諦観Trouble
壱ノ瀬和実
諦観
俺が出向いた先にたまたまトラブルがあるのか、俺が出向いたことでトラブルが起きたのかは、当人には分からない。
然りとて、今日も明日も波乱続きというのでは流石の俺も耐えかねる。平凡な一日だってあるはずで、恐らくは今日がその日だった。
何事もなくその日を終え、午後七時を過ぎた頃。あたりはほどよく暗くなり、俺は帰宅の途に就いていた。
自家用車の調子が悪く修理に出していたため、今日はバスでの帰宅だ。
立っているだけでも辛くなるほどジメジメとした蒸し暑い季節に、バス停で一人、今か今かとバスを待つ。この路線の多くは駅から出発するものが多いため、俺のように駅から二つほどしか進んでいない中途半端なバス停で、かつ、どんどん田舎へと向かっていく車両に乗車する人間は滅多にいない。
地方都市の目抜き通りにありがちな面白味のない景色の中で、白いボディに赤とオレンジのラインが入った見慣れた車両が近付いてきた。
誰もいなければ素通りするだろう大きな体躯が、面倒臭そうに駆動音を響かせて目の前で停車する。ドアが開き、俺は車内に足を踏み入れ、整理券を取って空席を探す。
そもそもあまり需要のない路線ということもあってか、乗客は全部で四人。
運転席の直ぐ後ろの狭い席に、厚手のトレンチコートを着たがたいのいい黒髪ロングヘアの人が一人。
進行方向、向かって左側の座席、前側に女子高生、そのすぐ後ろに高校生と思しき男性。
そして、車両後方。一番後ろの長椅子に、全身黒い服を着て、深々と帽子を被った男が一人、肩から斜めがけのバッグを携えている。
――さて、俺はどこに座るべきだろうか。
明らかにおかしい人がいる。その近くには行くべきじゃないだろう。トラブルの多い人生だ。見るからにおかしい人間がいるのに、こちらから近付くなんて馬鹿なことをするわけがない。
とは言えこんなに客が少ないのに立って乗るのも違うだろう。俺は入り口の正面にある狭い席を選んで座ることにした。
バスの終着点は山間の集落。所要時間は三十分以上。俺はその途中、ここから十五分ほどのバス停で降りる。
バスはのっそりと動き始めた。
快調に進むバスは、止まる気配すらなく幾つかのバス停を通り過ぎていく。
俺は緊張していた。誰も乗ってくるなとも思っていたし、早く降りたいとも、早く皆降りてくれとも思っていた。
俺が異様なまでにトラブルに巻き込まれる人間でなければ、こんな無駄な心配はしなくて済んだのだろう。
だが怪しい人間がいるのだ。俺のいる場所に怪しい人がいるなら、それは警戒して然るべきだ。
見慣れた景色が窓の外で流れていく。丁字路を右に曲がる。この県道を数分走り、左折してしばらく走ると、俺の降車するバス停がやってくる。誰も降りる気配はなかった。
駄目か――。
嘆息を、誰にも悟られない程度に漏らす。
さて、飛鳥善一の人生が平穏であったことが、これまで一度だってあっただろうか。
俺が出向いた先にたまたまトラブルがあるのか、俺が出向いたことでトラブルが起きたのかは、当人には分からない。
だが、今回ばかりは後者であることを祈ろう。
俺が降りさえすれば、このバスでは何も起きずに済むかもしれないからだ。
肩から掛けていたバッグからメモ帳を取り、一枚をなるべく音を立てないように破った。ペンを走らせる。
誰の降車を見届けることなく、最寄りのバス停に着いた。
俺は席を立ち、とうとう何も起きなかった車内を後にする。
整理券と料金を運賃箱に入れ、それと同時に、一枚の紙を運転手に、なるべく自然で、誰に何も思われないよう、運転手に目配せもしないようにして渡し、外に出た。
湿度を含んだ空気に包まれて、肩の荷が下りたような、それでもどこか重たい何かがバスから付いてきているような不快感と共に、俺は自宅へと歩いて行く。
路線バスがすぐに俺を追い越した。すっかり暗くなった地方都市の外れで、バスのテールランプが少しずつ遠ざかっていく。
何かが起きるのか、それともただの杞憂か。
考えたところで、もうどうしようもないのだが。
俺は破り取ったメモに、こう書いて運転手に渡した。
『あなたのすぐ後ろのコートを着た男に気をつけて』
黒髪の長髪だから、その人は一瞬女性であるかと思った。
だがやはり違和感がある。
ただ立っていても汗ばむ季節に、どこの誰が厚手のトレンチコートなんて羽織るというのだ。
それだけならまだ極度の寒がりだとか、暑さを我慢してでもファッションを楽しんでいるとか、ポジティブな考えを持つこともできたのかもしれない。
しかし違和に気付けば、その人物が女ではないこともすぐに分かる。
男はガタイが良いにもかかわらず、身体を丸めてまで狭い運転席のすぐ後ろに座っていた。バスは駅から出発している。俺が乗ったバス停は駅から出て間もないバス停だ、車内の様子から見て、出発時点で混雑していてその席しか空いていなかった、ということは考えられないだろう。
彼はそこに座る必要があったのだ。
その席の最大のメリットは何か。
それは、すぐに立ち上がって降車できること。運転手から車内の様子を見たとき視界に入りづらいこと。特に、彼が全身に纏っているトレンチコートの違和感に、気付かれにくいこと。
大体あの手の格好をしている男がしようとしていることなんて一つだ。車内には女子高生もいたことだし。
「……杞憂なら、良いけどな」
――翌々日、地元新聞ネットニュースにて。
岐阜県警によると、十五日午後八時ごろ、岐阜県○○市を走る路線バスの車内にて下半身露出したとして男が逮捕された。
午後七時半ごろ、バスから降車する女性客についていくように男が降車しようとした際、怪しんだ運転手が声を掛けたところ、男は声を上げ着ていたコートをはだけさせ下半身を露出させた。乗り合わせた乗客の男性二名が取り押さえ、運転手が110番通報。男はその場で逮捕された。
寝ぼけた顔でスマホを手にして、俺は布団の上で呟いた。
「つまりこれは……危機一髪、ってことで……いいのか?」
諦観Trouble 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
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