楽園を発見した

日崎アユム/丹羽夏子

楽園を発見した

 寄せては返す波の音が聞こえる。


 男は、自分は今海のそばで寝ている、ということを認識した。

 しかし、本国のベッドの上ではない。

 だが、船の上でもない。

 この半年ほどずっと感じていた波の揺れを感じない。

 こんなに海の音を近くに聞いているのに揺れを感じない、というのは、久しぶりのことだった。


 ゆっくりまぶたを持ち上げた。


 自分は木でできた小屋の中にいるらしい。隙間風というものを意識していないのか、壁に打ち付けられた板と板の隙間から明るい光がこぼれ落ち、床板に光の筋を描いている。屋根は大きな葉でかれているが、こちらはきちんと隙間なく並べられているので、雨露をしのげそうだ。体の下には木の繊維でできた厚い布が敷かれていた。そして、下着以外何も身に着けていない、全裸に近い状態である。長年海軍士官として勤め上げてきた男の胸や腕はたくましく、けして見られて恥ずかしいものではない。それにここは暖かい上日光が遮られているので、苦痛を感じることもない。しかし、なんとなく、居心地が悪かった。


 ここはどこだ。


 記憶をたどる。意識が途切れる直前のことを思い出す。


 二ヵ月前、本国を発った時から数えると四ヵ月経過した頃、自分たちは陸地を離れて大海原に漕ぎ出した。

 けれど、四方に何も見えない中での長距離航海は、乗組員たちに不安をもたらした。

 羅針盤と天体図の知識を持っている士官たちは、絶対にちゃんと西の陸地へ向かっているという確信を持っていた。だが、度重なる嵐と壊血病で疑心暗鬼になっていた水夫たちには、届かなかった。


 大波に見舞われたある夜、男は甲板から海の中に落下した。

 下級の水夫たちは助けを求める男を無視した。

 士官は他にも乗っている。一人減るたび分け前は増える。何より下っ端と士官たちの間の溝は深い。

 彼らは、助けを求める男を海の真ん中に置き去りにすることを選んだのだ。


 必死に泳いだが、目指すところもない。このまま死ぬに違いない。そう思って力尽きてから初めて目を開けた今、自分は陸地で、おそらく浜辺で、しかも粗末であるとはいえ明らかに人間の手が入った建物の中にいる。


 不意に音が聞こえてきた。砂を踏む足音だ。何者かがこちらに近づいてきている。


 腰のサーベルに手を伸ばそうとしたが、自分は半裸で、武器の類は何も持っていなかった。相手は一人のようだからいざとなれば徒手空拳で制圧することも可能だろうが、足音が近づいてくるたびに不安が募る。


 体を起こし、身構えた。


 小屋の壁のある面、四角い出入り口に掛かっていた布が、持ち上がった。


 顔を出したのは、若い娘だった。浅黒い肌、長く黒い髪、大きな黒い瞳をしている。胸から下に木の繊維でできた布を巻き、下半身は葉を束ねて作ったスカートのようなものを身に着けていた。見たことのない系統の顔、見たことのない系統の衣装だった。


 華奢な腕に籠を抱えている。籠の中には葉で包まれた何かが入っている。


 娘は、男と目が合うと、にこり、と唇の端を持ち上げた。それを見て、男は胸を撫で下ろした。自分が起きているのを見て微笑む女が自分に危害を加える存在であるとは思えなかった。


「ここはどこだ?」


 男は彼女に訊ねた。


「お前はここの住人か? ここは何という場所だ?」


 ところが、彼女は何も答えなかった。小首を傾げて男を見つめるばかりだ。


「お前が私を助けたのか? 私は何日ここで眠っていた? 今日は何月何日だ?」


 矢継ぎ早に問い掛けたが、娘はどんな質問にも答えなかった。


「お前の名は? お前は何人だ?」


 娘はしばらく無言で男を見つめていた。何の返事もない。


 男が、耳が聞こえないのか、それとも口が利けないのか、と不安になってきた頃、娘が口を開いた。彼女の口から出てきた言葉は聞いたことのない音の羅列だった。なるほど、この娘は現地語しか使えないのだ。男の言葉を理解しておらず、聞き取ることも話すこともできないのである。


 それを察した途端、男は安心した。


「なんだ、お前は私の言葉がわからないのだな。それでは仕方がない」


 男も笑顔を見せたからか、娘が近づいてきた。そして、腕に抱えていた籠を床の上におろした。

 葉に包まれていたのは蒸した芋だった。椰子の実と石でできたナイフも入っていた。

 男は娘に貰った芋を食べ、椰子の実ジュースを飲んだ。満足だ。


 男が食事を終えると、娘は籠とごみを持って小屋を出ていった。最後に小屋の出入り口に掛けられた布を持ち上げながら微笑んで軽く頭を下げたのがなんとも言えず可愛らしかった。




 言葉がわからないので詳細は想像するしかないのだが、おそらく、あの娘が漂流した男を助けて小屋に運んでくれたのだろう。


 娘は一日に二度、朝と夕方に小屋を訪れる。毎度蒸した芋と椰子の実、そして時々焼いた魚を持ってきて、食事として与えてくれる。


 洗濯してくれたらしい服も返してきた。暑いのでズボンしか身に着けなかったが、服を手に入れると人間らしくなれた気がしてほっとした。


 ここはどうやら小さな島らしかった。歩いても半日で一周できる島だ。海に囲まれている。近くにもいくつか島が見えるが、このへんではこの島が一番大きそうである。島の真ん中に火山と思われる円錐形の山があって、その山裾に密林があり、その周辺が浜になっている。東側の浜に自分がねぐらにしている小屋がある。


 他の人間に会うことはなかった。


 この島の原住民はあの娘一人だけなのだろうか。彼女はどこに住んでいて、どこから来てどこへ帰るのだろう。


 ひょっとして、密林の中に住んでいるのだろうか。


 あの密林に手引きなしで入るのは腰が引けた。ああいうところは動物や虫がいて毒のある植物が生えているものだ。原住民に案内させないと何が起こるかわからない。


 娘に案内するように言ったこともあった。だが、娘にはやはり言葉が通じない。身振り手振りを加えていろいろ説明したが、娘には何も伝わらないらしく、彼女はちょっと困ったような笑顔で小首を傾げて黙っているだけだった。


 島の景色は美しかった。白い珊瑚礁の砂浜に青い海、緑の密林に赤黒い山、そして遮るもののない紺碧の空がある。朝焼けは黄金色に輝き、夕焼けは赤い色に染まる。たなびく雲が太陽の光を吸収して橙色になったり紫色になったりした。一日じゅうずっとさざなみの音がする。

 時々大きな波が寄せてきたり豪雨が降ってきたりもするが、そのたびに男は自分が自然と一体化するのを感じた。人間のあるべき姿に帰ってきたような気がした。一糸まとわぬ姿で雨を浴びたこともあった。地上のすべてが降り注いで自分を洗っている感覚になった。


 海の上は狭苦しかった。船の中の人間関係は常に報奨金の分配方法や船員の身分の上下による摩擦でぎすぎすしていて、常に難破や病気の危険と隣り合わせであったこともあり、広大な海の上にいながらいつもなんとなく息苦しかった。鮫や溺水を恐れて海にはおりなかったが、海におりた今解放感を味わっている。他に自分を知る者はいない。ここは自由だ。なんと素晴らしいことだろう。


 そんな中、毎日朝夕に食事を運んでくる娘を、可愛いと思った。いつも笑顔で、物静かで、男を見守っている。顔の造作はお世辞にも美人であるとは言えないものの、なんとなく愛嬌がある気がする。


 言葉がわからないのがいい、と男は思う。余計なことを言わない。何を言ってもわからない。便利な存在だ。


 男はいつしか彼女に自分の武勇伝を語り聞かせるようになった。

 本国での少年時代はやんちゃで喧嘩に強かったこと、海軍に入っても上官を殴り飛ばす度胸があったこと、船の上でも自分に逆らう者はいなかったこと、報奨の分配金も多めに分捕ろうとしていることなど、話の種は尽きなかった。

 そして、そんなに頼りがいのある自分なのに海に落ちた時には誰も手を差し伸べなかったことへの怒りも湧いてきた。その怒りについても彼は彼女に語った。彼女は相変わらず黙って耳を傾けているだけなので、彼は他の船員への汚い罵り言葉も口にできた。

 何もわからない女が聞いてくれる、というのは爽快感があって、自分は自由だと感じた。


 可愛い女だ。毎日自分に会いに来る。




 男は、いつしか、この娘はきっと自分に気があるのだろう、と思うようになってきた。そうでなければ年頃の若い女が毎日一人の男のもとに通い詰めるだろうか。しかもこの小屋、この浜に二人きりだ。夜に忍んで来ることはないので少し情緒がないような気もするが、明るい時間に睦み合うのはそれはそれで気持ちが良いのではないか。


 何も知らない、無垢な、先進国の汚れた空気を知らない娘だ。


 男はいつからかそんな彼女を熱い目で見るようになっていたが、娘は気づいているのかいないのか、特に何の反応も返してこなかった。


 だが、いいだろう。


 他にすることはない。


 彼女も嬉しいに違いない。自分は本国に帰れば身分のある身だ。しかも背が高くて鼻も高い白人である。こんな男に愛されれば原住民たちの間でも自慢できるだろう。だいたい本国でも自分が言い寄って喜ばなかった女などいない。


 喜ぶに決まっている。


 ある夕方、男は彼女を抱くことに決めた。


 いつもどおり芋と椰子の実を持ってきて自分の近くに座った彼女に、少しずつ少しずつ近づいた。


「なあ、お前、お前も本当は私のことが好きなんだろう?」


 彼女の肩に右腕を回し、彼女の華奢な手に左手で触れる。


「ここにいる間はお前を私の愛人にしてやろう。こんな島の話じゃ妻にもばれないさ」


 吐息が彼女の耳や髪に触れる。


「私が言葉を教えてやる。都会での振る舞い方も。お前を立派なレディにしてやろう」


 彼女は粗末な服から肩や足を丸出しにしている。卑猥な田舎者だ。彼女も望んでいるに違いない。


 初めて触れた肌は滑らかで触り心地が良かった。知らず唾液があふれる。


 何も知らぬ土着の女を自分色に染める、これほどの快感があろうか。可愛い女、一生世話をしてやる、とまでは言えないが、ここにいる間だけは妻にしてやってもいい。


 そう思っていたのに、裏切られた。


 気がつくと、彼女は椰子の実を割るために持ってきていた石のナイフで、男の腕を突いていた。


 痛みに顔をしかめて離れた。わずかながら血が流れる。


「お前、何をしやがる!」


 娘が立ち上がって男をにらみつける。今までに一度も見せたことのない負の感情に一瞬たじろいだ。


「なんだ、生意気な、言葉もわからない、知能の足りない土人の女のくせに」


 そう言って怒りをあらわにすると、彼女は小屋を飛び出していった。彼女の背中の向こう側に、一番星が見えた。空は今日も美しい夕焼けになっていて、天頂は綺麗な紫色だった。




 翌日の朝は彼女が訪れなかったので、男は一人で反省していた。


 言いすぎただろうか。可哀想だっただろうか。しかし彼女には言葉がわからないので、男には本国に妻がいることや彼女やこの島に永遠を誓う気もないことは伝わっていないだろう。しょせん何も知らぬ原住民だと思っていたが、何か察することはあったのだろうか。どの民族でも女には女の勘というものが備わっているのかもしれない。


 あるいは、彼女がまだうぶな処女だったからかもしれない、とも思った。男というものが恐ろしくなったのかもしれない。もう少し丁寧に手をつないだり口づけをしたりするところから始めるべきだったか。若い娘にはそういう浪漫が必要だったのだろう。開放感あふれる南洋の島だからと言って貞操観まで開放的とは限らないということか。


 暇だったので、男は彼女との将来を妄想し続けた。再会したらどんな言葉を掛けてやろうか、から始まって、彼女が妊娠したら産ませてもいい、というところまで飛躍した。子供が増えたら学校を作ろう。言葉を教えて本国に連れ帰ってもいいように育てるのだ。でも彼女は永遠に言葉を理解せぬままのほうがいい。女はそのほうが可愛い。余計なことは言わないほうがいいに決まっている。だが妻に見つからないようにしないといけないから、彼女は首都に留め置いて、自分は故郷の街に帰って――


 話し声が聞こえてきた。


 男は、ぞわり、と背筋の毛が逆立つのを感じた。


 その会話は、男にも聞き取れる言葉でなされていた。


「では、あの小屋の中に?」

「ええ、一人でいるはずです。きっと裸で何の武器も持たずにのうのうと寝ていますよ」

「おのれの身分もわきまえずに、けしからん」


 複数人の男と、若い女の声がする。


 男は飛び上がって後ずさりをした。壁に背中をつけた。


 まさか、まさか、まさか――


 出入り口の布が払われ、砂浜に落ちた。


 入ってきたのは、見覚えのある軍服を着て銃を抱えた四人の男と、あの娘だった。


「では、連行する」

「はい、お願いします」


 娘は流暢な言葉で軍人に話し掛けていた。


 愕然とした。


「私を騙していたのか」


 すると彼女はいとも簡単に「ええ」と答えた。


「あなたが異民族に対して思いやりをもって接してくれる人間ならば他の島民にも紹介しようと思って、ずっと様子を窺っていました。ですが、本国の言葉を話せないふりをしているわたしに対して露骨な侮蔑の言葉を浴びせ続けた挙句、尊厳を踏みにじるような行いをしようとしました。軍に通報させていただきました。本国でしてきた悪行三昧の過去についても、すべてお話ししてあります。わたしが理解できないと思って余計なことをべらべらしゃべった自らの浅はかさを反省してください」


 彼女がそう言うと、軍人たちが小屋に長靴の底を踏み鳴らしながら入ってきた。

 男は銃もナイフも持っていない。それどころか服を着てすらいない。逃げ道は娘が今立ちふさがっている出入り口しかない。壁を破って逃げられる自信もない。なにせ相手は銃を持っている。


「ほら、行くぞ」

「どこへ」

「傷害、横領、婦女暴行未遂、貴様にはたくさんの嫌疑がかかっているのだ。軍の施設で詳しく聞かせてもらおうじゃないか」

「そんな、私は、ただ一生懸命生きてここまで来ただけなのに」


 男は左右から腕をつかまれて小屋を連れ出された。娘はその様子をずっと冷たい目で見つめていた。許しを請う男の叫び声だけが浜に響き続けた。


 島に波が打ち寄せている。




<終わり>



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