14年書いていても、カクヨムコン短編賞を獲っても、己の文を「作品」と呼べない

 小説を書き始めたのは三十代半ば頃だ。

 ゲーム好きからの派生で、もともと中学生頃から二次創作同人界隈に足を突っ込んでいた。当時は手紙ベースの会員制サークルに参加していたが、十数年後にインターネットの「ホームページ」が流行り始めた頃、私は自分のサイトを作り、やがて同人誌即売会にも出展するようになった。

 当初は下手な絵や漫画を描いていたが、ある時、自分の実力では描ききれない長大な話が降ってきた。描くには手に余り、形にしたい欲の強さゆえに捨てることもできないアイデアを、私は悩んだあげく小説で書くことにした。

 人生最初の長編小説は、22万字で無事大団円を迎えた。約10ヶ月の旅路は周囲の方々からも歓迎され、同人誌は50冊を完売した。以降私は約10年に渡り、二次創作小説を書き続けることになる。


 が、以降に書いたものについては、初回ほどの好評を得ることは最後までなかった。

 私が書いていたのは「腐向け」、要はBL系だったが、BLは当然ながら恋愛ジャンルである。大勢を占める傾向も、読み手が求める要素も恋愛だ。

 私が好んで書いたのは「友情」や「敬愛」や「対抗心」や、その他の種種雑多な愛憎が混ざりあった「名状しがたい感情のぶつかり合い」であって、恋愛要素はほとんどなかった。つまりカテゴリエラーだった。これに気付くまで、愚かにも5年くらいはかかった。

 さらに愚かなことに、気付いた後も私はその場にしがみついた。場違いな話を書き続け、多額の赤字を出しながら同人誌を作り続け、読まれないことに苦しみ、最終的にいちど筆を折るに至った。

 当時の話は別途書き殴ったのでここでは繰り返さない。ただ、話が読まれないことに伴う抑鬱は、かつての自己否定と精神的自傷とに比べれば、はるかに楽ではあった……と思う。



 ◆



 すべてが順調にいきはじめたのは、二次創作を辞めてオリジナルに転向してからだ。

 無理に男同士を、恋愛を書かなくていい環境で、私は様々なジャンルに手を出し始めた。微百合日常もの、古典的ファンタジー、SF、ホラー、歴史ものなど、幸いなことにどれも好意的に受け入れられた。投稿サイト公式のコンテストや公募で賞をいただいたりもした。だがしばらくの間、男同士の話を書く気にはなれなかった。

 オリジナル転向の約1年後、自主企画へ寄せて久々に男ふたりの話を書いた。二次創作時代からの旧友に「あなたの『タイプの違う男同士のせめぎ合い』が久々に読めた」と好評をいただいた5131字の短編は、自分の脳内からもなかなか離れてくれず、勢いに任せてサイドストーリーを何作も書くことになった。

 さらに約1年後、様々な方々の力も借りながら、私は大元の話を9999字に加筆して別サイトのコンテストへ応募した。

 その話――「笑顔のベリーソース」が、後にカクヨムWeb小説短編賞2022にてエンタメ小説部門短編賞をいただくことになった。



 ◆



 なんだかんだで14年くらい、小説を、つまりは物語を書いている。

 自分で書くようになってから、商業小説はほぼ読んでいない。公募に応募する際、参考資料として過去受賞作を購読することはある。だが目的はあくまで解析であり、楽しんで読みはしない。商業小説を楽しんで読むことは、ここ20年くらい皆無だったように思う。


 私は「物語」が嫌いだ。

 少なくとも商業化された、書店に大量に並んでいる「物語」は嫌いだ。


 かつて物語に描かれた子供向けステレオタイプの数々は、幼少時から若年期の精神的自傷の大きな原因になった。

 状況は今も変わっていない。現在の私は四十代後半だが、世間様が「四十代女性向けの物語」としてお出ししてくる物語には、分かりやすい指向性がある。

 ほとんどが恋愛物語。そうでなければ家族関係の物語。まずそれしか出てこない。真っ当な「四十代女性」であれば、これらを好んで当然だ、好まない輩は異常者だ――そう言わんばかりに。

 私は異常者だ。

 今も昔も恋愛物語に興味はない。家族間の物語もどうでもいい。

 けれど物語を売る人々は、おかまいなしに「四十代女性向け」の話を投げつけてくる。あなたはこれを好むはずだ、好まねばならない、と居丈高に。

 さらに言うなら私は独身だ。交際している相手も特にいない。容姿も悪く、異性に(同性にも)恋愛的な意味で関心を持たれることはまずない。

 世間に流布する物語で「高齢独身・彼氏彼女なし・ブス・モテない」人間がどのような扱いをされているか、調べなくとも容易に想像はつく。今も昔も物語の中で、私は惨めな道化役であり、端役悪役であっても主役ではないのだ。


 私は物語を書くことで、おそらく「繭」を編んでいるのだと思う。

 無遠慮に投げつけられてくる有毒な物語から、自分を守るための繭だ。

 おまえはこれを好むべきだ、これがおまえの姿だ――押し売りされてくる無数の物語を「要りません、間に合ってます」と締め出すための防壁。それが、私が物語を生み続けている理由なのだと、今は考えている。

 事実、物語を作るようになってから生きるのは楽になった。二次創作で読まれずに苦しんだ頃でさえ、物語から与えられた負の自己イメージに囚われていた時期よりは、はるかに生きやすかった。

 自らが「楽」に生きるため、日なたで眠る犬のように穏やかに在るために、自分を守る自分のための物語が必要なのだろう。そう考えれば、14年間書くべき種が尽きなかったことも、今も筆が止まる気配がないことも説明がつく。


 14年間ほぼ休みなく書き続けてきた現在、いまだに抵抗を感じることがらがある。

 自分の書いた話を「作品」と呼ぶことと、話を書く作業を「執筆」と呼ぶことだ。

 他の方々の成果物や行動に関しては完全に平気だ。が、自分についてだけどうにもならない。

 はじめのうちは、賞を獲るなりして一定の成果が得られれば平気になるのだろうと思っていた。だがカクヨムコン8短編賞をいただいた今でも、やはり己の書くものを「作品」と呼べない。そんな御大層なものではないとの抵抗が働くのだが、「御大層」部分に、自分の中でなんらかの嫌悪感がわだかまっているようにも感じる。

 おそらく自分にとって、「作品」とは「世間の人々が賞賛するご立派な何か」、「執筆」とは「『作品』を生み出すご立派な作業」の意味合いなのだろう。

 であれば、己が書くものをいつまでも「作品」と呼べないのは、ある意味で必然なのかもしれない。「作品」と呼ばれるご立派な何かから身を守るために、物を書いているのであれば。

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