第4話

 五十代半ばのご婦人が「何だか活気にあふれてきましたね」と表現したのは正しい。田中さんがここへ来るようになったことは、単なる名簿上のプラスではなく、黙々としたデッサンの時間を、あたかも部活動のように変化させていったのだ。

 彼女は一人ひとりを相手に自己紹介と雑談をしつつも、非常に上手な絵を描いてみせた。ただ彼女だけが、ここへは習うというよりも、話に来ていたと言ってもいい。

 彼女の在り方に僕は是非を持っていない。皆が楽し気ならそれに越したことはないと感じていたからだ。

 ヒーターのぬくもりが欠かせないそんな冬の半ば、Yさんは一人残って、それまで抱いていた泥をゆっくりと吐き出してきた。そんなものは持っていても邪魔なだけだが、外界へ捨てるにしても、その瞬間から彼女はダーティな空気をまとわなくてはならなくなる。まだあどけない少女は、想像以上に重たい鬱憤をついに晴らさざるを得ない時まで孤独に筆を握っていた。

「弟子にしてください」

 田中さんが確かに帰った後、彼女は話があると言い、既に親にも帰りが遅くなると伝えているようだった。

 笑顔が素敵な女性が、いざ真剣なまなざしになる瞬間を、僕は幾度も密かに愛でてきた。時には夜長の憂さ晴らしに鉛筆でしたためたこともあったか。

「残念ながら、今の僕には君の師匠になるほどの実力は無い」

 言ってから、この言葉が“そんなこと無いですよ”待ちということに気が付いたが、幸いにも彼女は巧みにそれを避けてきた。

「もし弟子になれたら、私もいずれ一人で生きていけると思うんです」

「もしかして、親御さんに何か言われた……?」

「そうじゃないです。いえ、確かに言われてる事もあるけど。それよりはもっと個人的なことです」

「そうか。進路に悩む時期だろうし、君の気持ちに似たことは僕だって経験済みだと思う。画家なんて儲からない職業、選ばないのが大人というものなのかもしれない」

「田中さんは……画家になるんでしょうか」

「田中さん? どうだろうね、案外あの性格もあるし、美術館側に進む可能性もあるんじゃないかな。それが?」

「先生は、田中さんを弟子にしたいと思いますか」

 女性というのは、時として攻撃が最大の防御であることを、武道家よりも心得ている。魅惑と攻撃を繰り返すことで、男というのは遥か大昔から、どこまでも愚鈍な存在であり続けるのだ。

「誰であっても、僕は弟子を取るような人間じゃない」

 冷えた空気が引力によって僕の二の腕を押さえ込むようだった。僕は圧死というものに何よりも恐怖を覚える。いっそのこと苦しみを感じながら、ドラマでしか観た事の無い量の血液を、画材のように爪を染め上げてみたい。目をつむるように、自分が肉片になることは、考えるのもおぞましい。現実には滅多に生じることはない。それは深海や鋼鉄で出来た機械の伝家の宝刀。だが、Yさんの話具合は、その美しい40デニールのタイツと違って、重々しい暗黒な感情が他人である僕にまでなだれ込み、もがく暇さえ与えないでいる。結局、彼女は納得しないまま、明日も来ますと言い残して、暖かそうなコートに身を包んだ。


 その晩、ニュースで速報が知らされた。

 国家芸術法の制定・施行に基づき、全国から画材が徴発されるようになったのだ。僕のような個人経営からまずは実施されたようだ。公的な美大と違って、テロリズムや危険思想を教えている可能性があるために。なまじっか表彰された経験があるので、官憲にリストアップされていたようだ。

 テレビに映っているような光景が、今まさに目の前で行われていても、僕には何もできなかった。

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