大樹の下に眠る
野原せいあ
第1話
娘はかたくなだった。
「絶ッ対に、いや!」
といってきかず、今日も説得は空振りに終わった。
私はため息を落とした。病院の帰り道、長い吐息は煙のように白くなり、冬の冷たい空気と一体になって消える。
娘は意志を変えない。となれば私が意見を曲げるべきなのだろう。
娘の言い分は筋が通っているし、気持ちも理解できる。本音を言うと半分くらいは同意している。反対している残りの半分は、世間の一般常識や私の文化、「こうあるべき」という私の強固な価値観だ。いまの世の中の風潮を考えれば根拠にとぼしく、娘に「古臭い」と言われても致し方のない拠り所である。
それでも気持ちが納得しなくて、娘の提案を受け入れられない。
かといって悠長にもしていられなかった。
――娘は余命宣告を受けたのだから。
病気の兆候は、娘が勤めている会社の健康診断にあらわれた。数値に異常があり、産業医にも再検査をすりようにと注意されたらしい。だがタイミングが悪かった。大口顧客の契約がとれたばかりで、増え続ける業務を前に有給休暇を申請できる雰囲気ではなかったそうだ。すこしくらいなら大丈夫と楽観した娘の判断も甘かった。職場が落ち着きを取りもどし、診察室で検査結果に目を通す医師の厳しい横顔を見て、娘はようやく危機感を持ったらしい。
「紹介状を書くので、なるべく早く大きな病院に行ってください。医大と聖マリア、どちらがいいですか?」
娘は自宅が近い後者を選んだ。長くなる、という予感と覚悟があったのだろう。
「お見舞いも来やすいでしょ」
快活に笑っていても入院を想定していることは明らかで、私は複雑な感情におそわれた。
そしてその予言通り、自転車で十分の距離に助けられながら娘の入院生活を支えた。
治療のための手術、投薬を繰り返し、出された結論が余命宣告。
真っ青になって言葉を失う私とは対照的に、当人はどこまでも冷静で現実的だ。三十歳、独身、子どもなし、身軽でよかったよと仕事を辞めて、身の回りを整理し、携帯電話を使って熱心になにかを調べるようになった。
「お母さん、はいこれ。葬儀のパンフレット」
一時帰宅が許されたある夜、娘がチラシを差し出す。
夕食を終えてリビングダイニングのイスに座り、ひと息ついていた私は完全に意表をつかれた。
身の毛もよだつようなことを、まるで、からになったお弁当箱を渡すような気安さで言うのだ。私はかっとなって娘の手を叩いてしまった。
「あなた、本当に分かっているの!? 死ぬのはあなたなのよ!」
「だからお葬式の手配をやっているでしょう」
「その前にやることがあるでしょう! こう…………泣きわめくとか!」
「そんなことをしても時間のむだだよ。死ぬのは変わらないんだから」
もうやだなにこの子、いったい誰に似たのよ。
めまいを覚えて絶句する私を尻目に、娘はさらにパンフレットを追加した。
「それからこれも、ちゃんと見てね。私、樹木葬にして欲しいの」
「樹木葬?」
これが私と娘の、激論の火だねとなるのだ。
樹木葬とは、シンボルツリーの周りに遺骨を埋葬するお墓のことだった。
墓石不要、スペースも小さくて済み、その分、安価になる。
一番の特徴は、継承を必要としない個人供養であること。永代供養なので、長くても数十年で合葬に至る。つまり、まったくの赤の他人の骨と混ぜられてしまう。
「どうしてそんなことをするの? お母さんの実家の納骨堂に入ればいいじゃない」
「出戻り女は他人だなんて言う人たちに骨を入れてくれって頭を下げるの? そんなの、まっぴらごめんよ!」
「じゃあお父さんの……」
「あんなの父親じゃない」
あからさまな嫌悪に負けて、私はだまって視線を下げた。
元夫は裏表の激しい男性だった。外では良き父親良き夫。家の中では料理の味や掃除のしかたに難癖をつけ、いつも怒鳴っていた。扱いの落差に耐えかねてなんとか離婚したものの、財産分与も慰謝料も一切なし。それどころか養育費すら支払わない。給料や預貯金の差し押さえがまだ法律で定められていなかった時代だ。高額な弁護士費用をまかなうあてがなければ泣き寝入りするしかなかったのだ。
せめて実家の援助があればなんとかなったかもしれないが、私の両親は体裁を重んじる人たちで、実娘であろうとバツイチへのあたりは猛烈だった。私だけならまだしも孫――娘への暴言もあり、一年も経たずにアパートを借りて出ていくことにした。
母一人、娘一人。お金がないから高校の制服をそろえるのも一苦労だ。正直、娘が大学に行かず高卒で働くと言ってくれたときは助かったと思った。
学校にかかる費用が浮いて、逆に娘が給料を入れてくれるようになったので、隙間風のひどいボロアパートから個室のある古いマンションへ引っ越すことにした。最近は近場の温泉地に一泊できるくらいの余裕もあったのだ。
いままでの不遇を上塗りするように小さな幸せを楽しみ尽くし、そろそろ娘が結婚をしてくれないか、などと考えていたのに……。なぜこんなことになってしまったのだろう。闘病生活、そして余命宣告。
さすがにもう疲れてしまった。
介護の仕事の帰りに、娘が自分で手配したホスピスに立ち寄った。
冬特有のどんよりした外とはうって変わって、屋内は暖かく穏やかだった。清潔で明るく、スタッフの対応も心地が良い。人生の最期をこんな施設で過ごせたら、と考えるのはみんな同じなので、地域で最も多い入所希望者数を抱えているらしい。
説明を聞いたときは、そんなところに本当に入所できるのかと心配したのだが、不安は杞憂で済んだ。余命が短いため優先順位が繰り上がり、すんなりと希望が通ったのだ。
「良かったね、お母さん!」
と喝采をあげるあの子を見て、どうしてこうも変な方向に威勢がいいのだろうと頭を悩ませたのは言うまでもない。面談してくれたホスピスの職員も、どう対応するべきかと顔に困惑を書いていた。
ノックをして個室に入ると、娘はベッドの上でぐったりとしていた。呆れてしまうほど明るい娘が静かだと、かえって不気味さが増し、心臓が口から飛び出そうなほど驚いてしまう。
あわてて手のひらを鼻に近づけると、浅いながらもちゃんとした呼吸が確認できてほっとした。全身から力が抜けるのを感じて、備えつけのパイプイスに崩れるように座った。
最近、こんな日が増えた。様子を見に来ても、会話もできずに帰る日もある。一日一日と、この子の寿命は削れているのだと実感する。私はあとどれだけ、この子と言葉を交わすことができるのだろう。
「おかーさん……?」
か細い声は、蜘蛛の糸のように細かった。
私は跳ねるようにイスから立ち上がり、娘のそばでひざをついた。
「目が覚めた? つらくない?」
「……だいじょうぶ」
とても大丈夫とは思えない返事だが、かける言葉が見つからず、黙って受け入れるしかなかった。私にはこの子のつらさが分からない。代わってあげられるなら、いくらでも代わるのに。
「お母さん、考えてくれた?」
樹木葬のことだ。ここのところ私たちの話題はずっとそれだから、言われなくてもすぐにピンときた。
「こんなことをいうのはなんだけど」
私は毛布の外に出た娘の手をとった。冷え性の私がびっくりするほど冷たい手だ。
「あなたの保険金でまとまったお金が入るんだから、お墓は作れると思うの」
「そのお金は、お母さんの老後に使って欲しい。それに、お母さんが死んじゃったあとの、お墓はどうするの? 長くても、あと三十年くらいだよ」
カチンときた私は売り言葉に買い言葉で語気を強める。
「私はあと百年は生きるわよ!」
「現代医学じゃむりだよ」
私の病気も直せなかったんだし、と娘がつぶやいた。あいかわらず顔は笑っていたけど、誰が言うよりも重い言葉だった。
「ねえ、お母さん。お母さんは、他人と骨をいっしょにするなんて、って言うけど、私にとっては、あの人たちも他人だよ。だって、もう何十年も、電話すらしてないでしょ」
驚きのあまり私の目は一瞬で大きくなった。そうだ、二十年前のあの日、私たちは二度ともどってくるなと実家を追い払われた。携帯電話は持っていなかったし、別れが別れだったのではがきも出せず、私たちはあっという間に疎遠になった。元夫も同様だ。娘にとって彼らは、通勤時間にすれちがう赤の他人よりもずっと遠い他人なのだ。
「そう……そう、なのね」
悲しいわけではなく、ただただ衝撃だった。私に縁のある人たちなのだから、娘にもつながっていると感じていたのは、私だけの幻想だったのだ。
急速に目の前がクリアになってゆく。
娘の視点に立って改めて考えると、樹木葬という選択肢が自然と視野に入った。ずっと、死んだら実家に納骨されるものと考えて生きてきたので、いますぐ了承できるほど柔軟にはなれないけれど、もう少し時間をかけたら急に現れた選択肢でも同じ熱意が持てるかもしれない。
「そうね、……分かった。今度こそちゃんと考えてみるから」
「……ありがとう、お母さん」
冷え切った娘の手をさすった。一向に温まる気配はなかったけれど、私は永遠にさすり続けられると思った。
前向きになって間もなく、娘の容体は不安定になった。
話し合いの時間は減ってしまったけれど、私が意見に耳を傾けるようになったので進捗は格段に早くなった。
私の希望は多くはない。第一に、私が生きているうちはお墓参りがしたい。体にむりがきかなくなる年齢まで、可能な限り最大限、通い続けたい。だからなるべく長く、骨はわけて保管していて欲しい。これが第二の希望。三番目の希望は、近場か公共交通機関で通えるところ。自動車の運転免許を持っていないので、第一希望をまっとうするためにも外せない条件だ。
さいわい、条件に合致したサービスがいくつか見つかり、仕事が休みの日には実際に霊園に足を運んだ。
特に気になったのは、葬儀ビジネスに乗った業者運営の霊園ではなく、ちゃんとしたお寺が運営している近場の墓苑だ。檀家になる必要があったり、管理費用がかかったりするけれど、雰囲気がとても良かった。
樹齢百年をこえる大きな樹の周りに骨壺をおさめる区画があって、一帯には青々とした芝生が茂っていた。通路はすべりにくい石畳で舗装済み、納骨エリアとの仕切りには常緑のツツジやユキヤナギなどが用いられ緑があふれている。いまはツバキの花しか咲いていないけれど、もっと季節が進んだら、たくさんの花が咲いてにぎやかになるだろう。お盆の暑さも少しはやわらいで感じられるかもしれない。
「緑が多いんですねぇ」
「ええ、周りを山に囲まれているせいか、夏はセミがうるさいくらいですよ」
娘と同じ年頃の副住職さんが、おどけたように笑った。
しげしげと遠景をながめて夏の風景を想像する。むっとした湿度に、強い日差し、深く濃い緑が生い茂る森林と、うるさいくらいのセミの声。
『おかーさん、見て!』
途端に古い記憶が呼び起こされた。小学生だったあの子が、素手でセミをつかまえて持ち帰った日のことだ。私は思わず悲鳴をあげて、娘はその悲鳴に驚いて手を放してしまった。セミはオンボロアパートの一室を小一時間も飛び回った。虫網がないのでホウキやらフライパンやらを持ち出して追いかけまわして……。
急に胸が詰まって、私の目から涙がこぼれた。あわてて手提げバッグからハンカチを取り出して目元を押さえる。
「……すみません」
副住職さんはなにもおっしゃらなかった。ただ目尻を下げて、私が泣き止むのを待ってくださった。涙痕は冬風が早々に乾かしてしまった。
とても良い墓苑だったと娘に伝えたくて、帰りはそのままホスピスへ向かう。ところが娘は会話もできない状態で、ひと晩かけてゆっくりと重篤になった。ホスピスのスタッフに一度帰宅を促されたが、目を離すのが不安で付き添い続ける。
いままでこんなにひどい状態におちいったことはない。だからきっと持ち直してくれる――そう何度も、何時間も願い続けたのに、娘はそのままあっけなく夜明け前に逝ってしまった。あまりにも淡白だったため、しばらくなんの感情もわいてこなかった。
空が白じみホスピス職員が入れ替わる。仕事を休むと連絡をすることも忘れていて、あちらからの電話で現実を思い出す。お腹も空いていた。そういえば昨夜からなにも食べていない。でもとても食べる気にはなれなかった。
* * *
「本来ならご遺族さまに祭壇の種類や棺、霊柩車などをお選びいただくのですが、今回はすでに故人さまにお選びいただいておりますので、ひと通り説明だけさせていただきます」
身内が亡くなった時の多忙さはたびたび聞きかじっていたけれど、私の場合はすべてが手配済みで、やることは少なかった。
ホスピスから葬儀会場への移送は葬儀社が請け負ってくれたし、私にはタクシーが手配されていてすんなり移動できた。遺体が安置される様子を見守り終えれば今度は担当者と名乗ったパンツスーツの女性が現れて、クリアファイルをめくりながら葬儀の内容を説明してくれる。
いままで参列する側ばかりだったのでまるで知らなかったのだが、お葬式の祭壇にはグレードというものがあるらしい。金額の決め手になるのは生花の量だ。娘が選んだ祭壇は、四段階あるうちの上から二番目。娘らしくない選定に違和感を抱く。
「あの……これ、本当に娘が選んだんですか?」
「左様でございますが、なにかご不明な点がおありですか?」
「不明というか、らしくないというか……。あの子、こういう行事とか決まり事とかを嫌っているところがあって。あの子ならたぶんこちらを選ぶと思うんです」
私が下から二番目の祭壇を指さすと、女性がはっと目を開き、間もなく困ったようなうれしそうな、説明のむずかしい微笑を浮かべた。
「ええ、はい。そのとおりです。お伺いの折に、『私はこっちだけど、お母さんはこれだから』とおっしゃられていました。そのうえで、こちらのほうをと選んでいただいております」
「あの子が……」
なんでもかんでもさっさと自分勝手に決めてしまって、うらめしく思うことすらあった。まるで生き急いでいるように見えて、恐ろしくて。私は逆にカメのように手足を引っ込め運命を拒絶した。
かたくなだったのは、私のほうだった。
あの子は、余命宣告を受けて身動きがとれなくなった私を、こんなところで待っていてくれたのだ。
でもやっぱり急ぎすぎなのよ、とつぶやくと、涙がほろりとこぼれる。
「もしよろしければ、お嬢さまがお決めになられた際のご様子をお話しいたしましょうか?」
担当者が、こちらの様子をうかがいながら申し出てくれた。余計なお世話だと怒り出す人もいるかもしれない。けれど私にはありがたい提案だった。
「ええ、お願いします」
結局、私が反対する内容は一つもなかった。担当者が語る娘はとてもリアルで、いっしょに葬儀の内容を決めているような心持ちになった。
唯一変更したのは、菩提寺のない家庭向けの住職派遣サービスをお断りして、昨日会ったばかりの副住職さんに読経をお願いしたことだ。
樹木葬のことを決めたわけではない。この土壇場でなお、私はまだ心を決めきれずにいた。
それでも、あの優しく見守ってくださった副住職さんにお経をあげて欲しいと思い、おそるおそる電話をかける。幸い、副住職さんは快く引き受けてくださった。急な話だというのに疎まれている調子はなく、私は胸をなでおろした。
施主として葬儀社との契約書にサインをし、娘の元上司と友人一人にお通夜と葬儀の時間を電話する。たったそれだけのきっかけで、娘が編み込んだ連絡網は活性化し、家族葬用のこぢんまりとした会場にはそれなりの人が出入りした。
娘の元上司にもあいさつをした。涙を惜しまず言葉をかみしめる姿を拝見して、娘の職場でのがんばりが認められていたことを知った。
読経が終わってしばらく経つと、私の同僚も姿を見せた。夜勤前にお参りに来てくれたそうだ。手順に従ってお焼香を終えた彼女に頭を下げ、足を運んでくれたお礼ついでに雑談に興じた。葬礼の場でも、女が集まるとかしましいものだ。控えていても彼女の弾んだ声は屋内によく響く。
「そういえば、樹木葬にするって話はどうなったの?」
まだ気持ちの整理もついていないのに納骨の話をするなんて。無配慮な話題に引っかかりを覚えたものの、同じ子を持つ母親として気にしてくれたのだろうと思うと無下にもできなかった。後先を考えずに愚痴をこぼした私にも責任はある。沈鬱な気分を横に置いて、あいまいにやり過ごそうと形ばかりの笑みを浮かべた。
「それがまだ決めていなくて。落ち着いてからゆっくり考えようかと」
同僚は、我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「そうよねぇ、普通に考えたら樹木葬なんてありえないわよね」
以前の私なら一も二もなく賛同していただろう。けれど今日はやけに神経に障った。娘の死を目の当たりにして気が昂っていたせいかもしれない。
普通ってなに? 樹木葬「なんて」? どうして、ありえないって頭から否定できるの?
娘の考え抜いた選択をないがしろにされたと感じたのだ。
病気でつらいだろうに、たくさん調べて、資料に目を通して、私のことまでおもんぱかってくれた姿が脳裏に浮かぶ。終活をしていたせいで死期が早まったんじゃないかと思わせるほどの熱心さだった。それもこれも、自分が死んだあとの母親のことを考えてくれたからだ。一人残される私の負担を少しでも軽くしようとがんばってくれたからなのに。
かっとなって言い返したくなった。けれど私はあまり言葉が上手ではない。娘のけなげで懸命な思いを上手に説明できそうにない。なにより同僚とは今後の付き合いもある。ここで角を突き合わせては差し障りが出てしまう。
私は理性を総動員して、いまにも飛び出そうとした反撃を必死に押さえつけた。そうなるとあとはホームランボールみたいなものだ。力づくで押し返された勢いは反発力に変身して、決定打に欠けて踏みとどまっていた決断と激しい衝突事故を起こした。
常識だ、普通だなんて、いまさら気にする必要があるだろうか。離婚履歴のある中年で、実の両親にも見捨てられた私が? そんなことより、もっと娘を尊重して、娘の決断を受け入れてあげるべきではないのか。
まんじりともせず朝を迎え、告別式、火葬場へと儀式は進んだ。
真冬だというのにサウナのように熱い炉前室で、骨となった娘と再会する。悲しみもあったが、とうとうここまできてしまった、というあきらめに似た感情を感じながら、まだ熱持ったままの骨を骨壺におさめていった。
本当なら、この骨が私で、骨を拾うのは娘であるはずだった。娘の次に娘の夫が。娘の夫の次に孫たちが。あわよくばひ孫まで……なんて、ずっと先の未来を妄想するほど、いまここにいるのは自分独りだという現実が浮き彫りになり、孤独感が一掃強まった。
本当に娘は死んでしまったのだ。強烈な実感に支配されて、次から次に涙があふれる。しわが深くなった顔をぐしゃぐしゃにしながら、娘の骨を拾い集める。
この骨が私だったらと想像する。今度は、いまここにある現実の延長線上の世界だ。棺ごと焼かれて骨になった私を拾ってくれる人は誰もいない。火葬炉の前でほかほかと湯気を出す骨は、そのまま捨て置かれ、無縁仏として葬られる。
だからといって、娘が他人だと言い切った元夫や実家に頼ろうという気持ちは、もはやすっかり消えていた。
母一人、娘一人。娘を亡くしたいまとなっては母一人だ。
私はもっと強くならないと。
娘の骨を収め終えて、私はしっかり顔を上げた。
* * *
盛夏の強烈な日差しとけんかをするのに、二割引きの日傘は役者不足だったかもしれない。せっかくたっぷり塗った日焼け止めが早くも剥がれ落ちそうだ。ふき出す汗をハンカチでぬぐい、ふうふうと息も絶え絶えに歩き出す。バス停から十分、冬にはちょうどいい運動だったあの舗装路は、炎天下では縁日の鉄板のようで、私の老骨をこれでもかといたぶってくれた。
そんな苦労も、墓苑に到着し、あのシンボルツリーを目にすれば吹き飛んでしまった。
あの冬の日に空想した光景が目の前に広がっている。ぐんぐん育つ入道雲。まぶしい光を反射する森林の深緑に、色を添える夏の花々、耳を絶えず刺激する、うるさいくらいのセミの声。
しばらくその場で足を止め、寒風のした光景に見入っていると、五、六歳くらいの男の子が脇を走り去ってゆき、後ろから父親と思われる男性が「転ぶなよー」と声をかける場面に遭遇した。母親とおぼしき女性もいっしょだ。きっと家族のお墓参りに来たのだろう。もっと後ろを見遣ると、似たような小団体がいくつかあって、昔ながらの「お盆のよくある光景」を作っていた。
永代供養と言ってもその背景は様々であるようだ。身寄りのない人は元より、うちの娘のように先を見越して準備する人もいれば、故人の望みだからと一族のお墓とは別に供養の場を設ける人もいる。
副住職さんにお話をうかがった限りでは、なし崩し的に仕方なくというより、数ある選択肢の中でも一番理想に近いから、と希望して選んでいる人が多い印象を受けた。先祖をないがしろにしているわけでも、我を押し通すわけでもない。むしろ理解と同意を大切にして、話し合いを重ねる家族が多いのだとか。
娘もそんな生き方をしていたのだろうか。
もしそうなら、私はあの子の生き方に水を差してばかりだったのではないか。
せめて生きているうちに樹木葬に賛同できていたら……。
後悔を抱えながらあの子の墓前にたどりつき、そのまましゃがみこんで静かに手を合わせる。
しばらくたって目を開けた私は、娘の石碑をじっくりと観察し、隅に落ちていた葉っぱを払い落としてまたひと息落とした。
あの子が死んで、私も自分のことを考えなくてはいけなくなった。ことさらお墓は重大な問題だ。娘とちがって私のあとには誰もいない、無縁仏となることが決まっているのだから。
「……私もここに入ろうかしら」
つぶやいてみると、とても良い案に思えてきた。娘はいやがるだろうか。生まれてからずっと一緒だった母親と、死んでも一緒だなんて。
でもこれが本当の縁よね、押しつけるように強がってみると、「しょうがないなぁ」というあの子の声が聞こえた気がした。
ひとしきり笑って、シンボルツリーに目を向ける。
娘のことを思い出しながら、じっくりあの子と対話をしよう。あの子が、私の幻と会話をしながらお葬式の準備をしてくれたように。
さあ、次は私の番だ。
大樹の下に眠る 野原せいあ @noharaseia
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