第7話

 アレットが寝静まったタイミングを見計らってベッドから抜け出す。リビングを忍び足で通り抜け、外へつながる扉をそっと押し開け体を滑り込ますように外へ出ると、既に軒先の階段に腰かけているデジレおじさんを発見した。手招きする彼はすでに木製のコップを握っており、その横には二つの瓶ともう一つのコップが置かれていた。




「赤ワインとウイスキーを用意しているけれど、どちらが好みかな?」


「ウイスキーを頂きたく。まだ渋みの良さを分かるほど年を取っていないですから」


「同じだね。僕も若いころは赤ワインなぞくそくらえと思っていたんだ。ブランデーこそが至高と言って憚らなかった。今思うと情けないね」




 ハハハと小さい声で笑いながらデジレはもう一つのコップにウイスキーを注ぎ、横に座ったイツキに手渡した。ストレートを一気に飲むと喉が苦しくなるので、少しだけ口に含む。舌を刺すような感触の中に甘さを感じた。




「なるほど。好みがウイスキーにも出てますね。美味いです」


「だろう?ブランチャード産のシングルモルト、12年物さ。辺鄙な島で手に入れるのはなかなか大変だったよ」




 そう言ってデジレも赤ワインを自らのグラスに注ぎ、飲む。二人ともが一杯を飲み終えてから、彼は本題を切り出した。




「君はレジオールの……ここ50年程の歴史を知っているかい?」


「寡聞にして知らなくて……すみません」


「いやいいんだ。君はプレンゲールの人なのだから、知らなくて当然だよ」




 デジレは小さく咳ばらいをすると、かいつまんだ歴史の解説を始めた。




「まずレジオール王国の存在は知っている?」


「それはもちろん」




 プレンゲールにいたころ、東の国境線を接しているレジオールは仮想敵国として認識していた。しかし同盟国でもあり、大国のレジオールに対してプレンゲールは新興国。戦争を行うなどもっての外で、現実的なレベルで戦争が起こる可能性の高いボレワスや各植民地に対しリソースを割いていた記憶がある。




「ではサクッと。40年、もう少し前かな、レジオールで市民革命が起こったんだ。それ自体の良し悪しを論じるつもりはないけれど、その後の混乱はまずかった。誰もが理想をもって、その理想を実現できるかもしれない時代だったものだから、衝突が絶えなかったんだ」




 そこまで言って一度区切り、デジレは遠い目をした。40年前ならきっとデジレおじさんは10代か20代か。懐かしくもなるよな。




「まぁ大変だったよ。すぐに政府の要人の首が挿げ替えられたと思ったら、今度は政府そのものが変わったりする。目的達成のために恐怖政治が断行され、それに反対するクーデターが起こる……信じられるものなど何もない時代だった」


 


 しかしここから、今までの懐かしむような口調が一転し語気が強くなる。




「だが、その混乱は鎮めたのは一人の軍人なんだ。南部レジオールの田舎貴族だった彼が政治に参画し、政府の権力を握り、最終的に国民の信任を得て皇帝にまで至り、そうして国は纏まった。王政が不当に独占していた権利を市井に取り戻すのが市民革命の意義なのに、結局のところ民衆は持て余して、それを扱いきれる強力な指導者を求めた……皮肉なことだと思わないか?」




 デジレは問いかけど答えを求めていない様子で、こちらを見ることなくすぐにコップへ口をつけた。まるで自嘲しているようだとイツキは考える。




「皇帝はすごかった。本当にすごかった。一時は大陸のほとんどを支配する、皇帝の名に恥じない偉大な方だった。だが、彼はやりすぎたんだ。圧倒的な戦力と策を持つがゆえに、すべての国と、王族を敵に回してしまった。それに天才にも失敗がないわけではない。北方遠征を強行して大半の戦力を失ったのを好機と見た各国に襲われ、最終的には失脚した」




 最後まで言い切ると、デジレはまるでついさっき皇帝の失脚が起こったかのような哀しげな表情になる。しかしそれも一瞬のことで、すぐにいつもの笑顔を取り戻した。




「まぁその後も一瞬だけ返り咲いたり色々あったんだがそこは省いて……最終的にブランチャードに降伏した皇帝は、二度とレジオールの土を踏めないように南の孤島へ流刑となったのさ。レジオールも革命前の王政に逆戻り」




 どこかで聞いたことのあるような話で、少しだけ話しの流れが見えてくる。




「そうして島流しになった先がこの島であると……」


「そうさ。僕らが住むこの家も、かつては皇帝が住んでいたと思うとワクワクしないか?」




 デジレは同意を求めてくるが、その皇帝にまったく思い入れがないイツキはワクワクしない。しかし楽しそうなデジレに強くノーと言うのも憚られたので、曖昧な表情を浮かべて頷くことにした。


 追及されるのを防ぐためイツキは話を進める。




「しかし、おじさん。この島にすごい人がいたことは分かりましたが、それがどういうことになるのでしょう」


「本題は、アレットのことさ」




 提起された議題とそれまでの話題は嫌でも結びつく。イツキの脳内に一つの予想が駆け巡った。




「まさかとは思いますが……」


「まさかだよ。あの子は僕の実子ではない。皇帝の子なんだ。皇帝がこの島に来た後、メイドに産ませた子供なんだ」




 とんでもない話を聞かされ、イツキは狼狽える。狼狽のあまり、心の中で思った疑問をそのまま吐き出してしまった。




「アレットはこのことを知っているのか…?」


「僕が本当の父親でないことくらいは気づいていると思うけれど、皇帝の子であることは知らない。驚かせてごめんね」


「いや、こちらこそすみません」




 敬語の使われていない発言にも丁寧に答え自分の無作法を謝罪してくるデジレにイツキは申し訳なくなる。


 デジレはそのまま話を続ける。




「本来ならあの子は何の問題もない、普通の子に育つはずだった。でもね、世相がそれを許さないんだ」


「それはどうして?」


「皇帝の子といっても、母の身分が低すぎる。他の子たちと違って政治闘争のアイドルにはなれないはずだった。でもね、今生きている皇帝の実子はアレットだけなんだ。他は全員、表向きは事故や病気だけども、王政から粛清されている。あの子が生きていられるのはこの島がブランチャード軍所有だから、レジオールが手を出せないというのが大きい」




 ここまで言って一息つくと、デジレはアルコールを補給した。コップの中に残った赤ワインを一息に飲み干してから口を開く。




「だからアレットはこの島から出られないんだ。政治的利用価値のある人質をブランチャードは手放したくないだろうし、実際島の外に出たとしても象徴にしようとする誰かが近づいてくるか暗殺されるか。あの子の幸福は果たされないと思っていたんだ。現にレジオール王政に対する民衆の不満は高まってきている。第二の革命はそう遠くないだろう。正当性を主張したいならば、あの子以上の適任者はいないね」




 デジレはイツキに向き直り、一直線に目を見つめてきた。あまりの気迫にイツキは少し気圧される。




「小さい頃はあの子もよく、外に行きたい、と言っていたさ。だけど私が常に宥めすかしていたものだから、やがて何も言わなくなった。だけどね、君がこの家に住み始めてまた口にするようになったんだ、島の外に行きたいって」


「それは、すみません」




 自身の人生がこの狭い世界で完結してしまうことを、アレットが受け入れがたく思っているのは当然だろう。思春期の好奇心は無限大なのだから。しかし事情が事情である、生命に関わる問題なのだ。イツキは彼女に中途半端な希望を与えてしまったこと、さらなる苦労をデジレに齎したことを申し訳なく思った。


 しかし俯き加減に放たれたイツキの言葉をデジレは慌てて否定する。




「違う、君を責めたいわけじゃないんだ。むしろ感謝しているくらいなんだ」




 身に覚えのない感謝に困惑を隠せない。イツキの中に湧き出した疑問を解消するためにデジレは言葉を紡ぐ。




「君が来るまではね、アレットは物静かな子だったんだ。お淑やか、というわけではなくて破天荒ではあったんだけど、それでもたくさん笑うことはなかった。同世代の仲間と遊ぶようなことも少なくて、本を読む、魔術の勉強、鳥撃ち……ずっと一人で完結することばかりやっていた。今思えば、自由でいられる他の子たちに疎外感を感じていたんだろうね」




 イツキにはデジレの瞳の中の虹彩が少し揺らいだように見えたが、瞬きのあとその痕跡は消えてしまった。




「だから君が来てあの子の笑顔が増えて嬉しかったし、後悔もした。僕は結局のところ自分のエゴのために娘の幸せを語っていたんじゃないかって。あの子のためといいながら、可能性を奪って退屈の中に閉じ込めることは、果たして愛と呼べるのか」




 目の前の少年にではなく自分に問いかけているのは明らかだったが、イツキも考えてしまう。もっとも他人を思いやる行為とはなんなのか、数秒の思考で答えなど出るわけがなかった。




「確信を持ったのは、君が変わってからだ。詳しいことはその場にいなかったから分からないけれど、アレットと何か話して、わだかまりがなくなったんだろう?君が元気になって、アレットも君を真に信頼するようになって初めて、あの子が強い子だと気づいたんだ。どんな運命だろうと、自分の手で切り開ける強い子だ」


「しかし、親からすれば子供はいつまでも可愛くて、弱いものに見えるというのは理解できます」


「それでもさ……」




 親の心子知らずでもあるし、子の心親知らずでもある。嘆息するデジレをイツキは励ましたが、それでも後悔は尽きない様子だった。




「僕は少なくとも、もっと早い段階でアレットに多くを伝えるべきだったのだろうね。ちゃんと会話を重ねて、その上で幸せを見つける手伝いをすべきだった……」




 それで後悔をすべて吐き出し終えたのか、夜の暗闇に交じりそうなくらい落ち込んでいた顔は徐々に真剣さを帯びていく。デジレは一度深呼吸すると、罪の意識を湛えた声音で吐き出した。




「こんなことを話した後に頼みごとをするのは卑怯だと分かっている。それでもだ、君には聞いてほしい。明日、隠していたすべてをアレットに伝えるつもりだ。そのうえであの子が島を出たいと言うのなら……一緒に行って、支えてほしいんだ。心は強くとも、それとは無関係に敵が多い。一緒に戦ってあげる最初の仲間になってあげてほしいんだ」


 


 デジレが卑怯と言った意味が大いに理解できた。つまりは親としての役割を変われということ。とても重いことを情に絆して了承させようとしているようにも見えるから、卑怯と自らを蔑んだのだ。


 だがイツキはそんなことを聞かれずとも、既に腹を括っていた。アレットは俺を救ってくれて、生きていいと言ってくれた。その恩には人生をもって報いるのが道理だろう。もとより彼女が俺を必要としなくなるまで、傍にいるつもりだった。




「もちろんです」




 とても短い一言だったが、それで十分だった。安堵と悲しみの入り混じった感情のデジレは、しかし安堵が勝ってゆっくり木製のデッキの上の倒れこんだ。


 答えは決まっていたイツキだったが、それでも疑問はあったのでデジレに聞いた。




「おじさんがあいつと一緒に島を出るというでは、ダメなんですか」




 デジレはその質問を想定しており、小さくかぶりを振ってすぐに答えた。




「体の各部に結構ガタが来ていてね。あの衝動についていける気がしないのさ。若いころの無理が今を祟りにきている。それに、この家から人が全員いなくなればすぐバレてしまう。君たちの行方が追えなくなるまで時間を稼ぐ人はいるだろう?」


「しかしそれでは……」




 イツキは口ごもる。ブランチャード軍に逃亡の事実が判明すれば、確実にデジレは居場所を聞き出すために拷問される。自分がずっとそうしてきていたのだから、誰よりも理解できた。




「これでも皇帝陛下の副官として、昔はブイブイ言わせていたんだよ。しんがりを務めるくらい、わけないさ」




 このことに関して、デジレは議論する気がないようだった。


 イツキが悩んでいると、デジレは上着のポケットから何かを取り出す。それを受け取ったが夜闇のせいでよく見えない。困っているイツキを見かねてデジレが説明する。




「預金証書、私からの餞別と思ってほしい。軍人だったころの給料があってね。妻の名義で作った口座だったから、王政もこれは差し押さえなかったみたいだ。年を取るというのは辛いね、つまらない話と金くらいしか与えられるものがなくなる」




 それでもあなたは素晴らしい人を育てましたよ、とイツキは聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。


 立派な人が必死になって残そうとしている娘なのだ。俺は彼女を悪意の手から守り抜かなければならない。

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