第4話 ビッグバン
最近のSNSの中で、地味ではあるが、利用者がたくさんいるものとして、
「ツイッター」
と呼ばれるものがある。
内容としては、一番単純で、SNSがよく分からない人でも手を出しやすいというところがあり、それだけに、いろいろな発想が生まれてきて、発展してきたものではないかと思われるのだ。
コミュニケーションとして、同じような趣味の人をフォローし、お互いの相互フォローなどをすることで、相手のツイートと呼ばれる発言に、コメントをしたり、相手もコメントをしてくれることで、会話のような形ができる。
しかも、ツイッターの面白いところは、
「マイページ以外のいわゆる、共通のツイートページには、自分がフォローしたり、フォローをしてくれた人のものだけが表示される」
あるいは、
「不特定多数の人の、最新のツイートが表示されていく」
というのを、設定で選択することができるというものだった。
最初の頃は、まだフォロワーも少なかったので、最新ツイートが表示される中で、
「自分の気に入った相手を探す」
というのが、一番手っ取り早いのではないだろうか?
気に入った相手を中心に、ツイートが展開されると、こちらのコメントをしたい相手も決まってくるというもので、会話もしやすいのではないだろうか。
ツイッターには、さらに通知機能というものがあり、そちらが独立しているので、自分がツイートしたことに対しての他人のリアクションであったり、こちらがコメントしたことに対してのリアクションが、通知ページに表示されることで、いちいち、その人尾ページに確かめにいく必要もなく、把握できるというものだった。
さらにツイッターというものには、DMと呼ばれる、
「ダイレクトメッセージ機能」
もついている。
誰かフォロワーの中の人であり、相手が、
「DMを受け付ける」
という設定にしておけば、他の人に知られることなく、その人と会話ができるというものであった。
DMに関しては、デフォルトは、
「受け取る」
という形になっているので、相手が、DMを受け付けないという設定にしない限りは、送ることができる。
ただ、相手に自分がブロックされてしまうと、その人は、自分だけを拒否した形になるので、DMのやり取りも気を付けなければいけないといえるだろう。
そもそも、DM機能があるからといって、何でもOKというわけではない。セクハラ、パワハラなどのことは、文字であっても、許されることと、許されないことの区別は明白であろう。
それを考えると、
「SNSというのは、便利ではあるが、増長しては決していけない」
ということになるだろう。
相手のことを気遣いながら、自分を表現していくのは、実に難しいことで、だからといってせっかくの、
「表現の場」
うまく活用しないと、もったいないといえるであろう。
中には、
「面と向かって人と会話はできないが、文字での会話なら大丈夫だ」
ということで、その会話が実にうまい人もいる。
「こんな人が、小説を書いたりすると、結構いい作品を書くんじゃないか?」
と思われるのだ。
そういえば、小説家と呼ばれる人には、無口な人が多いと言われるような気がしていたが、意外とまんざらでもないかも知れない。
小説というのは、ある程度自由であり、元来、いくらでも書けるものではないだろうか?
それを考えると、何もかしこまって書く必要もない。小学生の頃の作文だと思えば気楽に書けるのではないだろうか?
そもそも、必死になって書くものでもない。
もちろん、プロの小説家とかになると、編集者の意向であったり、
「売れる小説を書かないといけない」
という使命のようなものがあるだろう。
しかし、素人の間は、
「書きたいものを書けばいいのだ」
それができないというのであれば、あくまでも、
「プロを目指す」
ということで、そうなると、売れる小説というよりも、
「コンテストなどで、入選しやすい作品ジャンルを選定したり、過去の入選作品を読み込んだりして、傾向と対策を練る必要がある」
と思うだろう。
そう考えていると、確かに、将来的な目標を持っていると、先に進むことの悦びもあるだろう。
しかし、小説というものを、どんどん狭めていくように思えるのは、自分だけだろうかと思えてくる。
小説をいかに書き進めるかということを考えていると、
「プロの小説家」
というものが、次第に堅苦しいものに思えてくるのは、無理なことを考えてしまっているからであろうか?
「プロになってしまうと、今までのように好きなことができなくなる」
ということはよく言われる。
アマチュアの時代は好きなものを好きなようにできたのだが、プロになるということは、
「お金が絡む」
ということである。
小説家やマンガ家のような、
「クリエイティブな職業」
と呼ばれるものは、基本的に、
「締め切りに追われながら、書いているものだ」
というイメージが強い。
昔から、
「どこかのホテルのようなところで出版社から幽閉され、缶詰にされて、締め切りまでに、それこそ、魂を削って、作品を書き上げる」
というのが、通説だった。
それは今も変わっていないだろう。
ただ、原稿が今までのような紙媒体ではなく、ワープロなどで作成したものを、メールで送ったり、作家が、出版社のホームページにアップするというような形で、原稿を送付するということが、日常茶飯事となっているだろう。
だが、最近では前述のように、紙に印刷しての製本というのも、少なくなっている。
「本屋に並ぶ」
ということも、よほどの有名作家が、出版社の宣伝効果も手伝って、前評判のいいものでないと、本屋も置いてくれることはなさそうだ。
宣伝だけが先走りしてしまって、実際に製本されて、本屋に平積みになったとしても、実際に売れなければ、しばらくすると、返品されてくる運命にあるかも知れない。
そんなに有名な作家であっても、本が売れないと、
「ああ、この作家の作品でもダメなんだ」
ということで、
「出版業界も、いよいよ危ない」
というウワサが流れ、それまでの、
「紙媒体は、衰退の一途だ」
と言われてきたことが、実際に証明された形になるだけだった。
そんな小説やマンガの世界ではあったが、雑誌の世界は、まだまだ、本としての価値はあるのかも知れない。
最近の雑誌は、
「付録」
というのがついているものも増えてきた。
「CDやDVD」
などの、解説用のソフトがついていたりして、紀行系の雑誌などでは、映像も楽しめるということで、売れていたりするのだろう。
そういう意味では、旅関係であったり、グルメ関係というのは、テレビでも結構人気の場組だったりするので、本もそれなりに売れているのではないだろうか?
難しい、ドラマや本を見るよりも、見た目がきれいでインパクトのある風景であったり、グルメであったりするものは、今も昔も、そしてこれからも、人気を相変わらず博していくものなのであろう。
だから、ネットで、旅行関係のオームページが人気になったりする。そこから、宿の予約もできたりして、その宿の周辺の観光スポットや、グルメ情報も満載であれば、
「このサイトであれば、一日中見ていても飽きない」
と言われることであろう。
実際に、かつてそこを訪れた人が、
「口コミ」
という形で、レビューや画像を掲載していれば、そのリアリティは結構あるといってもいいだろう。
こういうことが、そもそものSNSの走りだったのかも知れない。
そのうちに、
「気に入ったお店を共有することで、お店側にも宣伝になり、拡散してもらいたい案件となる」
であろう。
さらに、会話することによって、その人とコミュニケーションを深めたいと思うと、今のSNSのような機能が必要となる。その代表例がツイッターであり、その機能をフルに生かしての、コミュニケーションということになるだろう。
また、コミュニケーションというよりも、
「自分の存在を表現する」
ということで、動画などを中心とした、
「ユーチューブ」
であったり、写真を見ることで、きれいなものを愛でるという感覚としての、
「インスタグラム」
などがあるのだった。
ユーチューブに関しては、前述での、
「迷惑ユーチューバー」
と言われる連中がいることで、どうしても、好きになれないという人もいるだろうが、そんな迷惑な連中ばかりではない。
きちんと、モラルに基づいて、企画から編集までされた、ちゃんとした番組としての体裁が整っている、素晴らしい作品もたくさんある。
つまりは、元来、ユーチューブというのは、
「自分の表現したい世界を、映像などによって表現するため、企画、編集を行って、豹変するということ」
であるのだ。
そういう意味では、
「迷惑ユーチューバーと言われるような連中は、そもそも、ユーチューバーではなく、ただの迷惑な輩でしかない」
といっていいだろう。
直接迷惑を被っている人もいるが、実際には、真面目にルールを守って、最高の映像作品を作り上げようという人たちが、一番迷惑をしているといってもいいだろう。
「あんなやつらに、いくら、迷惑という言葉がついているといっても、ユーチューバーなどと、勝手に語らないでほしい」
と思っているに違いない。
ユーチューブというものは、個人的なものであるが、公共の目に触れるために、世界に発信し、誰もが見ることができるものである。
それを勝手に、せっかく存在している、
「クリエイティブな場所」
というものを、踏み散らかして、さらに、評判を落としているのだ。
表だったあ被害者がいない場合であっても、これだけで、重大な罪であり、真面目な人たちが、白い目で見られることがどれほど理不尽なことなのか、どうせ、迷惑ユーチューバーと呼ばれる連中に、分かるはずなどないということであろう。
そういう意味では、
「社会貢献しているSNS」
おいうことで、ふさわしいと思われるのは、
「インスタグラム」
なのではないか?
というのが、内輪の話であった。
よく使われるものとして、おいしそうな食事を写真に撮って、もちろん、店主の許可を取ってのことであるが、
「拡散してもいいですか?」
ということで、許可が出れば、拡散する。
それを見た人が、
「行ってみたい」
と思い、一人でも、それを見て来店すれば、その効果は少なくとも集客という意味で、「立派な効果を表した」
といってもいいだろう。
しかも、来た客が、
「このSNSを見てやってきました」
と言われれば、店主もその効果に感動し、パネルにして、
「インスタグラムに紹介されました」
という宣伝をすれば、近所の客で、今まで行きそびれていた人も、入店してくれるかも知れない。
それが、SNSの、
「相互効果」
なるものなのではないだろうか?
もちろん、口コミの文章などに、
「行ってみたい」
と思わせるものがあったとすれば、宣伝効果としても、インスタグラムの趣旨であるところの、
「相互フォロー」
という意味でも、
「十分な実力を発揮している」
といってもいいだろう。
その時、店主も客もが、自分のインスタを見て、
「映像だけでも、ここまで相手に伝えられる力を持っているということを表現できる、インスタグラムというのは、何と素晴らしいSNSなのだろうか?」
と思うのだった。
ユーチューブも、迷惑な連中さえいなければ、同じような、いや動画なだけに、その可能性は無限だったはずなのに、バカな連中が、その可能性の目を摘んでいるということで、またしても、その罪の深さというものが、立ち塞がっているといえるのではないであろうか。
そんなことを考えていると、またしても、迷惑ユーチューバーのことが考えられて、ムカついてくるのであった。
「やはり、あんな連中に、ユーチューバーなどと名乗ってもらいたくはない」
といってもいいだろう。
あんな連中がいることで、
「SNS」
というものの品位が下がり、ひょっとすると、ツイッターなどにおける誹謗中傷と言った悲惨なことが生まれる土壌を作っているのではないか?
SNSというのは、それぞれによさが感じられたからこそ、それぞれのアプリが開発され、スマホなどの機能として定着したはずではなかったか。
それぞれに良さも悪さもある中で、まったく正反対であったり、似たようなといってもいいような道を歩み始めていたりして、
「今後のSNS、いや、ネット業界というものが、どのような方向になっていくのか、見ものである」
といってもいいだろう。
SNSはまだまだこれから増える可能性もある。
「まだ過渡期には至っていないのではないか?」
ということなのかも知れない。
そんなSNSでも、それぞれにいろいろな機能が含まれてくるようになった。
全体に対してのツイート、個人同士の会話での、DM機能。さらには、最近では、フォロワーどうして音声チャットのようなものができる、
「スペースなるものが出てきて、結構賑わっている」
といってもいいだろう。
こちらは、一種の、
「音声チャット」
のようなものである。
最近では、
「世界的なパンデミック」
などというものが起こってからというもの、
「リモートワーク」
と言われ出して、自宅から会社のネットワークに入り、そこで、仕事をするという形が固まり始めた。
もっとも、このようなことは、元々から構想に入っていた。
特に大企業などは頭の中にあったことだろう。
というのも、平成の頃からであるが、昔は、都心部に事務所を借りていたりしていた大企業も、郊外に物流センターなどを建設することで、そちらに本社機能を移して、営業しているところもあったと聞く。
だから、いまだに都心部に小さな事務所を置いているところは、
「いずれは、事務所を廃止して、リモートワークで」
ということを考えているところもあるようだ。
実際に、パンデミックが起こる前から、
「全国の営業所の3割を削減し、リモートワークでできるようにする」
というのを、3か年計画くらいで打ち出しているところもあったりしたものだ。
そんなリモートワークだttが、さすがに、パンデミックが起こってしまってから、
「緊急事態宣言」
に対しての対策は早めに打てたが、本来の目的である、
「営業所の廃止」
ということまでは、手が回るはずもなく、計画は、当然延期になったのだ。
そんな時代になっているにも関わらず、ある地方の中心都市で、
「ビックバン」
と称して、おかしなことをやっている自治体があった。
都心部のビル群が、
「老朽化による建て替え」
ということが迫られているということで、最近になって、徐々に取り壊しから建て替えという流れが進行している。
だから都心部のビルは、歯抜け状態になり、入っていたビルからは、テナントが撤退したり、少し離れたところで営業し、新しくできたビルに優先的に入るという話をしているのだと聞いた。
離れて営業しているところは、本屋であったり、CDショップであったりするのだが、一昔前までであれば、
「1軒もなくなると、街の光景が一変する」
と言われ、絶対に必要なものだと言われていたが、今では、
「本は紙媒体が、ほとんどなくなってきていて、CDやDVDなども、ネット配信で購入できるので、店舗はいらない」
という時代になってきているのだ。
実際に、本屋も多い時は、そこそこの広さの本屋が、1商業ビルに一つはあったものだったが、今では、一つの街に1,2軒がいいところになってしまったではないか。
それを思えば、
「都会の街並みというのも、すでにかなり変わっていた」
といってもいいだろう。
雑貨や、本屋などは、もう大きなところしか生き残れなくなっている。駅ビルなどでも、個人のテナントが入るというよりも、東京、大阪などで、一つのビルに展開しているような店が、駅ビルの数回を店舗として展開しているということも珍しくはなかった。
テナントではあるのだが、そのテナントがすでに、どこかと合併して大きくなっているので、昔を知っている人にとっては、若干、寂しい状態だといってもいいだろう。
そういう意味では、
「郊外型のっショッピングセンターの方が、商店街であったり、昔の個人商店、ただし、全国チェーンのフランチャイズのような店が多いということで、いかにも、ショッピング街という雰囲気だ」
といってもいいだろう。
要するに、
「すでに都心部からは、店も企業も離れていっている」
ということだ。
その理由は、ハッキリしている。
「家賃が高い」
ということが一番だろう。
さらに、今はパンデミックのこともあるし、公共交通機関よりも、自家用車通勤が主流になっているのか、都心部よりも、郊外の物流センターのようなところの方が、車を持っている人は通勤しやすいのかも知れない。
郊外に物流センターを作ることでの利点というと、
「会社の商品が、全国に配送などということになると、高速道路のインターに近い方が便利がいい」
ということが一番の理由だろうか?
何かを製造するにしても、材料の入荷にしても、できた製品の出荷にしても、高速道路を中心に配達エリアが確保されることが一番の利便性ということになり、高速のインターにより近いに越したことはないだろう。
通勤する人でも、高速のインターに近い方が、人によっては長距離の通勤ともなると、
「毎日とはいかないまでも、たまに高速を使うということもありえる」
ということで、インターの近くは重宝されるのだった。
そんな時代において、都心部の、老朽化したビルを立て直す時に、新しくできる街の構想としては、
「かつて都心部から離れていった。企業を呼び戻し、そして、一大オフィス街として街を活性化させる」
ということであった。
もちろん、その後、
「世界的なパンデミック」
が発生し、当初の計画が壊れてしまったというのは、想定外だったことだろう。
しかし、それ以前に、前述のような風潮を見誤っていたということは否めないのではないか?
ただ、まだ実際に、ビルが建て替わったわけでもないので、今後の展開は読めないが、世の中の景気が革命的によくなるということでもない限り、自治体の構想通りいいくわけはないことくらい、子供でも分かるということだ。
実際に、
「失われた30年」
と言われるように、日本経済がよくなったわけではない。それが、ここ数年でよくなるわけもなく、今のままの、物価上昇と、円安のバブルパンチを食らい、瀕死の重傷状態であるこの国の、一都市だけが、当初の計画通りの、
「一大オフィスビル街」
になるなどということがありえるはずもない。
もし、真剣に、できると思っているとすれば、市の役員たちが、
「どれだけ世間知らずか?」
といえるであろう。
それを思うと、今のオフィスビルが荒廃していった経緯を、まったく知らないということであり、そもそも、
「勉強不足だった」
といえるのではないだろうか。
そんなバカなやつが市長とは何とも情けない。
どうやら、この市長は元々アナウンサーだったようで、
「主婦を中心に人気があるようだが、その実力というと、どうなのだろうか?」
このような政策を真剣に考えているようだから、救いようがないかも知れない。
ただ、贔屓目に見て、
「だったら、他に街の活性化にどのような手があるのか?」
と言われると、大概案が出てくるわけではない。
しかし、それを考えるのが、市長ではないだろうか? 市民の血税を無駄に使っても仕方がないとは言えないだろう。
「ああ、想定外で、思っていたほど、企業が入ってくれませんでしたよ。チャンチャン」
などといって、笑ってごまかすようなことになりはしないかと思うのだ。
それが世間というものを知らないということであり、失敗してから、自分がどうなるかを考えると、その時に自分がしでかしたことを後悔しても遅いというものであった。
ただ、もし、まかり間違って、市の思惑通りとまではいかないが、ある程度成功ラインに近いところまで持ち直したとしても、それは
「市長の手柄」
ではない。
それこそ、
「想定外のことが起こったことで、市の運営がうまくいくことになるのかも知れない」
ということになるだろう。
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