自分が何を考えているのか、何者なのか、本当にわからない

 ……と、ここまで話したのが、いまの私の自己認識だ。

 だがこの論理には、現状を説明しきれていない点がある。


 私は現在、公募やコンテストへの応募作を中心に書いている。有償の講評なども積極的に依頼し、技術の向上を日々目指している。

 もし私の書く話が「繭」であるならば、技術など磨く必要はない。公募に応募する必要もない。自分のためだけに書き、自分だけで楽しめばよい。

 だが実際のところ、私は自分のためだけに話を書いた記憶がない。最初の二次創作長編22万字を書いた時、一心に念じていたのは「上手く書かなくていい、伝わるように書け」だった。それは14年間、変わらず私の第一義的な信念であり続けている。「伝える」ことは、常に意識の最初にあった。

 かつて二次創作BLで相手にされなかった、すなわち「伝わらなかった」カテゴリエラーが、「ブロマンス」とラベルを変えれば「伝わる」のだ……と気付いた時は、嬉しかったしとても安堵したものだ。だがなぜ安堵したのか、考えてみればわからない。


 何のために伝えたい?

 誰に何を伝えたい?

 それが、よくわからない。


 商業出版したい欲は、実のところ強くはない。紙の本なら二次創作時代に60冊以上自力で作った、もう十分だ。書店の棚に自作を並べたい欲求もあまりない。

 どちらかといえば、公募やコンテスト自体を勝負ごととして楽しむ気持ちの方が強い。対戦ゲームの全国大会で上位を狙う心持ちに近いと思う。


 なぜ勝ちたい?

 勝ってどうしたい?

 それも、よくわからない。


 書いたもので金を稼ぎたい気持ちはある。心地良い繭を一日中編み続け、それを換金して食べていければ理想だとは思う。

 だが、それだけで説明できない何かがあるようにも思える。

 私の、私からは見えないどこかの部分が、身を包む繭を誰かに渡したがっていそうだ。いや、渡さなくてもいいのかもしれない。見せびらかして、できのいい繭だね、と言ってもらえればいいだけかもしれない。それも、わからない。


 私は、己の自己認識を――自分から見える自分の姿を、あまり信用していない。

 人生のはじめ、私はずっと自分を邪悪の権化と信じていた。だがまったくそんなことはなかった。記憶にさえ重大な欠落があった。私の自己認識はその程度のものだ。

 ジョハリの窓という概念がある。自己認識には、自分にも他人にも見えている「開放の窓」・自分にしか見えていない 「秘密の窓」・他人にしか見えていない「盲点の窓」・誰も知らない「未知の窓」の四領域があるという説だ。

 とすれば、おそらく私の「盲点の窓」はとても大きい。


 先に言ったように、私は「伝えること」を第一義に話を書いている。

 だから、伝わることを阻害しかねない要因は排除している。煩雑すぎる情景描写、華美にすぎる形容、難解な比喩、そういったものは意識して避けている。それゆえ私の文は単純で簡素なものだ。美文とはほど遠く、芸術性も文学性も皆無。無味無臭に近い文だと思っているし、意図的にそこを目指してもいる。

 だから、カクヨムコン8短編賞選評に「非常に美しい」という文言が含まれていたことには、とても驚いた。

 お読みくださった方はご存知かと思うが、受賞作「笑顔のベリーソース」の文章は男性のラフな一人称だ。美文要素の一切ない荒っぽい文が、「美しい」何かを含んでいるなどとは考えたこともなかった。

 以来、強く感じるようになった。どうやら私の中には、あるいは私が作るものの中には、私自身がまったく認識できていない何かが生まれているようだ、と。


 若いころ好きだったゲーム「ウィザードリィ」には、敵モンスターの「不確定名」というシステムがあった。遭遇した敵は最初「やつれたすがた」「きみょうなどうぶつ」のような曖昧な名前とグラフィックで表示されることがあり、戦ううちに正確な名や姿に変わっていく。

 あれから月日は流れた。計四十年以上相対し続けているのに、「私」はずっと不確定名のままだ。いつまでたっても「UNSEEN ENTITY/しょうたいふめいのそんざい」のままで、ちっとも本当の姿が見えない。ゲームなら判定魔法ラツマピックを唱えておけばいいだけなのだけれど。

 ……ウィザードリィ、ずいぶん私の糧になっている。数字と文字と線画の迷宮を「読み解き」、想像の冒険者たちや魔物や宝物を頭の中に描いた経験は、ファンタジーを書くにあたって強い武器となった。

 のみならず、派生スキルとして「資料を読み解き、具体像を想像して描き出す」技能までついてきた。特に強力なのが「料理レシピを読み解き、食べてきたかのように描き出す」技だ。「仔グリフォン肉のソテー・ベリーソース添え」だの「コカトリスのクリーム煮フリカッセ」だのといった謎料理をもっともらしく描き出せるのは、このスキルがあってこそ。

 ……かつての精神的自傷の日々は、思い出したくもないし肯定する気もない。だが、あの頃浴びるように読んだ大量の活字が、自分の文章感覚の源になっていることは疑いがない。

 四十年以上生きてきて、身の内に様々なものが集積された。積み重なったプラスとマイナスが、総体として今どんな姿をとっているのか、自分では見えない。わからない。


 もしかすると私は、ただ「自分の姿を知りたい」だけなのかもしれない。

 邪悪だと思っていたものは、悪ではなかった。

 美しいと思っていなかったものは、美しかった。

 己の自己認識はあてにならない。だから自分の一部を――生み出した繭を投げかけて、己が姿を確かめる。伝われば喜び、伝わらなければ伝えようとがんばる。

 公募やコンテストで戦いたがるのも、そのためかもしれない。伝わるかどうか投げてみて、伝わらなければ磨き直す。何度も何度も伝わるまで繰り返す。そうして自分の形を探っていく。力量もまた、自分の構成要素の一部なのだから。


 ……いま考えたのは仮説だ。己の深層と本当に一致するかどうかは、しばらく問い続けてみなければわからない。

 だが、ひとつ確かなことがある。


 私は、私の話を聞いてくれる人たちが好きだ。

 反応をくれる方々はもちろん大好きだ。その言葉で、私の輪郭は少しずつ確かなものになる。

 黙って見ていってくれる方々も好きだ。無言の閲覧であっても、私がそこにいることへの肯定にはなるのだから。


 話を聞いてくれる人たちのことを、知るのは楽しい。

 商業的な物語が嫌いだとは再三話しているが、Web小説を読むのは実のところ嫌いではない。そのひとそのひとの書きたいことが、無加工のまま生で転がっている感じがいい。「あなた向け」を押し付けてこないのがいい。だから安心して、そのひとのことを覗きに行ける。


 話を聞いてくれる人たちが好き。それは仮説でも推論でもなく、感情に基づいた間違いのないことだ。

 だからもちろん、あなたも好きだ。

 この長くとりとめない話を、最後まで聞いてくれたあなたのことだ。


 あなたは何が好きだろうか。何が嫌いだろうか。何を考えて日々過ごしているだろうか。あなたの思考や嗜好は、どんなかたちをしているだろうか。

 ……と訊かれて、すぐ答えが出てきただろうか。出せたとしたら、とてもうらやましい。大事にしてほしい。


 私は、わからない。

 わからないから、外に投げかけてみるしかない。私はどんな姿をしていますか、と。

 ただ、そうして「しょうたいふめいのそんざい」を覆うヴェールを取っていくのは、なかなかに面白い。

 一生のうちに取りきれる気はしない。だが、それはそれでいい。

 謎解きは本質的に楽しいものだ。謎が死ぬまで尽きないとすれば、生涯、私は楽しめるのだから。



【了】

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UNSEEN ENTITY/しょうたいふめいのそんざい 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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