禁足地と神霊
鴎
***
深い山の中だった。
最後にあった都市から遙か彼方。山を分け入り、さらに分け入り、その向こうの山脈を越え、さらに山々の間を抜け、ようやくたどり着ける場所だった。
深い深い森。晴れ渡った日中でさえ薄暗く、木々が影を落とす木々の海。
そんな中を進む人影があった。
サクサクと落ち葉を踏みしめる人影はここまでの道のりを越えるための装備でびっしりだった。しかし、慣れているのだろう。装備は多かったが必要最小限だ。深い山の中を歩くために荷物はできるだけ軽くなっていた。
ストックを頼りに道なき道を進んでいく。登山帽からは動物のような耳が飛び出し、その下では桜色の髪が揺れていた。獣人だった。女だ。耳以外の姿形は人間のものだったが、後を見れば髪と同じ色の尾が揺れ、その瞳孔は縦に鋭く長かった。
「見えた見えた」
女はやや微笑む。その視線の先には大きな大きな木があった。
専門外の女でも分かる。ユグドの木。神樹として扱われる崇高な木だ。街でも教会の側に植えられ、長い長い時を生き、そして時と共にゆっくり大きくなることで知られている。その材は教会では神聖なものとして扱われ、神体を収める器に使われる。
しかし、これは女が知っているユグドの木をはるかにしのぐ大きさだった。
街のものはせいぜい教会の屋根を越す程度だが、この木は空を覆い隠し、梢はまったく見えなかった。ちょっとした丘ぐらいの高さはあるように見えた。
なるほど、この大きさなら神樹という敬称もうなずける。街のユグドの木にはいまいち神聖さを感じられていなかった女だった。ここまで大きくなるのには1000年では足りないだろう。
「さすがにマナがすごいね」
女には吸い込む空気にさえ濃密な魔力が含まれているのが感じられた。このまま長居すると当てられて失神するだろう。
女は小瓶を取り出しフタを取ると中身を吸い込んだ。体に入るマナを薄める薬だ。
「さて」
そして、女はまたサクサクと進んでいく。やがて地面は大樹の盛り上がった巨大な根で埋め尽くされていった。沈む落ち葉の土よりこちらの方がいくらか歩きやすかった。
女はそのまま根の上を歩き、何人なら囲めるか分からないほど太い幹の元まで来た。
幹には大きなウロが空いていた。このサイズの幹に空いたウロはまるで洞窟のように見えた。
「居るかな」
女はウロに近づく。その時、
「何用だ、人間」
突然の声に獣人の女が振り向くと幹の側に女が立っていた。人間、確かに姿は人間だった。しかし、その肌は死人よりなお白い。雪のようだった。服も白く、髪も白く、目は金色だった。
そして、その後には巨大な影があった。大きな怪物。ドラゴンの一種だろう。ただしオーソドックスな龍種ではない。口が喉まで裂け、眼は両方合わせて8つ。翼はただれ、鱗は禍々しく照っていた。邪龍だろう。しかし邪龍の姿はゆらゆらゆらめき、どこか亡霊のようだった。
「うは、びっくりした。そっちから出てくるんだ」
「どこからでも現れる。私は神霊だ。お前達の価値観には当てはまらない」
女は言った。獣人の女のこめかみに一筋汗が伝う。神霊を名乗る明らかに人間でないなにか、その後の怪物。明らかに異常な存在だ。この存在の気分次第で女の命はいつでも終わるだろう。
「もう一度問う。何用だ人間。街を離れ、わざわざこんな秘境になにをしに来た」
「王様の使いっ走りだよ。あんたに招集だそうだ」
「招集? なんの世迷いごとだ?」
神霊の表情が険しくなるのが見て取れた。雲行きが悪い。なんとか生きて帰りたい女だ。しかし、機嫌を損ねるのも無理もない話なのは百も承知だった。
「そりゃあ世迷いごとだろうね。800年も前に邪龍を神霊になって同化することで封印したあんたを、今更人間として呼び出そうっていうんだから」
「違いない。むしろ驚いた。まだ私を人間として扱う輩が居たとはな」
「なんでもかんでも理屈をこねて遊ぶのが趣味の連中じゃないと思いつかないことだね」
神霊は800年前、この国を滅ぼそうとした邪龍を儀式によってその身をもって封印した元人間だった。しかし、人間だったのは800年前の話だ。もう、神霊は自分を人間だなどと欠片も思っていない。周りだってそうだろう。というかそもそも、この秘境にそんな元人間の神霊がひっそり暮らしているなんていうのは誰も覚えてはいないのだ。
誰からも忘れられ、それを良しとして、この世の果てのような場所で静かに過ごしている。それがこの神霊だった。
それを今になって為政者は人間として、国民の一人として招集しようというつもりらしい。
「どこぞの国と小競り合いをしたいらしくてね。あんたを軍隊に組み込みたいんだそうだ」
「ははははは! 殺すぞ人間!」
「勘弁して欲しい。私はただのメッセンジャーなんだ。文句はどれだけでも王様に伝えるから見逃してよね」
「神たる私を人間の軍隊に入れようなどと。今の王は相当に頭が茹だっていると見える」
「わざわざ800年前の台帳からあんたの戸籍を作り直して国民の一人として登録したんだ。そのうち税金を徴収に来るかもね」
「それはそれは。丁寧に出迎えて八つ裂きにせねばなるまい」
「そうだね。そうなっても仕方ないと思う。あんまり馬鹿げてるからね」
実際バカな話だった。現皇帝は愚かなことで有名だった。やることなすこと的外れで、そのくせプライドばかり高いので国民を厳しく締め上げる。挙げ句の果てにまるで必要のない戦争を起こそうとしており、その結果こうして女はこんな秘境にカミサマを呼び立てに来たのだ。
「言葉にする必要があるとは思えんが、お断りだ人間。疾く去ね。でなくば死ね」
「だろうね、死ぬのは嫌だから帰るとするよ。ちなみに、あんたの昔居た村の辺りを最初の戦場にしようとしてるみたいだけど」
「知ったことか。もう800年も昔の話だ。今更心残りも何もあるものか。何から何まで私の知る場所ではなかろうよ」
「だよねぇ。一応伝えろって言われたから。これでちょっとでも気を引けると思ってるんだから救えないよ」
女はそうして、背負っていたリュックを下ろし、登山帽を外して地面に置いた。
「最後にひとつお願いだ。こいつを細切れにして欲しい」
「なるほど、私に襲われ逃げ帰ったという話にするのか」
「ああ、無傷で帰ったら今度は王様に殺されるからね。あんたは人間の手には負えない相手だったってことにするよ。中にはオリハルコンの盾も入ってるから。裂けるかな?」
「容易いわ。苦労するな人間。これだけのためにあの山々を越え、この禁足地に踏み入ったのか」
「それが今の仕事でね。悲しいことに」
神霊は苦笑し、置かれた道具達を見た。そして、神霊の背後の邪龍が高々と爪を振り上げ、そして下ろした。リュックと登山帽はそれだけで中身ごと粉々になってしまった。
オリハルコンは最硬度の金属だ。その盾が粉々にされたとあればどうしようもない相手なのはあの愚帝でも分かるだろう。そうだと信じたい女だった。
「ありがとう。これでようやく帰れるよ」
「そうか。二度と踏み入るな。次に来た人間はお前達の街に帰ることはない」
「良く言っとくよ」
「苦労するな、人間」
神霊の言葉に女は片手だけ上げて、帰って行った。
ただこれだけの仕事だった。そしてようやく終わったのだった。
街に帰って、王族の小言を聞いて、そしたらようやく2週間ぶりに風呂に入れそうだった。
禁足地と神霊 鴎 @kamome008
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