!」




 そう叫んで駆けだしたかと思うと、足元にあった布を踏みつけて転ぶ。それでもすぐ起き上がって猛烈な勢いで部屋を飛び出して行った。


 ベッドの上で横たわっていた体を起こして、アレットが蹴り飛ばして自分の胸もとにやってきた布を見やる。それはどうやらタオルのようで、仄かに磯の匂いがする。このタオルで自分の体を拭いてくれたのだ、と推測しイツキは心が洗われるような気持ちになった。


 同時に、こんな罪人に対して善意が向けられていることに、大きな裏切りを犯したような感触を抱く。災害などに遭い生き残った人が亡くなった人に感じる罪の意識をサバイバーズギルトと呼ぶらしいが、イツキは初めてその感情を理解した。


 もっとも殺したのは手前自身なんだから、サバイバーでもなんでもない。ただの殺人鬼だ。


 イツキが思考の迷宮に囚われてしまう直前、ドアを開く音が彼を現実に連れ戻す。アレットが食事を持ってきてくれたのか、と思って目線を上げると、ぎりぎりの生え際を後ろから髪を持ち上げてきて誤魔化そうとしているけど誤魔化しきれていない感じの初老の男性がいた。


 誰?


 困惑を隠せないイツキに初老の男性は嬉しそうに話しかける。




「おぉ、意外と元気そうじゃないか!よかったよかった!」


「そうですね。あの―――」


「おっとすまない、申し遅れたね。私はデジレ・アイン・ボードリヤール。気安くデジレおじさん、と呼んでくれたまえ★」


「ご丁寧にありがとうございます。僕は―――」


「いいっていいって!アレットから聞いているよ!僕らに遠慮する必要はない、敬語だって使わなくてもいい。百年でも千年でもこの家で過ごしてくれたっていいのさ★」


「いや、そんなにはお世話になれないですけども」




 前髪の薄いおじさんことデジレおじさんは随分と陽気な人のようで、自由な振る舞いにイツキは少し圧倒されていた。


 肝心のアレットはなぜか急に人見知りを発症してドアの奥からこちらを伺っている。性格は対照的のように思えるが、しかし喋り方や振舞はよく似ている。親子だなぁ、と思ってイツキは微笑ましくなった。




「そうそう、スープを持ってきたんだった!アレット、イツキさんに渡してあげて」




 そう促されたアレットは最初の印象と違って随分と縮こまっている。デジレおじさんがそっと耳打ちしてきた。




(すまないね。島の外から来た、同年代の子と話すなんてアレットにとって初めてのことなんだ。そのうちどんどん図々しくなるだろうから、気にしないで欲しい)


「分かりました」


「ちょっとお父さん!何言った⁉」




 起こってぽかぽかと父親を叩く娘を見て懐かしい気持ちになる。自分もかつてはあんな風だったのだろうか。いろんな記憶が入り混じって、家族の顔はもうほとんど思い出せない。


 喜びと悲しみの入り混じった複雑な感情で喧嘩を眺めながら、スープに口をつける。暖かく、病人の為に優しい味付けになっているそれは、今まで口にした全てよりずっとおいしく感じられた。




「ありがとうございます……」




 感謝の言葉を伝えると同時に、視界が揺らぐ。涙を流すイツキを見て二人は慌てるが、そうではないのだ。




「嬉しいだけだから、気にしないでください」




 何も知らない二人からすれば奇妙に思えるだろう。彼らは何か特別なことを思ってイツキに親切にしているわけではないのだから。海岸に漂着していた怪我人を介抱しているだけ。その行いの根幹は常識や宗教観などの誰にでも向けられる思考でしかないだろう。


 そんなことは分かっている。自分の心が感じているものが勘違いであることも理解している。


 それでも、許されたような気がしたのだ。生きていても良いと、二人が保証してくれたように思ってしまったのだ。

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