第5話

「こうなった以上は、もう続けるわけにはいかない」

 自然と電話の順番はYさんを最後にしていた。それはどうやら選択としては間違っておらず、どうしようもないこと自体に、彼女は静かに悪態をついていた。受話器越しにも表情が浮かんでくるのは、それだけ付き合いが長いからなのか。それとも僕が特別視しているせいなのか。どちらにしても、彼女の言い分を天秤にかけることはない。罪は罪なのだから。


 カフェオレを一気に喉へ流し込むと、コートを手にしていつもは向かわない方角へ。田中さんに今からそちらに行くと伝えると、授業があるから昼までにと言われてしまったので、柄にもなく急行する。

 母校でもないので、会うのは結局、出入りが自由なラウンジ。外に数名、報道関係者のような人が居たが、特に僕には近寄ってこなかった。

「先生、もし入り用なら何でも言ってくださいね。まだ私は融通がきくんで」

「ありがとう。僕はまあ、今のところ大丈夫だけど、もしかすると生徒のことで頼ることにはなるかも」

「たとえば、私を睨む女の子とか?」

 そんなことしてたのか。女性同士の関係は冷え冷えとしているとよく言うが。そしてそれを僕に言ってくる田中さんも少し恐ろしい。いや、監督不行き届きなのはこちらの落ち度なのか。

「それにしても、ネクタイなんて初めてみました。結構、似合ってますよ」

「ああ少しね、たまには」

「もしかして、役所に殴り込みとか? さすが“アーティスト”ですね」

「まさか、ほんの気分だよ」

 なんとなく服を決めるのが面倒で、学生の頃からシャツでいることはままあった。だが、確かにネクタイをつけるほどカチッとした着こなしは意識したことが無い。今だって着ているのは紺のボタンダウンシャツ。ビジネスでは派手ではないが使いずらい。ただ、今朝は不思議と光沢のある青のネクタイを合わせたくなった。

 ともすれば滑稽なのかもしれないが、鏡に映った心象は写真でしかみた事の無い、遠い外国の森にいるというモルフォ蝶のようだった。その恍惚とした気持ちを真っ黒のコートに包み込んで、昨日までアトリエだった、年季がにじみ出ている家を出た僕は、気づけば田中さんのところへ来ていた。

 

 話すといえば、なぜ彼女だけに、直接説明しようと決めたのか、直にこうしていても未だにわからない。確かに才能は認めている。だが、特別視はしていない。あるいは対抗心でもあったのだろうか。

「今は先生でも何でもないんだ。むしろ現役でいられる田中さんの方が先生だよ」

「アーティストはいつだって反体制じゃないですか、頑張ってくださいね」

「はは、僕が同年代ならあるいはね」

 その瞬間の彼女の表情は、皮肉だが久方ぶりに筆を取りたくさせた。あまり近頃は手に取っていないが、漫画ならきっと彼女の瞳の奥に、文字通り星のような煌めきが効果としてチョイスされていたに違いない。描きたくても、今や僕にとっては不正行為でしかないその手段で、たまゆらの女をコレクションしたかった。

「年上だから、格好いいのに」

 僕がネクタイをつけるような日だからか、彼女だって、もこもことした白いセーターを着ていた。目の前に女子大生がいるという印象が、触ると凍りつきそうな打ちっ放しコンクリートのラウンジでひっそりと芽生えた。

 ところがきっと、彼女にはこの青いネクタイを、アメリカ南部の森をとぶ高貴な蝶のようには愛でられないだろう。それが、いま一歩近寄れない最たる理由なのだ。そうか、僕はここへ挑戦しにきたのかもしれない。

 そういえばモルフォ蝶というやつは、花の蜜ではなくて、腐った果実や動物の死骸を好むらしい。森の宝石たるかの蝶は、毒をもつがゆえに捕食者もいない。モルフォとは形や美しさを意味するギリシア語をそのルーツにもつ言葉。

 僕はただ彼女の発言を鼻で笑い、大学を後にした。やはり帰りも報道関係者は僕には近寄る様子をみせない。

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