社畜の背徳お菓子作り

巡ほたる

失楽園アップルパイ

 ストレスマッハだ。

 上司に怒鳴られ後輩のミスをカバーして残業、先方からクレームの電話、せめてもの癒しとコンビニで買い求めようと思っていた肉まんは目の前で売り切れ、そして今日はまだ連勤八日目であと五日間連勤が残っている。

 俺がなにをしたと言うんだ。

 家庭も持っていなければ彼女もいない俺に仕事を割り振れば、確かに嫌な顔せず引き受けてやろう。だが限度と言うものがある。目の前で山と積まれる書類に、こちらを気にもせず帰っていく上司、申し訳ないごめんなさいと謝って来て逆にこっちを申し訳ない気持ちにさせてくる後輩――今はもうなにもかもが気に障って、道端にゴミ箱でもあれば蹴り飛ばしてしまいそうなほど荒んでいる。

 こんなストレスフルなときは、そうだ。

 あれをするしかない。


 ◆◆


 秘密の趣味――それは誰にでもあるだろう。

 ボーイッシュな女の子が可愛いぬいぐるみを作っていたり、謹厳実直な男性が夏と冬の漫画の祭典に参加していたり――そういう、あまり他言したくない趣味が、俺にもある。

 三十代おっさん、くたびれた社畜、そんな俺の秘密の趣味は――

「ま、りんごは実家から送ってもらったのがいっぱいあるし、パイシートとバターとジャム買うだけで済んでよかったな」

 ――お菓子作りだ。

 残業帰りで疲れているし、明日も出勤しなければならない。だから早く寝なきゃ? それはダメだ、そんなのでは今日のストレスを明日に持ち越す結果になる。

 徹夜してでも好きなことをする!

 それで明日にストレスを持ち越さずに済むのだから安いものだ。

 疲れは持ち越しても魔法のドリンクでなんとかなる。だから大丈夫だ。

 俺は目の前に広げる食材と調理器具を眺めて、ワクワクした気持ちになった。

 昔からそうだ。

 母が幼い俺の誕生日に「一緒にケーキを作ってみない?」と誘ってくれて、簡単なチーズケーキだったがその楽しさに魅了され、気付けば早幾年。社畜ゆえ昔のように頻繁に作ることはなくなったが、貴重な休みの日の午後を使ったり、こうしてストレス発散に砂糖やバターをふんだんに使ったお菓子を作ったりして楽しさと背徳感を得ている。

 そのために、アパートの一室、俺の居住地にはオーブン、トースター、ひとり暮らしには大きな冷蔵庫など十分に揃えられている。

 男の子なのに――という批判の声は、家族からはなかった。

 でも、俺自身そういうお菓子作りとか、可愛い趣味を持つような印象を他人に与えているとは思っていなかったから、家族以外、この趣味を知らない。

 だから今更恥ずかしい趣味だと思っているわけではないのだが、他人に吹聴するのはやはり気が引ける。それに誰かに食べて欲しいわけではないし、食べてくれるいい人もいない。

 ひとりで完結する趣味のなんと気楽なことか!

 俺は軽やかに踊り出しそうになる足でキッチンを行ったり来たりした。お菓子作りに必要なものはだいたい揃っている。たまに家にない器具があったりもするが、それは宅配で注文すればいいだけの話で、大した問題じゃない。

 他のご家庭は今なにをしているだろう?

 もうご飯は食べ終わっているだろうか。

 寝入るご家庭もあるかもしれない。

 でも俺はこんな時間にこんな美味しいお菓子を作って食べちゃいます!

 目の前の食材をもう一度確認する。


『りんご 二つ

 パイシート 二枚

 バター ひとかけ

 砂糖 それなり

 ケーキスポンジ 二分の一

 牛乳 二分の一カップ

 卵黄 一つ

 アプリコットジャム 適量』


 パイシートは常温に晒して柔らかくしておく。

 その間に作業開始だ。


一、 りんごひとつをコンポートにする。

 皮は残すと歯ごたえに影響が出るので剥いておく。

 適当な鍋に薄く切ったりんごと、砂糖、水を入れて火にかける。二十分くらい。

二、 もうひとつのりんごを、皮を剥いて一口大に切る。

 バターと砂糖を一緒にレンジで温めて溶かし、切ったりんごと混ぜて絡める。


「このりんごを食べないように我慢するのが大変なんだよな。バターと砂糖を絡めたりんご、不味いわけがない」

 指を舐めても構わないだろうか……俺が食べるものだし、少しくらいなら。

 ぺろりと舐めた指は、砂糖の甘みとバターの塩気と、りんごの果汁でとても美味しくなっていた。明日の弁当がこの砂糖とバターとりんごの集合体でも、俺は満足できる自信がある。


三、 柔らかくなったパイシートの大きさを器に合わせ、器に油を塗り、百均で買ったパイ皿にパイシートを敷く。

四、 パイ皿のパイシートの底にケーキスポンジを薄めに千切って敷き、その上にコンポートにしたりんご、更に上に砂糖とバターを絡めたりんごを盛る。


 バタ砂糖りんごは山盛りだとテンションが上がるので、めいいっぱい盛る。これ以上ないほど。でもやりすぎると上にパイシートを被せられないからそこは気を付ける。

 好みでラム酒を入れてもいい。

 今日は買い忘れてしまった。


五、 パイ皿のふち部分のパイシートを牛乳で濡らす。そして細長く切った幾枚かのパイシートを網目状に被せる。


 小さなパイ皿なので、交互な網目状にパイシートを重ねるのも難しくない。それに今回は見目も重要視したいところだ。


六、 器からはみ出たパイシートを包丁でそぎ落とす。

七、 焼き目をつけやすくするために牛乳、もしくは卵黄を塗り、予熱したオーブンで焼く。


 この焼いている時間に近くのコンビニに行って、買い忘れたものを買っておく。いつの間にか普通のスーパーは閉店している時間になっていた。

 目当てのものを買い、ほくそ笑みながら帰宅する。

 すれ違ったマラソンするおじさんの顔が何故だか忘れられない。

 そんな変な顔してた?


 帰宅すると焼き上がっていた。

 あまり冷めすぎていても目的が完遂されない。触れてみてそれなりに熱かったので、オーブン皿用の取手でオーブンから取り出す。熱さがいい感じになるまで、コーヒーなど用意しておく。


八、 焼き上がったら粗熱を取り、アプリコットジャムをレンジで温めて溶かしたものをハケで塗り、艶出しをする。見た目がよくなる。


 八項目めは明日食べる分の工程なので、先に今日の分を食べることにする。

 ケーキ用の皿を出し、出来上がってパイ皿から外したものをのせる。そして先ほど買いに行った牧場しぼりのラムレーズン味を、熱いうちにのせる。するとどうだろう、熱が伝わってアイスがどんどんと溶け、見た目も香りも最高に美味しそうな仕上がりになるのだ。


 これぞ『失楽園アップルパイ』。


 神に背く甘さの暴力である。


 カフェインレスのコーヒーを傍らに、失楽園アップルパイは極上の輝きを放っていた。

 ケーキの社交界でもここまで輝くものはいないだろう。

 フォークを刺す。ざく、と音。

 横からはみ出るりんごの、しゃく、という控えめな音もよい。

 コンポートの水分は最下層に敷いたケーキスポンジが吸い取ってくれるので、下からりんごが零れ落ちることもない。

 そして実食。

 バターと砂糖を絡めたりんごと、ラムレーズンアイスが混じり合う。それを口へ運ぶ。

 ぶわりと、枯渇していた口に甘さが満ちる。

 りんごは甘酸っぱく、バターが効いていて、ラムレーズンアイスの酒気が更に恍惚の味へと変貌させる。

 熱い? 冷たい?

 混乱する頭が唯一考えられる言葉は「美味い」の一言だった。

 コンポートとケーキスポンジと、底のパイ生地もアイスと絡めて食べる。

 コンポートは素朴な甘さ、ケーキスポンジは少し人口的な甘さだが、またそれが調和していていいのだ。どろどろに溶けたアイスをスポンジで拭きながら食べると、得も言われぬ快感が脳髄を駆け巡る。

 アップルパイを食べる手を止め、コーヒーを一口。

 先ほどまで口腔内を支配していた甘さが、コーヒーの苦みで相殺される。

 これは無限ループが確定されるやつである。

 アップルパイ、コーヒー、ラムレーズンアイスだけ、バタ砂糖りんごだけ、りんごたちだけ――ストレスが、ストレスという概念ごと自分の中から薄れていく。


 俺の秘密の趣味。

 美味しい、背徳的なお菓子。

 失楽園アップルパイは二個作ってあるので、なんとこれが明日も食べられるのだ。しかもそれはアプリコットジャムでコーティングされている。

 誰にも言わない趣味だけれど、俺はとても幸せな気持ちだった。

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社畜の背徳お菓子作り 巡ほたる @tubakiya

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