時代回顧

森本 晃次

第1話 ネット普及の歴史

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年11月時点のものです。実際にスペースという機能が始まった時期と、当該小説での舞台とでは、矛盾がありますが、あくまでも、フィクションのお話だということで、ご勘弁をいただきたい所存であります。さらに、時代背景も、結構今の時代に似ているということもありますが、あくまでもフィクションだということです。あくまでも、もし、皆さんが、「その通りだ」と思っていただけるのだとすれば、それが真実なのだということなのだと作者は思います。だから、作者は、フィクションだけど、事実に近いのではないかと思っています。


「ソーシャル・ネットワーク・システム」」

 いわゆる、

「SNS」

 というものがあるが、今から10数年前くらいから、言われ出したものであるが、大きな発展を遂げたとすれば、

「スマホ」

 と呼ばれるものが、爆発的に普及してきた頃だろう。

 そもそも、携帯電話なるものが、実際に普及したのは、パソコンでインターネットが普及し始めた時代であり、ちょうど、

「世紀末」

 と呼ばれた時代だった。

 この時代においては、パソコンの世界では、

「パソコン通信」

 なるものから、

「インターネット」

 というものに変わっていき、ホームページにより、検索機能を生かして、いろいろなことを調べることができたり、

「掲示板」

「チャット」

 などという機能で、情報交換アドのコミュニティを、リアルタイムできるようになってきた。

 もう一つ大きなこととして、

「使いたい放題」

 というようなものが出てきたことだ。

 つまりは、昔であれば、

「回線をつないだ時間に比例して、通信料がかかっていたのだが、月額の基本料金を払っていれば、24時間365日、つなぎ放題でも、それ以上の回線料は発生しない」

 というものであった。

 要するに、

「時間を気にせず、いつでもネットさえつながれば、コミュニケーションや調べものができる」

 という時代になったのだ。

 さらにその時、一緒に携帯電話が普及した。

 当時は、電話機能と、メール機能がほとんどで、機種によってはテレビが見れたりなどがあったが、回線料は、

「つなぎ放題」

 ではなかったのだ。

 それでも、携帯電話の普及は革命的だといってもいい。

 電車やバスに乗ると、誰もが器用に、指で数字のところのボタンを、

「ポチポチ」

 と押しているではないか。

 そんな中にサラリーマンなどがいるのを見ると、

「大の大人が、恥ずかしくないのか?」

 と思っている人も多くいるようで、露骨に嫌な目を、そんなおじさんに向けていたりした。

 しかし、ガン見されたおじさんも、睨まれているなど気づかないほど、集中しているのか、そんな光景を第三者として見ていると、腹も立つのだが、何か滑稽な気がして、思わず笑ってしまう気もしてきた。

「変な世の中になったものだな」

 と、腹が立っているのに、笑いたくなるような心境になっても、それを不思議だと感じなくなってきていることを、時代のせいにすることが、却っておかしな気分を誘うのだった。

 その頃は、まだ、

「SNS」

 などという言葉はなかった。

 インターネットが普及してからしばらくは、チャットであったり、個人でのホームページというのが、流行っていた。

 いくつかのプロバイダーが、ホームページのスペースを貸し出すということなのだが、そもそも個人用のホームページというのは、いくつかの考えかたがあった。

 まずは、

「コンセプトがしっかりとできていること」

 というのは、例えば、

「趣味に特化したもの」

「コミュニケーションに特化したもの」

 もう一つには、最初の趣味の特化に派生した形であるが、

「趣味における自作品の発表の場」

 というものである。

 写真であったり、絵であったり、ポエムや小説などの文芸であったりと、いわゆる、

「芸術作品」

 に近い形である。

 ホームページのデザインは、基本的に自由である。まず、

「トップページ」

 と呼ばれるものがあり、そこから、コンテンツごとに、ページがある。

 トップページを目次として考えるなら、

「管理人プロフィール」

「作品発表ページ」

「掲示板」

「日記」

「リンクページ」

 などがそうであろうか。

「掲示板」

 というのは、コミュニケーションの場で、そのページの管理人に対して挨拶であったり、何かの報告などができるところだといってもいいだろう。そして、そこで友達になった人と今のSNSでいうところの、

「フォロー」

 のかわりに、

「リンクを貼る」

 ということをする。

 つまり、リンクページのボタンを押せば、その人のページに飛べるという機能であり、そうやって、仲間を増やしていったものだ。

 無料で、ロゴ製作ができるところがあり、そこで、自分の気に入ったロゴを作って、ロゴをクリックすれば、友達のところに飛ぶというようあものであった。そこに紹介文などを書いておけば、わかりやすいし、管理人の気遣いが、まわりの人にも分かるというものだ。

 ホームページというのは、要するに、

「リンクの組み合わせ」

 といってもいい。

 一人のホームページのそれぞれのページに移動するボタンという機能も、リンクによるものなのだ。

「同じページ内だ」

 というだけのことである。

 ホームページの作り方もいろいろある。

 一番手っ取り早いのは、

「プロバイダーが提供するテンプレートのようなもの」

 であり、提供されているものを組み立てるだけなので、形だけなら、1時間もかからない。

 そこからいくつかのリンクをつけていくことで形が出来上がってくるので、あとは、コンテンツに合わせたリンクを作るだけである。そういう意味で、簡単なのだが、デザインも決まってしまっているので、

「オリジナリティ」

 ということに掛けては、少し寂しいことだろう。

 そんなホームページも、作り方にもいろいろある。

 先ほど言ったような、テンプレート的なもので作る場合が一番簡単であるが、もう一つは、

「電気屋さんで、ホームページ開発ソフトを買ってくる」

 という手段だった。

 数千円であるのだが、そこには、テンプレートの種類がかなりあり、トップページのデザインも、自分でいろいろ改良することもできる。

 例えば、背景の色やデザイン、文字の大きさやフォントの形、さらには、目次としておリンクの形式や、ボタンのデザインなど、いろいろ揃っている。

 そうなると、

「いろいろなオリジナルなページを作成することができ、凝ったものを作ることができる」

 ということになるのだ。

 ちょっとだけお金を出すだけでいいので、ソフト代を、高いと思うか、安いと思うか。それは、その人の感じ方一つということである。

 実際にホームページのソフトはそれほど難しいものではない。

 これは、一般的なパソコンソフトなどの、表計算ソフトであったり、ワープロ機能のような知識があれば、普通にできるものである。

 逆にそういう知識しか持っていない人にでも、十分にできるように開発されているのである。

 また、もう一つの開発の方法としては、

「開発言語からの作成」

 というものである。

 これが、本来であれば、一番プロっぽい作成になり、

「自分で作った」

 という自己満足に浸ることができるものだといってもいいだろう。

 開発言語として、

「HTML」

 というものが基本であり、

 そこから派生した言語もいろいろあったが、アルファベットの羅列といってもよく、そこに記号を組み合わせて、表示させるという機能なのだ。

 表計算ソフトでいうところの、

「関数」

 であったり、

「マクロ」

 と言われるようなものであり、基本ホームページを作るには、いくつかの組み合わせでできるものであった。

 実際に、処理を動かす、

「プログラム言語」

 というものと違い、こちらは、

「表示させる」

 あるいは、

「リンクで飛ばす」

 というイメージのものであり、表示するにも、相手の番地のようなものに飛びことで、可能になるという画期的なものだったのだ。

 作り方としては、本を買ってきて、まずは、メモ帳のようなもので言語を書いていくことから始まる。少し慣れてくると、他のページの言語を表示させ、そこからコピーしてくるという方法もあるようだが、慣れていないと難しいところもある。最初はやはり、

「自分で、本を読みながらでも作っていく」

 という方が、自分でも勉強になるし、間違いがなくていいのではないだろうか?

 そんなホームページの作り方が、案外といい味を出しているのかも知れず、当時は、ネットで何らか携わっている人は、個人のホームページというものを作っていたということが多かったことだろう。

 何といっても、

「コンセプトがしっかりしている」

 あるいは、

「自分独自のオリジナルを出すことができる」

 ということで、ネット入門という意味で、

「楽しみながら作れる画期的なツール」

 ということだったのだろう。

 そんなホームページの時代が、4、5年はあっただろうか。

 次第に、ホームページを作るという人も少なくなってきた。

「ホームページを作ろうとする人の数が減ってきたのか?」

 それとも、

「ホームページの提供サービスというものが少なくなってきたからなのか?」

 どちらなのか分からないが、ホームページを個人的に開設するという人が少なくなってきたのだ。

 だから、ホームページというのは、企業が作るののだということになってきたりして、そんなホームページを作るための、

「ホームページ提供」

 という業者が増えてきた。

 企画からデザイン、それを、依頼者と相談しながら組み立てていくというもので、ネット販売であったり、実践的なことに結びついてくることが多くなった。

 つまり、

「個人が一方的に発信するだけではなく、個人が注文したり、情報を共有したりなどというサービスが求められるようになってきたのだろう」

 といえるのではないだろうか?

「では、個人が発表したり、コミュニケーションをしたりする場というのは、どうなってしまったのだろう?」

 ということであるが、

「発表という場は、かなり減ってきていて、そのかわり、個人で日記をつけるというような形でのものが出てきた」

 という時代であった。

 その代表例が、

「ブログ」

 と言われるもので、

 これは、ホームページのように、オリジナリティは、まったくといっていいほどなかった。

 プロバイダーが提供していたホームページの、

「簡易版」

 というようなもので、

「ホームページの中の日記」

 の部分だけが、独立した形だと言えばいいだろうか。

 検索機能などはあるので、気に入ったジャンルのブログを見たりすることはできるので、これも、個人でつけている人は結構いたが、それよりも、どこかのお店であったり、集会の募集であったりと、

「宣伝効果」

 のような機能が大きかったのではないだろうか。

 それらの機能として、今も残っているものとして、

「口コミ」

 などが、そうなのだろうと思われる。

「食べログ」

 などというものもその一つではないだろうか?

 これは、やはり、企業のホームページが充実してきたことが大きいかも知れない。

 ただ、ホームページのようなオリジナリティがなくなってきたのも寂しいことで、

「コンセプトが定まらず、作ったはいいが、何もできずに、そのまま尻すぼみで、放置状態になってしまう」

 ということが結構起こったりしていた。

 それを思うと、

「ホームページというのは、コンセプトがないと、なかなか運営が難しい」

 ということである。

 何しろ、ホームページの制作者で、運営している人を、

「管理人」

 ということからも、それぞれで管理しているという感じだ。

 それにくらべて、ブログは、運営会社が管理者であり、個人のページは、

「ただ、日記を書いている」

 という、その程度のことになっているのであった。

 そう思うと寂しいという思いは、

「そこまで何もできない連中がネットで幅を利かせているのか?」

 という一抹の寂しさを感じさせられるのだった。

 ホームページが本当に、

「コンセプト」

 というものを大切にしているから、ネットを好きになってやっていた人もいたはずなのに、

「なぜ、ブログのようなものを流行らせることになったのか?」

 と思っている人も少なくないだろう。

「ネットが難しいという人のために、ブログを作ったということであれば、ぜっかくのホームページをなくすというのは、どういうことか?」

 といっている人の話を聴いたこともあるが、ある意味、

「ホームページ人口」

 と呼ばれる絶対数が減ってくるということは、一人頑張って、ホームページを開設していても、誰も来てくれず、

「アクセスカウンターもまったく伸びることもない」

 といえるだろう。

 アクセスカウンターというのにも、いろいろ種類があった。

「誰かが入ってくれば、文句なしにカウントが上がるもの」

 あるいは、

「同じ、IPから入ってきた場合は、6時間はカウンターがアップしない」

 というもの。さらに、

「別のアクセスがない限り、いつまでも、カウントが上がらない。つまり、別の人が何度も出入りしても、さらに別人が入ってこないと、絶対にカウントしない」

 というものである。

 最初のカウンターは論外で、実際のカウンターとしての意味をなしていない。ただ、機械的にカウントしているだけということになる。

 二つ目は、一番まとものようである。三つ目と比較すれば分かるのだが、三つ目というのは、

「人の出入りを中心に考えたもので、同じ人が入るかどうかということを中心にしている」

 ということで、二番目はそれに対して、

「一人の人が、どうだったかということで、他人を意識していないというもの」

 といえるだろう。

 2、3番目ともに、それぞれの特徴があるので、一長一短はいえないが、いい発想だといってもいいのではないだろうか?

 どちらにしても、カウンターの性能にされたとしても、結構似たようなところで落ち着くような気がする。

 そもそも、ホームページの場合はアクセスカウンターの性能によって、カウント数が変わるのだから、

「他人と比較してはいけない」

 といえるのではないだろうか?

 つまりは、

「オリジナリティがある分、自由すぎて、比較にならない」

 という実用性の問題があるのかも知れない。

 そんなことを考えると、

「本当にホームページが優秀なのかということが、分からなくなってきた」

 といってもいいのではないだろうか?

 ブログの場合は、完全にシステムは共有化され、

「この形で運営するので、それでいいなら、会員になってください」

 というスタンスであった。

「押し付けられたシステム」

 といってしまえばそうなのだが、そういってしまうと、身もふたもないといえるのではないだろうか?

 ブログにおける日記は、ブログの機能により検索したりすることで、今でいう、

「拡散」

 というものを、行うためのものである。

 世間では、個人情報保護法なるものが決まっていて、あまり、

「自由」

 という風潮が薄れてきている気がする。

 そういう意味では、

「世知辛い世の中になってきた」

 ともいえるが、決まったフォーマットの方が安心なのかも知れないのであった。

 そんなブログの時代から、今度は、趣味の人のための、

「投稿サイト」

 などというものが出てきたりしたのは、一つは文芸ものが、

「紙媒体から、電子書籍などに変わっていった」

 ということもあるだろう。

 そこに来るまでに、

「自費出版社系の詐欺会社」

 という問題があったのも事実であった。

「本を出版したい」

「作家になりたい」

 などという、アマチュア小説家の人たちを言葉巧みに騙し、数百マ円というお金を騙し取られるという事件である。

 もっとも、人に言わせると、

「普通に考えれば、詐欺ということは分かりそうなものだ」

 という人もいるが、実際にはその通りであり、

「お互いに出資し合って本を出す」

 という触れ込みの見積もりで、定価と部数を掛けた値段よりも高い金を要求してくるのだから、そこで分かりそうなものである。

 そもそも、定価というのは、原価に、利益を足した分で形成されているものである。宣伝費、人件費、出版費用と、それだけの莫大費用が掛かっても利益を生まなければならないわけで、原価とすれば、

「八掛け、七掛け」

 と言った感じが普通なのに、それを、定価の1.5倍を出せといってくるのだ。本当であれば、1,000の本であれば、共同で費用ということであれば、どんなに高くとも、400円がいいところなのに、

「1,500を出せ」

 というのだ。

 そして言い分としては、

「有名書店に、一定期間置かれる」

 ということが大きな触れ込みだったのだ。

 その触れ込みを聴いて。筆者は、

「それならば」

 と思うのだろうが、有名書店に本が並ぶなどありえないだろう。

 有名書店に、そもそも、その出版社のコーナーがあるというのだろうか?

 まず、ありえない。出版社のコーナーでもなければ、そんなパッと出の出版社の本を、並べるわけはない。

 有名書店というのは、絶対に売れる本でなければ並べない。そもそも、売れる本が並んでいるかというのも疑問である。

 昔であれば、

「有名作家の売れたシリーズの本を置いておけば、一定数は売れるであろう」

 ということで、並んでいることがあったが、最近では、有名作家、たとえば、直木賞、芥川賞作家の本でも、ほとんど置いていない。

 自分の名前の文学賞を冠しているような、

「そのジャンルでは、大御所」

 と言われるような作家の本でも、数冊置かれている程度である。

 しかも、かつては、本棚の一列を占拠するくらいに並んでいた本であっても、今では、そのほとんどが、廃版となっていて、図書館か、古本屋くらいでしか手に入らないだろう。

 それほど、本というのは、絶望的な状態になりかかっているのに、

「素人の名もない作家の、しかも、無名の出版社の本」

 を誰が好き好んで並べるわけもない。

 そんなことすら分かっていない素人作家が、どうしてコロッと騙されるのか、正直信じられないのである。

 確かに、

「騙す方が悪い」

 というのは、当然のことなのだが、後から冷静に考えれば、

「騙されるやつがいるから、騙すやつが出てくる」

 ということだ。

 騙された人はまだ、

「自業自得」

 で済むわけだが、家族などで、

「お前が作家デビューできるということであれば」

 といって、お金をねん出したりした親もいれば、お金を貸した人もいるだろう。

 その人も正直、被害者だといえるかも知れない。

 ただ、この人たちも本来なら、お金を出すわけだから、もっと冷静になって、どういうことにお金を使おうとしているのかということを考えれば、

「こんな詐欺まがいのこと」

 ということが容易に分かったのではないだろうか。

 そういうことを考えれば、悪い言い方なのかも知れないが、

「お金を出した連中も同罪だ」

 ということになるだろう。

 だから、化けの皮が剥がれた出版社は、詐欺行為で裁判に掛けられ、結局、経営破綻に追い込まれる。

 それは当然である。

「本を出したい」

 という人を集まることで、お金が回るわけだ。

 いわゆる、

「自転車操業」

 である。

「騙された」

 といって、裁判を起こされた時点で、すでに、評判が落ちることは分かっている。

 中には、

「怪しい」

 と思っている人もたくさんいただろう

 それを思うと、本を出したいという人が、この会社を利用するということもなくなる。

 いくら宣伝しても、

「裁判を起こされている会社じゃあね」

 ということになる。

 そうなると、本を作っても、どこにも置いてもらえるわけではない。そうなるとどうなるかというと、

「本を作った分、すべてが、在庫」

 ということになるのだ。

 しかも、売れる見込みがまったくない本である。

「ゴミ同然だ」

 と出版社は思っていることだろう。

 そうなると、

「もう、どうしようもない」

 ということで、在庫すら、その維持費に莫大な金がかかるわけだ。

 作者に、

「買い取ってくれ」

 というバカなことを言い出したわけだが、それは、弁護士に相談し、破産宣告をしたうえで、

「民事再生法」

 を適用したのだから、まわりからの、債権を放棄させるということになるので、それも法律的に仕方がない。

 確かに本を出した人に、

「買い取らなければ、捨てるだけだ」

 といえば、作者は可愛そうだということになるのだろうが、そもそもは、

「騙された方も悪い」

 ということである。

 そういう意味では、

「どっちもどっち。痛み分け」

 といってもいいだろう。

 事件が落ち着いて、詐欺という社会問題が去ってしまうと、冷静に考えるようになった人であれば、

「どっちもどっち」

 と考えることだろう。

 そうなると、

「本を出したい」

 と思っている人たちが、被害に遭わなかったことで、

「よかった」

 と胸を撫でおろすことだろう。

 そうなると、今度は、誰も本を出したいということを諦めるだけではなく、もう本を書くということを諦める人も増えることだろう。

 何といっても、このやり方をするようになって、まるでにわかファンのように湧いて出てきた連中だ。うま味がないと思えば他の甘味に簡単に乗り換える。一種の、

「流行を追いかけるだけ」

 という連中だったということだ。

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