第5話 パチンコパチスロ

 そんなビックバンなどという構想を企んでいる連中が成功するかどうかは、置いといて、

「スペースと呼ばれる音声チャット」

 のようなものが、ツイッターでできるということで、人気になりかかっている。

 実際にサービスが開始されたのは、一年くらい前からだということで、皆、SNSで使っている名前をそのまま使って、会話をしていた。

 音声チャットなので、文字でのチャットのように、アイコンは用意されているので、いろいろなアイコンを使っている人がいる。

「おっさんなのに、女の子のマンガの画像を使っている人もいて、あまり気持ちのいいものではないな」

 といっている人もいたが、しょせん、アイコンなので、こだわらないという人もいた。

 もちろん、それぞれのジャンルで集まった仲間なので、最初から話が合うのは当たり前だった。

 つまり、ツイートの表示と同じように、スペースを立ち上げた人をホストとして、ホストだけでなく、他の参加者に自分のフォロワーがいれば、

「スペースを立ち上げている」

 ということが分かるのだ。

 そこで、スマホでの会話になるのだが、普通のチャットと違ってボイスなので、タイムラグはほとんどないといってもいいだろう。

 何しろ文字であれば、打つスピードによって、会話が間延びしてしまったり、なかなか相手に通じなかったりするので、イライラしたりするかも知れないが、音声であれば、そんな心配はない。

 ただ一ついえば、

「会話が苦手な人は、文字でもいい」

 という構造になっていないところが、難しいところであった。

 他のアプリであれば、文字と音声を一緒にできるところもあるのだが、そっちはそっちで新たにアプリのダウンロードが必要だったりと、厄介なことが多い。

 スマホの運用で、ガラケーから移ってきた時、一番厄介に感じたのが、

「アプリの多さ」

 であった。

「それだけ便宜性がある」

 ということなのだろうが、問題なのは、

「セキュリティとの絡み」

 というものだ。

 つまり、

「アプリごとに、会員になる必要があり、ログイン、パスワードが必要になる」

 ということである。

 決済のように、絶対に必要なものもあれば、LINEや、ツイッターなどと言った、

「コミュニティとして使用している」

 というものは、ある意味、必要不可欠なものであり、

「この機能がなければ、わざわざスマホなどいらない」

 というくらいではないだろうか?

 そういう意味のアプリとして、ゲームというのがあるが、これは実際にやったことがないので何ともいえないが、

「会社ごとに、ログインパスワードが必要なのか、それともゲームごとに必要なのか?」

 ということである。

 普通に考えると、

「ゲームごと」

 ではないだろうか?

 なぜなら、

「ゲームの中には無料でできるものもあるが、課金を必要とするものがあるわけで、その時に他のゲームと同じログインパスワードだったとすれば、管理ができなくなる」

 ということになるのではないだろうか?

 それを思うと、なかなか難しいものではないかと思うのだった。

 だから、いろいろなサイト、さらにサービス、アプリ単位ですべてが違うのであれば、結構厄介だといってもいいだろう。

 そういう意味で、あまりいろいろなアプリに手を出すのも怖い気がしていた。

 中には、それぞれのアプリで共有などというのもあるようだが、パスワードはそういうわけにはいかないだろうから、一つに固まってしまう場合が多い。

 そんな中で、元々ツイッターを、

「サム」

 という名前でやっている人がいた。

 ツイートというと、本当い差しさわりのない日記のようなものであった。

 極端な話、

「おはようございます」

「こんにちは」

「こんばんは」

 を使いまわすだけである。

 サムというキャラクターは、以前、パチンコをよくやっていたこともあって、その時、

「勝利を呼ぶ男」

 ということで、このキャラクターが出てくると、

「大当たり濃厚」

 ということで、ゲン担ぎのつもりで、その名前を冠していたのであった。

 もっとも、最近は、

「サムが出てきても、結構外れるよな」

 と言われてきたように、昔のような、いわゆる、

「鉄板」

 と言われるような演出が少なくなってきたというのも事実であった。

 その頃は、スロットと平行してやっていた。

 パチンコも楽しいのだが、スロットも嵌ると面白いということ。何といっても、スロットには、

「設定」

 というものがあり、

「設定を見抜く」

 ということが、勝ち負けよりも面白いと思っている人もいるだろう。

 ただ、設定というのは、絶対に分からない。店側が客に教えるのは、絶対にありえないことで、それこそ、

「インサイダー取引に匹敵する」

 というものではないだろうか。

 スロットの設定というのは、6段階に分かれている。

「よく出る台」

 と言われるのは、一般的に数字が大きいほど、その可能性が高い。

 つまり、平均して大当たりの確率が高くなるということであり、そもそも、大当たりの回数が増えるから設定がいいわけではなく、どちらかというと、

「大当たりするための、前兆が出やすいという意味で、結果的に確率が高い」

 ということになるのだった。

 いくら、激熱演出が出たとしても、絶対に当たるとは限らない。せめて、80%くらいの確率であろう。発展したあとの激熱と呼ばれる演出でも、30%台とか、そんなものである。たくさんいい演出が出ていればそのうちに当たるだろうが、逆にそれを外しまくると、やる気がなくなってしまう。逆に、

「高設定かも知れないが、ここまで当たらないというのは」

 と思うのだろうが、逆に、

「ここでやめると、この後座った人が、今まで自分がつぎ込んだ分を一気に出しまくるかも知れないと思うと、移動するにおいては、少なくとも自分の視線に近いところでは絶対に打たないようにしよう」

 と、思うことであろう。

 そう考えると、

「このまま、どうせ今日はダメだと思って、このまま辞めてしまう方がいいだろう」

 と考えることだろう。

 しかも、設定というのは、スロットにしかないものであったが、一時期、パチンコにも配備される台が出るというのを聴いたことがあるが、果たしてどうだったのだろうか?

 設定というのは、それを行うのは店長だけで、従業員は知ることはできない。だから、その日が終わっても、設定を公開することはない、

「なぜなら設定が分かってしまうと、店長の性格を分かっている人がいれば、そこから推測し、翌日にはどんな設定を入れるかが、まるわかりというものだ」

 客に、

「客に悟られる」

 というのは、愚の骨頂であり、一度教えてしまうと、分かる人はずっと分かっていくことにあるであろう。

 しかし、あくまでも、設定は目安であって、

「6だから」

 といって、絶対に出るというわけではないことは間違いのないことであった。

 何しろあくまでも、設定というのは、

「大当たりする確率の高い演出が頻繁に出たり、いわゆる、

「設定差」

 と言われる、

「設定」

 によって、出現率の違う演出が頻発することで、

「高設定に違いない」

 と思わせる演出が出ることで、設定を見抜くことが楽しいのである。

 そういう人は、確かに、

「儲かる」

 あるいは、

「そんなに負けない」

 という楽しみ方よりも、自分の想像した設定に近いかどうかということを楽しんでいる人も結構いたりするのだ。

 闇雲にやって、設定などを気にしないでやると、大けがをしてしまう。

 大けがをしないようにしておいて、楽しむというのは、そういう設定を追求することから生まれるのではないだろうか?

 ただ、これは、基本的にパチンコではないものである。

 一時期(今もあるのかも知れないが)、

「設定付きパチンコ」

 というものがあるようだ。

 こちらは、スロットほど、

「設定差のある演出」

 というものがあるのかどうかも、よくわからない。

 それを思うと、

「何を楽しみにすればいいのか?」

 ということであるが、そもそも設定がなかったものがあると言われると、スロットのようなものを想像するが、それが、思っているほどの楽しみがないとするならば、

「それなら、パチンコは設定のないものとして、最初から楽しんだ方がいい」

 ということで、スロット好きは、余計に、

「設定付きパチンコ」

 なるものに手を出さないのではないだろうか?

 それは、一種の心理というものであり、

「その機械特有の機能がついているから、その機械で遊ぶのであって、他の機械が、なまじ似たようなことをしても、しょせん、追いつけないのであれば、元々の機械で楽しむ方がいい」

 というのは、当たり前と言えば当たり前だ。

「新しい物好き」

 とでもいう性格でもなければ、

「何を好き好んで、他の機械で遊ぶというのか?」

 ということである。

 サムは最初、パチンコをしていたのだが、途中からスロットで遊んでみようと思い、かじってみた。

 最近では少なくなってきたが、民放でも深夜番組で、

「パチンコ番組」

 を頻繁にやっていたのだが、最近では、まったく見なくなったといってもいい。

 その理由の一つとしては、

「世界的なパンデミック」

 の影響があったのだろう。

「このパンデミックは、至るところで影響を及ぼす」

 というもので、特に前述の。

「自粛警察」

 に大きく影響している。

 パンデミックによって、社会は、

「緊急事態宣言」

 というものが出され、それによって、日本においては、

「強制力はないので、要請程度のものである」

 ということであったが、流行り出した当初は、

「どんなものなのか分からない」

 ということであったり、

「毎日のように、人が死んでいく」

 という状態になれば、まだワクチンも特効薬も何もない時だったので、政府のいうように、

「行動制限や、休業要請」

 などといった対策に従うしかなかったのだ。

「他県への移動は控えてください」

 などと言われたが、

「会社が他県になるんだ」

 という人もいたであろう。

 しかし、そもそも、どうして他県への移動というものをあそこまで厳しくいうのだろう?

 考えてみれば、

「隣の県に移動すれば、必ず伝染病に罹るとでもいうのだろうか?」

 ということである。

 伝染病なのだから、

「隣の県に行くのも、隣の家に行くのも、空気が違うわけでもないのだから、何をそんなに気を遣うというのか?」

 ということであった。

 これが、

「海外から」

 というのであれば、当然、検疫が入って当然のことであるが、同じ国内で、

「しかも、陸続きの隣の県への移動くらいで何を騒ぐのか?」

 ということである。

 ということを、その時は、

「おかしい」

 と誰も思わなかったのだろうか?

 サムは、実は気づいていた。気づいていて、その理由を自分なりに分かっていたつもりだったが、それを口にする気はしなかった。

 実際には、ツイッターで呟いたことはあった。

 その内容というのが、

「緊急事態宣言というものが出て、他県への移動は控えるようにというお達しが出ているが、一体どういうことであろう? 陸続きで、県境など、ハッキリしたものがあるわけでもなく、しかも、行政が勝手に決めた境ではないか?」

 と書き始め、

「同じ空気を吸っているのに。まるで別の土地との移動で、ウイルスが蔓延するというのはどういうことなのだろう?」

「考えられることとしては、自治体も面目ではないか? つまりは、毎日のように、国に一日の感染者数を報告し、それを国民に発表される。どの県が多くて、どの県が少ないというのは、もちろん、その県の事情によっていろいろあるだろう。だから増やしたくない。そうなった時、隣の県との境で見わけのつかないような人まで自分の県に加算されてはたまらない」

 という思惑があるのではないだろうか?

 考えすぎかもしれないが、

「なるほど、これだったら、理屈は分からなくもない」

 と思うのだ。

 隣の県との移動にここまでこだわるのは、それ以外には考えられないであろう。

 そう考えると、

「緊急事態宣言」

 などというもの、さらには、

「国家の発令する注意勧告」

 というのも、結局は、

「自分たちの都合でしかない」

 ということに違いないのだろう。

 そう考えてくると、

「しょせん、自治体同士の数を増やしたくないという思いと、国家の面倒臭いことになるのが嫌だ」

 というような意識が交差したことで、こんな訳の分からない注意喚起になったのだろう。

 ただ、問題はそんなことではない。その理屈を誰も分からずに、

「ただ、国家がそういうから」

 ということで、何も考えずにスルーしている人ばかりだということではないだろうか?

 もちろん、実際に緊急事態宣言中は、自分の身を守るという意識があることから、そこは、何も言えなかったのだろうし、考えが及ばなかったのも、無理もないことだと思えるのだが、宣言終了後もまだ、危機が去ったわけではない。

 世間では、

「感染者が相当数減り、緊急事態宣言が解除されたことで、危機は去った」

 と思っている人が大多数ではあっただろうが、中には、パンデミックというものが、

「何度も波がやってくる」

 ということを分かっている人もたくさんいる。

 逆に、

「これから、本当に増えてくる時期がそのうちにやってくるのは分かっているので、短い間からも知れないが、遊ぶとすれば今しかない」

 ということで、感染者が減ったという事実から、それが、

「半年くらいは続くのか?」

 あるいは、

「1カ月くらいで、また次の波がやってくるのか?」

 ということで、分からない中でも、少しでも遊びたいという気持ちがあるからこそ、宣言が切れたことを真剣に喜んでいるという人も少なくないだろう。

 だが、本当に、

「やった。宣言が切れたんだ。これで、危機は去った」

 と本気で思っている人もいるだろう。

 ただ、そんな連中は、正直にいえば、

「救いようのないバカ」

 といってもいいかも知れない。

 そんな連中は、死んでも自業自得なのだろうが、厄介なのは、モノが伝染病なので、そんな連中が死ぬのは構わないとして、

「そいつらが、死ぬまでに、何人の罪もない人に移しているか?」

 ということである。

 せっかく、自分でできるだけの予防をしていても、身近にそんなバカがいたために、殺されたとなると、死んでも死にきれないというものだ。

 しかし、伝染病というのは、

「どこで罹るか分からない」

 つまりは、

「誰から、いつ感染したのか分からない」

 ということであり、もし、これを犯罪と考えたとしても、それを立奏することができないのだ。

 以前、自分がその伝染病に罹っているのが、PCR検査にて分かったということで、その男が、

「死ぬかも知れない」

 ということで、感染している状態で、風俗に行き、そこで一人の女性を感染したというニュースがあり、本人も死亡していたのだが、結局、

「被疑者死亡」

 ということで、起訴されたということがあった。

 もし、被疑者が死亡していなければ、有罪となっていた可能性は否定できない。

 かつて、致死率が決定的に高い伝染病で、

「罹ればほとんど、死んでしまう」

 と言われていた頃、同じような事件があり、その人が有罪になったという判例があったので、今回だって、判例に基づけば、有罪の可能性は高かったことだろう。

 かつては、

「不治の病」

 と呼ばれていたこの病気も、今は特効薬があるのか、かなり助かる人もいるということだ。

 ただ、相変わらず、致死率は高いのは間違いない。そういう意味で、罹らないように注意するのは、どんな伝声病でも同じだということである。

 今回のパンデミックも、流行し始めてから、翌年には、ワクチンが完成し、徐々に摂取できるようになり、

「2回の摂取」

 くらいまでは、国民の8割くらいの人が行っていただろう。

 ただ、残りの2割というのは、副反応を恐れて、摂取しないという人がほとんどだということである。

 何しろ、ただでさえ、

「未知のウイルス」

 なのだ。

 それを1年やそこらで、解明し、ワクチンを作るところまで持っていき、そして、治験も十分に行って……。

 などということが、本当に可能なのだろうか?

 と感じるのであった。

 ワクチンを打つというのは、

「重症化をしないため」

 というのは主たる目的であり、

「感染しないようにする」

 というのは、あくまでも、二の次であった。

 もちろん、

「打たないよりも。打った方が、感染の危機は若干でも回避できる」

 ということになるのだろうが、

「絶対に回避できるわけではない」

 ということで、副反応との間でのメリットデメリットを考える人が多く、デメリットが多いと判断した人は、接書をしないのだった。

 特に女性などは、

「妊娠した時、どんな影響があるか?」

 などということを心配するのだろう。

 そういう意味もあってか、

「若年層の接種率はかなり低い」

 と言われていた。

 ただ、この中には、

「若年層よりも、高齢者の方が、重層化率はかなり高い」

 と言われているのをいいことに、

「ああ、若者はそんなに重症化しないのだ」

 と単純に判断し、

「だったら、副反応から比べてデメリットの方が大きい」

 と考えたのかどうか、それすら考えずに、

「ただ、摂取しない」

 という結論を出した人もたくさんいたことだろう。

 それを考えると、

「こんな連中が、これからの世界を回していくんだ」

 と思うと恐ろしくなってくる。

 もっとも、そんなことを考えるのは、

「常識ある大人」

 であろう。

 悲しいかな、そんな大人は、年配に多い。そうなると、

「どうせ、こんな連中が国を回すようになる頃には、わしらは、この世にはおらんだろうから、関係ないわ」

 と思っているかも知れない。

 若年層と高齢者との意識の溝は、結構深いところにあり、

「自分たちが意識している以上に、お互いを軽蔑し合っているんだろうな」

 ということだったのだ。

 そのことが分かるのが、

「ネットによるコミュニケーション」

 ではないだろうか。

 特に、今回のような

「自粛期間中」

 というものが存在し。リモートワークなどが増えると、

「会社にいるよりも気が楽だ」

 という人もかなりの数いるに違いない。

 なぜなら、最初こそ、慣れないリモートワークでは、どうしても接続に時間差があることから、仕事をしていても、パソコンが重たく鳴ったり、下手をすれば、フリーズしてしまったという不具合もあるだろうが、そこは慣れてくると、次第に、不便さを感じなくなる。

 しかも、リモートワークの一番の利点は、

「通勤しないでもいい」

 ということだった。

 朝早くに起きて、眠い目をこすりながら、満員電車に揺られ、時間をかけて出社する。都心部では、通勤に2時間くらいかかるという人もざらにいることだろう。しかも、何回も電車を乗り換えてである。

「片道通勤に2時間ということは、往復で4時間。会社での定時までの拘束時間は、昼休みを除くと8時間であり、その半分の時間、通勤に使うことで、一日の半分を完全に会社のために使っているということになる」

 というものである。

 睡眠時間を8時間とすると、残り4時間で、食事や風呂などをしなければならない。すると、本当に自由な時間というと、1,2時間ということになり、

「読書が趣味だ」

 という人は、ほとんど読めないだろう。

 ただ、行き帰りの通勤時間内で読めるかも知れないが、逆にそれくらいの趣味がなければ、やってられないと思う人も多いことだろう。

 今では、ゲームをしている人も多いだろう。スマホがあれば、電車の中でも十分にできる。

 しかし、気を付けなければいけないのは、読書の場合もゲームの場合も同じことで、

「乗り過ごしてしまったらどうしよう」

 ということになるのだ。

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