今はまだ、別人のまま

冬野瞠

沢野と三上

 隠し事をしながら、俺は友人とルームシェアをしている。



三上みかみ! 朝だぞ、起きろ」


 ルームメイトの布団を思いきりめくると、三上は赤子のように体を丸めていた。あけたカーテンから射し込む朝の日差しに、きつく眉をひそめている。

 俺は構わず彼から布団と毛布をひっぺがした。


「うるさ……あと二時間寝かせろよ……」

「だーめーだ。朝ごはんできてるから早く顔洗ってこい」

「毎日毎日よくやるよな……。俺までお前と同じ時間に起きなくてもいいだろうが」

「規則正しい生活をしたいから管理頼む、って言ってきたのはお前だろ。いいから早く起きろ。俺の方が遅刻しちまう」

「仕事で小説家の世話して、私生活でも俺の世話して……沢野って物好きだよな」

「口を動かす前に体を動かしたまえよ、小説家先生」


 こんなやり取りももう何回目だろうか。編集者の俺と小説家の三上。俺たちにとってはこれも毎朝のルーティンみたいなものだ。

 リビングのテーブルについたはいいが、まだぼんやりしている三上の前に、俺はトーストとサラダ、スクランブルエッグ、ヨーグルト、そしてコーヒーの器を置いてやる。半分寝ながらそれらをもつもつと咀嚼する彼に相対しながら、俺は手早く朝食を胃袋に収めていった。

 ちらりと腕時計に目をやり、できるだけ何気なく尋ねる。


「それで、執筆は順調か?」


 徐々に目があいてきた三上がんー、と視線を上にやる。


「一進一退って感じかな。いつもながら悩みつつ手探りで進んでる。昨日は五千字書いて八千字没にした」

「お、おう……そうか」

「話が佳境に入ると毎回そうだから心配するなよ。まあ、この正念場を超えれば絶対いい作品になると思う」

「そっか。無理はするなよ」

「ああ。いい小説が書けて、もし本がベストセラーになったりしたら、今度こそあの人にも届くかなあ……」


 ふと三上が遠い目をする。その曖昧な視線は俺を突き抜けて、もっと遥か彼方を見つめていた。俺はそのことに安心して席を立つ。


「じゃあ、俺は仕事行くから。昼はレンジに入ってるの温めて食べて。帰りが遅くなりそうだったらまた連絡する」

「おー。いってら」


 レタスをばりばり食べている三上が気の抜けた返事を投げてくる。生活能力に乏しいこの才人の生活を支えることが、俺にとっての喜びであり、生き甲斐だ。

 若手ながら何作もヒットを飛ばしている小説家の三上。

 とある出版社の編集部に所属している沢野――つまり自分。

 俺たちの人生が交わってから、もう五年が経とうとしている。



 三上との出会いは大学生のときだった。

 当時、俺は暇を持て余していた。一年の時にぎっちぎちに講義を取っていたおかげで単位には余裕があり、就活やゼミへの所属もまだというモラトリアムの絶頂期。社交的な性格を繕っていたので知り合いは多かったが、基本的には一人が好きなたちなので、何か自分だけで完結する趣味でも見つけようか。そう考えて始めたのはVtuberだった。

 俺は元々、まだ日の目を浴びていないWeb小説を求めて小説投稿サイトを逍遙しょうようするのが好きだった。そうして見つけた推し作品や推し作家を紹介するのはどうだろう。もちろん良い点だけを話題に乗せる。著作権侵害にならないよう文章そのものは口にしたり動画の中に映したりしない。

 イラストレーターをしている従兄にダウナーな外見のキャラクターデザインをしてもらって、俺はWeb小説紹介系Vtuberになった。自己満足で始めた活動だったが、チャンネル登録数もそこそこ伸びたのは意外だった。

『この喋り方と見た目だからどんだけ辛口なのかと思ったら、常にめちゃくちゃベタ褒めでじわじわ来る』というあるコメントの通り、素のキャラで気だるく話していたのが逆にウケたのかもしれない。

 そんなある日、俺は配信動画に貰ったコメントをチェックしながら大学に向かう電車に乗っていた。途中で見覚えのある男子が隣に座ってきたが、構わず確認を続ける。

 それが終わると、なんとなく隣の男がいじっているスマホの画面が視界に飛び込んできた。既視感のある文字組み。大手の小説投稿サイトだ。しかも、タイトルは俺が先日動画で紹介した作品ではないか。

 その小説は明らかにWeb向けの作風ではなかったが、同時に一読して震えるほどの才能を感じさせる作品だった。ほとんど改行がなく常用外の漢字もふんだんに使われた圧の強いその小説は、まったくと言っていいほどアクセス数が伸びていなかった。俺はそれを取り上げ、「Webなんかで公開してないで一秒でも早く公募に出すべき」と発言した。何々すべき、なんて他人にアドバイスする立場でもないし、そういうことは今まで一度も言わなかったのだが、あまりの衝撃に思わず口をついて出たのだ。

 横目で乗客の顔をこっそり確認する。ブリーチした髪にたくさんのピアス。見覚えがあるのも当然だ。確か、自分と同じ大学かつ同じ学部で違う学科の学生だった気がする。おお、こんなイケイケな見た目の奴もWeb小説を読んだりするのか、と偏見丸出しの感想を抱いて再び彼のスマホに目線を戻す。


 ――いや、ちょっと待て。こいつ、小説の管理画面を操作してないか? もしかして、この小説の作者? いやいやそんな偶然、あるわけが……。


 にわかに全身に緊張が走る。俺が様子をうかがっていることにも気づかないようで、そいつは今度はSNSのアプリをタップし、すいすいと文字を入力していく。


『なんか急に小説のアクセス数が伸びてるっぽい。なんでだかわからんけどちょっと怖いな』


 そのアカウント名は、一字一句たがわずくだんの作者名と一致していた。

 おいおいマジかよ、と背中を冷や汗が伝う。あんな作品を俺と同い年の奴が書けるのか、と心臓の拍動が強くなっていく。

 俺はそのとき決めたのだ。こいつの人生に関わることを。



 それから三上の名前を知り、彼が所属していたサークル経由で交流を深め、趣味で執筆していることを教えてもらい、それとなく公募に出すことを俺が勧めた結果、名だたる作家陣から激賞されて三上のデビューが決まった。三上があの才能駄々漏れな小説を、趣味で執筆していたというのには恐れ入った。自分は就活を機にVtuberを引退し、生活能力が皆無な三上とルームシェアを始め、念願だった編集者にもなることができ、今に至る。

 三上が小説家になれたのは俺のおかげだなんて言うつもりはないが、最初の小さなきっかけではあったと思う(自分が何をしなくても彼の才能はいずれ世に見つかっていたに違いないが)。

 ちなみに、俺がWeb小説を紹介するVtuberだったことは、三上には伝えていない。それというのも、その引退してしまったVtuberの中の人に作品を届けたいという気持ちが、今の執筆の原動力のひとつになっているらしいのだ。

「今度こそあの人にも届くかな」が三上の口癖だ。

 届いている。ずっと、届いている。俺は彼がデビューしたときから、いやデビューする前から、三上の小説を誰よりも推している自負がある。

 いつか俺が抱える秘密を、彼に伝える日が来るのだろうか。それは自分にも分からない。あの気だるいVtuberと俺とは、別人のままでいいと思っている。

 まだ――今のところは。

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