第3話 迷惑ユーチューバ―

 昔の特撮で、

「電機などのエネルギーを吸うことで、どんどん巨大化する:

 という怪獣が登場していたが、そんな怪獣に通常兵器で攻撃するのは、愚の骨頂だ。

「一撃必殺」

 で、仕留められない限り、たとえ、原水爆のような平気で攻撃したとしても、一歩間違えると、とてつもなく強大な怪物に変化させることになる」

 ということである。

「一撃必殺」

 という言葉を使ったのは、そういうことであり、こんな生物のことを、本当に怪物ということになるのだろう」

 ということであった。

 まさに、今の、

「迷惑ユーチューバー」

 というのは、この怪物のように、まわりのエネルギーを吸って、巨大になっていく、こんな、

「本当の怪物なのだ」

 といえるだろう。

「だったら、どうやっつければいいか?」

 ということなのだろうが、

「怪物に匹敵する相手をあてがって、戻ってこれないほどの遠くに追っ払う」

 ということであった。

 その特撮では、

「宇宙空間に人工太陽を打ち上げ、太陽まで導く」

 というものであったが、まさにその方法が一番最適なのではないだろうか?

 果たして、今のユーチューバーにそれだけの強力な力を当てがえられるかどうか、大きな問題であった。

 そんな、怪物に対して、ドラマの中で、

「あの怪物は自然現象だ」

 と科学者は言っていた。

 つまり、その問題というのは、人類が過去からずっと引っ張ってきた問題であり、解決できなかったことだと考えると、

「迷惑ユーチューバー」

 と呼ばれる、

「現代の怪物も、自然現象であり、それが解決できるかどうかというのは、その起源は過去にある」

 ということになるのかも知れない。

 そういう意味で、歴史の勉強であったり、人類の発展や宗教的なことを勉強するとは大切なことなのかも知れない。

 社会に出た場合、何を解決しなければいけないかということは、この迷惑野郎だけのことではなく、人類が抱えている共通の問題に密接に結びついてくることになるだろう。

 というのも、

「人類の歴史というものは、ほとんどが繰り返されるものであり、、せっかく教訓が生まれたとしても、それが永久的に続くものでもない」

 そうなると、迷惑ユーチューバに似た人は、

「昔からいたのではないか?」

 ということになる。

 それはそうだろう。ネットというものはなかったかも知れないが、少なからず、世間に悪影響を与えるものは、絶対にその時代にどんな形であっても、存在はしていたはずである。

 それを考えると、

「歴史が答えを出してくれる」

 とよく言われるが、

「実は、答えというのは未来にあるものではなく、過去に存在していたものなのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 というのも、今までにおいて、

「歴史が繰り返されている」

 ということは、今に至るまで分かっていなかったわけではない。

 実際に歴史を勉強していると、実際に繰り返された歴史があることを分かっている人もいるだろう。

 歴史研究家の先生などになら分かっているのだろうが、いかんせん、彼らには、

「世の中を動かす力」

 というものが備わっていないのだ。

 国家を動かす政府や国会議員などに、

「モノ申す」

 という立場である、一種の、

「有識者委員会」

 というものが作られたりするが、彼らは意見は言えるが最後に判断するのは、政治家である。

 政治家にとって、

「自分たちにとって都合の悪いこと」

 というのが持ち上がれば、彼らは決して、有識者委員会の先生たちのいうことを握りつぶして、自分たちに都合のいい結論しか見出さない。

「だとすれば、何のための有識者委員会なのか?」

 ということになる。

 しょせん、世間に対して、

「我々は、専門家の意見を考慮に入れて」

 という言い訳をするためだけだろうが、そういえば、かつての、

「世界的なパンデミック」

 が起こった時も、有識者に対して、

「我々は、専門家の意見を考慮に入れて」

 と言いながら、実際には、

「まったく無視をしていた」

 といってもいいだろう。

 政府がそんなだから、世の中がよくなるわけもなく、

「迷惑ユーチューバー」

 などという、

「極悪非道な人間」

 が生まれてくることになるのだろう。

 それを思うと、

「世の中が繰り返される」

 というのが、果たしていいことなのかと思うのだ。

 繰り返られることが、

「正負の間で、水平線のようなゼロの線から沈んだり浮かんできたりするというような感じなのだろうか?」

 ということであった。

「どこかで見たようなグラフだな」

 と考えると、

「ああ、バイオリズムのグラフのようだな」

 と考える。

 ただ、この繰り返している世界が、本当に正と負の狭間で浮いたり沈んだりしているものなのかということを考えると、

「何とも言えない」

 という気分になるのだ。

「迷惑ユーチューバー」

 のような最悪の腐った人間がいるのに、実際に、世界が崩壊するようなことはない。

 かと思えば、時代としては比較的落ち着いていて、救世主と言われるような人が現れたかと思っても、世界が、はっきりとよくなるわけでもない。

「少々の力では、太刀打ちできないものなのか? 人間の限界は、その世界の中に存在するということなのか?」

 ということを考えさせられる。

 今のようなバイオリズムの世界において、いいことも悪いことも起こっていないように見えるのは、

「何がいいことで、何が悪いのかということを、自分で分かっていないからだろう」

 と思うのだった。

 つまりは、

「自分に分からないのだから、他の人に分かるわけもないだろう」

 ともいえることであり、

「しょせん、人間には、善悪の判断をする力などないんだ」

 という結論にいきつく、

 旧約聖書の、

「カインとアベル」

 であったり、

「モーゼの章」

 などで語られていたりするが、基本的に、

「善があれば、悪がある、悪があれば善我ある」

 というように対なものであり、その解釈が、どのような判断をもたらすかということは、今の時代においても、

「勧善懲悪」

 という考えかたに沿って、考えられるものだといえるのではないだろうか?

 ただ、

「迷惑ユーチューバー」

 という連中は、その、

「善と悪」

 という解釈を、自分たちに都合のいいように、

「どちらも、正義だ」

 という風に都合よく解釈することで、自分たちの正当性を証明しようとしたり、

「世間を巻き込む」

 ということで、

「俺たちは世間から認められている」

 という、民主主義の原則に切り込むことが、やつらの

「正義」

 という感覚になるのではないだろうか?

 要するに、

「冒険をしなければ、何も起きない」

 ということを、

「先手必勝」

 とばかりに、解釈させるのである。

 つまり、

「やつらには、絡まないこと」

 というのが、鉄則なのに、やつらの言っていること、やっていることに対していちいち腹を立てるのだ。

「世界的パンデミック」

 の最中にあった、緊急事態宣言中に発生した、

「自粛警察」

 なるものが、その例ではないだろうか?

 自粛警察というのは、

「本来であれば、緊急事態宣言というのは、日本では、有事がないということで、基本的人権の保障という憲法の理念から、強制はできないので、命令ではなく、要請でしかない」

 ということに対して、いわゆる、

「ほとんどの店が要請を守って閉めているのに、一部の店が開けているということが分かると、まるで自分たちが警察であるかのように、誹謗中傷を浴びせて、休業に持っていく」

 というものだった。

 休業というのも要請であるだけに、自粛警察を名乗る連中が誹謗中傷したからといって、当時の法律で、それを裁くことはできない。

 その後、誹謗中傷なるものに対しては、少しずつ法律も厳しくはなっていたが、当時においては、

「自粛警察」

 というものを、規制することはできなかった。

 そんな自粛警察というものを、いかに考えるかということになるのだが、

 彼らがどういう気持ちなのかは分からないが、

「自分たちが縛られていて我慢しているのに、罰則がないからといって、要請を守らないというのは、いいのか?」

 ということから来ているのだろう。

 迷惑ユーチューバーに絡む人たちは、この自粛警察のような気持ちなのかも知れない。

「勧善懲悪」

 という発想も関わってくるのだろうが、

「放っておくことができない」

 というのは、自分が迷惑を被っているかいないかというだけの違いで、

「自粛警察」

 と同じ発想ではないだろうか。

 自粛警察も、迷惑を被っているわけではなく、

「同じ立場なのに、あいつらだけは、どうして許されるんだ?」

 という、やっかみのようなものがあるのかも知れない。

 人間、何かがあると、やっかみであったり、不安からの疑心暗鬼、さらには、猜疑心が強くなってくるものである。

 自粛警察にしても、迷惑ユーチューバーにしても、

「時代が作り出した新人類」

 という感覚でいいのではないだろうか?

 ただ、どちらも、あまり喜ばれるものではない。特に、迷惑ユーチューバーと呼ばれる連中は、明らかに社会に対しての害を及ぼしているからだ。

 自粛警察というのも、そこまでひどくはないとはいえ、

「正義の名の下の」

 という気持ちが前面に出ているから、扱いにくい。

 決して自分たちが悪いことをしているとは、思うはずもないからだ。

 その思いがあるからこそ、

「時代というものが作り出した、虚空の正義感」

 というものが、見え隠れしているように思えてならないのだった。

「許されないはずのものが、許されてしまう」

 それが今の時代であり、

「民主主義の行き着く先だ」

 ということになると、

「もう、何を言ってもしょうがない」

 と考える人が出てくることだろう。

 特に今の時代になると、

「誹謗中傷」

 というものが、平成にあった

「苛め」

 と同じような形で蔓延ってくる。

 このあたりが、実に厄介な問題であった。

「ユーチューバー」

 というのは、とにかく、儲かるというような話を聴いたことがある。

 何と言っても、数年前から、子供たちが、

「大人になったらなりたい職業」

 ということで憧れる仕事が、昔であれば、パイロットや、野球選手、サッカー選手などというものの、どれかがトップだったものだが、最近では、

「ユーチューバー」

 ということらしい。

 なるほど確かに、一つの番組を作るのに、自分で企画から、製作まで行うのだから、

「やりがい」

 というものはあるかも知れない。

 もちろん、

「全員が全員」

 というわけではないだろうが、少なくとも、青少年が憧れる職業として、注目を集めるために、危険なことをしてみたり、犯罪であっても、バズるためなら、何をやってもかまわないというようなことをする連中に憧れるというのは、

「世も末だ」

 といってもいいのではないだろうか。

 本来なら、

「犯罪者ユーチューバー」

 というくらいの言い方をすれば、少しは青少年も分かるだろうが、

「迷惑ユーチューバー」

 程度の言い方であれば、

「別に迷惑が掛かる人がいるという程度で、それくらいなら、お互い様じゃないか?」

 という若者もいるだろう。

「いや、あいつらは、実際に犯罪を犯しているんだ」

 といっても、言われ方が、

「迷惑」

 という言葉せとどめているくらいだったら、

「それくらいなら、我慢すればいいじゃない?」

 と言われて、ど言い返せばいいのか。

「いや、あいつらは犯罪者だ」

 といっても、

「じゃあ、どうして犯罪者という言葉を使わないのか?」

 と聞かれれば、それまでである。

 つまり、あいつらのことを、

「犯罪者だ」

 と最初から言わなかった時点で、子供を説得しようとしても、後は堂々巡りを繰り返すだけで、結局、

「大人の負け」

 になってしまうのだ。

 そうなると、子供の中では、

「大人が、ただの迷惑なだけで、犯罪を犯しているわけではないということを、認めたんだ」

 ということになるだろう。

 そうなってしまうと、もう大人は、

「子供を教育するだけの自信なんかない」

 ということで、子供の教育に、トラウマのようなものが生まれてくるに違いない。

 それを思うと、子供がユーチューバーになろうとするのを止められなかった時点で、

「これから先、この子たちが大人になって、迷惑ユーチューバーと言われるようになると、もう犯罪者でしかない時代がやってきているかも知れない」

 と思ったとしても、今の時点で、誤解を解けなかったことを後悔しても遅いのだ。

 世の中に、もしまだユーチューバーなるものが存在していたら、この世は、

「迷惑ユーチューバー」

 という名の犯罪者で溢れかえり、完全な無法地帯となっているに違いない。

 そういう意味で、

「子供の教育を先延ばししたり、子供の教育を考えずに、大人だけの都合で、甘い言い方をしてしまうと、目の前のことだけにこだわってしまい、結局、将来に、未来という言葉はない」

 ということになるに違いない。

 将来が、明るいか暗いかということは、現代においての教育に影響されることが多いだろう。

「今の子供が大人になって、世の中を動かしていく」

 ということに変わりはない。

 ということは、逆にいえば、

「今の迷惑ユーチューバーのような連中を作り出したのは、彼らを教育してきた親世代である」

 ということになるだろう。

 しかし、そんな親を作ったのは、さらにその親の世代であり……。

 という、まるで、マトリョシカ人形のようなものではないだろうか。

 しかも、その周期は、一定の時期で繰り返している。

 もちろん、時代の流れ、社会の変化というものがあるのは、無理もないことであった。

 世の中において、何年を周期に繰り返しているのか分からないが、

「ひょっとすると、昔の人には分かっていたのかも知れない」

 という人がいた。

 その周期というものを、

「約750年くらいだ」

 といっている人がいる。

 その根拠は、浦島太郎にあるようで、

「浦島太郎が、竜宮城から帰ってきた世界が、約750年だ」

 というからである。

 相対性理論による、

「光速を突破することで、引き起こされる時間のずれ」

 というものが、

「どうして750年なのか?」

 ということであるが、その発想が、一体どこから来たのか、その証明になる資料が残っていないだけに、余計に、研究者は、その年月にこだわりのようなものを感じるのだった。

 御伽草子が書かれたのが、室町時代ということで、ちょうど、西暦1500年前後ということになる。これは、750年の2倍だということを考えても、無視できない計算だった。

 そして、紀元からちょうど、750年というと、奈良時代の中期である。

 この時代というのは、奈良に都を移し、それまでの繰り返されたしつこいくらいの遷都が落ち着いたはずなのに、疫病が流行ったり、寺社の力が強かったりして、治安がまったく安定していなかった。

 そこで、当時の聖武天皇が、大仏を建立し、

「開眼の儀式」

 を行って、世の中の混乱を鎮めようとした時代だった。

 ちょうど、1500年頃というと、京の街のすべてを焼き尽くすかのような

「応仁の乱」

 であったり、諸国の大名が謀反を起こされたり、

「お家騒動」

 のようなものが頻繁に起こったことで、こちらも、混乱を極めていたではないか。

 しかも、統率すべき幕府の力は衰退してしまっていて、世の中は、

「群雄割拠」

 が、それぞれの国で渦巻くことで、

「下克上」

 の嵐が吹き荒れる。

 いわゆる、

「戦国時代」

 というものが訪れて、世の中は、血で血を洗うという、そんな時代に突入してきたではないか。

 これこそ、

「750年の周期」

 といってもいいのではないだろうか?

 それを考えると、その750年後は?

 というと、今から、200年後くらいということか?

 ということになり、

「この地球が存在しているのか?」

 ということの方が、一番怪しい気がするのだ。

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