私は貴女の理解者でありたい

間川 レイ

第1話

1.

「私さ、危機一髪って言葉が死ぬほど嫌いなんだよね」


なんて、あの子が言ったのは。最終下校時間も迫り、暗闇ばかりが支配する放課後の空き教室で、何となく二人して机に突っ伏していた時のことだった。あの子は机に突っ伏した姿勢のままもごもごと言った。


「反吐が出るほど嫌いなんだよ」


「そりゃまた何で」


そんな私の言葉にふ、と微笑むとあの子は言った。


「危機一髪って言えてるってことはさ、言ってる本人は既に救われてるってことじゃん」


そうなんだろうか。私は考える。そうかもしれない。そうしている間にもあの子は続ける。顔に張り付いた髪を払いのけるようにしながら。


「それにさ、危機が一度でお終いみたいな楽観的な見通しが入っているような気もするんだよ。そんなわけないのにさ」


そう髪の毛を手櫛で整えながら話すあの子。口ぶりは冗談めかしていたけれど、その口調の節々には怒りが滲み出していて。


「まったくさー、中途半端な楽観論ほど腹の立つものはないんだよ」


そう椅子にもたれ、椅子の後ろ足2本だけで椅子をぶらぶら揺らしながら話すあの子。随分苛立っている。ということは。


「カウンセリング、上手く行かなかったんだ」


私はあの子が時々スクールカウンセラーに通っていることを知っていたから、そう言う。学校や家で辛いことがあったら何でも相談してと言う触れ込みのスクールカウンセラーに。


「そ」


一言だけで返すあの子。でもそれだけじゃはらわたの煮えくり具合がおさまらなかったのか、珍しく強い口調で続ける。


「スクールカウンセラーなんてろくでなしの屑の集まりだよ。そんなにご立派な事を言えるんだったらあいつらが私の家に住めばいい」


そんな事を吐き捨てるように言うあの子。普段はそこまで強い言葉を使わない子なだけに、よっぽど苛立っているらしい。あの子の事情はある程度知っているだけに、あの子の気持ちもわからなくはない。わからなくは無いだけだけど。それでも。


「落ち着いて。先生きちゃうよ」


無粋な闖入者を防ぐべく、そう言って宥めておく。ごめん、すぐに謝ってくるあの子。いいよ。そう言いながらあの子の隣に席を移し背中をさする。こん、と身を預けるようにもたれかかってくるあの子。私は逆らわずあの子の身体を受け止める。あの子はそんな姿勢のまま言った。


「カウンセラーがいうにはさ、私の親が私を殴るのは私を思い遣ってのことなんだって」


そう、ポツリというあの子。その言葉にはどこか面白がる響きを含みながら、どことなく湿り気を帯びていた。


「私の成績が下がったことについて馬鹿みたいな音量で怒鳴りつけてくることも、馬鹿みたいに髪の毛を引っ張ってくることも、貴女のことが心配だからついそうしてしまうんだって言ってたよ」


「酷いね」


私はそう返す。きっと、あの子はそう言われる事を望んでいるだろうから。あの子の温もりを感じるようにしながら、背中をさすって。


「うん」


そう頷くあの子の頭を抱き、そっと私の膝の上に誘導する。今だけでも、あの子が心安らかでいられるように、なんて。そんなのは嘘。私はただ、私のためにそうするだけだ。


身を委ねるように、ぽすんと膝の上に頭をおくあの子。ごつごつしてるね。痩せてるって言って。そんな戯言を交わし合う。


「酷いのはさ」


あの子が続ける。私は黙ってあの子の頭を撫でている。


「あの人たちは絶対に自分が間違ってないって信じてること」


あの子は言う。


「親にしてもそうだけどさ。多分私の事を思ってくれていることは間違い無いと思うんだ」


「だから、成績の上がらない私の将来が心配で、ついついヒートアップして殴ってしまうって言うのもわかるんだよ」


「でもさ」


あの子は言う。僅かながらに身を震わせて。心なしか湿り気を増した声で。


「殴られると痛いんだよ。怒鳴られるのは怖いんだよ。何でそんなこともわからないかな」


そう、震える声で言うあの子。辛いね、苦しいね。私はそんな言葉を吹き込んでいく。きっとあの子が欲してやまない言葉たちを。


ごめんなさい。私は内心呟く。私にはあなたの苦しみがわかりません。だって私は、ごくごく普通の家族の育ちだから。私があなたの望む言葉を吐くのは、あなたに嫌われたくないから、なんて。それも嘘。私はあなたのことが好きだから。どろどろとした情欲をあなたに抱いているから、私はあなたの望む言葉を吐くだけだ。だからって殴ることはないのにね、殴られる痛みを知らないんだよ。私はあの子がきっと望んでいる言葉を吐き続ける。


うん、うん。涙で頬を濡らしながら頷くあの子。私はあの子の頭をやさしく撫でる。親にだって頭を撫でてもらったことがないと言っていたあの子。そんな両親に代わって、なんてそんな高尚な意図ではない。私はただあの子に触れていたいだけだ。私の大好きなあの子。そのショートボブの頭をやさしく撫でる。私の熱が、あの子に染み入るように。私の熱が、あの子を染め上げるように。


あの子がどれだけ苦しんでいるか。私にだって理解できないわけではない。日常的に親から怒鳴られ、殴られているあの子。左手首には数筋の自傷痕が刻まれ、日常的に私に取りすがって涙をこぼす。そんな状況のあの子が真っ当といえるはずがない。本来なら、児童相談所などしかるべき機関に通報するか、せめて精神科医への受診を薦めるべきだ。でも私はそうするつもりなんて微塵もなかった。


だってそんなことをすれば、あの子は私だけのものではなくなってしまうから。私以外に縋りつくあの子や私以外の手によって救われるあの子なんて見たくなかったから。あの子は私だけに縋って、私だけに救われていればいい。


こんなことを考えるあたり、私はきっとイかれているのだろう。狂っているのだろう。人間として破綻しているのだろう。私は地獄に落ちるべきだ。そんなことはわかっている。分かっているけれども、この思いを誰にも邪魔させるつもりなんてない。あの黒目がちの暗くよどんだ瞳も、何かに怯えるように落ち着きなくさまようあの視線も、私の慰めの言葉に向けるほっとしたような眼差しも、すべて私だけのものだ。あの子は私だけを頼りに生きていけばいい。


でもあの子はそんな私の内面を知らない。知らずにあの子はこんな私の思いをわかってくれるのは由衣ちゃんだけだよなんて無邪気に微笑む。そんな無邪気な微笑みを見ていると、ぐーっと胸の奥から何か熱いものがこみあげてきそうになる。その熱さは愛おしさにも、あの子をめちゃくちゃにしたいという破壊願望にも似ていて。決まって私はそんなことないよと目を背けるのだ。


私は黙ってあの子を後ろから抱きしめる。わ、わ、どうしたのと不思議そうなあの子の耳元でそっと囁く。


「もし、生きていくのか辛いんだったらさ。一緒に死んじゃおうよ」


嘘ばっかりの私の言葉。それでもこの言葉ばかりは本心だった。死ねばあの子は苦しまなくて済むし、死ねばあの子は救われる。それに死ねばあの子は私以外のものにならないのだから。死んで一緒になろうよ、そんな内心には蓋をして。


そんな内心に気づいてか知らずか、あの子は「嬉しい!」と眼を輝かせて。わたしにはその無邪気な笑みが酷く眩しかった。




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