免許証を忘れた!

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免許証を忘れた!

 街は夕暮れ時を迎えていた。

 街の灯りがぼんやりと輝き始める中、スーツを着た男性は会社から出ていた。

 中田悠太、38歳。

 目じりと口元に深く刻まれるしわは、苦労の証である。

 悠太は会社から出ると、最寄りのケーキ屋に立ち寄る。

 今日は娘の誕生日だ。

 5歳の娘へのプレゼントは、デコレーションケーキにしようと決めており、仕事終わりに予約していたケーキを受け取りに来たのだ。

「すみません。予約していた中田ですが、ケーキの方を受け取りに来ました」

 すると、店員の女性が笑顔で迎えてくれた。

 用意されたケーキは、白いクリームに、緑が鮮やかなキウイフルーツや黄桃に、真っ赤なイチゴなどのフルーツがキラキラと輝く、豪華な一品であった。

 ケーキの上には可愛らしいウサギのチョコ細工まで飾られている。

 妻と娘が好みそうなケーキを選んだのだ、このケーキを二人は喜んでくれるハズだ。

 料金を支払い、見送る店員にお辞儀をすると店を出る。

 外はすっかり暗くなっており、夜の寒さがスーツの繊維の間を縫って襲ってきたが、今は家族の元に帰ることで、気持ちがわくわくしている。

 悠太は会社の駐車場に行くと、スズキ・アルトに乗り込むと、スマホを取り出し妻に電話をした。

「ごめん美奈子、仕事で遅くなった」

 電話口から美奈子の声が聞こえて来る。

「お疲れ様。桜、あなたが帰って来るまで、ご飯食べないで待っているわよ」

 妻の美奈子は、娘を見ながら答えていると、電話の相手が父親だと理解して走り寄って来る。

「パパなの?」

 嬉しそうな声がスマホのマイクから聞こえ、悠太は胸が温かくなった。

 親バカと言われるかもしれないが、無邪気で可愛らしい女の子である。

 妻の美奈子は黒髪に綺麗に整った顔立ち、おしとやかな美人だが、桜は父親の血の方が多く受け継いだのか、利発そうな顔立ちをしている。将来きっと美人になるだろう。悠太は非モテな、自分に似なくて良かったと思う。

 そんなことを考えていると、スマホから、桜の声が聞こえてきた。

「パパ、帰って来るの遅いよー。一緒に誕生日のお祝いしようって言ったじゃない」

 スマホから聞こえる、桜の声に、悠太は胸が痛い。

「ごめんね。ケーキを買ったから、みんなで食べようね」

 悠太が告げると電話口の向こうで、桜が「やったぁ」と歓喜の声を上げていた。美奈子がクスクスと笑っている。

「気をつけて帰ってよ。桜と待ってるから」

「うん。待っててね」

 電話を切ると悠太は、キーを回してエンジンを起動させる。

 悠太は車を発進させると、すぐに駐車場を出て夜の街を走り出す。

 毎年、誕生日は家族で祝うのが我が家の恒例だ。今年はいつもよりも帰宅する時間が遅くなりそうだが、家族は待っている。

 妻と娘のために、早く家に帰ろう。

 悠太は心の中で思いながら、ついついアクセルを強く踏み込み制限速度をオーバーしてしまっていた。

 そこで、悠太は肝を冷やしてしまった。

 なぜなら悠太は今日、運転免許証を持っていないからだ。

 気づいたのは、会社の昼休憩時に自動販売機でコーヒーを買おうとした時に、財布にいつも入れている運転免許証がないことに気づいたのだ。

 それは、今日の出勤時から免許証不携帯という罪を意味していた。

 悠太はコーヒーを買うのを止めて、慌てて自分の荷物を探っていて、ふと思い出す。

 それは昨日のこと。

 自動車保険の更新をする際、ゴールド免許であることを証明するため自宅のプリンターで運転免許証をコピーしたが、それをプリンターに残したままにし、財布に戻し忘れていたのだ。

 悠太は免許証不携帯で出勤してしまったことに青くなっていた。

 免許証不携帯が罪だということは知っている。

(もし警察に見つかれば、罰金、減点、違反切符、免許停止とたくさんの罰を受けるに違いない……。それに減点となったら、ゴールド免許じゃなくなるから、自動車保険の金額が割増になってしまう。会社にバレたら、部長から注意をされるかも……)

 悠太は自問自答した後、違反切符を切られていないにも関わらず、どんどん青ざめていくのが自分で分かった。

 だが、冷静に考えることにした。

 今まで一度も免許提示を求められた経験がないということだ。

「そうだよ。20歳で免許を取ってから、38歳の今の今まで一回も免許証の提示を求められたことなんて無いじゃないか」

 悠太は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 それに今まで違反切符を切られた経験がないのだから、今回だって大丈夫だと自分に言い聞かす。

 免許証不携帯の事実を仕事に集中し残業で疲れ、娘の声を聞いていうちに忘れてしまっていた。

 悠太はブレーキを踏んで減速すると、制限速度以下まで落とす。

「これで大丈夫。きっと大丈夫……」

 悠太は言い聞かせながら、夜の街を走り出す。

 仕事を終えたサラリーマンやOL、学生が街の中を急ぎ足で移動しているのが見えた。

 皆、一日を終えて自宅へと帰っているのだろう。

 妻と娘に早く会いたい。

 会って、喜ぶ顔が見たい。

 街を走り、車窓からの風景は徐々に人が住む地域へと変化してゆく。

 住み慣れた風景に悠太の住む、自宅マンションとの距離も近くなった。

(あと少し……)

 悠太が、そう思った時だった。

 正面道路で赤い棒状の光が見えた。

「なんだ?」

 見慣れた道路で起こった出来事に訝しみながら車を減速をしていると、それが誘導棒を持った警察官というのが分かった。

 瞬間、悠太はドキリとしつつも、今更引き返すことは疑いを持たれる為に、引くこともできず減速していると、道路端にある待避所へと誘導された。

(え。なんで!? 自宅まで、あと400mくらいなのに!?)

 誘導された先には、警察官がもう一人おりジェスチャーで、車の停止を求められる。

 悠太が車を止めている中、道路横を自動車が通り過ぎて行く。車ならどれでも止めている訳ではない。明らかに、悠太の乗った車を狙って停止させたのだ。

 悠太は緊張で、心臓がバクバクと音を立てる。

 赤い誘導棒を持った警察官は、道路の方を見張っている中、待避所に居た警察官は悠太の乗った車の窓を軽く叩く。


 コンコン


 と、それは小さな音だったが、悠太は、その音に反応すると、警察官の顔を見る。

 若い警察官だ。

 まだ新米だろうか?  その表情に敵意はなく、人懐っこい表情だった。

 そして、若い警察官は指で、下を指し示す。

 悠太は、その意味が分からなかったが、5秒くらいしてそれが、サイドウィンドウを下げろというジェスチャーであることが分かった。

 従わない訳にはいかない。

 悠太は、パワーウインドウスイッチを押して、サイドウィンドウを半分だけ下ろす。

「お止めして、すみません。ちょっと、お話を聞かせて頂けますか?」

 若い警察官は、見た目通り若々しい口調で語り掛ける。

 だが、悠太に話すことはない。だから、視線を合わせられなかった。

「……あの。娘が、誕生日で待っているんです。申し訳ないですが、失礼します」

 悠太は丁寧な口調でそう告げると、運転席側のパワーウインドウスイッチを押して窓を閉めようと手をかけた時だった。

 若い警察官が慌てて、車の窓に手を入れて来た。

「職務質問ですので、ご協力頂けますか?」

 優しい声の中に、威圧を感じる。

 これは従わない訳にはいかない。

 悠太は、ゆっくりと窓を閉めるスイッチから手を引くと警察官に顔を向けた。

 若い警察官は、悠太がスイッチから手を離したことを確認すると、緊張で強張る顔に笑顔を浮かべて話しかけた。

「まずは、エンジンを停止して頂けますか?」

 その要求に、悠太は素直に応じた。

 何の捜査かは分からないが、これで車を急発進して逃げることはできなくなった。最も、その時点で犯罪者になってしまうので、逃亡なんてする気はないが。

「念のためキーを抜いて、車から降りて頂けますか?」

 警察官の言葉は丁寧語だったが、状況的にそれは命令形だ。

「はい」

 悠太はキーを抜いて、車から降りた。

「いい車ですね。新車ですか?」

 警察官は、悠太のアルトを眺めながらそう言う。

「いえ。中古です……」

 悠太は曖昧な笑みを浮かべていた。

 すると警察官は、ジッと見つめて来る。

「そうなんですか。車体がキレイなので、てっきり新車かと。毎週、ガラスコートスプレーをかけていますね。相当な愛車じゃないですか」

 悠太は警察官の言葉に驚きを隠せなかった。

 そんな細かいところを観察されていることに、恐怖を覚えたからだ。

(な、なんでコイツ分かるんだ?)

 驚いていると、若い警察官が笑顔を向けてきた。

 先ほどの様な愛想笑いではない。相手を安心させるような笑みだった。それを見て、悠太は自分の弱みを見透かされた気がした。

 つまり警察は自分を疑っているのではないかと思い込んでしまったのだ。だからだろうか? 心拍数が上がって来るのが分かった。

「あ、あの。どうして、僕は職務質問をされているんですか?」

 車を眺める警察官に、悠太は訊く。その質問の最中、道路を車が走り抜けていた。駆け抜けて行く音が悠太の不安感を煽る。

 すると警察官は、何食わぬ顔で答えてきた。

「実は、ひき逃げ事件がありましてね。被害者にケガは無く、乗っていた自転車を損壊させての逃走だったのですが、目撃証言が曖昧で、ナンバーは不明。黒い軽自動車という事以外、分からないんですよ」

 悠太は、だから自分が職務質問を受けているのかと分かると同時に、まずい流れになっていることに動悸が止まらないでいた。

 自分の深い紺いアルトを見る。

「僕の車は黒じゃありません、紺ですよ」

 悠太は警察官に意見した。

「うーん。見方を変えれば、紺も黒にもとれますよね」

 警察官は困ったなという表情を浮かべた。

 確かに紺色も黒色に入る場合もあるが、今の悠太にとっては、まったく違うと言いたかった。そんな問題で無駄な時間を消費させてはいけないと思い、悠太は職務質問を終わらせようと話し掛ける。

「いえ黒と紺は明確に違う色ですよ。良いですか、黒は色の中で最も暗い色で、紺は明度が低い、黒に近い青色です。つまり、黒と紺は確実に異なる色なんですよ。という訳で、帰ります」

 悠太が言い切った後、警察官は感心したように言う。

 その言い方が、あまりにも常識を分かっているかのように言われたので、少し心外だった。

「なるほど。確かにそうかも知れませんね」

 警察官の言葉に、悠太は胸を撫で下ろす。

 しかし、警察官は踏み込んで来た。

「ですが、あなたの言われるように《黒》に近い青です。もしかしたらということも考えられますので。申し訳ありませんが、ご協力をお願いします」

 悠太は、その言葉に押し切られる。

「つきましては、運転免許証を確認させて頂けますか?」

 警察官の、その言葉に悠太は最も恐れていた事態に直面する。

 免許証不携帯がバレれば、ゴールド免許を失うだけでなく、5年以下の懲役または5万円以下の罰金を受けることになる。

 ハズ。

 悠太の月々の小遣いは15000円だ。

 それだけは避けたいと思い、警察官だって人間だ。家庭の事情を口にすれば、許しても貰えるかもしれない。

 だが、ここで何もしなければ間違いなく疑われるだろう。

 相手は警察官だ。普通の犯罪者なら即逮捕だろうが、悠太の場合は話が別かもしれない。会社内で人望があるとはいえ、立場的にはただの平社員だ。犯罪に手を染めた事実が無い。会社に報告されるのは避けられる……。

(いやいや違うだろ!)

 一瞬浮かんだ考えを悠太は、すぐに打ち消すと職務質問している警察官を見る。

 聞いたことがある。

 警察官も実績の為に、月々のノルマがあるということに。免許不携帯と知れば喜々として反則切符を切る。ならば、何とかしてこの危機を乗り越えなければならないと。

 だから、素直に出してはダメだ。

「……あの。あなた、本当に警察官ですか?」

 悠太は疑いを向けて続ける。

 2022年10月19日。

 大阪府で警察官を装った男が、高齢女性からキャッシュカードを騙し取る事件が発生。

 犯人は、スマホ画面の警察手帳を提示して、今の警察手帳はこうなっていると架空の警察手帳を示して、女性を信じ込ませている。

 警察官は警察であることを示す必要があるときは警察手帳を呈示しなければならない(警察手帳規則第5条)。

 そして、通達によれば、職務の執行にあたり、相手方から身分証の呈示を求められたときは「必要があるとき」にあたるとされる。

「そうですね。分かりました」

 警察官は悠太の言葉に納得する。

 サギ警官でないことを立証するために、縦開きのバッジホルダー式の警察手帳を取り出し、自分が警察官であることを示した。

 悠太は、手帳にある名前と警察官の顔を見比べる。

「……これ。本物ですか?」

 悠太の言葉に、警察官・菊池あつしは驚く。

「いや。本物ですよ」

「でも、手帳じゃないですよ。警察手帳と行ったら、黒い手帳で五角形の旭日章に警察庁って書いてあるのが定番じゃないですか。こんなパスポートみたいなのって……」

 敦は、悠太の話を昭和の刑事ドラマが未だに残っていると思って、少し苦笑いをする。

「では、スマホで調べて下さい。今の警察手帳は2002年からアメリカ式の縦開きバッジホルダー式に変更されているですよ」

 平成の中期ならまだしも西暦2020年代になっても知らない人間がいることに、敦は半ば呆れていたが、ここは警察の広報の問題だと思った。そんな複雑な心境の中だったが顔には一切出さず職務を続けることにした。

 悠太はスマホを取り出すと、画面を操作して調べ物を始める。

 しかし、何に時間がかかっているのか。悠太の調べ物は、中々終わらない。

「あの……。信用してもらえましたか?」

 敦が訊く。

 すると悠太は、済まなそうにする。

「す、すみません。ギガ数をオーバーしてて、通信速度が遅いんです……。あ、ああ。なるほど。確かに、今の警察手帳は、そんな形になっているんですね。なるほど。失礼しました、あなたは本物の警察官なんですね」

 悠太は、ネットで警察手帳を調べていたようだ。そして自分の間違いに気付き謝罪をする。

 その素直さに敦は拍子抜けしたが、昨今の特殊詐欺の多さを考えれば、致し方ないことと納得をした。

「では、運転免許証を確認させて下さい……」

(来た!)

 敦の求めに、今度は悠太が提示する番になった。悠太は、財布を取り出し運転免許証を探すフリをする。

「えっと、免許証はと……」

 財布のカードを一枚一枚確認をするが、運転免許証は出てこない。1分もしない内に、敦は悠太を疑い始める。

「……もしかして、免許証を持っていないんですか?」

 悠太は、その言葉にギクっとして固まってしまう。

「い、いや。そんなことしていませんよ。僕は、いつも財布に健康保険証と運転免許証を一緒に入れているんです」

「じゃあ、どうして無いんですか?」

 敦は、苛立ちを覚える。相手が違反行為をしていることに疑いが生じたことで、表情と口調に優しさが無くなっていた。

 悠太は、首筋に冷たい物を感じた。

 それは本能的な何かだった。このままでは、間違いなく免許証不携帯で違反切符を切られると直感したのだ。

 しかし、どうやって言い逃れれば良い?

 言葉を選んでいると、悠太は車の中に落としているのではと思うことにした。

「そ、そうだ。会社を出る時に、妻に連絡したんですけど、その時に財布が車内に転がってしまったんです。きっと、車内に落ちているんですよ」

 悠太は、苦し紛れにそう言った。

(ナイスアイデア!)

 そう心の中でガッツポーズをするが、敦の目は完全に疑っていた。

 悠太は車のドアを開けると、車の床を探し始める。

 だが、暗くて見えない。

「すみません。ライトを持っていたら、貸して頂けますか?」

 悠太は敦に頼むと、彼はLEDハンディライトを貸し与えた。

 暗い車内に光が溢れる。

「これ、凄く明るいですね」

 悠太は褒める。

「……車内を捜査する時に使うものですので」

 敦は、冷めた目でそう返す。

 ゴソゴソと車内の床を探し、会社のカバンの中身をひっくり返して捜索する。

 その様子に、敦は不審感を抱くと声を掛けた。

「ありましたか?」

 怖い声で敦が訊く。

(ヤバい……)

 悠太の頭の中には、冷や汗が流れていた。

「……無いんですね。まさか、無免許で車に乗っているんじゃないでしょうね」

 敦は語気を強める。

 もちろん無免許ではない。不携帯なだけだ。

 しかし、不携帯でもバレる訳には行かない。そんなことをしたら減点、罰金、ゴールド剥奪、保険料増額という言葉が過る。

 相手は警察官だ。

 状況から言って言い逃れは難しいだろう。ひき逃げというなら、その時間帯のアリバイを証明すればいいのだが、警察官は免許証の提示を求めている。

 だが、諦める訳にはいかないのだ!

 悠太は立ち上がると必死の形相で弁解を始める。

「いや、絶対にあります。僕は、中田悠太、38歳。妻は美奈子で、娘は桜です」

 悠太はスマホの待ち受け画面にある、娘を抱いた妻の写真を見せた。

 すると、そのタイミングで、悠太のスマホが鳴る。

 妻からだ。

「あの。出ても良いですか?」

「どうぞ」

 敦が即答すると、悠太は電話を出る。

 するとスマホの向こうから妻・美奈子の声が聞こえてくる。それは心配に満ちた声だ。

「あなた、どうしたの。今どこ? もしかして何かあったの?」

  その声に悠太は心を締め付けられる。美奈子の声は震えていた、加えて近くからは、桜の声が聞こえてくる。

「ごめん。自宅前、400mくらいの所まで来てるんだけど、そこで職務質問に遭ってね……。大丈夫、すぐに帰れるから」

 悠太はスマホを耳に当てたまま、美奈子に頭を下げて電話を切った。

 しかし、それだけでは終われない。

 今度は敦に運転免許証の提示が必要だからだ。

 それができない。自宅に運転免許証を置いているのだから見せることは出来ない。

「妻からです」

 悠太は告げた。

「帰りが遅くなっただけで、連絡されるなんて愛されていますね」

 敦が感心したように頷く。

 そこで、悠太は泣き落としを考えてた。

「僕には過ぎた妻です。僕は、この歳になっても彼女すら出来たことが無くて、もう結婚なんて無理かなと思っていたんですが、そんな時に飲食店で、お金が足らなくて困っていた美奈子と桜に会ったんです。

 美奈子の元夫は酷い男で、こんな可愛い女性と娘が居るのに、別の女と結婚していたんです。これがどういう意味か分かりますか? 美奈子は結婚していたと思っていたのが、法律上は不貞行為を行った女にされていたんです。

 相手方の妻に、多額の慰謝料を請求され支払えずに困っているということでした。こんな理不尽が許せなくて美奈子と一緒に戦いました。

 騙されていたことを理由に被害者として慰謝料を請求し、弁護士を依頼しました。

 その甲斐もあって慰謝料請求を無いことにできました。そんな美奈子に、僕は妻になって欲しいとプロポーズしました。すると、喜んで承諾してくれて……」

 悠太は懐かしい思い出話を語った。

 その話を敦は黙って聞いていたが、だんだんと表情が険しくなる。それは警察官としてではない、一人の男の顔だ。

 血の繋がらない子供を、自分の子として育てる。それは生物として不自然な行為だが、悠太はそれでも娘を愛しているのだ。

 そして、悲しげな顔をしながら呟くように告げるのだ。

「今日は、娘の誕生日なんです。だから、早く帰りたいんですが……」

 悠太は淡々と述べると俯いた。

(通じるか。泣き落とし作戦)

 警官の心理を揺さぶり、何とか時間稼ぎをしてはいるが、欺くのは最早限界に近い。

「……色々と事情がおありのようですね」

 敦は神妙な顔つきで悠太に同情の言葉を掛ける。

 しかし、それが何の意味も無いことは分かっていた。逃走中の車両を発見し、犯人逮捕という任務がある以上、黒い軽自動車の持ち主は全員確認しなければならない。

「ですが、私の立場上。見逃すということはできません。運転免許証を見せて頂けますか?」

 敦の最後通告。

(もう駄目だ……)

 悠太は、諦めかけた、その瞬間、悠太を呼ぶ声がした。

「パパ!」

 桜の声だ。

 すると、道の先から、水色のワンピースにカーディガン姿の娘・桜が、こちらに向かって走ってくるのが見えた。

「桜!」

 親バカだが、桜は本当に可愛く天使のようだといつも思っていた。その娘の声が聞こえると悠太の心は温まり安堵するのだった。

 悠太は思わず娘を迎えるように、腰を落として腕を広げた。その胸に、桜は飛び込ん来る。

 少し大きくなった気はするが、その小さな体の温もりに悠太の疲れが一気に吹き飛ぶ様な気がした。

 桜は、走って来た所為か息切れをしていた。

 そんな桜を、悠太は力強く抱きしめると、娘は笑顔で囁いた。

「パパ。早くお家に帰ろう!」

 その屈託のない笑顔が悠太は愛おしくて堪らなかった。桜が居れば他に何もいらないとさえ思った。

 愛しい娘を抱き上げていると、そこに息を切らせた美奈子が追いつき、悠太の側に立つ。

「ごめんなさい、あなた。桜が、どうしても迎えに行くんだって聞かなくて……」

 美奈子は訝る顔で言い、悠太は笑顔で答える。

「ごめんよ。財布に入れていた免許証が、どうしても見つからなくて」

 美奈子は呆れた顔をすると、警察官である敦に頭を下げる。

「申し訳ありません。家の、主人が免許証を提示できなくて、お時間を取らせてしまいまして」

 敦は、人妻とはいえ美奈子に、こやかに笑う。

 美奈子が頭を下げると、たゆんという音が聞こえそうなくらい豊かな胸が揺れるのが目に入る。敦は、それに釘付けになりつつも、さすがに女性の胸を見るのは失礼だと思い、他所を向いて目を反らせた。

「い、いえ。こちらこそ、ご主人に捜査の協力を頂いているところでしたので……」

 敦は、美奈子の巨乳に意識がいってしまい言葉がごもる。

 美奈子は、それを確認する。

「あなた。早く帰りましょよ」

 美奈子は、悠太に屈託のない笑顔を向けている。

「それが、免許証がどこに行ったのか分からなくて……」

 悠太が困っていると、美奈子はクスッと笑った。

「あなた。今朝、出かける時にスーツの内ポケットに入れていたじゃないですか。忘れちゃったの?」

 美奈子は、夫を揶揄する様に言うと、悠太は困ったような顔をしながら自分の内ポケットを確認する。

 固いカードの感触があった。

(え!?)

 驚くことに、スーツの内ポケットに悠太の免許証が入っていたのだ。

(こんなことがあるのか?)

 悠太は自分の記憶違いと現実に驚く。

「なんだ。ちゃんとお持ちじゃないですか、では確認をさせて頂きます」

 敦は顔写真を確認し、番号を控えると免許証を悠太に返した。それから二、三質問をすると納得をした。

「お時間を取らせてしまい申し訳ありません。奥様と娘さんと、楽しい誕生日をお過ごし下さい」

 敦は一礼し、悠太は呆然としていた。

「パパ。早く帰ろう」

 桜にせがまれて、悠太は家族を車に乗せると、自宅へと向かって走り始めた。

 後部座席で、桜はケーキがあることを喜んでいる。

「あなた、免許証忘れたんでしょ」

 美奈子が運転する悠太に問う。

 何が起きたのか理解が出来ないでいた。

 何故なら、自宅にあるハズの運転免許証をなぜか内ポケットに入れていたからだ。こんなことはあり得ないのだ。

 しかし、現実に起きた事だ。

「どうして、それを」

 悠太は素直に訊いた。

 すると美奈子はフフッと笑う。

「ママ。作戦成功だね」

 桜が、まるで美奈子の言葉が聞こえた様に通訳した。

「作戦成功?」

 悠太は首を傾げた。

「あなたが職務質問に遭っている。って連絡があった時から、ピンと来たの。運転免許がプリンターの所に忘れているんじゃないかって。調べてみたら案の定。そこで、スマホのGPSを見て、桜と一緒に駆けつけたの」

 美奈子の経緯説明に悠太は呆れながら感心していた。あの一言で、そこまで連想するとは。

「でも。どうやって、僕の内ポケットに」

 悠太が訊くと、美奈子は自分のバストを少しだけ持ち上げた。

「警察が目を反らせている内に、桜に手渡したの」

「あたしが、パパのポケットにカードを入れたんだよ」

 桜は無邪気に答えた。

 この娘の逞しさは、母親譲りだろうかと悠太は思った。

「そ、そうだったのか。いや、免許証不携帯で減点、罰金、ゴールド免許じゃなくなると思って、思わず気が動転して……」

 悠太は力なく笑った。

 そんな夫の姿を見て美奈子は溜め息を吐く。

「あなた違うわよ。免許証不携帯は、罰金3000円だけで、減点もゴールド剥奪も無いのよ」

 悠太はハンドルを握ったまま、しばし固まる。

 そして我に返ったかのように前を向いたまま顔を赤くさせた。耳まで真っ赤にして目が泳いでいるのだ。

 自分が想像していたことが、奇遇だったことに。

 そんな父親の姿を見て、後部座席の桜と美奈子は目を合わせてクスクス笑う。

「とはいえ、3000円も大金よ。無駄な出費は絶対にしないでよ」

 美奈子が釘を刺す。

 悠太は。ハハハと力なく笑って見せた。

 そんな後部座席の様子を見て、桜も釣られて嬉しそうに笑う。

 こうして悠太の免許証不携帯という危機一髪は、家族の手によって危機を脱したのだった。

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