第2話

 Yさんになぜ画家になったのかを聞かれたことがきっかけだろうか。僕は彼女が帰宅してから、改めて掃除を済ませると、近場で催される特別展がないかどうか調べていた。美術展では、人がまばらであるに越したことはないのだが、その分、スタッフの視線が気になって、結局、館内で僕の革靴の音がやむことは滅多になかった。

 当日券をポケットにしまってまだ十数分。

 パンフレットとポストカードを買って、それから昼食は……と、既に意識は館外の日常をさまよっている。そんな僕を引き留めたのは、茶色のパンツとジャケットという、学芸員のような女性だった。


「あの、あなたも絵を描くんですか?」

 ハキハキと明るく語っているが、どこか緊張が伝わってくる。女遊びでもしていれば、あるいは見覚えの無い女性に話しかけられるのも慣れっこかもしれない。

 僕の口から出たのは、「え、いやあの」という言葉の記号たちだった。

「袖のそれ、絵具ですよね?」

「うわ。まぁ、絵画教室をしてまして」

 きっとイーゼルを動かした拍子についたのだろう。ネクタイと違って、スーツはあまり持っていないのに。グレーに紺色なんて、キャンバスくらい明らかなのに。電車でも目の合う主婦が居たなぁ。

「へぇ! じゃあ、先生なんですね」

 見ず知らずの男に向かって、美術展で話しかけてくるのも珍しいが、それ以上によくもまあ、純粋に尊敬するような目線を向けられるものだ。たいした経験は僕には無いが、きっとこういう子が、就活でも上手く立ち回って大企業に入るのだろう。

 そういえば、彼女は二十歳前後に見えるが、学生なのかここのスタッフなのだろうか。ポニーテールで、どこか事務の女性っぽさもあるが、本人はあどけない。

「あの……」

「あ、すみません、お邪魔でしたね」

「いえ、そうじゃなくて。あなたもって言いましたよね」

「恥ずかし……はい、実は美大に通ってて」

 口に出せるタイプの人間、か。まるで僕とは別のジャンルで励んでいるに違いない。いや、今向かいにある絵の多くは、僕の扱う西洋画、油絵。仮に現代美術系なら、果たして訪れるものだろうか。

「私、数駅乗ったところに住んでるんですけど、良かったら今度、絵を見てもらえますか!?」

 スタッフが絵ではなく僕の顔を見だしたので、彼女の申し出をその場で受け入れ、そそくさとミュージアムショップの方へと足を運んだ。よく通る声というのも、生きづらさは同じなんだろう。

 ナンパではなく営業だと自分に言い聞かせ、公式アカウントを彼女に教える。

 さっそくフォローしてきた彼女の名は『さめ丸』。

「あまり呟かないんですね」

「やっぱり投稿は多い方がいいのかな」

「関係もしてますし、今日の感想とかどうですか! きっとプロのレビューは人気でますよ」

「プロというか、まあ気持ちはわかるけど」

「先生なんですから、アマチュアではないと思います。なので、先生はプロです。わ、素敵な絵、これ、先生のですよね。へぇ~私、絶対に通いますから」

 さめ丸こと田中さんは、満面の笑みで覗き込んでくる。背は少し高めだが、妹のような自然な仕草に感じられた。


 帰宅後、何の気なしに彼女のアカウントを覗いてみたが、日中は無かったはずの鍵のマークが、サメのアイコンの横に付いていた。

 何よりも不愉快なのは、自画像のために生徒が準備した置き鏡に僕の顔が映っていたことだ。先日剃ったというのにまたしても髭が少し生えてきた男が、午後八時の空を背景に溶けている。部屋の中にしか街灯のない、真っ黒な曇り空の権化のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る