第6話 テレワーク

 そんなテレワークでは、通勤時間がないということと、

「会社の開始がほとんどない」

 ということだった。

 とはいえ、自粛期間中なので、買い物などの、どうしてもやむを得ない場合を除いては、自宅での軟禁状態というのは、避けられないことであった。

 だからこそ、

「家の中では自由にしていたい」

 という思いからか、

「仕事はしないといけないが、あくまでも、無理をすることはない」

 ということであった。

 ただ、一つ言えることは、

「誰も見ていないのだから、仕事が終わらなかったといって、拘束時間をすぎて仕事をしていたとしても、残業手当は絶望的だ」

 ということである。

 別に見られていないという利点はあるが、残業手当という意味でいけば、結果損となる。そう考えれば、

「就業時間中に必死にやって、その間に終わらせる」

 ということに結果的にはなるであろう。

 ただ、中には、

「24時間家にいるのだから、自分がやりたい時間、あるいは、はかどる時間にやればいいということである」

 と思っている人もいるだろう。

 ただ、それも、

「納期を守って」

 ということであり、

 いくら深夜の方がはかどるといっても、今日中に提出する資料は、夕方までに作る必要なあるので、その日は普段通りに仕事をすることになるだろう。

 もっとも、前詰めでやっていれば、その限りにあらずであって、元々の納期に余裕があれば、最初に集中して終わらせてしまい、あとは、悠々自適な生活を送るというのも、その人の自由ということだろう。

 会社とすれば、

「仕事さえ終わればいいのだ」

 ということになる。

 1カ月ほどであったが、会社がリモートワークになったことで、元々、

「世界的なパンデミック」

 が流行するまでにも、

「事務所の3割ほどを、数年後には廃止するという計画がある」

 という企業も少なくはなかったはずだ。

 だから、自治体が行っている、

「ビッグバン」

 などという計画は馬鹿げているといえるだろう。

 街のビルなどというのは、老朽化が進んでいるというのと、

「耐震構造に似合うように作り替える」

 という計画があり、今では、都心部のビルは、地域別にどんどん取り壊し、新たなビルの建設ラッシュだった。

 だから、

「ビックバン」

 などというものがあるわけだ。

 耐震構造というと、かつて、関西を襲った未曽有の大災害から、それまでの、

「建造物の安全神話」

 というものが、まるで、

「バブル時期の銀行不敗神話」

 などというものと同じように、簡単に崩れ去っていた。

 調査してみると、

「当時の耐震基準ですら、満たしていない建造物がたくさんあった」

 ということで、国が基準をさらに深くして、再度全国で調査を行った結果、元々の基準ですら満たしていない建造物がボロボロ出てきたのだ。

 つまりは、一言でいえば、

「手抜き工事」

 というものである。

 そんな手抜き工事が多かったことで、新しい建築基準で立て直しが行われたにも関わらず、この期に及んで、

「建築基準をまったく無視した建造物」

 が、実際に、大震災の後の建築物に見られたことが発覚したりした。

 それだけ、地震は頻繁に起こっているのであって。政府も基準を上げるだけではなく、

「基準に満たないものは、調査して、立て直しを義務付ける」

 という法律を通したのだった。

 ただ、これは本当に当たり前のことであり、ゼネコンなどというと、下請けの会社が、まるでピラミッド状に、下部に向かって広がっているという状態なので、

「中抜き」

 と呼ばれる、要するに、

「原価に利益が乗っかって定価になるのと同じ基準で、下部に行くにしたがって、定価が原価になり、さらに、そこで出てきた定価が原価になるということで、利益が膨らみ、その利益をむさぼる」

 というようなものを、

「中抜き」

 というのだ。

 当然、販売価格をそんなに上げらるわけもなく、そうなると、

「原価を落とす」

 ということしかできなくなり、原価を落とすことで出てくるのが、

「手抜き工事」

 である。

「あの恐ろしい震災を見ているのに、よくそんな恐ろしいことができるというものだ」

 というのが、人情なのだろうが、しょせん中抜きをする連中に、そんな、

「人間らしい情け」

 などがあるわけもない。

「そんなひどいことはない」

 というかも知れないが、耐震構造が基準を満たしていないということで、土建屋としてのプライドもモットーも、金のためならいくらでも捨てる」

 という金の亡者が住んでいるからであろう。

 そんなことを考えていると、

「世の中というものは、金のある者、権力のある者で成り立っているということなのだろうな」

 と思えて仕方がないのだった。

 そんな時代において、ネットのスペースは、結構楽しかった。

 仕事が終わってから、話をするには、ちょうどよかった。仕事は朝早くに始めて、つまりは、通勤時間がない分、その時間から始めれば、終わる時間も結構早くすることができる。

 一時間早くして、8時から始めれば、5時に終わることができるからだ。

 しかも、そこから帰宅を考える必要もない。

 もちろん、表に出ることもなければ、

「どうせ、コンビニとか薬局以外のお店はほとんど閉まっているんだ」

 というくらいで、駅前などは、ゴーストタウンもいいところであっただろう。

 だが、だからと言って、

「賑わいのあったものが、なくなった」

 という感じではない。

 最近の駅前というのは、どこの駅でも活気というのはなくなってきていた。

 特に最近の駅というと、以前から比べ、駅前も一緒に改装するところが多かったりするのだ。

 前述の、ビル改装と同じなのかは分からないが、老朽化や、耐震構造という意味でのものも少なくはないだろう。

 または、

「新幹線開通」

 であったり、

「高架への改修」

 であったりすることもある。

 そんな駅も、改修前は、それなりに、

「おらが町の駅」

 というイメージで、駅前と、商店街とがうまく絡んでいて、

「駅前風景」

 という感じであった。

 昼はアーケード街であったり、夜になると、そこから少し入った、

「飲み屋横丁」

 のようなものがあったものだ。

 しかし、駅前というのは、駅の建て替え構想の前から、商店街が先にすたれてしまっていて、昼間の時間帯など、半分以上の店がシャッターを下ろしたままで、

「貸店舗」

 あるいは、

「テナント募集」

 などという貼り紙が貼ってあったりするものだった。

 昔であれば、朝の通勤の人が商店街を過ぎ去った頃からであるから、ちょうど9時頃から、

「朝市」

 と称して、惣菜屋などが、アーケードの半分近くのところまで、出店形式にして売り出しを掛けていたものだった。

 徐々に主婦が集まってきて、賑わっていたのが、

「今は昔」

 ということである。

 しかし、それも、

「郊外型商業施設」

 のような大型スーパーに客を取られてしまったのだ。

 確かに考えれば、

「いまさら駅前商店街もないというものだ」

 といえるのかも知れないが、理由がないわけではない。

 まず、家族の在り方が変わってきたといってもいい。

 まず、

「共稼ぎが増えた」

 ということであろう。

 不況から、

「給料は減る。産業はない」

 などという旦那の稼ぎだけでは、とてもやっていけないということになるのだろうが、さらにいうと、

「企業が、正社員でなくともできることを、パートを雇ってやらせるようになった」

 ということも大きいだろう。

 会社や、店舗などで、主婦がパートやアルバイトをする。そんな人口が増えてきたのだ。しかも、子供ができると、保育園などに預けるようになると、夕方迎えにいかないといけなくなるので、時間も、少し短めという人も多いだろう。

 企業は次第に、

「主婦によるパート化」

 を進めるようになったが、そのうち、派遣会社を介して、人材を派遣するという、

「派遣型社員」

 というのが増えてきた。

 そんな、いわゆる、

「非正規社員」

 というのが、定着してきた矢先に、

「リーマンショック」

 なる不況がさらに襲ってきたことで、今度は、ある意味禁じ手ともいうべき、

「派遣切り」

 という手に出たことで、

「派遣村」

 などといって、街にあふれたホームレスなどに対して、炊き出しを行ったりするという問題も発生したりした。

 そんな非正規社員が増えたことで、奥さんが、昔のように、朝、

「お買い物」

 という光景は減ってきた。

 しかも、保育園に預ける人が多くなったりしたことで、車での送り迎えということになり、

「子供を迎えにいったついでに」

 ということで、大型商業施設で、買い物を済ませることが多くなると、

「完全に、駅前商店街が、すたれていくのは火を見るよりも明らかだ」

 といってもいいだろう。

 そうなってくると、駅前商店街も、

「じゃあ、商店街に、保育所を作って、そこに子供を預けられるようにすればいい」

 ということで、商店街が作った保育所もあったが、そこは、

「1日でも預かれます」

 という形の、一種の、

「簡易保育園」

 であり、無認可というところが多かった。

 何もない時はそれでも便利ということでよかったのだろうが、

「保育所の諸問題」

 つまり、子供が具合が悪くなっても、

「先生が気づかない」

 などという問題が頻発したので、母親が怖くて、

「無認可保育園には、預けられない」

 というようにあったのだ。

 もっとも、今の時代はもっとひどい。

 なんといっても、保育園どころか、幼稚園において、

「バスでの送り迎えにおいて、子供を置き去りにして、バスに閉じ込めたまま、数時間放置し、熱中症で死なせてしまった」

 などという事故が多発しているという、実に恐ろしい時代に入ってきたのだ。

 確かに、保育園や幼稚園というのも大変だということも分からなくもないが、

「ほとんどの幼稚園は、ちゃんとしているのだ」

 といえるからだ。

「いや、本当にそうなのだろうか?」

 と考えてしまう。

 今はまだ、数件しか、事件として挙がってこないが、少なくとも、昔から比べれば、頻発しているのだろう。

 そもそも、

「子供をバスに置き去りにした」

 などという話は、昔だったら、前代未聞と言われていたに違いない。

 だからこそ、社会問題として騒がれ、格好のワイドショーのネタにされ、裁判沙汰になるとそれが、いろいろな物議をかもすということになるのだろう。

 そんな時代を超えてきて、今は、

「去年、同じような事件があって、あれだけの社会問題に発展したのに、その舌の根の乾かぬ内に、何をまた問題を起こしているというのか?」

 ということを言われるが、これをただの、

「連鎖反応だ」

 ということで片付けてもいいのだろうか。

 つまりは、

「本当はどこでも起こっていることで、今に始まったことではない」

 といえることではないのだろうか?

 ゴキブリなど、

「1匹みつければ、数十匹潜んでいると思え」

 などと言われるではないか。

 それと同じで、

「1件の事件があれば、数十件の事件が潜んでいると思え」

 と言われているのと同じである。

 ちなみに、これは、

「事故でなく、事件だ」

 と思っている。

 人災と呼ばれるものは、事故ではなく、事件だと考えるからである。

 人災というのは、

「防ごうと思えば容易に防ぐことができたものを、ちょっとした注意を怠った」

 などということで。防ぐことができなかった場合を、事故というのは、何とも甘い考えではないかということである。

 事故といってしまうと、人間が悪くなく、

「防ぐことのできなかったもの」

 ということになるが、子供を幼稚園バスに閉じ込めて気づかなかったなどというのは、本当に防げたことであり、いくら、どんなに忙しく大変な職務であったとしても、少なくとも、

「幼稚園」

 という看板を掲げ、安心安全を保障するということで、子供を預かり、面倒を見るという見返りで、保育代を頂戴しているのだから、預かった子供を、

「人数が多いから」

 あるいは、

「先生が少なく大変だから」

 などという理由で死なせてしまったというのは、いくら不可抗力の過失だったとはいえ、許されることではないだろう。

 少なくとも、過失であっても、

「業務上」

 という言葉がつく。

 業務上ということになると、その罪は、普通の過失とは雲泥の差くらいのものはあるだろう。

 しかし、過失である以上、

「故意ではなかった」

 とみられ。かなり罪の重さには、かなり軽減があるだろう。

 だが、ここまでくれば、マジで、許されることではない。

「問答無用で、殺人として、裁判を行ってほしいものだが、実際に判決が出てみると、懲役も3年前後で、しかも、執行猶予がついたりする」

 というものだ。

 それでも、その幼稚園が危機的状況にあることは間違いないだろう。時代が、いくら他に幼稚園が急遽見つからないとはいえ、半分くらいは辞めるに決まっている。ただ、そうやって溢れた園児を他の幼稚園に考えもせずに放り込んだりすると、二次災害として、

「また同じことが起こらないとは言えないだろう」

 ということにあるに決まっている。

 それを考えると、

「本当に社会問題というのは、なかなか収まることはないだろう」

 といえるのではないだろうか?

 そんな社会問題を抱えている世の中で、今度は、実際に、学校閉鎖であったり、保育園が休業要請に従ったりで、預けるところがなくなった時期があった。

 というのも、

「緊急事態宣言が発令される前に、学校閉鎖というものがあった」

 からであった。

 学校閉鎖になった時期は、さすがに伝染病が増え始めてから世の中が不穏になりかかっていた時期だったが、何が悪かったのかといって、一番は、

「政府というよりも、当時のソーリが勝手に決めてしまった」

 ということがまずかったのだ。

 ソーリの片腕と言われていた、次期ソーリになることになる、当時のカンボーチョーカンもそのことを知らなかったくらいなので、国民もマスゴミも、

「寝耳に水」

 のできごとだったのだ。

 確かに、当時としては苦肉の策だったわけで、仕方のないことだったかも知れないが、他が知らないということはどういうことか?

 さらに、もう一つの問題は、

「海外の要人、しかも、このパンデミックを引き起こしたかも知れない」

 と言われた国の国家元首を、国賓として招こうといっていたくらいに、ザルであった、

「水際対策」

 をどうにかしなければいけない立場にありがなら、そっちを放っておいて、まず国民を締め付けるというのは、本末転倒もいいところで、しかも、それをマスゴミも、世間も叩かなかったので、まさかとは思うが、

「批判をごまかすための狙いがあっての、いきなりだったのではないか?」

 と疑いたくもなってくる。

 とは言っても、その可能性は低いだろう。

 というのは、

「それだけの悪知恵が働くほとの、ソーリではなかったはずだ」

 というのが、実感である。

 それだけ頭が働くなら、あれほどの疑惑に塗れた姿を国民に見せるわけはない。どれだけの疑惑があったというのか、一つだけでも、辞任に値するような内容が5つくらいはあっただろう。それこそ、前述の、

「ゴキブリの理論」

 ともいうべき理屈に沿うというもので、

「5つ近い疑惑があったなら、もっとたくさん疑惑に塗れているに違いない」

 と、見えていない部分が、もっとたくさんあっただろうことは、容易に想像がつくというものである。

 実際に、疑惑の多いソーリであったが、注目を浴びることもあり、よく見ていると、

「どこか、何かが変だ」

 と思えるようなところがあった。

 というのも、このソーリのやり口には、

「わざとらしい」

 と思えるようなところが随所にあったのだ。

 ただ、これまでの首相などであれば、

「本当にやっているんじゃないか?」

 と思えると、すぐにその化けの皮が剥げたものだったが、このソーリの場合は、

「疑惑は多いが、すぐに剥げるような化けの皮ではない」

 ということであった。

 要するに、それだけ、今までの首相が、

「悪事に関してはへたくそだった」

 ということであろう。

 かつての首相をいいやつだとは思わないが、少なくとも、このソーリに比べれば、

「人間臭い」

 といえる。

 悪事に関して、ここまで悪賢いソーリは、本当の悪党であり、なかなか尻尾を出さないところは、

「いざとなれば、誰かに死んでもらえばいい」

 とでも考えるような、まるで、封建時代の時代劇に出てくるような、

「悪代官」

 だったのだろう。

 取り巻きの中には、

「殺し屋や、諜報部員」

 のような、悪党団体に所属している連中がいるということで、

「勧善懲悪」

 をテーマにしたドラマを作れば、きっと、それなりの視聴率を稼げるような番組ができるに違いないだろう。

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