4. 海
土曜の午後、部屋の窓から見下ろした路上には誰もいない。角を曲がって現れた北村雫以外には。
そう、今日は僕が雫と海に行く約束をした日。正直、気が進まないような、それでいて楽しみのような不思議な気分だ。あの良い香りのする雫と過ごすのは、楽しみでもあるし、でも違法な事に関わっているあの家との関係が誰かにバレてしまいそうで怖い。
父や母に見つからないように家を出なくてはならない。父も母も平凡な人間で、決められた通りのレールの上しか歩いた事がないから。がっかりさせたくはない。半面、おばあちゃんなら僕の気持ちを分かってくれるんじゃないか――そうも感じたりもする。自分が雅紀なら良かった。雅紀の両親は映画館に行った事があるし、叔父さんはきっと理解し、相談に乗ってくれるだろう。
僕達は決められた通り、一メートル以上、間隔をとって、駅まで歩いた。今日は彼女から良い香りは漂ってこなかった。そして電車の中でも、二、三席か分空けて座った。
僕は今朝、雫の姿を見かけた時から、彼女の持つ大きな藤のバスケットケースに気付いていた。敢えて尋ねたりしなかったけど。
でも電車の中で、二、三席空いた隣から声をかけた。
「そのバスケットの中に犬でも入れてるの?」
「そんな可哀相な事する訳ないじゃない」
そして近付いてきて、ささやくように言った。「ここには私の手作りのサンドイッチと家で採れた夏蜜柑が入ってるの」
「え……?」
それを聞いた僕の顔は、青ざめていたと思う。
「手作りのサンドイッチ……。家で採れた夏蜜柑……」
どちらも、誰かに食べさせる事はおろか、誰かから渡されたものを食べても違法だった。
食べ物は、店で買った物以外、口にする事はできないし、そんな危険な事をする人も今ではいない。家での夕食も配給とそれ以外は店で買った物だし。
昔は手作りが主流だったらしいけど。
雫は再び二、三席向こうにいて、そこから独り言か僕に話しかけているのか分からないような言葉を発した。
「楽しみだな。夢だったんだ、これ」
「何が?」
「好きな人と海で手作りのサンドイッチやフルーツを食べる事よ」
「しーっ! 声がでかいよ」僕は焦った。
「分かった。早く海岸に着かないかな。そこなら誰にも聞かれないよね」
僕は、Tシャツに冷や汗が滲むのを感じた。
***
海岸沿いには、電車で四十五分。夏の初めでもここには誰も来ない。水遊びは、危険な事の一つとされているから。
彼女は持って来ていたチェック柄のビニールシートを敷いて、「ここに座ろ」と言った。
それで僕は距離が近いとは思ったけど、彼女と隣り合って座った。
ここまでパトロールに来る警察官もいないだろう。
そこに座っていると、こんなに海の近くに住んでいたというのに、これまで海というものを見た事がないという事実に気付いた。
画像や動画で見た事があるので、てっきり見た事があるものとばかり信じていた。眼の前の海は、不思議な程青く、ザバンザバンと波を運んでくるし、時にはその
この波の繰り返しの音を聞いて、眼の前の海を見ていると、これが旅っていうものなのかなと思い当った。今でも少ないけど、旅というものを好む人はいる。一人で、ふらっと色々な場所を訪れる。3D、ハイビジョンで旅行は家にいて体験できる時代に。旅は、感染の恐れのある危険な行為だと教えられてきた。そして感染は死を招く病気を発症させる、と。すると高熱が起こり、脈は速くなる、と。
しばらくすると隣の雫が言った。「そろそろ食べよ」それは僕が最も恐れていた言葉だ。
「まさか、あんたがこんなに海にハマるとは思ってなかったよ」
「僕も思ってなかった」
「私ね、ばーばの家で一つの絵を見つけたの」
「バーバっておばあさんの事? 僕にもおばあちゃんがいるよ。昔、映画館で映画を見たんだって。一緒に行った友達が泣いてたって」
僕は脈絡もなく、喋っていた。
「そう。私のばーばは、もう亡くなってるの。私が小さい時に。家だけが残されてるのよ」
「そっか。ゴメン。で、絵っていうのは有名な人の絵?」
「たぶん少女漫画雑誌の切り抜きよ。でもカラーで、ちっちゃなポスターみたいなの。そこに女の子が海辺に座っている絵が描かれてたの。サンドイッチやフルーツの入ったバスケットを横に置いてね。だから私、小さい時から、こうやって海辺に来るのが夢だったの」
「そっか。そんな絵があるんだ」
僕はその絵を見たいと願った。きっと絵だけど、心に飛び込んでくるんだろう。眼の前の海が容赦なく波の
彼女がサンドイッチの包みを開けた時、僕は観念した。あの日、雅紀と彼女の家の敷地に侵入してから、今までいくつも法を破ってきた。今さらサンドイッチと夏蜜柑を食べたところで、何という事もない。非難され、友達は去っていくかもしれないけど。それは眼の前の風景に比べると大した事はないという気がした。
彼女から差し出された一つ目のサンドイッチにはベーコンとレタスとトマトが挟んであった。一口、かじる。店で買うのより数倍美味しかった。眼の前の潮の香りとサンドイッチの塩気とがいい具合に合っていた。
次はマーマレードで、これも口の中でとろける甘酸っぱさがハンパでなく美味だ。
「これ、うちの夏蜜柑で作ったマーマレードなの」
手作りのマーマレードで作ったサンドイッチという、法破りの二枚重ねだ。でも、もう感覚は麻痺していた。
「こんなの作れるんだ」とヘンな事に感心していた。
「うん。これも食べてね」雫は、容器に入った切った夏蜜柑らしい柑橘類をプラスチックの楊枝に差して、僕に手渡した。
大きな波が一つ、やって来て飛び切りの
この間、彼女の家の劇場で見た、再会の場面の女みたいだ。ただ笑いかけ、でも何か哀しい。
夏蜜柑の酸っぱさと潮の香りを同時に味わった時、僕は感じた。どうしよう。危機一髪だ。きっと僕は病気になったに違いない、そしてもうすぐ死ぬのかもしれない、と。
なぜなら、こんな風に鼓動が早くなり、胸の奥が苦しくなったのは生まれて初めてだったから。
〈Fin〉
その夏、僕は見てはいけないものを見て、味わってはいけないものを味わった 秋色 @autumn-hue
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