第8話 大団円

 その頃になると、スペースの荒れ方というものを、皆が自覚していて、それぞれに探り合いながらに見えてきた。

 言葉遣いや雰囲気は、前と変わっていないかに思えるのだが、一歩下がって全体を見ると、

「何かおかしい」

 と感じるようになってきた。

 そのことを、参加者の一人一人はどう感じているのだろう。

「普通じゃない」

 とは思っているだろう。

 普通だと思っているとすれば、

「ちょっとおかしい」

 と思えるレベルに感じられるからだった。

 というのも、明らかに、荒れている原因は、一人にあるということが分かっているからだ。

 最初から、その人は、

「この人は、自分が中心にいなければ気が済まない人なんだ」

 ということが分かったからだった。

 確かに、いつもホストをやっている人で、自分のスペースを、明らかに自分のものだという意識でもって運営していた。それでも皆がついてきたのは、

「ここは、出入り自由で、ガチな内容よりも、雑談のようなバカなことをいうところやからや」

 ということを言っていたからだった。

 確かに、しばらくの間は、言葉とスペースが合致していたので、

「これほど楽しいところはない」

 と皆思っていたはずだ。

 何といっても、一人中心になる人がいれば、居心地がよくて、安心して参加できるし、何よりも、いい人がたくさん参加してくれるようになり、友達が増えるということからであった。

 しかし、そのうちに、

「スペースというものは、一歩間違えると荒れるものだ」

 という話を、他から聞かれたりすると、不思議と楽しいと思っていたところが、ギクシャクしてくるような気がしてくるのだった。

 人が増えてくるということは、いろいろな人がいるというもので、そのホストの人が、毛嫌いする相手が入ってくると、その傾向が顕著に表れてきた。

「性格的なガチな部分が衝突している」

 と言えばいいのか、お互いにいいたいことを言い合うようになってくると、元々のホストが露骨に、その人を敵対視しはじめた。

 敵対された方も、スペース界の間では、

「ちょっと、厄介な人」

 という触れ込みがあったことから、

「あまりその人に関わらない方が……」

 というウワサもあったりした。

 しかし、ホストのその人は、性格的にというのか、

「勧善懲悪」

 なところがあるように見えるのだ。

 しかも、それは、露骨に表れていて。その証拠に、スペース内で、

「相互フォロー以外はお断り」

 といって、自分たちだけでの作戦会議を取ろうとする。

 サムも仲間内の一人として参加させてもらっていたが、その内容というのは、

「うちのスペースによく来てくれる仲間を、最近見ないと思わないか?」

 というのだ。

「ああ、そういえば」

 と確かに、ホストのいうように、最近、顔を見せなくなった人がいるようで、その人はどうやら、敵とホストがみなしている人から、攻撃を受けたというのだ。

 いわゆる、誹謗中傷の類なのだが、それによって、引きこもってしまったというのだった。

「わしは、こんな行為は許せん。徹底的に戦う。わしは、仲間を傷つけられたら許せんのや。皆を守るために、わしは断固として戦う」

 と言いだしたのだ。

 もちろん、すべてが、本当のことで、言っていることが本心であれば、

「この人についていく」

 という精神状態になったかも知れない。

 しかし、どうも最初から、この人のポーズを、

「大げさで、どこか劇場型に見えるよな」

 と、まさに、

「芝居がかって、大げさに騒いでいるようにしか見えない」

 と感じていたのだった。

 だから、結局、

「この人のいうことを、どこまで本気として聞けばいいのか分からない」

 と感じたが、すぐに、そうではなく、

「本気だから、厄介なんだ」

 と感じるようになった。

 そもそも、この人は、本気でない部分がどこまでなのか分からないところに面白さと、

「この人には、限界というものを感じさせない」

 ということで、遊びの部分が感じられ、それが余裕に見えて、

「ついて行ってもいいんだろうな」

 と思わせたに違いない。

 しかも、それがすべてにおいてというところであったのに、

「ここまでの引率力のある人なら、皆ついていくよな」

 と思っていたことを思いだすと、後になって思えば、

「まるでヒトラーのようだ」

 と考えさせられたとしても、無理もないことに気づくのだった。

 そんなことをしていると、その人が今度は、何かこそこそとし始めた。

 よく見てみると、

「どうも、自分の仲間を築こうとしているようだった」

 というのも、その時にいた人が、サムに、ダイレクトメッセージで話してくれたのが、

「何か、自分の敵対している人が、何かスパイみたいな人を送り込んで、その人から話が漏れて、また別の人に対して、自分の悪口を言っているあなたをブロックしますなどという内容のダイレクトメールが来たのだという」

 というようなことを教えてくれた。

 その時サムは、

「おや?」

 と感じたのだ。

「だったら、なぜ、こんなまわりから見られるようなバリケードを作って、話をしようとするんだ?」

 ということであった。

 要するに、

「SNSもたくさんあるんだから、内輪で話すなら、スペースのように誰にも見られるものではなく、別のアプリを使って、そこで会議のようにやればいい」

 ということであった。

 それを考えると、

「わざと、見えるようにしてるんじゃないか?」

 とも考えるのだ。

 ということになると、考えられることは、単純で、

「自分が嫌われているんだったら、自分の仲間も同じように嫌われることで、自分の気持ちと同じになってもらおう」

 ということで、要するに、

「味方をたくさん作ろう」

 ということになる。

 相手の仲間意識という気持ちを、

「同情に値する」

 という気持ちにさせることで、相手の気持ちを、いかにも、

「自分は苛められている人を助けているんだ」

 という思いと、

「悪と皆で戦っているんだ」

 という思いとにさせることで、悪い言い方ではあるが、

「マインドコントロールしよう」

 と思っているに違いない。

 そのマインドコントロールに騙されてというのか、劇場型に誘発されてというのか、

「劇場型と呼ばれるものは、確かに、激情した時に少々の興奮状態がわざとらしいほと、相手を動かす力を持っているのかも知れない」

 ということで、

「激情型」

 とも、

「劇場型」

 とも、どちらでも表現できるものではないかと思うのだ。

 サムは、劇場型を実は好きではない。前述の、スポーツの話で、

「地元の代表」

 というくだりでの話ではないが、あまりにもわざとらしいものは大嫌いであった。

 別に、地域の代表が優勝したといって、自分たちが褒められるわけでも、何かいいことがあるわけでもない。

「バーゲンがあるよ」

 などというかも知れないが、冷静に考えれば、それも嫌だった。

 というのも、

「1,000円のものが、600円になる」

 と言われて、普段は、そのまま普通に買えるものが、その時だけは、1時間以上並んで買ったり、よほど早くいかないと売り切れてしまったり、

「1人、1個まで」

 などという制限を掛けられればどうだろうか?

「誰が買うか」

 と思い、その時だけではなく、

「もう、2度と買うもんか」

 と思ってしまったとしても無理はない。

 特に、今までまったく興味もないようにしていた連中が、

「俺もファンだったんだ」

 などといって、ノコノコ出てくる。

「一体、何がしたいというのだ?」

 ということである。

 集団意識によるものなのかも知れないが、それがある意味、

「民主主義の限界」

 だといえるのではないか?

 民主主義の基本は、多数決である。多数決ということは、過半数よりも多い方が勝つか、一番多い意見が勝つということになる、

「だとすると少数派は?」

 ということになるのだ。

 少数派は、切り捨てられることになると、基本は数が多い方が勝ち、突き詰めれば、勝った方が偉いということになると、力の原理で、

「弱肉供促」

 を認めていることになる。

 ということは、平等というのは、根っこから崩れることになり、平和というのも、実際に世界各国で起こっている戦争を、やめさせたいと言いながら、国連であったり、そこを牛耳るアメリカにだってできるわけではない。

「じゃあ、博愛は?」

 ということになると、こんなネットの狭い範囲でも、争いや面相臭いことが起こっている。

 しかも、世の中の理不尽と思われることや、犯罪などがまったくなくならない。

 社会主義がいいとは言わないが、少なくとも今の資本主義がいいわけではない。サムはそんなことを考えながら、自分なりに、スペース内で起こったことを、メインの趣味でまとめてきたのだ。

 その趣味というのは、

「小説執筆」

 で、その内容が、10年後にネット世界でベストセラーになった。実際に掲載してから、10年後だった。

 実は、一度この小説を書き上げた時、この内容に合致するような時代が過ぎ去った紙一重だったのだ。

 しかし、それがまわりまわって、十年後に、時代が回ってきていて、

「時代回顧」

 を繰り返していたのだ。

 話は、架空と現実の層を何重にも目降らせた。まるで、バームクーヘンのような内容で、しかも、それがマトリョーシカを思わせることで、そこに、時代回顧が巡ってくる話であり、10年後のヒットというのは、予感されていたことかも知れない。

 しかし、その時すでに、作者であるサムはこの世にいなかった。

 といっても本当に死んでしまったのか、ネットの世界のサムは死んだが、

「中の人」

 である本人が、表に出てきたくないという思いからか、

「作者、サムは死亡」

 ということで、ヒットしたのだ。

 サムの中の人はそれでよかった。プロ作家になろうなどと思ってもいなかったからだ。

 印税だけをしっかりもらい、自分の中の人生を、ずっと暮らしてきた、SNSの中で、生きていくことになるのだった……。


                 (  完  )

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時代回顧 森本 晃次 @kakku

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