第6話
職業欄が無職となった僕のような“元アーティスト”には、わずかではあるが補助金が出るという通知がポストに入っていた。これもあくまで、過去に受賞歴がある者に限られるようだ。これまで政治には関心を示さなかったので、新聞やテレビによると、芸術家の弾圧というようなありきたりなものではどうやらないらしいことを聞き知る。
その真偽はいざ知らず、貯蓄もほとんどない僕には、バイトでも何でもしなければ路頭に迷うのは必定。だからといって、今から講師になるのも無理だろうから、全く別の業種を探すことになるだろう。
生きている間にこんなことになるとはな。
口には出さなかったが、その一言につきる。暖房をひとまず節約している上に、すっからかんなアトリエでは、どんな独り言もむなしく響きそうでやめておいた。
せいぜい今残っているものといえば、万年筆と紙だが、それで今から漫画家になれるような甘い業界ではないのは理解している。
こうして出来なくなってはじめて、僕は代替物にすがろうとする。学生の頃から本質は一緒だ。僕はいつから、そしていつまで芸術家でいたのだろう。
惰性で電源がオンのまま開かれているノートパソコンで、十数年ぶりに求人情報を調べるも、簡単で高給というキャッチコピーばかりがとびかって、肝心の内容がイマイチ掴めない。
<今からそちらへうかがってもよろしいですか?>
先日の騒ぎでついていた、モニターの埃を払っていると、画面下部にメッセージアプリの通知が浮かび上がる。Yさんからだ。断る理由と同じくらい、わざわざ彼女が訪ねてくる理由も見つけることはむずかしい。
<実はもう近くまできてて……>
すみません、と書かれたスタンプが送られたかと思うと、少ししてインターホンがなった。
入ってきたYさんは、丁寧に謝る姿から普段通りの様子を感じさせるというのに、つい先日とはその印象をがらりと変えていた。別にピアスをしていたり、露出の多いパンクな服装をしているわけではない。
ただ、髪色に淡い水色が混じっているだけ。
近頃の大学生くらいにはわりと、こういう染め方であったり、部分的にくっつけたりすることはままあるようだが、普段から控えめな彼女を思えば、かなり意外。オシャレの一環なので、別に少し青が入っていようと、それ自体は非行ではないものの、あの厳格な母親がよく受けいれたなと感心してしまう。
いや、そんな状況説明はいらない。なによりも驚いたのは、彼女も青を身にまとうことで、モルフォの美を口に出さずして見る者に、そして対峙する相手へ訴えかけているかもしれないことだ。
「良かった、あの絵はまだここにあったんですね」
「画材は寄付という名目で持っていかれたけど、さすがに完成した絵、それも曲がりなりにも受賞したことのある絵には容易に触れられないみたいだね。そのうち、こいつも美術館が買い上げようとするかもしれないけどね」
か細い指で、乾いた油絵具をなぞるY。肖像画の女はくすぐったいと体をねじる訳でもなく、相も変わらず微笑んでいる。
「まだ、行先は決まってないんですね……だったら、私がいただいてもよろしいですか」
「なに?……これは売り物じゃ」
「でも、ここにあれば、いずれは見ず知らずの機関に買われたり、酷ければ処分されるかもしれません。でも、私の家なら」
「ところで、イメチェンしたんだね、似合ってるよ」
「ありがとう、ございます」
彼女の吐く息が一瞬、白く見えたのは気のせいか。
「先生も変わらないといけないみたいですね」
「ん、まあそうだね。このままだと餓死一直線だからなぁ」
「そうだ、この絵単体じゃなくて、先生を私は買いますよ」
その言葉には決して毒は混ざっていなかった。だが、甘さも感じられない。ふいに出た願望というには、あまりに冷徹な瞳は、彼女がもう大人であることを意識せずにはいられない。
「君は……それとも、何かあったのかな?」
「先生が、先生でなくなったんですから、弟子にしてもらうことはできないですし、私をモデルにしてもらうことも不可能です。それに今はそこまで望んでいません。でも、目に届くところには居てもらいたいです。先生、このままだとこの絵と心中しそうですから」
「まさか、同情しているのかな?」
「違いますよ、先生は別に絶望してないですしね。むしろ、砕け散ったというより、少しずつ腐敗しそうだから、今のままの先生を保存したいだけです」
「正直、Yさんの言っていることがよくわからない」
「私、綺麗ですよね? エクステも変じゃないですよね?」
「あぁ、似合ってる……さっきもそういったよね」
「先生も、今は素敵です。でも、このままだとこの肖像画の女性に生気を奪われそうです、内側から枯渇していきそうなんです」
そのとき、改めて絵をみると、今まで感じたことのない表情が浮かんでいた。心配。彼女が僕を心配している。
Yさんの蜘蛛の巣にかかったことに?
芸術家でいられないことに?
後輩である田中さんとの出会いで、僕にもプライドがあったことに自分で気づいたことを、彼女は不安に思っているのだろうか。
「私のもとで、先生自身が生きる絵になってください」
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