アトリエに浮かぶ四肢

綾波 宗水

第1話

「お届け物です。来栖さんのお宅で間違いないでしょうか」

 わざわざ書店で買わないなら、僕も電子化すればいいものを、何に影響を受けたのか、未だに紙の本であることにこだわっている。宅配業者に礼を言い、さっそく二階へ持っていこうとするが、足がとまる。

「教室の方が……いや、まずは読まないとな」

 絵画は実際に自分の目を通さなければ意味がないというのが通説だが、現代の印刷は精巧だ。旅費が無いことを言い訳に他者の作品に触れないくらいなら、こうして大型の本を身近に並べている方がいい。僕の休日は、本の整理にわりと費やしがちだ。思うようにならない浮世ならば、せめて物くらいは支配したい。絵描きを志したのも、もしかするとこういう気質ゆえなのか。

 冬の日差しは机の埃を目立たせる。掃除も兼ねて、とりあえず本はそこへ置きたいが、絵筆が邪魔なのでいっそのことペンと一緒に引き出しにしまう。

「乾いてるし、構わないだろ」

 休日こそ本業に勤しむべき身ではあるが、研究も、大切だ。それに、生徒さんからもなかなか細かい質問が少なくない。今では大方の事はネットや動画で学べるから、独学ではよく分からなかったことや、画材の違い、それに主義主張の解説まで頼まれる。僕はシュルレアリストではない。あの人たちが僕の弟子なら、そう言って突っぱねるが、如何せん月謝をいただいているからそれに見合う、子どものお稽古とは違った体験をしてもらわないといけない。専門学校の講師の方がその点、気楽だったりするのかな。

 昔から絵を描き、それなりに惜しいことも何度かあった。僕が絵画教室を始めたのは、そうした仲間うちで今なら儲かると聞いたからだ。深夜アニメが少しずつ社会に認知されだすと、今度は自分も製作にと志す若者が数多いるとソイツは言っていた。都会ならその手の学校も多いが、地方都市であるここでは未だに江戸幕府がお上なまま。なので、アニメーターになりたいものは、絵師として入門しないと、親がうるさい。

 聞くところによると、僕をそそのかしたソイツはその後、絵画からCGアドバイザーに身売りしたようだ。相変わらず先見の明があるようで羨ましい。


 結局、主婦の暇つぶしや絵に興味のある中高生の数名相手に、塾のようなことをする日々が今も続いている。これはこれで性に合っているものの、個人でやっているのだから、良いことばかりではない。SNSも勧めで始めてみたが、休校連絡や数回のイベント告知でしか使っていない。この画集のようなパリの人工楽園には程遠い世界を、こしゃこしゃと生きている。

 経歴欄に記載している初入選は、大学生のときの『杖の少女』。講義で斜め前にいつも座っていた彼女の名前を聞けなかった不甲斐ない僕の思いが、絵にした際に筆にのったようで審査員に好評をもらった。それからマイナーな賞だが数年ずつ、佳作であったり何次選考に残ったとか、それなりに描き手として前線にいたはずが。

 僕が美大生だったころ、Tという講師が、25歳までに出来ることはしておけと言っていた。いわく、それが才能の限界で、その後の人生、何年続こうがおつりでしかないと。

「先生、来年で僕も三十四ですよ」

「あの……」

 場所を変えようとしたイーゼルがガタっと音を立てる。

「す、すみません、お借りしていた本を。その、すみません」

「Yさん、どうして……」

 階段の下には、生徒の中でも有望株なYさんが目を泳がせ、どもっている。そういえば土日の間に、と話した気がする。

「私、出直しますね」

「気にしなくていいよ。その……ビックリしただけだから。どうぞ上がって。それに、新しい本も届いたんですよ」

 紅茶を入れるのを椅子にまっすぐ座って待つ彼女だが、その雰囲気とは裏腹に、話してみると普通の女子高生であるなとつくづく実感させられる。そんな子をお茶に誘うのは、見方によっては不埒だが、別にどちらにも下心なんてありはしない。

「すみません、お休みの日に」

「構わないよ、いや、僕こそ休みなのに引き留めてしまったね」

「いえ、私、先生と話すの楽しいです」

 世間からは僕のようなものでも芸術家の一人として捉えているかもしれないが、よくいる独身でしかない。お世辞かどうかは気にせず、誰かと過ごすのも悪くないと思う位には、こちらも世俗的な人間だ。

「先生は、どうして画家になったんですか」

「そうだね、そもそもなれたのかどうか」

 出しかけていた掃除道具をそれとなく元の場所へと戻しつつ、読むでもなしにパラパラと画集をめくる彼女の細い指をみていた。ここへ来るのは週に二回。以前は一回だったが、なんとか親を説得して一日増やしてくれたみたいだ。それ以外はピアノの練習で忙しく、特に母親にとってはピアノ一本に励んでもらいたいとか。そういう事情もあるので、教室以外でも貸した本の返却という名目で半時間ほど休みの日に話すことは時々あるのだ。

「『杖の少女』を生で見せていただいた時、本当に感動したんですよ」

「そう、ありがとう」

「言われなれた感想かもしれないけど、本当なんです」

 彼女のはにかんだような瞳は、弱々しくも惹きつけるものがある。だが、今は足元にそそがれており、何も映ってはいないようだった。ソーサーとカップに両手を塞ぎながら、あくまでも一生懸命に、思いをつむぎ合わせようと。

「つめたい色ですね」

 そう言い残すと、夜には雪が降りそうな夕暮れ時、もう帰らなくてはと、何を悩んでいるのか話さず仕舞いで部屋をあとにした。行きと違って、今回は本を持たずに。

 先ほどまで鼻腔をくすぐっていた紅茶と彼女の香りは、早々にすきま風がどこかへやってしまった。

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