第7話
彼女が僕のパトロンとなる、という意味であれば、恥ずかしい話だが、かつては一考しなくもない。もちろん、断るだろうが、それはしがない画家としての宿命だ。見知らぬ大金持ちよりも、身近な小金持ちにお世話になったほうが何かと都合もいい。
ただし、意図もよくわからない今の状況下で彼女のもとへ向かうというのは、どこか奴隷契約の香りがする。
僕は学はない分、社会ではなくて自己について考えることが多々ある。論語でも三十にして立つ、という言葉があるじゃないか。貧困への不安を、彼女との同居に解消するのはよくない。理由などはわからない。ただ倫理としてそう告げているのだ。迷信やおばあちゃんの知恵のようなもの。そこに理路整然たる回路は必要ない。彼女の話には納得がいかない。それだけで断るには十分だ。
実際、彼女が髪を染めたり、あるいは僕に近寄ろうとしたのも、作品をうめなくなった彼女の個性を防衛するための、代替的な創作表現だろう。
柔らかそうな頬にえくぼをつくって彼女は、描けない画家を囲もうとしている。もともと僕は彼女に惹かれてはいたんだ。そこにとうとう付け込まれたということか。
「ここを……出るのか」
その独り言は、まるでアトリエ自体から発せられたようだった。僕の耳には他人事のように届いたからだ。
だが、こだまするようにもう一度心によぎったその言葉の語尾は、女性的でもあった。Yさんに慕われて嬉しいはずなのに。田中さんに才能を認められて喜ぶべきなのに。
「僕の方なんだな、キャンバスに閉じこめられていたのは」
杖の少女はまたしてもだんまりを決め込んでいるが、きっと生きているのだと思う。
「僕は、このまま消えた方が良いんだろう」
肯定も否定もしない。ただ、杖に軽く手を触れて、こちらを見つめている。
「僕の自画像じゃないんだから、何か君が反対しても」
すると悪魔が代わりにささやいた。もし杖の少女を、僕の手で突き落とせたら。そしたら、僕のこんな毎日にも
彼女が僕にとっての原点であるとすれば、彼女はまた、僕の執着のはじまりでもある。
それに、僕という人間、絵が塵へと化すことは、むしろ国家の望むところなのだ。ついに僕は胸を張って何かの役に立てる。芸術に奉仕してきた、などというのは建前に過ぎず、僕のしてきたことと言えば、老婆に筆の持ち方を教え、二三の優秀な若者に言いようのない壁を感じてきたに過ぎない。
気付けば、アトリエを出て少し北へ行ったところにある自販機の前にいた。コンビニが近くにないので、飲み物が切らしたときは、ここへ来ることがある。とはいえ、ケチな僕はいつも、プラス50ミリリットルと記載された細長い缶コーヒーしか買ったためしがない。ポケットを探ると、サイフも持っている。ここまでは無意識に近かったはずなのだが、意外に用意周到。
二千円入れるも、毎度おつりがでるタイプだった。いつも自分の分しか買わないので気付きもせず、仕方なく戻ってきた多くの小銭を片手に、同じものをあと三つ買う。
遠回りをしてそれぞれのポストへ缶コーヒーをつめて帰り、残った二本を僕と〔彼女〕とで乾杯する。
外の電灯がチカチカしているが、わりに良いムードだと感じている。もっと僕は怒ってよかったのかもしれない。芸術を爆発させるのも悪くなかっただろう。
だが、僕はこうして静かに人知れず幕を下ろすことに、性に合ったところがあることが分かった時点で、僕は大いに満足だ。
少女の瞳、彼女の脚、かの女の明るさ。どれも僕のものだ。前頭前野に描きつけたそれらの美は、このまま失われることなく霊魂とともにどこかへ持っていくのだから。
アトリエに浮かぶ四肢 綾波 宗水 @Ayanami4869
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